第8話 怪物
*
社会科準備室は正味のところ、欠子先生一人の自室のような扱いになっている。というのも、言っちゃ悪いけど、他にロクな先生がいないからだ。
この学校の社会科教師のほとんどは、授業に対して熱意のない、俗に『でもしか』なんて呼ばれる先生ばかりだ。そこのところも欠子先生が歓迎された理由の一つだと思う。
彼らは部活動などで残業することも少なく、授業に工夫を凝らすようなこともないため、準備室自体が滅多に使われない。
反対に、教師として彼らとは対称的なカテゴリーに位置する欠子先生は、学校生活の拠点をほとんど準備室に置いている……と、私なんかは委員長という肩書を名目によく雑用を押し付けられるので、そんな事情も知っていた。
扉を開けると、欠子先生は机に向かって何やらパソコンを操作しているところだった。
「ああ来たのか。早かったな」
先生は私に気付くとパソコンを閉じて、椅子を立つ。
「昼を食べてからで良いと言ったのに。言ったよな?由佐から聞いてないか」
「……私に食欲が無い理由は、あなたが一番知ってるでしょう」
「ふ」
信じられないことに、先生は笑った。まるで面白いジョークを聞いたような反応だ。
「私を呼んだのはどうしてですか。この期に及んでしらばっくれて、『授業の準備』なんて言わないで下さいよ」
「それはこれから私が言おうとしたジョークだ。……まあいい」
「……私は殺されるんですか」
「待った」
言って、欠子先生はこちらへ右の掌を向ける。私が思わず押し黙ると、先生はそのまま右手を後方へと動かし、準備室の隅に設置された監視カメラを親指で差した。
「最近の学校設備は進んでいる。つい去年に建て替えが終わったこの学校も例外じゃない。教室ごとに監視カメラがある。ここにもだ。盗聴器まであるわけでは無いから何を喋ろうが平気だが、何でもは出来ない。分かるかな」
「…………」
この殺人者は破滅主義者じゃない。少なくとも、いつ捕まってもいいなどと考えていないのは確かだ。犯罪の証拠を隠滅し、善良な人間を演じている。つまり欠子先生は監視カメラのあるこの場所では、法に触れるような行動を取れない。
——
「私に——」
声が震えているのが自分でも分かった。……恐怖のためか、それとも他の理由か?
「……私に、何を教えてくれるんですか」
「私について。踏み込んだことを」
「教師は生徒に、あまり踏み込むべきでは無いんじゃ」
「踏み込むのは君のほうだ。君はすでに踏み込んだ。どうしようもない領域に、どうしようもない偶然によって」
言うと、欠子先生は机の上からビニール袋を取って差し出してきた。
見覚えのある袋だった。中には未開封の、スマホの充電器が入っている。商店街の電気屋で買った、格安七八〇円のもの。
「昨日、君が落としていった。ないと困るだろう。返すよ」
「…………!」
私は返事も返さず、奪い取るようにしてそれを受け取る。
「やっぱり、山森先生は……!」
「私が殺したよ。今さら疑うこともないだろ」
欠子先生は呆気ないほどあっさりと認めた。その声に悔恨も懺悔もない。ただ、昨日の朝はパンを食べた、と言うくらいに自然な口調だ。
「どうして……どうして殺したんですか。山森先生は優秀だって、あなたも言ってたのに」
「殺人者に理由を問う、か。その質問は君が善良である証だな。人が理由もなく人を殺すわけがない、という前提で生きている。羨ましい限りだ」
「何を、言って……」
「動機か。別にさしたる理由はない。殺したかったから殺した。そう、必要だったから殺した。それだけだ」
退屈そうに机に腰掛けながら、欠子先生はそう答えた。
「物心ついた時より私は、人を殺さずにはいられなかった。私にとって殺人は生そのものだ。
食欲や性欲と同じように、私の中で
「…………っ」
目の前の現実が丸ごと夢にすり替わったような感覚を覚える。こうも凄惨な告白を微笑さえしながらできる男が、今まで私たちに物を教えていたなんて。
「どうして、そんなこと……」
「知れるものなら私の方が知りたい。原因が分かるならとっくに対処している。言っておくが、私が今までに殺してきた人間の数は二桁じゃきかないぞ」
——昨夜の事件は最初で最後じゃない。
——あの人はきっと、ずっと以前より人殺しだ。
ついさっきまで想像の上でしかなかったことが、本人の口から次々と肯定されていく。
「怪物——」
口をついてそんな言葉が出た。
それはこれ以上なく、欠子洸牙という男を体現した言葉だった。
まさしく想像を超えた怪物だ。恨みがあって殺したわけではない。はずみで殺したわけでもない。彼はただ当然のこととして殺人を行っただけなのだ。食事をするのと同じように、今までずっと殺し続けてきた。
「いいや、私はただの人だよ。今のところは。何せ真っ当に社会生活を営んでいる。その上で、そんな人生を崩したくはない。分かるか?私は至極あたりまえに、警察になど捕まりたくはないんだ」
欠子先生の表情は動かない。優しげな微笑みで固定されたまま、その黒い目をこちらに真っ直ぐ向けている。
「私は人を殺したい。警察に捕まれば当然、人など殺せない。だから今までも人目を忍んで殺人を行ってきたし、これからも怠るつもりはない」
「……よくそんなことが言えますね。私なんかに、簡単に見つかったくせに」
「油断は認めるよ」
先生は悪びれた様子もなく、肩を竦める。
「これからはもう少し慎重にやろう。だが目撃者が鷺山純恋だったのは、不幸中の幸いと言うべきだ」
「私だったのが、幸い……?」
「君でなければ殺していた」
欠子先生は言うと、その顔から微笑を引っ込める。注意して見なければ分からないほど些細な表情の"差"だったが、変化は歴然だった。それまでのどこか人を誑かすような雰囲気から一転、殺人鬼に相応しい、氷を思わせる冷気が流れる。
「例えば、誰か君以外の生徒だったとしたら、私は確実にあの場で殺していた。通報されては困るからね。しかし君は馬鹿じゃない。直感にしろ理論にしろ、通報しても無駄だ、と言うことくらいは理解できているはずだ。"証拠なんて残していないはずだ"、"信頼の差がある"。そんなことを考えられるくらいには、君は賢い」
「…………!」
見透かされている——その感覚が、私に悪寒を覚えさせた。
「そして、君の考えは正しい。私は証拠など一切残していない。動機と言える動機もない。昨夜、あの時点で通報されたならまだしも、今からでは何の意味がないと断言しよう」
「……じゃあ、例えばこの会話が録音されてたりしたらどうなんですか。それでも捕まらないって言えるの」
私は盗聴器やレコーダーの類など持っていない。けれど、そんな虚勢を吐かずにはいられなかった。この人殺しに何もかも見透かされているのが我慢ならない。この人殺しが、何の憂いもなくここに立っていることが許せない。
——そんな私の感情を嘲るように、欠子先生は息を吐く。
「君は優秀だが、子供だ。仮にも担任教師の殺人を目撃した翌日にそこまでの準備は出来ない」
「っ……、見くびらないで下さい。今すぐに通報してもいいんです」
「そうなったら私は君を殺す」
そう言われた途端に、言葉が出なくなった。まるで冷たい鉛の塊を喉の奥に押し込まれているように、ひやりとした感覚が体を支配して、私が喋るのを許さない。
「もし君が警察に駆け込んだり、警察じゃなく、例えば友達や家族に相談してもだ。それが分かった時点で、私は確実に君の命を奪う。それだけじゃない。君は正義感の強いタイプだから厳重に脅しておくが、君の家族も一緒だ。君を殺した後で、必ず殺そう」
「っ——、そんなこと」
「出来ないと思えるのか?私がどんな人間か、もう知っているはずだろう」
言いながら、先生はゆらりと立ち上がる。
鼓動が早まるのが分かる。金縛りにあったように、その場から動くとこが出来ない。
殺人者は変わらず優しげに、そんな私の顎を、くい、と親指と人差し指で持ち上げた。——敵意のない、慈しむような力加減。
その整った顔が表現する微笑みは、蠱惑的なほど美しいかった。
「いいか、君が何をしようが私は捕まらない。君に話すつもりはないが、
私は捕まるわけにはいかない。そんな可能性がほんの少し見え隠れするのさえ御免だ。人を殺せなくなってしまう。君だって無駄死には嫌だろう。お母さんも大事なはずだ」
「……取引のつもりですか」
「いいや、脅しだよ。……ふん、このセリフは真百合にも言ったな。先週に見た映画の影響を受けているらしい。
ともかく、君は何もしなくていい。いいか、何もしないんだ。口をつぐむ、それだけでいい。何の苦労もないだろう」
「ふざけないで下さい!」
堪らなくなり、私は声を張り上げて先生の手を跳ね除けた。怒りのせいか、目尻に涙が浮かぶのが分かる。
「人の命を奪っておいて……口をつぐむのが簡単なわけないでしょう!山森先生にだって大切な家族がいるはずです。友達がいるはずです!その人たちが何も知らないのに、私が知らないフリをするなんて……!」
「なら君はなおのこと忘れるべきだ。"その人たち"が知らないんだから、ただの他人にすぎない君が知っているべきじゃない」
「……っ!人を人とも思ってないくせに、知ったようなことを……!」
「まるで君が他人をよく知っているような言い様だな」
先生は呆れたように溜息をついた。
「ならば君には分かるわけだ。彼の家族の悲しみが。彼の友人の悔しさが」
「……少なくともあなたなんかよりは、よっぽど理解できます!」
「いいや、君は何も分かっていない。山森大輝という男に家族なんていないんだから」
その言葉に、思わず耳を疑った。続けざまに言葉を吐き出し続けていた口が、ピタリと動きを止める。
「どんな想像をした?あの間の抜けた教育実習生は、家でもあんな調子なんだろうと思ったか?きっとまだ実家暮らしで、母親に『家事を手伝え』と叱られていそうだ、なんてことを。
あの男に家族なんていない。彼は五年前に交通事故で両親と弟を亡くしている。一昨年に祖父母が他界し、天涯孤独というやつだ。大学にも友人と言える友人はいない」
「————」
「人間の想像は大抵の場合、現実と大いにすれ違う。君が見ていたものなどほんの末端に過ぎない。そして人が末端から得られる情報など、たかが知れている。この世界は君が思うよりずっと暗いんだ。明るい場所から暗い場所を見通すことはできない。君が昨日まで、私を人殺しと知らなかったように」
光は闇を照らすことしかできない。
光に、闇を見ることはできない。
つい昨日、カナエに話したことを思い出す。
私は欠子先生のことを、ただ『変』だと思っていた。漠然と、人間としての違和感を感じていただけだった。少なくとも、彼のことを『危険だ』とはこれっぽっちも思っていなかった。
「これは私のためであると同時に、君への忠告でもある。運悪く暗がりに踏み込んだ。それを照らそうなどと考えないことだ。背を向けなければ取り込まれるぞ」
「……っ、私は……」
「全て忘れろ。そして今まで通りに生活すればいい。ただの生徒と教師として」
——それが、
人殺しに安全を説かれているという矛盾に満ちた状況にいるのに、私は何も言えなかった。殺人という悪への嫌悪に塗り潰されていた恐怖が、今になって蘇って来ていた。
怪物。先ほど吐いた言葉は、この上なく的を射ていた。
目の前に立つ殺人者は、紛れもない怪物だ。私に残された道は二つ。怪物に歯向かって食い散らかされるか、怪物を見過ごして生き延びるか。
ヒーローのまま死ぬか、生き延びて悪に染まるか。以前見た映画にそんな言葉が出てきた。でも私は、死んでもヒーローにはなれない。
——選択肢なんて、無いも同然だ。
結論に達して黙りこくった私を見て、欠子先生は満足気に頷いた。もっともその表情は微塵も動かず、さながら鉄面皮のようだったが。
「良いだろう、話は終わりだ。教室に戻るといい。信頼しているよ、鷺山委員長」
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