第7話 孤立する認識
二
教室の雰囲気は何ら変わりなく、いつも通りとしか言えなかった。
午前八時二十分。朝のホームルームが始まる十分前。クラスメイトはほぼ出揃っているが、先生がいるわけでもないので、みんなはそれぞれスマホゲームをしたり窓際に集まって雑談をしていたりと、思い思いに時間を過ごしている。
カナエは自分の席で、カメラの調整をしているらしい。
リョウは——昨日あんなことがあった直後で、そもそも学校に来ていない。耳の早いクラスメイトがさっき話していたが、自宅謹慎を命じられたという。つまるところ、停学だ。
当然と言えば当然だけど、二人とも生きている。
いつも通りの日常。
……でも、そんな『いつも通り』の中に——例えば仲の良い者同士で集まったグループが教室の端で話す内容に、隠しきれない不安が滲んでいる。
『不安』の正体を、私はもう知っている。まだ知らない人も、これから知らされることだろう。
と。私がそこまで考えたところで、教室のドアが開き、欠子先生が入ってきた。途端、教室はさっと静まる。
「おはよう。少し早いが、ホームルームを始めよう」
そう言って彼は教卓に出席簿を置くと、
「もう知っている者もいるだろうが、昨夜、教育実習生の山森先生が亡くなった。既に報道されているから私も話すが、誰かに殺されたそうだ」
ざわ、とどこか義務的な感じのある動揺が、みんなの間に広まった。衝撃を受けたように目を見開く者、言われたことを現実と実感出来ていないらしい者——反応はそれぞれ違う。ただ、先生の語調や周囲の雰囲気から"マジらしい"と悟ったのだろう、茶化すようなことを言う生徒は一人もいなかった。
「駅前の商店街での事件だ。この学校から一キロと離れていない。安全を考慮して、しばらく部活動は中止だ。授業が終わったら速やかに帰宅して、家から出ないこと」
そう話す声は、自らの担当する教育実習生が死んだばかりの教師にしては、冷静が過ぎるものだった。きっとクラスメイトはみんな、それを欠子洸牙の精神の強さに由来するものと受け取るんだろう。そうしてまた、彼はみんなから信頼される。
……それは、私が彼を見るのとは全く違う眼差しだ。
「君たちにも、色々と思いはあると思う」
いかにも殊勝な声で、生徒たちを心配するように欠子先生は話す。
「私からしても、彼は亡くすに惜しい人材だった。きっと良い教師になったと思う。……残念だ」
悲しげに目を伏せる先生を、みんなは真剣な面持ちで見ている。真剣な教師に真剣な生徒が面と向かう。正常な光景だ。
私以外にとっては。
殺された山森先生の命を、正真正銘、彼を殺した張本人である欠子洸牙が語る。それが現実だ。それがこの場の
ぐるぐると、その真実が頭を渦巻く。
殺人者が、被害者の命を尊ぶ。それは教師の言葉で、生徒たちに教導として伝わる。
その中には私もいる。
——頭がおかしくなりそうだった。
*
いったいどうすれば良いんだろう。
山森先生が殺された。その場面を私は見た。私だけが、犯人を知っている。
私は、欠子先生をどうすれば良いんだろう。
あの人は人殺しだ。昨夜の光景が夢だと信じ込むには、私は現実主義者すぎる。担任教師が殺人鬼だと言う現実を前に、私は子供すぎる。
……順番に整理しよう。
まず、警察に通報するという手。これが最も現実的で、当たり前にとるべき行動だろう。
けど問題は、それが信じてもらえるか?ということだ。
欠子先生は人目を忍んでこそいたが、犯行自体は単純かつ大胆極まりないものだった。山森先生に酒を飲ませ、介抱を理由に人気のない場所に連れ込む。そして殺害——私なんかが数少ない情報から予想できるほど、簡単な過程。
それに、殺人現場を発見されたというのに、あの悠然とした態度や、自らの殺人という行為に眉一つ動かさない精神性。
昨夜の事件は最初で最後じゃない。たぶんあの人は、ずっと以前より人殺しだ。
あの人は殺人に慣れている。当然、証拠の隠滅だったり、警察に捕まらないための対策も熟知しているはずだ。
通報したところで、たぶん簡単に証拠が出るようなことはない——そう、考えなければいけないのは
十中八九、欠子先生は捕まらない。少なくとも私はそう思う。となると、その場合、通報した私はどう思われるか?
世間的には、欠子先生への周囲からの信頼は盤石なものだ。私は私で優等生扱いされているのは確かだが、彼と比べてしまえば、私の人徳なんて塵に等しいだろう。
そんな素晴らしい教師を、事もあろうに殺人犯扱いした生徒——少なくともまともに学校に通うことは出来なくなりそうだ。
……そう考えると通報は駄目だ。私にそこまでの勇気はない。そんなレッテルを貼られては、将来の夢までもが遠のくことになりそうだ。
同じ理由で、友達や家族にだけ話す、あるいは相談するというのも駄目だ。
そもそも警察への通報を却下した以上、知人に相談しても何の意味もないし、仮に欠子先生が荒っぽい手段——例えば口封じという手に出たら、私以外の人を危険に晒してしまうことになる。
……そう、口封じ。
今は何も無いが、欠子洸牙の考えと行動次第で、おそらく私は殺される。
あれだけ躊躇なく人間を殺せるのだから、彼は目撃者を抹殺することくらい容易いはずだ。
だとすると、いっそのこと逃げてしまうのはどうだろう。
この状況なら、引き籠もるのも決して不自然ではない。何日か、何週間か学校を休んで、その間に何かいい考えを——、
……駄目だ。根本的になんの解決にもならない。
お手上げ、なんて単語が頭に浮かぶ。何も出来ないなら何もしないべきなのかもしれない、という諦観と、人が死んでいるのに何もしないなんてあり得ない、なんて正義感がひしめき合うようだった。
さっきまでは頭がおかしくなりそうだったが、今度は頭が痛くなってくる。
……こんなことを殺人鬼本人に言ったら、それこそ殺されてしまいそうだけど。
私は、殺人なんて明確な"悪"が身近に存在することが、心の底から嫌でたまらなかった。
「純恋?」
「——はいっ!?」
唐突に名前を呼ばれたのに反応して、自分でも驚くほどの大声を出してしまう。見れば教室中の目線がほとんどこちらに向いていた。
取り繕うように苦笑いを浮かべて、私は声のした方を向く。そこにいたのはカナエだった。
「……どうしたの、いきなり大声出して」
きょとんとした顔でそう訊かれた。カナエの表情の薄い顔はまるで痛い子を見るようで、私は急に恥ずかしくなってくる。
「な、なんでもない。それより、何?」
「伝言よ、伝言。欠子先生が、昼休みのうちに社会科準備室に来てくれって」
『欠子先生』とカナエが口にした瞬間、顔の筋肉が強張るのが分かった。
……というか、もう昼休みという事実に唖然とする。
四時間分の授業を経たはずなのに、何一つ頭に残っていない。チャイムだってホームルームから数えれば八回も響いているはずなのに、一度も思考が中断されないなんて。一体どれだけ精神が参っているんだろうか。
「……ねえ、本当に大丈夫?ずいぶん顔色が悪いみたいだけど」
心配そうな目で顔を覗き込まれて、私は思わず首を振る。どうやらこんな時でも、親友の前で弱みを見せたくない、なんてくだらない意地は働くらしい。
「大丈夫。社会科準備室だよね?ちょっと行ってくる」
「……そう。ああでも、昼ご飯食べた後で良いって言ってたけど」
「ううん、良いの。ちょっと今日は食欲がなくて」
カナエにそう言い残して、私は足早に教室を出る。
……一刻も早く欠子先生と話をしたかった。昨夜の光景の真実を、当人の口から聞きたかった。
そう考えて、はたと矛盾に気付く。
昨夜の真相を問い質したい、なんて感情が私の中にあるのは、まあ分かるとして。しかし、だったら私は、欠子洸牙という殺人鬼を
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