第6話 殺人の理解
第二章 殺人の理解
一
教室は赤かった。
窓からの陽光のせいだろうか。いや、違う。目の前に広がる赤は、夕陽なんて現象では到底、説明できないほどのものだ。
今や目の前の空間全てが赤かった。窓から差す光だけではない。床や壁に塗りたくられた血が、おぞましいほどの朱色を演出している。
――血。
教室を染めていたのは、夥しいほどの血液だった。
「どうして……」
呟く私の爪先に、こつん、と何かが当たる。
見下ろすと、そこに転がっていたのは山森先生の
「君は、気付くべきじゃないことに気付くな」
声がした。聞き慣れた声だった。
ぞっとして顔を上げると、目の前の景色が変化している。
赤は変わらない。教室は真っ赤なままで、しかしそこに大量の死体が増えていた。一人や二人じゃない。何十人もいる。男女比は同じくらいで、みんな若い――全員が制服を着ている。
それは全員、私のクラスメイトだった。
何度か言葉を交わした者も、名前さえ憶えていない者もいる。全員が山森先生と同じように、首を切られて死んでいる。横たわっている者もいれば、糸一本で吊られた人形のように力なく直立している者もいる。
その中に、見覚えのあるギターを首から提げた死体があった。その隣の死体の首からは、見覚えのある一眼レフが提がっていた。
「————」
息を呑み、思わず駆け寄る。
親友たちの屍は、どちらも目を半開きにしていた。ちょうど首に開いた傷口と同じ具合に薄っすらと割れた瞼の奥から、濁った瞳が覗く。……生命という純粋を失っていなければ有り得ない”濁り”。
「君は、気付くべきじゃないことに気付くな」
——声がした。脳が痺れるほど、美しい声だった。
「君は、気付くべきじゃないことに気付くな」
壊れたレコードのように同じく言葉を繰り返す声。それが一方からでなく、私を囲む全てから発せられていることに気付く。
喋っているのは、私を取り囲む死体の全てだった。
何度も何度も、同じ言葉が重なっていく。重なる都度、教室に響いていく。声そのものとその残響の区別がつかなくなるほど、それが繰り返された。
目を閉じて、堪らず耳をも塞ごうとしたその時——唐突に声が一つになる。
「本当に——気付くべきじゃないことに気付くものだな、君は」
再び瞼を上げると、そこは教室ではなく薄暗い路地裏に変化していた。埋め尽くすほどの死体は消え、代わりに目の前に男が立っている。
欠子先生が、立っている。
彼はそっと手を伸ばし——そこには剃刀が握られていて。
次の瞬間、刃が私の首に突き刺さった。
*
「———っ!」
跳ねるようにして起き上がる。
汗ばんでいるのに寒い。布団を被っているのに凍えそうだ。そこまで感じて私は、ここが自分の部屋の、いつものベッドの上だと気付く。
「ちょっと……大丈夫?純恋」
声がした方を見ると、そこにはお母さんの心配そうな表情があった。
「……お母さん」
「時間になっても起きてこないから、珍しいと思って起こしに来たんだけど……うなされていたみたい。酷い顔してるわよ」
そう言われて枕元の時計に目をやると、時刻は七時三十分——いつもの起床時間を一時間も過ぎている。どうやらスマートフォンの目覚ましをかけ忘れたらしい。
「……なんか、悪い夢を見たみたい」
さっきまでの景色を思い出しながら、私は言う。眼前一面の血、血、血。そして死体。最後には自分までもが殺される。珍しいほど紛れもない悪夢だった。
「本当に大丈夫?顔が真っ青よ」
「大丈夫。それより急がないと、学校に遅れちゃう」
「それはそうだけど……朝ご飯は?食べてる時間ある?」
「そんなに切羽詰まった寝坊じゃないって。ご飯食べてる余裕くらいあるよ」
そう答えて私は笑った。
リビングに降りるとまずテレビをつけるのが私の習慣だ。お母さんは進んでニュースを見たりする人間じゃないから、うちのテレビ周りは電源を入れるところからすべて私の役目だった。
音量を寝起きの耳にちょうどいいくらいに調節し、チャンネルを公共放送に合わせると、私はそのままキッチンの方へ移動する。
鷺山家では、朝食の準備は基本的にお母さんがやってくれる。が、ご飯にかけるものを選んだり、お茶を入れたりと言った『細かいこと』は自分でやるのがルールだ。朝起きて一番にすることはテレビをつけることだが、その後しばらくは食事の準備をする傍ら耳を傾けるくらいのもので、実際にきちんと画面に目を向けるのは朝食を食べ始めてからだった。
ラジオのようなもので、ニュースの内容は自然と頭に入ってくる。『紛争地域での緊張高まる』『芸能人に違法薬物の噂』『降水確率は十パーセント』……。
「純恋、ジャムはどうする?イチゴは切らしてるんだけど……」
「あー……じゃあ今日はブルーベリーで」
お母さんからブルーベリージャムの瓶を受け取って、自分専用のマグカップに紅茶を注ぐと、私はようやく食卓につく。
左手には茶碗に盛られた白米。右手にはバターロールパン。和洋折衷とかいう表現を軽く飛び越えた、そんな珍妙な風景が我が家の朝食の常だ。
パンを齧る前に一口紅茶を飲む。と、テレビの画面の中で慌ただしげに原稿を読み上げるキャスターの顔が目に入る。
『――昨夜未明に遺体で発見されたのは、山森大輝さん二十二歳――』
その言葉が耳に入って、私は一気に眠気を忘れ去った。
マグカップをテーブルに置き、食い入るようにテレビを見る。
その画面に映っていたのは見覚えのある景色だった。最寄り駅のすぐ近くにある商店街の一角、居酒屋が並ぶ一帯。その一定のエリアに規制線が張られ、警察と野次馬でごった返した様子が現在進行形で映し出されている。
『――遺体は首を鋭利な刃物で――』
なおも読み上げられるニュースは、もう私の耳には届いていなかった。
テレビに映っていた場所に見覚えがある。当たり前だ。私はつい昨夜、そこを歩いていた。
――昨夜の九時半頃。スマホの充電器が壊れていることに気付いた。仕方がないから、近所の商店街に買いに行くことにした。
夜だったが、十時前ならこのあたりの店はやっている。電気屋で充電器を購入したのが、ちょうど閉店ギリギリの時間だった。店を出てすぐに帰ろうとしたけど、その途中で欠子先生と山森先生の二人を見かけた。
二人は客観的に見て、危うかった。というか山森先生がだ。酷く酔っているようで、欠子先生が肩を貸している。遠目からでも今にも吐きそうなのが見て取れた。
二人は、たぶん人の迷惑にならないようにだろう、路地裏に入って行って――いくら欠子先生がついていても、私はつい心配になってしまって。何か手伝えることはないかと、後を追った。
入り組んだ路地裏だから多少迷ったけど、少しして二人を見つけて――見つけて。
私は訳が分からなくなって、落としたビニール袋を拾うことも忘れてその場から逃げて……そうだ、だから充電器は使えなかった。
私はポケットからスマホを取り出して、電源をつけてみる。
……やっぱり、画面に光が灯らない。寝坊した理由はそれだ。電池がないのだから、目覚ましなんて使えるはずがなかったんだ。
あの殺人は現実だった。
テレビから聞こえるニュースキャスターの声が、酷く遠まった気がした。
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