第5話 殺人の夜


 料亭『しぶきや』は紛れもない高級店である。

 広くはないものの程よく落ち着いた店内は雑多な町の空気とは無縁で、そこにいるだけで日頃と違う上品な雰囲気に酔うことが出来る。

 まだ社会人にすらなっていない山森大輝にとって、そこは初めて訪れる”本物の店”だった。

 もちろん、社会に出ればこういう形の『役得』にあずかる機会があることは知っていた。上司に飯を奢られる。その場所が身の丈に合わないほどの高級店ということも、時にはあるだろう。

 でもそれは、あくまで社会に出てからのことだと思っていた。まさかこんなもの、、、、、を、大学を出る前に味わうことになるとは。

 山森は考えていた。目の前に並ぶ、見たこともない高級料理。一体どれから手を出すべきだろうか。しばらく迷った後、比較的見慣れた赤身の刺身を選び、口に運ぶ。

「……!美味しいですね」

「だろう。ここの料理を不味いと言う人間がいるなら、そいつは確実に舌に何かしら病気を持っている」

 隣に座る欠子はそう答えて、料理を口に運ぶ。何もかもが初めての山森と違って、こちらの仕草はとても様になっていた。

「——和食派か洋食派か、なんて区別をよくするけどね。結局のところ日本人にとっての美食というものを追求すると、和食に辿り着く。

 何しろこの小さい島国の中に住む民族のためだけに、数百年の時をかけて磨かれた食事の形だ。舌だけじゃない、視覚が、嗅覚が、身体全体がこの文化を許容するんだ。……谷崎潤一郎の『陰影礼讃いんえいらいさん』を読んだことは?」

「高校の時に国語の授業で、一度。けどきちんとは……」

「活字が嫌いでないならもう一度読んでみるといい。君くらいの歳からすれば文章は難解だろうが、あれが一番わかりやすい。日本人の持つ美的感覚を知るにはね」

 そんなことを言う欠子を、山森はなんとも言えない心持ちで眺める。

 確かに彼は、社会人として山森の遥か上に位置する人間だ。その知識量や運動能力なども平均的なレベルを大きく卓越しているし、教師としての才能に至っては比べものにならない。まさしく完璧超人と言える。——しかし。

 山森大輝、大学四年生——二十二歳。

 欠子洸牙、教師歴二年——二十四歳。

 『君くらいの歳』なんて言い方をされたが、そこいらの政治家などよりよほど重厚な貫禄を帯びたこの男は、実際には自分と二つしか歳が違わないのだ。その事実が山森を憂鬱にさせていた。たった二年。生来からノロマで間の抜けた自分では、たとえ死ぬような経験をしても欠子と同じ"レベル"の人間には成長できないだろう。

「どうした。箸が止まっているよ。今日は私の奢りなんだから、遠慮しないでくれ」

「いや、その……こんな美味しいものを奢ってもらうほど、僕、何かしましたかね?」

「君はよくやってくれている。実際、目の前の危機に対して意地を張らずに頼れる誰かを頼ることが出来るというのは、一種の才能のようなものなんだ。毒蛇も真百合の件も、さっさと私を呼んでくれなければどうなっていたか」

「そういうものでしょうか」

「そういうものだ。もっとも、本人はそれを情けないと思うんだろうけどね」

 欠子にそう言われると、そうなのかもしれないという気がしてくるのが不思議だった。

 愚鈍な人柄を馬鹿にされることこそあれ、『役に立つ』とされたことは初めてだ。気を良くした山森は、日本酒の注がれたお猪口に手を延ばす。米から作られたこの酒も、また彼が人生で初めて経験するものだった。

「……っ、美味いなあ」

 お猪口から口を離し、さも幸福そうに息を吐く山森。

「私が知る限り、この世で一番と言える品だ。最期なんだし、遠慮せず飲んでくれ」

「最後?……ああ、そういえば実習は今週で終わりですね……」

「残念だよ。少なくとも副担任というポジションで判断するなら、君は一定以上に有能な男だった」

「そ、そうですかぁ……?」

 欠子洸牙という尊敬すべき人間からの望外の評価。そこに酒が入り、もはや山森は、教育実習生が現職教師に酒を飲まされている、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、というこの状況に違和感さえ懐くことはなかった。

 

 一度スイッチが入ると、山森は飲み続けた。必然的に意識は曖昧なものになって行き、欠子との会話は次第に脈絡のない雑談へと変化していた。

「……欠子先生って、どうして教師なんです?」

「どうして、とは?」

「いや、何でもできるじゃないですか。ってことは何にでもなれたってことでしょう?」

「何でも、か。まあ就職の選択肢が無限に近く存在したことは認める。確かにもっといい給料が出るような仕事もあった。けど、仕事を選ぶときに重要なのは報酬よりやりがいだ。

 ……結局のところね、現代では、仕事は人生そのものと言っていいほど人の一生の多くを占める概念だ。いくら報酬がよくても、つまらない仕事では人生が粗末なものになる。人は結局、ある程度の枠の中でもやりたいことをやるべきなんだ」

「へえ。じゃあやりがいがあるんですね、教師って?」

「あるよ。この世で一番だと言ってもいい。他人の人生とここまで深く関わりあえる仕事は、そうない」

 そう言うと欠子はどこか上機嫌な微笑を作って、鴨肉を口に運ぶ。そんな仕草を前に、しかし山森は納得のいかないような顔を作る。

「にしたってなあ。欠子先生、本当に超人じゃないですか。今日の毒蛇だって、あれ結局マムシですか?素手で捕まえちゃってたし。いくら何でも、『先生』なんてありふれた職業が一番ってのは」

「そのありふれた職業を、君は志望しているじゃないか。教育実習生なんだから」

「僕はぁ、いや、そこまで本気じゃないって言うか。人の何かを教えるのはそりゃあ、ほとんど唯一の特技ですけど。どっちにしろ教職免許って、取れるなら取るに越したことはないですし……そんな気持ちでして」

「同じだよ。私はたまたま、自分にとって天職と思える仕事に巡り合っているだけだ。君にとってそれが教師である必要はない。君にだってそんな職業はある」

「そうですかね」

「それが一つもない人間を社会不適合者と言うんだ。能力も性格も人それぞれ、そこの価値観を他人に合わす必要はない。自分の思うままに探せばいい」

 社会不適合者。俗に言うニートとか、そういう、、、、生活を送る者。そんな人たちと比べて自分が恵まれているのは確かだ。しかし、『そこ』と比べなければ自分の幸福を認識できないようなら、それはもはや幸福と言えないような気もする。

 ――ざっと山森の頭に浮かんだのは、概ねそんな言葉だった。が、酒の力によってそれらの卑屈な返事は、実際に口に出る前に頭の奥に引っ込む。結局次に彼が口にしたのは、何の脈絡もない別の話題だった。

「そういえば、暴れてた不良クンのことなんですけど。急に気絶したじゃないですか。あれってやっぱり、先生が何かしたんですかね?足を引っかけたところまでは僕にも見えたんですけど」

「……見てたのか。いや、仕方なかったんだ。ああでもしないと収まりがつかなかっただろうから」

 渋々といった風に欠子が答えると、山森は芸能人のスキャンダルを見つけた雑誌記者のような笑顔を浮かべる。

「へぇ!じゃあやっぱりその後の気絶も、先生の仕業なんですか」

「あれはね。本来教師がやっちゃいけないことに入るから、大っぴらに言いたくはない員だけど」

「ええー?良いじゃないですか。職員室でも結局、『急に転んで気絶しました』ってことで納得してもらえたんでしょ?」

「あれは納得されたわけじゃない。真百合がさらに暴力を行いそうだったという状況を踏まえて、『そういうこと』にした方が先生方にとっても面倒が少ないからそうなっただけだ。自分で言うのもなんだが、信用のない人間だったらああはいかない」

「ふぅん。そういうものですかねえ。で、その真相ってやつは?」

「君、意外と酒癖が悪いな。……まあ、君の口から不都合な話が出回ることはあり得ないし、構わないか」

 欠子はやれやれと言った風に苦笑する。

「ってことは、やっぱり先生がなんかやったんですね。何ですか?中国ケンポ―とか?」

「そんな高尚なものじゃない。あれはただ顎を打ったんだ」

「アゴ……?」

 欠子はうん、と頷き、

「側頭部や後頭部と同じように顎という部位も脳震盪の危険が大きい場所だ。場所はどこでも良かったんだが、あの体勢で最も人に見られず殴れるのは顎だった」

「そ、そんな達人みたいなことしてたんですか?」

「昔、……ちょっと機会があって、そういうのを学んだんだ。相手に怪我をさせないで大人しくさせなきゃいけない、という場面に日常的に遭遇していた時期があって」

「……?」

 山森からは、微笑んだ欠子の顔が角度のせいかほんの少しだけかげって見えた。

「……ええと、でもつまり、あれって体罰になるんですか?」

「あの状況だと一応、正当防衛という言い訳はきく。とはいえこの国では、どんな状況でも教師が生徒に手をあげることは認められない。法律でなく、外聞の話だ」

「外聞、そんな大事ですかねぇ」

「大事だよ。どんなに能力が伴っていても、外聞が整っていなければ社会に受け入れられない。

 ……社会に受け入れられなければ、それは人間とは言えない。『人間は社会的動物である』——」

「アリストテレス」

 酒に酔っていても現役の学生だ。山森は迷うことなく欠子の言葉と、もともとそれを提唱した哲学者を結びつけた。

「我々人間が人間として認めているのは、社会的動物としての人間、、、、、、、、、、、だ。そこから逸脱した者は、ただのホモサピエンス——動物と同じ。そうなってはもうお終いだよ。そこ、、に近づくのさえ避けるべきだ。現にみんな、一生懸命そこから遠ざかって生きている。私だってそうだ」

「遠ざかる……う、うん……?ああでも、確かに動物は遠いところまで走ったり……」

 喋りながら山森は、項垂れては顔を上げるを繰り返す。その意識が混濁しているのは明らかだった。慣れない酒が身体に回って、いよいよ喋ることすら危うい様子だった。

「そろそろ出ようか。君も十分に飲んだようだし」

 そう言って、欠子は椅子を立った。確かに彼は笑っていた。





 電車に乗る前に酔いを醒ました方が良いという欠子の提案で、二人は店から少し離れたところにある商店街を歩いていた。

 時刻は夜十時を回ったところ。道を埋め尽くすのは主に仕事帰りのサラリーマンだ。彼らは疲れ切った顔で歩く者と、上機嫌そうに顔を真っ赤にしている者との二種類に分かれていた。つまりは仕事帰りか、居酒屋帰りかの二択だ。

 二人は後者だが、どちらも顔を赤くはしていない。欠子はそもそも酒に強いうえにほとんど飲んでいないし、山森は慣れない酒を調子に乗って飲んだせいで、赤というより青くなっていた。

「すみません。色々面倒かけちゃって……うっ」

「気にしなくていいよ。止めなかった私の責任でもある」

 夜の冷えた風に当たっていくらか冷静さを取り戻した山森は、先ほどまでの浮ついた様子から一転、申し訳なさそうな顔をして欠子の肩を借りていた。

「本当すみません……吐き気がすごくて。今更だけど、明日も学校なのに、こんな飲んじゃって大丈夫でしょうか」

「明日のことは心配しなくて大丈夫だ」

「そうですか?あ、もしかして、酒で吐く人は長時間酔いが残らないとか、そういう雑学があったり……ううっ」

「どうだろう。ただ先の事より、君、本当に危なそうだね」

 吐き気が収まらない様子の山森の顔を、欠子はいつも通りの鉄面皮えがおで覗き込む。

「そ、そうですね。本当に吐いちゃうかも……」

「人のいないところに行った方が良いな。周りに迷惑が掛かる」

 欠子はそう言うと、山森を連れて人気のない路地裏へと進入した。

 

 二人の踏み入った路地裏は、普通より入り組んでいた。建物の配置の関係か、十字路のようになっている場所が多く、ちょっとした迷路のようだ。

 その最奥、パイプ管とコンクリートの壁に阻まれた狭い空間に、やがて二人は辿り着いた。ともかくここで休憩しようということになって、山森は欠子から離れて、壁に向かって蹲る。

「吐くなら吐いた方が楽にもなるかもよ」

「い、いえ。この感じだと、ちょっと休めば大丈夫そうかなって」

 確かにいっそ全て出した方が楽ではあるのだろうが、それまでが過酷だ。ものを吐くという行為は、それ自体が本人にも様々な苦痛を強要するものだ。自らの体液が大量に口腔を通過する不快感から始まって、吐いた後にも口の中には言いようのない異臭が残る。

 吐き気は酷い。が、たぶん吐くほどじゃない。このまま姿勢を低くしていれば、数分で歩けるようにはなるはずだ。

「そういえば山森くん」

 と、欠子が何か思い出したように話しかける。蹲っているうえに頭がふわふわとした浮遊感に包まれていて、山森からは、いまいち彼我の距離感が掴めない。

「今日、倫理の教材を運ぶように頼んだよね。あれ、社会科教室だっけ。それとも職員室?」

「ええと……それ、今じゃないとダメですか?」

「今じゃないと、少し困るかな」

 そう言われては従うしかない。山森は酔いのあれこれではっきりとしない頭をフル稼働させて、昼間に教材を運んだ場所を思い出した。

「……あ、あれです。結局教室に置いたままでいいや、ってことになったんじゃないですっけ」

「ああ、そうだった。悪いね、苦しいだろうに頭を使わせて。うん、それだけ思い出したならあとは問題ないかな」

「はあ、まあ、問題はないですよ。吐き気もなんか、ちょっと治まってきたみたいですし」

 実際、いくらかは酔いが引いたような感覚があった。立ち上がれば再び吐き気に襲われるかもしれないが、試すくらいはいいだろう、と思えるほどには。

 そうして立ち上がろうとして、ふと山森は、自分の手が赤く汚れていることに気付いた。

「……?」

 蹲ったまま口元を抑えていた両手の両方とも赤くなっている。黒々とした赤は見る見るうちにその領域を広げて、間もなく手のひらから溢れ、地面へと滴り落ちた。そこでようやく山森は、赤の正体がどろどろとした液体だと気付く。

「あ……、?」

 何だこれ、とそんな声を出そうとした。だが声が出ない。代わりに排水溝で泡が弾けるような音と、液体ばかりが出てくる。それは手のひらに滴り、そこから溢れてさらに下のアスファルトを汚していく。


 それは彼自身の鮮血だった。


「本当に残念だよ」

 後ろから欠子の声がした。

 振り向くと、彼は山森のすぐ背後に立っていた。いつの間にかその右手は使い捨ての紙手袋に包まれ、人差し指ほどの大きな剃刀カミソリを握っている。――剃刀の刃は、赤く塗れている。

「君はたぶん”善い”人間だった。だから、こんな形で別れを告げることが残念でならない」

 すぐ傍にいるはずの欠子の声が、急速に遠ざかっていく。代わりに脳の内側を言い知れぬ喪失感と虚無感が埋めていく、そんな感触を味わった。

 その感覚の中で、山森はようやく出血の理由を理解する。

 自らの首元のほぼ中心、喉ぼとけのあたり。そこがぱっくり割れている。血はそこから手のひらに滴り、次いで吐血。――ここに来て山森は酒の恐ろしさを理解する。まさか自分が殺されたことにさえ気づかないほど感覚が狂わされるとは。

「あ、あ、あ、――」

 声にならない声を吐き出しながら、山森はアスファルトに倒れこむ。頬に触れるコンクリートの冷たさは今までになく彼の身体から酔いというものを叩き出した。代わりにその身体には痛みを痛みとして認識する能力が戻っていく。

「あ、あ――」

 喉元の鋭い苦痛。

 目を瞑りたくなるほどにそれが強まったところで、再び痛みは引いていく。否、痛みだけではない。全ての――五感をも含めた全ての感覚が、失われていた。

 それは彼そのものがこの世から剥離していることを意味した。

 彼の命がこの世から乖離することに他ならなかった。 

 

――そうして、山森大輝は絶命した。

 

欠子洸牙が殺した、、、、、、、

 あっけもなく、冷たい肉塊に成り下がったその身体を、欠子は見下ろす。彼は右手にしていた紙手袋を使って、慣れた動作で剃刀の血を拭うと、そのまま凶器をポケットへと仕舞う。

 欠子は一つ息を吐くと、冷笑を顔に張り付けたまま、ゆっくりと振り返って路地裏の突き当りに背を向けた。



 その視線の先に、鷺山純恋は立っていた。

「————————どうして」

 純恋は手にしていたビニール袋を中身ごと地面に落とす。同時に口から洩れる、あまりに抽象的な疑問の言葉。

 担任教師の殺人の一部始終を目撃した彼女は、今や殺人鬼の視線にその瞳をはっきりと射抜かれ、逃げることも出来ず立ち尽くしていた。

 そんな教え子、、、を見て、やがて欠子やれやれと言う風に溜息をつくと、笑いもせずに言う。

「本当に、気付くべきじゃないことに気付くものだな、君は」


 その声は、普段の彼からは想像もできないほど冷え切っていた。


 

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