第2話 欠子洸牙という教師




「……ん、ありましたよ。これじゃないですか」

 校舎二階、社会科準備室。その奥にある業務用の大きな机の引き出しから一冊のノートを見つけ出した私は、すぐ傍で教材を整理している欠子かきね先生に差し出す。

「ああ、あったか。ありがとう」

 先生は爽やかな笑顔を見せてノートを受け取った。ペラペラと中身を確認すると、整理した教材数冊の一番上に無造作に乗せる。

 

 欠子洸牙かきねこうがという男は、一言でいえば『天才』だった。

 何の、と訊かれれば、この世に存在するほとんどの技能と答えるしかない。それほどまでにこの先生はあらゆる分野で卓越していた。

 でも、その中でも際立ったものを挙げるなら、人に好かれる天才だと思う。

 第一にそのルックスだ。鷹を思わせる鋭い目、形の整った鼻筋、血色のいい唇。それらの要素が絶妙なバランスで組み合わさった彼の顔立ちは、そこらの俳優では太刀打ちできないほど完成されている。肩のあたりで切り揃えられた髪は僅かに白髪交じりで、それがまた、二十四歳の若者には似つかわしくないほどの”大人の魅力”というものを醸し出していた。

 加えてその声音は、――これは私でなくクラスメイトの言っていたことだが、『聞くだけで脳味噌が生クリームになりそう』。その友人いわく、極限まで甘いのに深みのあるその声は、異性を惚れさせるためだけにあるらしい。

 と、こんな風に、欠子先生は生徒から人気を集める教師の典型だった。

 私はと言うと、担任教師に恋い焦がれるほど子供ではないけれど、みんなの言っていることもまあわかる、というのが正直な感想だ。

 実際、欠子先生は人間として限りなく秀でた人物だと思う。

 先に述べたルックスもそうだけど、彼は才能の塊だ。所有している資格は数知れず、ヘリコプターの免許まで持っているという噂さえある。運動方面でも、顧問より彼の方が有能だと言う運動部員は数知れない。

 教師としての能力も疑いようがない。事実、彼の授業はどんなベテランの先生よりわかりやすかった。社会科教師なのに語学も数学も本職より明らかに堪能だし、他の先生からの信頼も厚いのだろう。何しろ学校に赴任してたった二年で、担任を任されているのだから。


「……どうして私、休み時間にこんなところにいるんですか?」

 私は尋ねる。不満めいた感情が、なるべく伝わるようにして。

「委員長だから、だろう」

「違います。先生が教師という立場を濫用したからです」

「悪意のある言い方だな。それじゃ私が犯罪者みたいじゃないか。私はただ次の授業に使う教材を運んでくれと、学級委員長に頼んだだけだよ」

 字に起こせばもっともなことを言っているようにも見えるが、ちょっとした雑用のために何度も休み時間が潰されるのは、権利侵害だと思う。

 ……しかし困ったことに、この当たり前の訴えは誰にも共感されない。クラスメイトの特に女子の目には、欠子先生に指名され仕事に駆り出されているこの状況が『羨ましい』ものとして映るのだ。

 そんなわけで私には、せめてもの淡い期待を込めて、雑用を押し付ける張本人に抗議することしかできない。

「男なんですから、そのくらいの荷物は一人で持てるでしょう。この間ベンチブレス八十キロ持ち上げてたって、男子が言ってましたけど」

「……どこで見られたんだ。行きつけのジムに生徒がいたのか?」

 苦笑する先生を横目に溜息をつきながら、私はふと、机の上に置かれた巨大な段ボール箱の中を覗き込む。

 そこにはコンクリートのような素材で作られた、人の頭くらいの大きさの物体が仕舞われていた。

「……そもそも何なんですかこれ。石像?」

「ソクラテス肖像像の石膏レプリカ。なんでか家にあったんでね、ちょうどいいから持ってきたんだ」

 ますます意味が分からなくて、私はこれ見よがしに思いきり眉を顰めた。

「よく分からないですけど。せっかくだからって要するに、授業で使わなくてもいいようなものってことですよね」

「……気付くべきじゃないことに気付くものだな、君は」

 先生は笑う。笑ってんじゃない、と私は心の中で文句を言った。





 コツコツとチョークを走らせる音が響く。

 せっかく一年前に校舎を建て替えたのだからホワイトボードにすればいいのに、この黒板は昔のままだった。色が古臭い緑色じゃなくなっただけマシだと思うべきなのかもしれない。

 そんなことを考えながら、ふと教室を見回す。

 今は倫理の時間。内容はソクラテスの哲学。高校二年生にはいささか以上に退屈で難解な内容だけど、みんなは思ったより集中していた。

 授業の内容に興味があるからではない。ひとえに、教鞭をとる欠子先生が人気者だからだ。

「――古代ギリシャの哲学者の中でも、ソクラテスはとりわけ有名だね。彼が由来とされるある有名な言葉があるが、君たちも知ってるんじゃないかな。じゃあそうだな、鷺山純恋。答えてくれるかい」

 迷う素振りも見せずに、先生は私を指名した。

 理由は分かる。私が優等生だからだ。教師の質問に、即座に望む答えを返せる生徒は、テンポよく授業を進行する上で便利なのだ。

 溜息もそこそこに、ともかく私は回答する。

「『悪法もまた法なり』、ですか」

「流石。そう、悪法もまた法。彼の死に様に由来する言葉だな。

 ソクラテスは、理不尽な裁判によって死を迫られた。彼の弟子たちは脱獄を勧めたが、ソクラテスは首を横に振る。法がどれほど悪であろうと、法である限りは守らねばならない。そう言って毒の杯を仰いだんだ」

「ソクラテスはどうして死刑にされたんですか?」

 黒板のすぐ前に座る女子生徒が、手を挙げて質問する。

「簡単に言うと、ソクラテスが人気者で、それを権力者が妬んだからだろう」

 欠子先生は穏やかな声音で答える。クラスどころか、学年全域に渡って多くの女子生徒を虜にしている甘い声だ。

「『無知の知』というのが有名だね。自らが知識人だと傲る連中より、自らが何も知らないと知っている自分の方がまだものを知っている、という考え方だ。そんな彼を、古代ギリシャの人々は慕った。謙虚は傲慢より好かれるからだ。

 そのうえソクラテスは人格者だったという。講義に料金を取ることもしなかったらしい」

「この学校とは違うよなぁ。授業料高いもん」

 お調子者の田中真斗たなかまさとからそんな野次が飛ぶ。

「私立なんだから仕方ないだろう?それに、君らの授業料がなきゃ私は生活できないんだ」

 欠子先生は咎めることなく、冗談めかした口調で返す。

「君たちの家族はさぞ"善い"家族なのだろうが、ソクラテスの妻はキツい人だったらしい。しかしその原因は、講義に料金を取らず、家計を火の車にしていたソクラテスの方にもある。お金を取らない、善人である。立派だが、融通を利かせなければ上手く生きていけないことも事実だ。

 実際、ソクラテスはその『融通の利かなさ』で死んだようなものだ。

 彼は、彼を妬んだ人々に裁判にかけられた。少しくらい媚びれば良かっただろうに、全く自分の意見を曲げなかったそうだ」

「それで死刑になったワケ?」

 と、田中の質問。

「ああ。看守さえ彼に同情して、牢屋の鍵を開けていたそうだよ。にも関わらず彼は、毒の杯を自ら飲んだ。悪法もまた法である。根拠のない死刑であっても、それはアテネの法が決めたことであり、民たる自分には遵守する義務がある。そう言ってね。まあ立派なのかな」

「立派っつーか、馬鹿じゃん、それ」

 教室のどこからか、そんな声が飛んだ。欠子先生は咎めることなく、むしろ待ってましたとばかりに笑って話を続ける。

「そういう意見も多いね。愚かしいと思うし、矛盾もしている。

 ソクラテスは『善く生きる』ことを信条としていたそうだ。きっとその善悪の判断は、彼自身の道徳に基づいていたはずだ。なのに最後、ソクラテスは自身の中で『悪』であったはずの法に従って死んだ。自らの道徳を信条とした男が、死ぬときには道徳のかけらもない、他人の判決を受け入れた」

 あるいは、と欠子先生は言葉を切って、

「根拠などない悪法でも、賢人ソクラテスが受け入れてしまうほど、『法』とは尊いものなのかもしれない」

「……法律ってそんなに大事ですか?」

 再び、黒板目の前の女子生徒の質問。……私は彼女の名前をまだ覚えていない。

「法律がなければ社会は成り立たない。たとえ一つの悪法で一人が無残に死んだとしても、法律が消えて社会が混乱に陥れられ、多くの人が死ぬよりは『善い』ことだ。自暴自棄になったんじゃなければ、ソクラテスはそう考えたんじゃないかな」

 何千年も前の哲学者を相手に、欠子先生はまるで見透かすようにそう言った。

 そうして彼は、ふと微笑する。

 その笑顔は悪戯を思いついた子供のそれに似ていた。ただし欠子洸牙の場合、細く鋭く吊り上がった口角のせいだろう、どこか残酷さを思わせる顔だ。——私はそんな風に思った。

「ソクラテスでさえ命を懸けて尊重せざるを得なかったならば——もし法が命じれば、我々は死さえ享受しなければならないのかもしれないね」

 欠子先生がそんな教育に悪いことを口にして、その時ちょうど教室にチャイムが鳴り響き、授業は終了した。

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