第9話 聖母の歓迎






 鷺山法子さぎやまのりこは今時では珍しい、良妻賢母という概念を体現したような女性だった。

 前提として彼女は未亡人である。五年以上前に事故で夫を亡くしている。だからそれ以降は娘の純恋のために生きてきたと言っても過言ではない。

 朝、学校に出かける娘を見送る。それからは家事の時間だ。広い家の隅々まで掃除機をかけ、洗濯物を干し、それらが一段落する頃には時計は十時を回っている。休憩がてらリビングでテレビをつけ、ドラマを見ながら紅茶を飲む。昼時には買い物に出かける。電車で五駅ほど行ったところにあるデパートで夕飯の買い物を済ませると、自らは適当なレストランで食事を済ませる。家に帰ったら洗濯物を取り込んで、テレビを見ながら娘の帰りを待つ。

 夫の残した莫大な財産と保険金のおかげで、生活費どころか娘の学費も当面は心配いらない。だから一日のほとんどは家事に費やし、余った時間は趣味の裁縫や読書に当てる。

 それは一主婦として考えれば、幸せと言って差し支えない生活だった。家族の一人という大きなモノを失った上で、罰が当たらないくらいには贅沢な人生。私は幸せだった、、、、、、、


 それが彼女の最後の感慨だった。



 玄関に一歩足を踏み込んだ瞬間に異変に気が付いた。

 鼻を貫くような異臭。仄かに鉄の匂いが混じっている。慣れ親しんだ家だからこそ、そこに人の気配がない、、、、、、、こともすぐに理解できた。

「……お母さん?」

 震える声で問いかける。欠子先生と話していた時よりなお震えていた。それは怒りも嫌悪もない、ただ純正の恐怖によって塗り固められた声の震えだった。

 靴を脱ぐことさえ忘れて廊下を歩く。いつも通りの帰路。いつも通りの家。いつも通りでないのは、私の心だけのはずなのに。それ以外はあくまでいつも通りのはずなのに。

 私の視界からは、次第に今歩いているはずの廊下さえ消え失せて、走馬灯をなぞるようについさっきまで見ていた風景が映し出されている。それが現実逃避なのだと、流石に気付いた。


 ――私は道路を歩いている。おぼつかない足取りで、どうにもならないことを考えながら。

 欠子先生の”呼び出し”を終えた私は、その後の五、六時間目の授業さえも、ほとんど聞かずに一日を終えることになった。そうして一人、仲の良い友達からかけられた声も委員長の仕事も無視して、帰路に就いた。

 いつも通りの道が、酷く虚ろに見えたのを覚えている。踏みしめるアスファルトの黒々しさが増している。均一の規格に揃っているはずの電柱の高さが、全てバラバラに見える。薬物に手を出せばこんな景色が見えるのだろうか。

 理由は分かっていた。私の心が様々な感情で混乱しているからだ。

 恐怖、嫌悪、憤怒の数々が、頭から消えては現れ、現れては入れ替わりを繰り返す。それらは負の感情、、、、で統一されている。回転を繰り返す感情たちに、私は酔っているのだ。鏡を見れば、きっと酷い顔が拝めることだろう。

 ……どうすればいいんだろう。

 あの殺人鬼に対して、私は何をすればいいんだろう。

 通報――却下。成功すればそれで解決するが、あまりにリスクが大きい上、恐らく失敗する。もはや選択肢にすらできない手段だ。あれだけ脅されて、まだ一考する余裕があるのに驚くくらいだった。

 相談――これも駄目。誰かと秘密を共有すれば私の心もいくらかは安らぐだろうし、他人の知恵を借りることで他の選択肢が見えてく来るかもしれない。しかし誰に相談すればいい?それに、どう相談すれば?私が殺人事件の犯人を知っていて、それが私の担任教師で、しかもその人は学校一の人気者で、もうずっと人を殺し続けている人で――こんなのを上手く要所を隠して人に説明できるほど、私は口達者じゃない。

 それに、これからずっと、私は事あるごとに欠子洸牙という怪物に怯えることになる。

 欠子先生は、彼の内にある殺人への欲求を『衝動』と表現していた。彼ほど聡明な男が選んだ言葉なのだから、そのまま言葉通りに印象を受け取っていいはずだ。彼は人を殺さずにはいられない、、、、、、、、、、、、、、。そして準備室での口ぶりからして、鷺山純恋の近辺、、、、、、、にこそ配慮はしても、それは町一つを禁止区画にするほどの遠慮ではないと思う。つまり、欠子洸牙はこの町でも、私の知らない誰かなら殺す可能性が高い。

 ――この町でまたいずれ殺人が起こる。そしてこの町で人が死ぬたびに、私は私の担任を疑わなければいけない。そのたびに、焼き切れるような怒りと無力感を覚えなければいけない。

 そもそも私はその殺人鬼から、よりにもよって『倫理』の授業を受けなくてはならないのだ。かと言って、それを嫌った私が家に引きこもったりしても、今度はカナエやリョウ、クラスメイトたちが殺人鬼の授業を受けているという事実に悩まされることになるだろう。

 ……これでは私の心が壊れてしまいそうだ。あるいはそれが欠子先生の本当の狙いなのかもしれない。

 何もしないという選択肢。それを選べばたぶん、私は罪悪感や無力感に押し潰される。

 私は何か行動を起こさなくてはならない。他ならぬ私のために。

 だとすると、何を?

 第一の選択肢、通報。これは論外だ。私の心を守るために私が殺されたのでは本末転倒どころの話ではない。となると選ぶべきは回りくどい第二の選択肢、相談。こっちは相手さえ慎重に選べば、欠子先生に悟られる可能性も低い。

 そう、大事なのは相手だ。

 まず口が堅いこと。そして私以上に知恵があること。さらには、私の下手糞な説明からでも『脅されている』という事情を、そんな雰囲気だけでもいい、感じ取ってくれるほど信頼関係の築けている相手だ。

 少し考えて、私は一つの結論に達した。

 お母さんしかいない、と。


 ――その結論に達したのがほんの数分前で。

 私の内側以外、世界は何も変わっていないんだから、それで問題なかったはずで。

 それでも私は、家に帰るなり気付いてしまった。何かが違う、と。その直感を信じたくなくて、とにかく進んだ。いつも通りにお母さんがいるはずのリビングへ。いつも通りに、、、、、、何も変わらずに、、、、、、、


「―――――――――――ぁ」


 口から溢れた息が辛うじて声を形成したような、そんなか細い発声だった。

 これはきっと妄想だ。混乱した私の頭が作り出した幻覚だ。そう信じこもうとしても、見開いた目には容赦なくそれ、、が飛び込んでくるし、鼻腔は嗅ぎたくもない異臭をがっちり掴んで離さない。それらすべてが現実を私に実感させた。


 目の前には母の死体が転がっていた。


 果たしてそれは死体と呼べただろうか。人の死にざまというものは、こうも異形だっただろうか。

 母は身体を開かれていた。ちょうど鯵の焼き魚を”開き”にしたように、仰向けに転がった彼女の胸部が肉の花弁を作っている。大きく開いた肋骨には血肉が絡み、獲物を捕らえたばかりのネズミ捕りの罠のような具合になっている。自然死ではありえない、外側からの力で捻じ曲げられた人体が、そこにあった。

 紛れもなく、死んでいた。

 紛れもなく、殺されていた。

 彼女の身体から流れ出た血は、まだ乾ききっていない。身体の血をすべてぶちまけたような量。私が気付くより先に、私はその血の池を土足で踏んでいた。母の失われた命を。

「い、や……」

 身体が震えだす。震えた両手を自分の顔に添える。その振動が伝わったかのように、限界まで見開かれた眼球が、私の意志に反して揺れ動くのが分かる。視界が揺れて、世界全てが振動し始めたようで、いよいよ私は現実に立っているのかさえ怪しくなる。

「……いやあぁぁぁぁぁぁッ―――――!!!」

 

 ……叫びはきっと、私が死ぬ合図でもあった。

 

 

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