第44話 閑話Ⅱ デンジャラスジャーニー 中編


 で。

 和やかな昼食を終えて、身支度を手早く済ませたわたしは、グリム達と一緒にトーアの町にいた。

 今のわたしの服装は、焦げ茶色のローヒールブーツに動きやすい緋色の袴姿。

 魔法が使える以上、財布以外特に何か持っていく物はないので、パッと見は手ぶらだ。


 魔皇国は北極圏に位置する。

 時期柄、白夜も極夜も起こっていないが、陽が沈むのは極端に遅い。

 なので、夕方六時にも関わらず、外は真昼の様に明るかった。


 灰色のコンクリートで舗装された道を踏み締めて、町の中心地に向かって進む。

 慣れない足元からの感触に軽い痛みを覚えるが、それより何より、わたしは初めて見る街並みに目を奪われていた。

 等間隔で並ぶ街灯、白い漆喰で壁を塗られた蒼い屋根の家々、実に多様な種族が行き交う街路、左手に広がる青く広い湖。

 湖の真ん中には、緋鬼村とは比べ物にならないほど大きく立派な結界柱が、塔の様にそびえている。

 どれもこれも新鮮で、お上りさん丸出しと分かっていても、わたしの目はそれらから離れなかった。

 今回の様な経緯がなければ、じっくりと見物観光したいところである。


 不意に、グイッと手を引かれた。

 驚く間もなく、何か硬いものにぶつかる。

「いっ――――!?」

 混乱しながらも身を離すと、どうやらグリムの腕の中だったようで、至近距離にある美しい顔に、反射的にわたしの顔が火照った。

 心臓が高鳴る。

 耳には、ブロロロロロ……と何かが去って行く音が届いていた。

 呆れを宿した紫眼が、わたしを見下ろす。

「気持ちは分かりますが、ちゃんと前を見て下さい。バイクに轢かれる所でしたよ?」

「……すみません」


 グリムから身を離したわたしがまずしたのは、思い切り自分の胸を殴る事。


 鈍い音が響き、衝撃が骨と内臓を襲って激痛が走る。

 思わず咳き込み、生理的な涙が浮かんで視界が滲む。

 それでも無理やり顔を上げれば、唖然とこちらを見るグリムとイオナが目に映った。


「な、何してるんです?」

「どうかなさいましたの?」

「なんでも、ありません……。自分の単純さ、迂闊さに喝を入れただけなので、気にしないで下さい……。行きましょう」

「えぇ~……?」


 グリムの困惑した声を聞きつつ、わたしは思っていた。

 わたしはこれから魔王陛下に嫁ぐ身。

 だと言うのに、こんな簡単に別の方に心を動かされるなんて……。

 わたしってば、なんて簡単な女なのっ!

 きっと、彼が異常なまでに美しいからに違いない。

 おのれイケメン……。


 歩きながらギリッと歯を食いしばって、渦巻く憤りと共にグリムを見る。

「え……なんで俺、睨まれてんの?」

 わたしの視線に怯んだように、グリムはそっと距離を取った。

 イオナは訳知り顔で、わたしからグリムへ視線を移す。

「あ~……。私、なんとなく理解いたしましてよ」

「へ?」

「お父様は本当に、罪作りなお方ですわ」

「は??どゆこと???」

 若干呆れ気味なイオナの態度に、どんどんと頭上の疑問符を増えていくグリム。

 と、突然イオナは視線を前に戻して、パッと顔をほころばせた。

「そんな事より、駅が見えましたわ!」

 釣られて、わたしも彼女の目の向かう先を見る。

 思わず憤りも忘れて、わたしは感嘆の息を吐いた。


 それは、巨大な白い建造物。

 アーチ状の天井はガラスに似た、透明な強化素材で出来ているらしく、降り注ぐ陽光を建物内へと導いている。

 大きさは、ざっと五階建てに相当するだろうか。

 ここまで大きな建物を見たことが無い為、正確なところは分からない。

 ただ、自宅を五つ縦に重ねたらこれぐらいかな?って感じで換算しているだけ。

 駅の壁面は、街並みに合わせて作られたらしく、白い。

 建物の上部には大きな鐘と時計が備え付けられていた。

 時計は遠くからでも文字盤がはっきりと見えるから、かなり大きいのが分かる。

 多分、わたし達のいるこちら側が正面だろう。


 その駅舎には今、多くの人が出たり入ったりしていた。

 そんな様を見て、わたしが最初に抱いた印象は、砂糖に群がる蟻だ。

 行ったり来たり、引きも切らさず行列でも作っているような様相は、そうとしか見えない訳で。

 そして、これからわたし達もその一員に入るのだと思うと、なんとなく気持ち悪さが湧き上がった。


 薄らと曇ったわたしの内心など知らずに、グリムはイオナへ嘆きを露わにしていた。

「意味分からん!!そしてそんな事で済まされる俺、可哀想!!」

「あ!お兄様がいましたわ!お兄様~!」

「無視までされるなんて!!」

 わっ!と顔を覆い叫ぶグリムを無視して、駆け出していくイオナ。


 軽快な足取りで向かった先にいたのは、彼女と同じ配色の男性。

 白銀色の髪と狼っぽい獣耳、フサフサの尻尾、藤色の瞳。

 年齢は二十代中頃か少し手前ぐらい。

 黒い軍服をしっかりと着こなした、精悍だが容姿の整った人だ。

 イオナと違って、落ち着いた雰囲気を纏っている。

 イオナが兄と言っていた事からして、彼もグリムの子供なのだろう。


 わたしはグリムに気付かれないように、そろっと横目で彼を窺った。

(意外……。繁殖欲なんて塵一つもありませんって雰囲気してるのに、子供が二人もいるなんて……)

 人は見た目によらないとは、正にこの事だ。

 なんて考えていると、不意にパチッとグリムと視線が合った。

 心臓が思い切り跳ね、と同時にわたしの視線は爪先へと移動する。

(や!この反応は逆に変に思われたんじゃ!?)

 ぐわっ!と無理やり視線を戻すと、グリムはまだわたしを見ていた。

 いぶかしげと言うか、なんと言うか……。

 そこで、わたしはふと、思い至った。


 ――――ああこれは、値踏みする目だ。


(わたし、試されてる!?)

 そうと分かれば、負けられない。

 わたしはグリムの顔を、目を、抉りそうな勢いで見つめ続ける。

 瞬きすらせず、目が乾いて痛かったが、逸らしても閉じてもいけないと、半ば意地で凝視した。


 すると、それが予想外だったのか、グリムは面白そうにふっと微笑んだ。

「なんです?そんなに見つめても、何も出ませんよ?」

「えっ!?い、いえ!そちらが見つめてくるから、わたしは受けて立ったまでです!!」

「おや?気のせいでないなら、先に見てきたのは貴女の方からだと思いましたが?」

「そ――――それは、その……え~っと、グリムさんの職業は何なのかな~と、ふと思っただけで……」

 無理くりひねり出した問いに、キョトンとグリムの目が丸くなる。

「……俺の?」

「え、ええ。イオナさんが軍人だと言うのは、あの手帳からも確かですし、兄君も服装からして同じく軍人なのでしょう。でも、グリムさんの職業は明らかにされていません。服装も、軍服とは違うみたいですし、陛下への気安い態度も、その……」

 すると、グリムは腕を組んで、晴天の蒼い空を見上げた。


 うーんと一頻ひとしきり悩んだ後、彼から出た言葉は、

「俺は……そうですね。〝何でも屋″みたいなものでしょうか」

 そんな、ふわっとした内容だった。


 頭一つ分ほど高いグリムの顔を見上げる。

「何でも屋?」

 グリムの視線が、わたしに戻って来る。

「ええ。デスクワークからフィールドワーク、仲裁から殲滅まで。必要とあらば何でもやります。個人的にはフィールドワークの方が好みですけどね」

「何でもの範囲、広すぎじゃありませんか?」

「〝何でも屋″ですから、それはまあ」

 グリムは自嘲気味に苦笑して答えた。

 そして続ける。

「俺と王は……古い友人みたいなものでしてね。ちょくちょく個人的な依頼を受けているんですよ。今回もそう。気安い態度をつい取ってしまうのも、それが原因です」


 嘘……ではないと思う。

 でも、真実と断言も出来ない。

 それは、友人以上の何かを、言葉の端から、態度から感じ取ったからかもしれない。

 色恋事でないのは確かだが、赤の他人であるわたしがわざわざ突っ込んで聞くのも、何か不躾のような気がして、結局わたしは口を閉ざしてしまった。

 すると、ちょうど向こうも話が終わったようで、イオナがわたし達に向かって駆け戻り始めた。

 イオナの兄は、わたし……と言うよりグリムにだろう。

 左腕を後ろに回し、右手を胸に当てて深々と一礼した後、きびすを返して去って行った。


「ただいま戻りましたわ!……って、どうしたんですの?喧嘩でもしましたの?」

 帰還したイオナが、わたしとグリムを交互に見て訊ねる。

 この微妙な雰囲気を感じ取ったらしい。

「いや、別に何も?で?」

「あ、はい。えーっと、これが私達の列車の乗車券で、こちらがお兄様の財布……んんっ!当座の資金ですわ!」

「お前……兄から財布強奪したのか……?」

 ゾッとしたのか、一気にグリムの顔色が悪くなる。

 わたしもちょっと引く。いや兄からて……。

「強奪だなどと人聞きの悪い。善意の提供でしたわ」

「おま……いや、いいや……」

 途中で、何かを言うのを諦めたグリムは、諦念を宿した目でそっと呟いた。

 こういう事は珍しくないらしい。


「あと、お父様」

 不意に、イオナの声色が硬くなった。

「ん?」

「お兄様から言伝ことづてで、〝委細承知。プランAにて予定通りに″との事ですわ」

「分かった。やはりあいつは有能だな」

 さっきとは違った意味合いの微笑を浮かべるグリムに、わたしは何の事か分からず首を傾げる。

 それを目に留めたのか、グリムはゆるく一度首を横に振った。

「ああ、お気になさらず。こちらの話ですので」

「?はあ……」

「さ、駅に行きましょう。発車までまだ時間はありますが、ここで立ち話もなんですから」


 そうして、わたし達は白亜の駅へと向かったのだった。


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 大陸南西にある湖畔の町トーアから、中央部にある魔都カロンまでの直通寝台特急列車、カノープス。

 十五両編成、二階建式の大きなこの黒い列車に、今わたしは揺られていた。


 カノープスは二階部分が各々の客車、つまり寝台になっていて、一階は展望車や食堂車、暇を潰す為の遊技場を兼ね備えた娯楽車、遠くにいる者と連絡を取れる通信車に貨物車等となっている。

 乗降はもちろん一階だ。

 現在のわたし……とグリムは、列車の真ん中に位置する第二展望車にて、ふかふかのソファに座って外を眺めていた。

 展望車の名の通り、ここは180度の眺望を売りにしている。

 駅舎の天井と同じく、ガラスに似た透明な素材だ。

 透明ではあるものの、紫外線等の有害な光線は完全にカット。

 防寒防水防弾防塵仕様の、守りにも適した超素材で覆われている。

 空調も寒過ぎず暑過ぎず、実に快適な温度に保たれており、二階部分も無い為、解放感満載で気持ちがいい。


 時刻は正午。

 つい今さっき昼食を食べ終えたばかりで、満腹のせいか若干うとうとしている頃合い。

 明るく暖かい日差しと、規則正しい振動も、眠気を誘うのに一役買っている。

 かと言って、素直に睡魔に負けるのも癪に障るので、わたしは無理やり目を開けて、気分転換に外を見ている訳で。

 どうやら隣にいるグリムも同じ心境らしく、眠そうなまなこで欠伸を噛み殺しながら外を見ていた。

 イオナは今ここにはいない。

 列車後方にある通信車にて、王城へ経過報告している最中だ。


 寝台特急列車は元々本数が少なく、それがカロンへの直通となると、片手で数えるほどしかない。

 カノープスはその中でも高級な部類に入るらしく、乗客の姿はまばらだ。

 現に、この展望車にいるのはわたしとグリムの二人だけ。

 まあ、人気があるのは二両目の第一展望車なので、いるとしたらそちらなのだろうけど。

 それは置いといて、先ほどからちらほらと通り過ぎて行く者達は、皆一様に身なりがよろしく、中には将校服を纏っている者もいた。

 そんな人達に比べて、わたし達は些か浮いてしまっている。

 一応、一番上等な袴を選んで着て来たつもりだが、それでも見劣りしてしまう。

 いわんや、かなりカジュアルな服装のグリムとイオナは、より浮いているのだが、二人がそれを気にした様子はない。

 図太いと言うか、我が道を行く、である。


 車窓の外を流れる景色は、針葉樹や紫氷しひょう樹の生える森林地帯から、一面の薄茶色い荒野へと変化している。

 この辺りは〝星痕せいこん荒野″と呼ばれているそうだけど、由来はよく分からない。

 少なくとも、星のあとと呼ばれるに相応しいものは見当たらない。

 代わりに、切り立った断崖の様な岩山が、ポツポツと点在し始めた。


 本来なら永久凍土に覆われている内陸部だが、魔皇国は大陸全土の気候を王城が管理調節している為、この様な光景になっている次第。

 と言っても、気候気象を完全にコントロールしている訳ではなく、最低限生きられる程度に保っているだけ。

 それも、城のある中央部に行けば行くほど恩恵が得られ、逆に大陸の端は影響を受け難い。

 言わずもがな、わたしの住む緋鬼村はあまり恩恵を得られていないが、そこを補うのが結界柱。

 アレのおかげで、厳しい冬の時期でも食糧さえあれば死ぬ事は無い。

 くだんの結界柱を始め、各地域へ分配されているエネルギー供給の大元は王城だ。

 魔法にしては大掛かり過ぎるし、絶え間なく永続的にとなると、そのような魔法は聞いた事がない。

 一体どういう理屈でこうなっているのか、多分本当の意味で理解しているのは陛下しかいないだろう。


 列車に乗って、すでに三日目。

 約二時間後に到着する駅で最後の補給を終えれば、以降停まる事はない。

 明日にはカロンへ到着する。

 長いようで短かったこの三日間。何も起きなくて本当にほっとした。

 そう胸を撫で下ろしていると、不意に隣で黒い何かがするりと落ちた。

 思わず目を向ければ、それはグリムの綺麗な漆黒の髪のひと房。

 宝石の如き目は閉じられ、規則正しく胸が上下している。

 睡魔に勝てず、夢の世界へと旅立って行ったグリムの姿が、そこにはあった。


 カノープスに乗った初日や二日目は、何やら感慨深げに外を眺めていたグリムだが、三日目に入ってから外は茶色い荒野になってしまい、変わり映えも無い。

 飽きるなという方が無理な話なのだ。

 加えて、何の問題も無く順調な旅路とこの陽気。いくら護衛と言えど、気が抜けてしまうのも当然な訳で。


 わたしはついつい苦笑して、グリムの寝顔を見つめる。

 すると、ぎゅっと彼の眉間が寄った。

 起こしてしまったかな?と焦っていると、

「それ……その書類、サインまだ……あ、え……つ、追加?その量……いや……え?不備?嘘……ぐうぅっ……」

 なんて事をブツブツ呟いた。

 完全に悪夢を見ている。

 そう言えば、デスクワークよりフィールドワーク派とかなんとか言ってた気が……。

 途端、わたしの中で憐れみに似た気持ちが湧き上がる。

 起こそうかどうか迷っていると、後部車両側の扉が開かれた。


「お父様――――あら?」

 入ってきたのはイオナだ。

 相変わらずの黒いピッタリした服を着ている。

 咄嗟にわたしは人差し指を唇に当てて、静かにとジェスチャーしてしまった。

 彼女は一度頷いて、足音を立てずにわたしの元へ歩いてくる。

 そして、どんな美術品芸術品も敵わない美麗なグリムの寝顔を見て、寝言を聞いて、イオナはわたしと似たような微笑を浮かべた。

「寝てしまわれたみたいですわね。それにしても、ふふ。夢の中でまで書類に追われているなんて、本当に難儀な事」

 未だ「日付……サイン……」とうなされるグリムを見やりながら。イオナはわたしの隣に座った。

「折角久々にデスクワークから解放されましたのに、苦労人の気質が染み付いてしまっていて……。仕方のない事とはいえ、可哀想でなりませんわ」

「グリムさんは、普段の仕事は書類業務が多いんですか?」

 なんとはなしに訊ねてしまう。

 彼に関して興味があったのは確かだが、それ以上に間を持たせたい思惑もあったからだ。

 暇潰しの世間話に丁度いいと考えたのもある。


 イオナは僅かに悩んだ素振りを見せた後、頷いて答えた。

「ええ。詳しくは機密に当たるので話せないのですけれど、そうですわね。基本は一日の大半を机に向かっていますわ」

「機密という事は、グリムさんも軍関係者なんですか?何でも屋みたいなもの、とご本人は以前仰っていましたが……」

 わたしの言葉を聞いた途端、イオナから失笑に似た笑みが零れた。

「〝何でも屋″……。っと、申し訳ございません。ノーコメントでお願いしますわ。でも、お父様の仰っていた事に嘘はございませんことよ」

「そう、なんです?」

「はい」


 やんわりと、優雅に。

 しかしそれ以上の追及は拒む彼女の声色に、わたしは僅かに口を開いて――――閉ざした。

 聞くな。と言うのなら、聞かない。

 聞いたところで、何が変わる訳でもないのだから……そう思っていた時。


「お前ら、うるさい……」


 苦々しい声が、逆隣から聞こえてきた。

 ハッと口を抑えて、声のした方を見れば、渋い顔をしたグリムが目に映る。

 イオナは身を乗り出して、わたしの身体を盾にするようにグリムを窺い見た。

「あら、起こしてしまいまして?」

「起きないと思ったか?こんだけ話しといて……ったく」

 纏わり付く眠気を払う為か。グリムは目元に手を当てて頭を振る。

 それが終わるとソファに座り直し、首筋を揉みながらムスッとした顔のまま、わたし達を見返した。

「ご、ごめんなさい……」

 不機嫌を隠す気も無いグリムに、思わずわたしは項垂れて謝罪するが、イオナは和やかな微笑を湛えていた。

「ふふ。ごめんあそばせ。寝起きは如何です?」

「最悪。夢見も最低だった」

「夢見が最低であったのなら、起きれて幸いじゃありませんの」

やかましい。そんな事より報告」

「はいはい。畏まりました」


 言うや否や、イオナは立ち上がりグリムの前へと移動する。

 左腕を後ろに回し、右手を胸に当てる礼をとったイオナの表情は、先ほどまでの親しみやすいものから一変して、凛々しいものへと変わっていた。

 娘から、軍人へと変わった瞬間でもある。

 詳細の分からないわたしは、努めて口を噤んで、成り行きを見守った。


「状況はつつがなく進行中。誘導、調整も問題なくとの事であります」

「恙なく、か……」

「はっ。|星痕荒野、ポイントB7-756~860までの区画ブロックならば、いくら破壊してくれても構わないと、レックス殿からご伝言です」

「ポイントB7……ってそこ、確か今造成中の場所じゃなかったか?」

「はっ。すでに機材と作業員の撤収は済んでいるとも申しておりました」

「そういう問題じゃ……。アイツ、俺を重機か何かと勘違いしてんじゃないか?」

「…………」

 すっ……とイオナの視線が横へ流れる。

「なんか言えよっ!!」

「レックス殿は、事前に予定しておりました場所にて待機する、との事であります。以上」

「あんにゃろ……覚えとけよ……」


 話にひと区切りついたのを見計らい、

「あ、あの……何がどうなってるのか聞いても?」

 そろっと手を挙げて恐る恐る聞いてみると、グリムはイオナと目を合わせて悩んだ。

「……私は頃合いかと思いますわ」

「あ~……だな。え~その事に関して、貴女に謝らなければいけないんですが……」

「え?」

「その前にイオナ。今どの地点だ?」

「はい!ただ今、ポイントB7-755ですわ!」

 弾けるような、とびきりの笑顔でイオナは告げる。

 反対に、グリムは驚愕から目を見開いた。

「は!?お前それ」


 瞬間、途轍もない轟音と振動が列車を襲った。


 カノープスに急ブレーキが掛けられる。

 ソファに横たわるのを余儀なくされるほどの、急激なブレーキだ。

 グリムはわたしを庇うように上に覆い被さり、イオナは足を踏ん張って、前方と後方の出入口に油断なく目を配っている。

 こんな時だと言うのに、わたしの心臓は恐怖とは違う動悸でバクバクと煩く響き、高熱でも出てるかのように顔が熱くなった。


 ど、ど、ど、退いて欲しいっ!

 良い匂いがするっ!!

 なんだろ!ムスク系かな!?


 なんて、場違いな事を考える程度には、この時のわたしは混乱していた。


「イオナッ!現在地はもっと早く言え!!」

 混乱極まるわたしに被さったまま、至近距離のグリムが怒鳴る。

「まあ!お父様が退屈してると思って、気を遣ってサプライズして差し上げましたのに!」

「馬鹿!今は保護対象がいるだろがっ!!」

 短く鋭く娘を叱ったグリムは、間髪入れずにわたしへ視線を移す。

「すいません八重さん!説明したいのは山々なのですが、今はその余裕が――――」


 言葉の途中で、後方車両側から無数の雄叫びが聞こえてきた。

 男の声が大多数だが、微かに女の声も聞こえる。

 悲鳴や混乱に惑う声ではなく、攻撃性に満ちた声。

 それを聞いて、イオナの顔は緊張感から引き締まった。


「お父様!来ましたわ!」

 後方を見て叫んだイオナに、グリムは盛大に顔を顰めて口を開く。

「クソッ!イオナ!手筈は分かっているな!」

「はい!」

 イオナは太腿に巻いたレッグホルスターから短剣ダガーを抜くと、後方の出入口へ向かって走って行った。


 グリムは身を起こすと同時に、わたしの腕を掴んで一緒に起こす。

 急に引っ張られたので、筋が伸びて若干痛い。

 が、文句を言ってられる状況じゃないのは明白。

 ソファから立ち上がったグリムに続いて、わたしも立ち上がる。

「重ねて謝ります!ちょっと荒っぽいですが、我慢して下さい!」

「えっ!?」

 と、唐突に肩に担がれた。

 不本意ながら、米俵こめだわらもかくやである。

 羞恥と混乱で固まるわたしを置いて、グリムは後ろ腰の短剣を引き抜いた。


 銀の柄に金の蔦が巻き付いた様な装飾が施された短剣だ。

 金の蔦は、そのまま柄の先にある、握り拳ほどの大きさの水晶に似た透明な球体を枠の様に囲み、そのまま真っ直ぐと伸びて、細身の剣身になっている。

 それが、球体内に黄金の粒子が舞ったと思った刹那、純氷の如く透明な長い剣身が出現した。


 あっという間に、短剣から長剣へと姿を変えた武器に、思わずわたしは目を丸くしてしまう。

「居たぞ!」

「こっちだ!!」

「逃がすな!捕まえろっ!!」

 不意に、幾つもの鋭い声が耳に飛び込んできた。

 半ば条件反射的にそちらを見やれば、目に見慣れない影が映った。


 前方の出入口から来る、赤い布を腕に巻いた連中。

 種族はバラバラで、亜人種に爬虫種、水生種、妖精種まで見える。赤い布以外、統一感は欠片も無い。

 アレが開国派アルバだろうか?


 なんて疑問を抱きながら、わたしは急いでグリムに見たままを報告する。

「グリムさん!前の車両から、赤い布を巻いた方々が来ました!」

「まったくせわしない……」

 ぼやきつつ、グリムはその剣を展望車の壁に向かって数度走らせた。

 ピッと細い音がした後、グリムはわたしを担いだまま、迷うことなくその壁に突撃した。


 ガラスが砕けるのに似た鋭い音が響き渡り、わたしとグリムは薄茶色の荒野に身を晒す。

 極端に乾いた冷たい風が全身に吹き付け、肌の水分を奪っていく。

 巻き上げられた砂塵が着物と髪を傷める。

 蒼い空を汚す様に立ち昇る黒煙。

 風に混じる焦げた臭いが鼻をつく。

 それで理解した。

 ああ、機関部先頭車両が爆破されたのだと。


 修理に一体いくらかかるのか、自然と計算してしまい眉を寄せていると、グリムは剣を即座に元の状態に戻し、鞘に納めた。

 そして、わたしを担いだまま、列車から距離を取り始めた。

 魔法も使っていないのに、まるでスケートリンクが如く実に滑らかに安定的に、しかしとんでもない速さで駆ける。

 わたしが全力で走って、なんとか追随できる速さだ。

 そこで、はたと気が付いた。


「イオナさんはいいんですか!?」

 列車内に置き去りにしてしまったイオナの事を訊ねると、グリムは振り返らず即答する。

「あいつはアレでも実力のともなった少尉です。鏡影レイシー囮用デコイなら三体まで同時に出せる。あの程度、問題ありません」

「レ、鏡影レイシー?」

 聞き馴染みのない魔法名に首を傾げていると、背後から追ってくる襲撃者の姿が見えた。


 大多数は獣人種。

 機動力に特化したのか、馬や狼、鹿や鳥等の特徴を持つ者ばかりだ。

 僅かに見える亜人種も、足が速いと評判の一族しかいない。

 ゴクリと生唾を呑む。

「っ!!追ってきます!」

「数は?」

「十……二十……まだ増えてます!」

「まるで虫だな。さて、どうするか……」

「あれが〝アルバ″ですか?」

「ええ。全部ではないですがね」


 そこでわたしは、とある提案をした。

 このまま護ってもらってばかりでは情けないにも程がある。

 決して、初めて乗った列車。

 その新鮮で楽しい、優雅な列車旅を邪魔された腹いせ、ではないのである。うん。


「グリムさん。あの方達、殺しても問題ありませんか?」

 若干棘ついた言葉に、グリムは困惑気味の表情を浮かべて、軽く振り返る。

「は?ええまあ……最終的には全て処分する予定ですので……」

「ではすみませんけど、もう少しわたしを抱えて走って下さい」

「え?」

「後ろの方々、処理しますので」

「……え?」

 グリムからの返事を待たずに、わたしはつのに魔力を集中させる。


 放つのは極位。

 命中すれば、対象は骨さえ残さず蒸発する真紅の極光。

 受け凌ぐには、かなりの練度の障壁魔法が必要になる。

 追っ手の中に、そのレベルの使い手がいるかは不明だが、それでも少なくないダメージを与える事は確実。

 特に、今は一塊になっている敵。それを一掃するには最適の魔法だ。


 額の緋色の角が熱を帯びる。

 傍から見れば、一層鮮やかに赤く輝いているのだろう。

 渦巻く魔力の圧に、グリムは息を呑んでいきなりわたしの身体を揺らした。

 集中が削がれ、集まっていた魔力があっという間に霧散する。

 あとは唱えるだけだったのに!

 そんな憤りを胸に、わたしはグリムの頭部を見やった。


「っ!?何するんですか!」

 つい語気が荒くなる。

「何するはこっちのセリフですよ!こんな所で極位魔法を撃とうとするなんて!」

「大丈夫ですよ!ちゃんと加減して、列車に被害が出ないようにしますから!」

「そうじゃなくて!場所の問題です!この先の区画でなら幾ら撃ってもらっても構いませんから、もう少し我慢して下さい!」

「なんでこの場所は駄目なんです!?」

「元々ここは地盤が緩いんです!列車の走る線路部分は念入りに整備してあるので問題ないんですが、他は厳しい!そんな場所で極位なんて撃ったらどうなるか、言わずとも分かるでしょう!?」

 ギリッと、わたしは唇を噛んだ。


 確かに、そんな事をすれば、折角固めた地盤もろとも崩落が起こっても不思議じゃない。

 下手したら列車が丸ごと呑み込まれてしまう。

 極位は……撃てない。

 高位も厳しい。

 ギリギリ中位だけれど、その程度の魔法では追っ手の足止めにもならないのは目に見えている。

 結局、取れる選択肢と言えば、グリムの言う区画まで逃走する一手のみ。

 何も出来ない自分に苛立たしさを抱きながら、視線を前……つまりは後方へ戻す。


 そこには、ぐんぐんと距離を詰め始めた不届き者共の姿があった。

 中でも突出しているのが、下半身が馬の獣人種五体と、腕が翼の役割を果たしている、空を駆ける獣人種三体だ。

 このままでは、幾許いくばくもなく追い付かれるだろう。

 グリム一人なら兎も角、今は荷物わたしを担いでいる状態。

 故に、彼がトップスピードに乗れないのは明白。

 明らかに、わたしと言う存在が足を引っ張っている。


「……グリムさん。わたしを下ろして下さい」

「は?何故です?」

 息一つ上がっていないグリムの胡乱げな声が、わたしの耳朶じだを叩く。

「獣人種のアルバが迫っています。わたしを担いだ状態では、遠からず追い付かれてしまうでしょう。足手まといになるつもりは」

「貴女、阿呆ですか?」

 わたしの言葉を遮って、グリムは唐突に失礼な事をのたまった。

 瞬間、カッと頭に血が昇る。

「なっ!?わたしは、貴方の為にっ!」

「俺の役目は貴女の護衛です。邪魔だからと放り捨てるのは本末転倒ですし、何より貴女がお荷物になるのは最初から織り込み済み。気遣いは無用ですよ」

「そ、それでも!下ろして下さい!自分で走れますから!」

「お断りします。下ろした所で、貴女の足が俺について来れるとは思えません。ゼロ距離にいる分、今の方が護りやすい。現状の方がマシです」

 にべもないグリムのセリフに、それでもわたしは噛みつく。

「でも!このままだと追いつかれます!」

 グリムは、肩越しにチラッと背後を見た。


 土煙を蹴散らして迫る開国派。

 その姿は、小指の爪ほどの大きさだったものが、今や指ぐらいにまで大きい。

 グリムは、わたしと同じ光景を見ただろうに、慌てる素振りは微塵も無かった。

「馬身族と翼腕族か……」

 そして、ふむ、と僅かに考えた後、

「……まあ、追いつかれたら追いつかれたで構わないんですがね」

 と、そう続けた。

「何を暢気のんきな!って、グリムさん!前!!」


 わたしの目に映ったもの。

 それは断崖絶壁。

 大体50mは先だが、首を直角に曲げて見上げないと、天辺が拝めないほどの大きな崖がそびえていた。

 右にも左にも、その崖は長く続いている。

 避ける、と言うのは不可能だ。

 実質行き止まりの荒野に、それでもグリムは慌てることなく、むしろ走る速度を上げた。

 続けて、肩に担いでいたわたしを、お姫様抱っこよろしく横抱きにする。

「グ、グリムさんっ!?」

 思わず声が上擦ったが、グリムはわたしに視線を落とすことなく、

「捕まっていて下さい」

 そう言って、眼前の崖を見据えた。


 そして、崖の至近距離まで来たところで、グリムは溜めも無く、大きく跳躍した。


 ――――飛翔。


 そう言っても過言でない跳躍。

 考える間もなく、わたしはグリムの服を掴んで息を詰める。

 上から下へと掛かる急激な重力圧のせいで、悲鳴なんてものは喉から出なかった。

 断崖に僅かにある出っ張りを踏み台にして、グリムは跳躍を繰り返して登っていく。

 脆い、と言っていた通り、踏み台にされた岩はボロリと崩れて落下していき、崖下で二の足を踏んでいた追っ手達の幾人かを押し潰した。

 届いてくる悲鳴と絶叫の中、空を飛んでいる翼腕族からは罵声が発せられる。

 が、わたしもグリムもガン無視。

 わざわざ丁寧に返事してやる必要もない、との思いもあったが、わたしとしてはそれ以上に、降りかかるGに耐えていたからだ。

 グリムは……分からない。

 何せ無表情であったから。


 やがて、崖の天辺に到達した。

 射出された様に飛び出し、束の間の浮遊感が内臓を襲う。

 だが、わたしはその感覚に不快を感じるよりも先に、空中そこから見る景色に別の意味で息を呑んだ。

 感嘆すべき光景が、そこに広がっていたからだ。


 空は白々しいほど蒼く澄み渡り、大地は一面渇いた薄茶色。

 それは変わらない。

 しかし、凹凸が激変していた。

 巨大な岩山を始めとして、裂いた様な底の見えない峡谷や、スプーンで抉られたみたいな大小様々のクレーター。

 それらが眼下で、数えるのも馬鹿らしくなるほど無数に存在していた。

 〝星の痕″と呼ばれているのも、納得の風景。

 どこか現実離れした景色の中で、ふとわたしは思い至った。

 今までわたし達が乗っていた列車カノープスは、高台の上を走っていたのだと。

 荒野に見えていたそれは、実際には高度のある場所を走っていたが故に、平坦に見えていただけだったのだと。


 すとんと納得していると、重力に引かれて落下を始めた。

 数秒もせずに着地した衝撃が伝わってくる。

 これで、地を行く追っ手はやり過ごせた、と安堵したのだが、わたしのその淡い思いは瞬時に粉砕された。

 台地となっているその天辺には、アルバのさらなる伏兵がいたからだ。


 眼前に、象頭の獣人と鹿の角を生やした獣人、鎧を纏った二足歩行をするワニと、上半身が人型で下半身が蛇の爬虫種。

 それからわらわらと、お腹だけが異様に膨らんだ、灰色の肌の小鬼族がいる。

 背後には翼腕族の追っ手が三人。

 総数はざっと見た限りでも四十は下らない。

 全員、身体のどこかしらに赤い布を巻いているので、アルバであるのは疑いようも無かった。

 正に、前門の虎後門の狼、である。


わずらわしい……」

 迷惑そうに小さく呟いたグリムに向かって、

「貴様が護衛か。話には聞いていたが、予想以上に軟弱そうな奴だ。男、痛い目を見たくなくば、その娘を渡してもらおう」

 この一隊のリーダーと思しき人物――――鎧を着たワニが、言葉に敵意と重い圧、そして僅かな嘲りを加えつつ言った。

 驚いた様子など無く、ただ淡々と命令してくる。

(わたし達の行動が、読まれた!?)

 ぎゅっと顔を顰めて歯軋りしていると、小鬼族と翼腕族が、わたし達を取り囲む様に広がった。


「もう一度言う。その娘を渡せ」

 再度の通告。

「…………」

 だが、グリムは何も言わない。

 わたしを下ろす気配も無い。

 話す価値すらないとばかりに、硬く口を閉ざして、相手を冷たく見据えている。

 彼の顔には何の感慨も浮かんでいなかった。本当の無表情。

 常軌を逸した美貌も相まって、何も読み取れないその様に、わたしは小さくない恐怖を覚えた。

 短い間とは言え一緒に旅をし、その間見てきたグリムの喜怒哀楽。

 それが、途端作り物はりぼてめいたものに感じられたから。

 身のすくむ思いで、彼の顔を凝視してしまう。


「聞こえなんだか?それとも言葉が分からないか?最後だ。答えろ。娘を渡せ」

 ワニリーダーのセリフに殺気が加わる。

 ハッと我に返って、わたしは声のする方へ目を向けた。

 先ほどよりも明確な敵意と、新たに加わった苛立ち。

 と同時に、わたし達を取り巻いている周りの魔族達も、ジリジリと距離を狭め始めた。

 グリムから色よい返事が返ってこなければ、襲われる未来が待ち受けているのは必至だ。

(これ、訊ねておいて、実質答えは一つしかないじゃないっ!)

 怒りから、自然とグリムの服を掴んでいる手に力が篭った。

 ギチッと外套から悲鳴が上がる。

「八重さん、俺の服を破壊するのは止めて下さいね……」

 若干引き攣った声に、わたしは慌てて服から手を離した。

「ご、ごめんなさいっ」


 すると突然、激しい打音がわたし達の耳に届いた。

 あまりの煩さに、思わず肩が跳ねる。

 見れば、リーダーの男が自慢の太い尻尾で地面を叩いていた。

 ビシリッとリーダーを中心に、地が蜘蛛の巣状に割れる。


「答えろっっ!!!!」


 吹き飛ばされそうな怒号。

 常人であれば呑み込まれてしまいそうな気迫だが、グリムはそうでもないようで、むしろ冷めた目でリーダーを眺める。

 そして、わたしにだけ聞こえる音量で、グリムは呟いた。

「八重さん。俺が合図しましたら、先ほどの極位魔法をこいつらに放って下さい」

「え?でもここは……」

 もう言われた区画なんですか?と続くセリフを呑み込んでグリムを見つめると、彼はさらに続けた。

「貴女の危惧している事は分かります。厳密に言えば、ここはまだ指定の区画ブロックに到達していません。が、ちょうど境界に当たる場所なので、まあ何とかなるでしょう」

「ほ、本当に良いんですか?」

 堪らず問いかければ、グリムはわたしに視線を落とした。

「ええ。全責任は俺が負います。俺が走り出したらチャージをお願いしますね」

 そこまで言われたら、頷かずにはいられない。

 わたしは気を引き締めると、口を引き結んで首肯した。

 グリムは、ほころぶように柔らかく微笑んだ。

「どうぞよろしく」


「貴様!何をボソボソと話して――――っ!?」

 激昂したリーダーを無視して、グリムは駆け出す。

 同時に、わたしは魔力を練り上げる。

 かかれっ!捕らえろっ!!男は殺せっ!!

 と叫ぶリーダーの頭上を、大きく跳躍したグリムが跳び越える。

 降り立った場所にいた小鬼を、彼は遠慮容赦なく蹴った。


 小鬼が、腹から爆散する。

 赤い内容物を撒き散らして絶命する小鬼。

 さらに近くにいた小鬼三体を、文字通り〝蹴散らし″ていくグリム。

 しかし、その惨状を見てもひるむような連中ではないらしく、転がった肉片を踏み潰して、わたし達に殺到した。


 グリムの足の半分にも満たない大きさの小鬼族は、彼の長い足に蹴られ、叩き潰され、へし折られ、破裂して次々と死んでいく。

 グリムと同じぐらいの背丈の、鹿の角を生やした獣人は、頭部への回し蹴り……と見せかけて、絡ませられた両足で首をバキリと折られた。

 そんな最中さなか、わたしに触れようとしてきた翼腕族がいたので、反射的についその顔面を引っぱたいたら、首がもげてすっ飛んで行った。

 相変わらず、頭は取れやすい。

 わたしの行動を目の当たりにしたグリムの顔が一瞬引き攣る。が、特に何か言われる事は無かった。

 一体何だったんだろう?

 なんて疑問を抱いていると、目の前に象頭の獣人が立ち塞がった。

 グリムの倍以上もある背丈だ。

 跳び越えるのも不可能ではないが、足なり服なりを掴まれてしまう可能性がある。

 故に、グリムが選んだ行動は、その魔族の股ぐらを潜ると言う手だった。

 スライディングして滑り込み、象頭の獣人をやり過ごす。

 そして即座に体勢を立て直すと、背後を顧みずに再び走り始めた。


 目の前には絶壁の崖。

 グリムは躊躇うことなく高く跳んで、宙へと身を躍らせた。

 額にあるわたしの一角は、これ以上ないまでに熱を帯びていた。


浮風エアライド!八重さん!今ですっ!!」

 風に乗り、空中で静止したグリムの声に反応して、わたしは溜めていた魔力を開国派アルバに向かって解き放つ。


「――――極紅アルティルビウス!」


 赤雷纏う紅の極光。

 突き抜ける様な開放感の中、オーロラの如き光線が、驚愕に目を見開く開国派アルバ達を襲った。

 断末魔も怨嗟も呑み込み、かわそうと懸命に腕の翼を動かしていた翼腕族達を、雷で貫き灼いて落とす。

 煙を上げて黒く変わった死体は、やはり極光に呑まれて蒸発した。


 耳をつんざく盛大な轟音……なんて言葉では足りないほどの爆音が、わたし達の鼓膜を打つ。

 視界を埋め尽くす鮮やかな紅の閃光。

 それが治まった時、わたし達の目に映ったのは、一部分が丸々消滅して、大きく左右に分かたれてしまった崖の姿だった。

 だけでは飽き足らず、遥か下方の地面まで抉れて、深く巨大なクレーターと化している。

 生存者は、まあ当然の事ながら皆無だ。


「や、やり過ぎたでしょうか……?」

 脆く崩れた瓦礫が、クレーター内に落ちていく様を眺めた後、不安に駆られて頭一つ分上にあるグリムに訊ねる。

 しかし、グリムは面白そうに微笑を浮かべていた。

「ふっ……いえ。お見事です」

「ど、どうも……」

 まさか褒められるとは思っていなかったので、つい素っ気ない返事が出てしまう。

 だが、グリムがそれを気にした様子は無く、むしろサッパリとした態度でわたしを見下ろした。

「さ、行きましょう」

「え?い、行くって?列車に戻るんですか?」

「いえいえ。このまま浮風これで移動します」

「え?これで??この状態のまま???」

「はい」

「魔都カロンまで????」

「ははっ!まさか!」

 グリムは快活に笑って否定する。

「????」


 説明らしい説明がないのも相まって、全然意味が分からない。

 ただ、グリムから緊迫感が伝わってこないのは確かで。

 だからこそ、わたしは訊ねた。

開国派アルバの襲撃は終わった、と考えても?」

 そう。重要なのはそこ。

 そもそも、こうしてわたしが護衛付きで城へ向かっているのも、全てはアルバが原因なのだから、そこさえ解消してしまえば、問題の根本は解決したと言っていいはず。

 しかしグリムは、喉の奥で笑いながら、首を振って否定した。

「そんな諦めの良い連中なら、こうして長々と活動を続けていませんよ」

 確かに。

 と納得する。

「では、この先もまだ続くと?」

「さあ、どうでしょうね。そうであれば良い、とは思いますが……」

「え……」

 耳を疑うセリフに、思わず私は目を見張ってしまう。

 不敵な笑みの奥。

 そのまた奥に、微かな好奇が浮かんでいる。

 列車襲撃からこっち、目まぐるしく状況が変わり過ぎて、物事を深く考える余裕が無かったが、切迫した危険から脱した今、ソレがわたしの中でムクリと身動みじろぎした。


 彼の身元を疑った訳じゃない。

 彼への信頼が揺らいだ訳でもない。

 彼に恐怖を抱いたのでもない。

 ただ、彼がわたしに対して、全てを話した訳じゃないのだと悟っただけ。

 わたしは彼を信頼しているが、彼がわたしを信用している訳じゃないのだと、痛感しただけ。

 それが無性に寂しく、同時に癪に触っただけだ。


 ゴクリと生唾を呑み込む。

 聞いていいのか分からない。

 それでも、こんなモヤモヤした心持ちのまま一緒にいるのは耐えられない。

 だから、わたしは聞く事にした。

「あの、グリムさん……訊ねてもいいですか?」

 意を決して口を開いてみたはいいものの、グリムは答えず風を反転させ、ただ短く「ラン」とだけ言って走り出した。


 乾いた冷たい風が身体を叩き、殺風景極まりない荒涼とした景色が流れていく。

 比較するものが無い為分かり難いが、身体にかかる負荷Gや風の鋭さで、自分達が時速100キロは下らない速さで飛んでいるのは把握できる。

 そうして、切り立った峡谷に沿うように進み始めてすぐ。

「合流地点まで、まだもう少しかかります。列車の中で話せなかった事、道すがらお話しましょう」

 グリムは、わたしの心中を見透かした様にそう言った。


 話は実に単純だった。

 怒りより何より、なるほど合理的だ。と納得してしまう程に。


 彼が語ったのは、わばおとり捜査と同義の内容。

 端的に言うと、父がさんざん流布した今回の結婚話を利用して、開国派の粛清に陛下が動いたのだ。

 わざとこちらの情報をタカ派アルバに流して彼らの行動を把握し、時に誘導して所定の場所へ移動させる。

 そして一網打尽。

 わたしが結婚話を断った場合に備えて、B案C案と幾つかプランが練られていたらしいが、存外あっさりとわたしが頷いた事によって、今は一番最初に立てられたA案で事が進んでいるとの事。

 つまり、列車襲撃事件はA案の計画通りであり、イオナが離脱したのも、つい今さっきの崖での攻防も計画の範囲内。

 相手の行動を読んで、先手を打っていると得意気になっているやからが、実はそうなるよう動かされていただけと言うのは、なかなか滑稽こっけいなものだ。

 あまりにも単純すぎて、喜劇と言い換えてもいい。


 事のあらましを聞き終わったわたしは、だがまだ疑問が残っていた。

 例え陛下の友人であろうとも、一介の何でも屋風情が、こんな重要な案件にここまで中心的な存在として組み込まれるだろうか?と。

 彼が実は、軍上層部の将校であると言うなら、いざ知らず。

 イオナが持っていたような身分証を、彼は持っていない。

 もしも持っていたなら、わざわざ彼女に身分証を提示するよう言ったりはしないはず。

 自分のを見せれば話は早いし、何より見せない事に対するメリットがない。

 であれば、グリムが将校である可能性は低い訳で。

 ついでに、先の好戦的な発言も気になる。

 まるで、自分の予想を裏切って欲しいみたいなニュアンスの発言は、今回の計画から外れた事になるのではないか。

 アルバの捕獲、粛清が目的なら、彼らの予定外の行動は避けてしかるべきだ。

 諸々もろもろ、なんだか比重がおかしい……。

 そんな疑問と言う名の雲が、わたしの心の空を曇らせた。


 わたしは視線をグリムから外して、周囲の景色に向ける。

 引き裂いたみたいな眼下の峡谷は徐々に狭まり、終わりが見え始めている。

 代わりに大小様々な鋭い岩山が数を増やして、タケノコよろしく、そこここに聳え始めていた。

 それを暫しぼんやりと眺めた後、再びグリムへ目を戻す。

 相変わらずの美貌。

 相変わらずの飄々とした態度。

 この、妙に惹かれる雰囲気を纏う彼を見上げながら、わたしは口を開く。

経緯いきさつは理解しました。でも」

 まだ分からない事が。


 と言いかけた瞬間。

 不意に空がかげった。


 雲かな?と視線をずらして見上げれば、遥か上空にポツンと黒い点が見えた。

 太陽が遮られ、チカチカと明滅する。

 雲じゃない。太陽が隠れるほどだ、鳥にしては大きすぎる。

 もしや、また開国派アルバ

「グリムさん!」

 慌てて声を掛けつつグリムを見れば、彼もわたしと同様に空を仰いでいた。

 目をすがめ、注視している。

「あれは……」


 彼がポツリと呟いている最中、上空にいたそれは直角に曲がって、墜落する様にわたし達に向かって降り始めた。

 こちらは風を止めていない。

 となれば、こっちのスピードに合わせて向かって来ているのは明白だ。

 徐々に大きくなるそれの正体に、わたしは大きく息を呑む。


 燃える鱗。

 舞い散る火の粉。

 蜥蜴とかげ蝙蝠こうもりの翼を付けた様な姿。

 烈火の体表をした、山の如く巨大な深紅の竜。

 この特徴に当てはまるのはただ一つきり。

 わたしは、震える唇で呆然と……いや、愕然と呟いた。


「――――竜種、焔竜族……」


 自分の種族以外あまり知らないわたしでも、よく耳にしている魔族。

 竜種は全部で七部族あり、地水焔風雷氷冥とある。

 その中でも、焔竜族は最強と言ってもいい。

 炎とは元来、マイナスとは違って、温度の上限が無い。

 その気になれば幾らでも、億でも兆でも上げていける。

 だからこそ、その圧倒的な火力でもって全てを溶かし、呑み込み、薙ぎ払う焔竜族は最強なのだ。


 魔族最強は竜種。

 竜種最強は焔竜族。

 最強の中の最強だ。

 吐息ブレスだけで言えば、冥竜族の方が上であるものの、総合力で言えば焔竜族に及ばない。

 もしもここに冥竜族がいたとしても、勝てるかどうかは厳しいだろう。

 序列二位の冥竜族と三位の雷竜族を合わせて、やっと互角と言った所。


 よって、アレがアルバであるなら、わたし達に勝ち目など億に一つも無いのだ。

 幾ら緋鬼族が頑強で膂力に優れていようと、基礎の次元が違ってしまえば意味はない。

 例え極位魔法を使ったとしても、一発程度ではせいぜいが翼を穿つ程度。

 巨躯に見合わない俊敏さも相まって、倒すなど夢のまた夢だ。

 否応なしに生存本能が掻き立てられる。

 独りでに身体は震え、顎も震えてカチカチと煩い。

 心臓が鼓動を速くし、呼吸は浅く乱れる。

 一刻も早く反転して、ここから逃げ出したいと焦りに駆られる。


「グ、グリムさん、にげ、逃げましょう。あ、あんなの、勝てません。勝てる、はずがない……」

 戦慄わななく唇で、掠れた声で、どもりながらも必死に訴える。

 だが、グリムはわたしと違って至極落ち着いた様子で、

「ふむ。確かに、貴女を抱えたままでは厳しいですね」

 とだけ返してきた。

 続けて、視線を頭上から左右へとキョロキョロ動かす。何かを探すみたいに。


「何して」

 言いかけた時、突然右前方にある山の陰から、鈍色をした小型の竜が姿を現した。

 小型と言っても、全長は優に10メートルを超える。

 さらなる新手か、と自然とわたしの身は固くなった。

 背には人影が二つあり、猛スピードでこちらへ突っ込んでくる。

「――――っ!!」

 距離があるせいで何を言っているか判別できないものの、聞いた事のある声だ。

「空竜騎兵……。間に合ったか」

 グリムは楽しげに呟くと、小型の竜へ向けてスピードを上げた。

 どうやら味方らしい。

 ほっと息を吐くが、頭上から来る焔竜はどんどんと大きさを増しているので、安堵するにはまだ早いと痛感する。


 あっという間に迫る飛竜。

 こちらと並走する為か、途中で飛竜は一度Uターンすると、思惑通りわたし達の横に並んだ。

 翼に煽られない為に、グリムは竜の頭部近くへ移動する。

 ここまで来れば、背に乗っている人物もすぐに判明した。


「お父様!八重様も、ご無事で何よりですわ!」


 列車内で別れたはずのイオナだ。

 飛竜の手綱を握っている、長い尻尾と猫耳の生えた薄蒼い髪の、黒い軍服を着た青年の後ろで、鞍を掴みつつ轟々と唸る風に負けないように声を張り上げている。

「父様!八重様を預かります!」

 紫色の瞳を持つ、耳に優しいハスキー声の青年がそう叫ぶと、グリムは素早く頷いた。

 またグリムの子供!?と言うか、預かるってこの状況でどうやって!?と驚くわたしに構わず、イオナが大きく腕を広げる。

「必ず受け止めますから!ご心配なさらず!」

 イオナがそう言うや否や、

「失礼」

 グリムは短く告げて、槍投げよろしく、わたしを彼女に向けて放り投げた。


「~~~~っ!?」


 あまりにも唐突な出来事に、わたしは悲鳴らしい悲鳴も上げられずに宙を舞う。

 刹那の間の後、わたしの身体に衝撃が襲った。

 イオナに抱き留められた証の衝撃だ。

 バックンバックンと、身体を突き破って飛んでいきそうなほど強く、心臓が鼓動を打っている。

「…………」

 生理的な涙が浮かび、冷や汗が首筋を伝っていく。

 手が震える。

 言葉も出ない。

 彼女に抱き着いたまま、動けない。

「八重様!八重様!お気を確かに!」

「ぅあ、は、はい……いき、生きてます……」

 イオナの言葉に、ようやくそれだけ返す。


「キーヤ、イオナ、任せたぞ」

「了解!」

「承知しましてよ!」

 静かなグリムの声と、威勢よく答える二人の声に、わたしはハッと視線を上げる。

「グリムさん!」

 振り返ってグリムを見れば、そこにあったのは相変わらずの余裕ある態度。

「では、また後ほど」

 緊張感の欠片も無い声色で言った途端、彼は急に風を止めてその場に留まった。


「キーヤお兄様!お早くっ!!」

「分かってる!しっかり掴まってろよ!」

 イオナのせっつく言葉に、キーヤと呼ばれた青年は鋭く返し、一度手綱を強く捌いた。

 パンッ!と痛そうな音が響き、叩かれた飛竜が「グアッ!」と鳴き声を上げる。

 ほぼ同時に、わたし達の身体はグンッと勢いよく後ろへ引かれた。

 飛行速度が上がった証拠だ。

 キーヤの背中とイオナの間に挟まれたわたしは、体勢の事情から後方を眺めるしかなかった。


 ぐんぐん遠ざかるグリム。

 わたし達を見送っていたグリムの顔が上を向く。

 そこに浮かぶ表情は、やはりふてぶてしく飄々としていて、危機感など微塵もない微笑しか浮かんでいなかった。

 そんなグリムに、上空からどんどん近付く焔竜。

 もう間もなく、吐息ブレスの範囲内に入るだろう。


「イオナさん!良いんですか!?」

 横を向いて思わず叫べば、イオナは大きく頷いた。

「お父様ならば問題ありませんわ!むしろ、一人の方が動きやすいんですの」

「でも!相手は竜種で、しかも焔竜族ですよ!?桁違いの相手にたった一人なんて!」

「大丈夫です!父様は最強ですから!」

 キーヤが振り返らずに叫んで答える。

「最強って……」

「それより何より、巻き込まれないようにしないと、下手したらこっちが死にますよ!」

「え?それってどういう……」

「父様から今回の作戦の話、聞いてないのか?!……ですか!?」


 よほど切羽詰まってるらしく、最後吹っ飛んだ敬語を言い直すキーヤ。

 敬語は初対面の相手に対する最低限の礼儀だけれど、今の状況じゃ、そんな細かい事気にしてられない。

 だからこそ、わたしも敬語をすっ飛ばした。


「作戦って、A案の事?!」

「そう!知ってんだったら察せ!」

「つまり!この展開も作戦の一部という事ですわ!」

 乱暴に言い捨てるキーヤとは違って、イオナが簡潔に教えてくれる。

「焔竜族との会敵が作戦の内!?」

「そうだっつってんだろ!しつけぇな!」

「キーヤお兄様!言葉遣いに気をつけて下さいまし!」


 半ば言い合いに近いやり取りをしている内に、グリムと焔竜族の姿は芥子けし粒程度の大きさになっていた。

 煌めく宝石の様な紫の瞳はもちろん、はためく外套も長い黒髪も、もはや全く判別出来ない。


「右折する!落ちんなよ!」

 直後、身体が急激に傾き、重力に強く引かれた。

 イオナが支えてくれなかったら、多分落ちてただろう。

 華奢そうに見えて、さすが軍人と言った所か。

 重心が全くブレていない。

 そうして瞬く間に、ひと際大きい岩山の陰に入ると、グリム達の姿は完璧に見えなくなった。


 と、次の瞬間。

 山の向こう側――つまり、グリムのいる方角が、赤く染まった。

 夕暮れよりもなお赤く、血よりもさらに禍々しい、鮮烈なあかに。


 何が、と思う間もなく、遅れてやってきた熱波が山を焦がし、溶かした。

 聳える巨大な岩山を盾にしていると言うのに、それでも襲ってくる灼熱の空気に、わたし達は晒される。

 炙られる肌どころか、喉の奥――気道や肺まで焼けそうで、痛い。

 目が乾く。

 上手く呼吸が出来ない。

 苦しい。

 辛い。

 痛い。

 気が遠くなる。

 わたしだけでなく、イオナの愛らしい顔も、苦しそうに歪んでいた。

 多分、飛竜を操っているキーヤも、同じ表情を浮かべている事だろう。

 「ギイッ」と、飛竜も辛そうな声を上げている。

 早くここから離脱したい。

 そう思いながらも、ふと頭の片隅に、とある名称が思い浮かんだ。


 焔灼吐息フレアブレス


 竜種焔竜族にしか使えない吐息ブレス

 当人の力量にも左右されるが、純火力で3000℃は下回らないと本に書かれていた。

 グリムのいた所からここまで、かなり離れているはず。

 だと言うのに、山が融解するほどのこの熱量。

 こんなものを真正面から食らっては、例え障壁レモラを何重に展開していようと無事では済まない。

 いわんや、グリムの安否など絶望的だ。

 いくらイオナ達のお墨付きがあろうと、到底信じられない。


 目の前が真っ暗になるような状況の中でも、現実と言うのは全く容赦がない。

 わたし達の頭上から、融けた岩と土が落ち始めたのだ。

 マグマの雨。

 そう形容するしかない、どろりとした赤い粘性を帯びた雫は、当たり所が悪ければ致命的なダメージを負わせるに足る。

 波でないだけまだマシだが、楽観できる状況でないのは言うまでもなく。

 ゴクリと、誰かの喉が鳴った。

 それはわたし自身かもしれないし、わたしを抱く腕に力を込めたイオナかもしれない。

 或いは、降り注ぐこれらを全て回避しなければならないキーヤのものかも。

 どれにせよ、パンッ!と再び手綱が鳴ったのは確かだし、キーヤがイオナに「障壁を張れ!」と命令したのも事実だ。

障壁レモラ!」


 言われた通り張られた障壁は、わたし達の頭上で傘の様に展開される。

 僅かに、障壁範囲内の気温が下がった。

 真球型の障壁であれば、もっと快適な温度になったと思うが、それだと耐久力が下がってしまう。

 降り始めたこの、身を溶かす土砂降りの赤い雨の中では、それでは不十分ダメだと判断し、かさ型を選択したんだろう。

 イオナの賢明な判断に、関心と感謝の念を抱いていると。


「八重様!魔法は使えまして?!」

 いきなり簡潔に訊ねられた。

 わたしは熱さのものではない理由で、顔を顰める。

「ごめんなさい!少し前に極位を撃ったばかりで、まだ魔力のチャージが出来てません!使えて治癒サナーレぐらいしか!」

「畏まりましたわ!では、振り落とされないよう、わたくしにしっかりとしがみついて下さいましね!」

 魔法が使えないと言ったわたしを責めることなく、イオナは手短にそれだけを言った。

 出来る事を出来る範囲で出来る限り。

 軍人らしい切り替えの早さだ。

 

 そこから先は、文字通り息つく間もなかった。

 薄氷の上を進む様な慎重さと大胆さで、吹き荒ぶ熱風の中キーヤは手綱を操り、捌き、縫う様にマグマの雨を掻い潜る。

 どれが先に落ちるのか、どこが刹那の安全地帯なのかを見極めるキーヤの判断力と動体視力の良さは、思わず舌を巻いてしまうほどだった。

 ひと際大きな塊が横を掠めて行った時はヒヤリとしたが、結局、障壁にぶつかったものなど、片手で数える程度の雫しかない。

 なんとか凌げるか、と安堵したのも束の間。

 さらに二波、三波と追加の吐息ブレスの余波が襲ってきた時は、さすがに叫んで悪態を吐きたい気持ちに駆られた。

 舌を噛むので言わなかったが。

 赤い死の空域から漸く離れ、元の薄茶色い風景に戻った時は、思わず泣き出したい気持ちになったぐらいだ。


 遠ざかる岩山を見る。

 わたし達が盾にした山は、当初の三分の一にまでその体積を減らしていた。

 言葉を失う光景。

 改めて、これでは……とグリムの生存を諦めた時。

 一筋の光が、地から天空に向かって伸びた。


 昼日中にも関わらず、鮮やかに目に飛び込んでくる閃光。

 真っ直ぐ、天を穿つ様に奔る、白よりもなお白い光輝に、目が離せなくなる。

 空を漂っていた何の罪もない薄い雲が、無惨にも貫かれて、弾けて消えた。

 遠くここから見るそれは、糸と言うには太く、剣と言うには細く長い。

 例えるならこれは、そう。


 ――――槍だ。


 少しして、雷鳴に似た音が、大きく轟いた。

 遅れて、空気が振動する衝撃波が届く。

 ビリビリと身の毛が逆立つほどの畏怖を味わいながら、そこで初めて気が付いた。

 あれは、極位級の雷系統の魔法だったのだろうと。

 そして、それを使ったのがグリムだと、なんとなく悟った。

 確証も根拠もない。

 でも、確信に近い予測。

 ストン、と胸に落ちる様な感覚が広がる。


「イオナさん。今の……」

 イオナがチラッと背後を振り返る。

「お父様ですわ。あの魔法を使えるのは、お父様だけですから。一度目が恐らく気を逸らす為。二度目が本命でしょう」

 わたしの問いにもなっていない問いに、イオナは親切にも察して答えてくれる。

 ちょっと得意げなのは、グリムの事を誇りに思い、慕っているが故だろう。

「矛先がこっちじゃなくて良かった」

 手綱を緩め、少しだけスピードを落としながら、キーヤが独り言のように零す。

「お父様に手抜かりはございませんわ!キーヤお兄様も、それはご存知でしょう?」

 丁寧にもわざわざ返したのは、当然ながらイオナだ。

「知ってるさ。知ってるけど、たま~に抜けてんのが父様だろ?」

「それは平時の話!私は、今みたいなここ一番の時の事を言ってるんですわ!」

「へーへー。そうですねぇ~。相変わらずのファザコン……」

 ビキッと、イオナの額に青筋が浮かぶ。

 表情はにこやかなだけに、凄味が増してて怖い。

「何か、仰いまして?キーヤお兄様」

「なんでもないでーす!」

 イオナの声が一段階低くなったので気付いたらしく、キーヤはパタパタと尻尾を揺らしながら慌てて言い返す。

 わたしを挟んで仲良く言い合う兄妹。

 多分、と言うか確実に母親が違うだろうに、へだたりが全く感じられない。

 親子だけでなく、兄妹間でも良い関係が築けているようだ。


 胸を撫で下ろせる雰囲気を噛み締めつつ、わたしはそんな事を思っていた。


 こうして、わたし達はグリムのおかげで危機を脱したのだった。








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