第43話 閑話Ⅱ デンジャラスジャーニー 前編


 ――――ペラ。


 そっとページめくる。

 これは生前、母がしたためた日記。

 読むのは随分と久しぶりだ。


 産後の肥立ちが悪く、物心ついた頃には亡くなっていた母。

 父はその前に居なくなっていた。

 幼い頃、両親の事を僅かでも知りたいと思って読んだのが、最後の記憶。


 ざっと文字を追って、やはりこれは、と思う。

 日記と言うより、小説に近いな、と。

 過去と現在が入り交じって、ごっちゃになったつたない文章。

 どうやら母に、あまり文才は無かったと見える。

 それでもこうやって書いたのは、多分後で見返して、こそっと楽しむ為だろう。

 母の、ちょっとした茶目っ気みたいなのを垣間見て、自然と口元が緩んだ。


 視線を横に移せば、チェストの上に置かれた母の写真が映った。

 優しく穏やかに微笑む母は、白に限りなく近い茶色のセミロングをハーフアップにして、桜をモチーフにしたべっ甲のバレッタで纏めている。

 目の色は柔らかい紅。

 額には緋鬼族の証である緋色の一角が、すらりと生えている。

 着ている服は、牡丹の如く豪華な桜が、袖下や裾付近に描かれた薄紅色の着物だ。

 母の外見は平凡だが、野花の様に楚々としたものも垣間見え、芯の強い逞しさみたいなものも窺えた。

 事実、姉から聞く母の話も、そんなものが多い。


 もし今も母が生きていたら、今の状況についてなんと言っただろう。

 なんて、益体やくたいのないことを考えながら、馴染みの薄い母の姿を暫く眺めた後、再び日記帳に視線を戻した。


 そうして、改めてじっくりと読み始める。


 父と母の、馴れ初めの話を。


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「特使だ。丁重に扱え」


 短くそう言った何でも屋……もとい特使護衛任務を請け負っていたグリムは、黒曜石の様な漆黒の長い髪を翻し、護衛対象であるわたしに背を向けて歩き出した。

 その肩へ、燃え盛る焔の如き赫い長髪の宰相が、長外套の様な夜色のマントを羽織らせる。

 そこに描かれていた柄を見て、わたしは息を呑んだ。


 中央にある球体。

 それを囲む様に、蝙蝠こうもりに似た黒い左翼と鳥の白い右翼が広がって、下部で交差している。


 それは魔皇国の紋章。

 これを背負うとなれば、その意味するところはただ一つ。

 グリム、と名乗ったかの人物は、このフィンヴル魔皇国の王――――国祖であり、わたし達の絶対的かつ至高の君主、イヴル・ツェペリオン陛下に他ならないのだ。


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 発端はひと月ほど前。

 夏のある日、魔王陛下に嫁ぐ事が決まっていた姉、かすみが、とある事を告げたのが始まりだった。


 それは、いつもと変わらない穏やかで平和な、しかし静かな夕飯時の事。

 紺色の着物を着た父が熱い茶をすすり、山吹色の着物を着た母がお吸い物の入ったお椀を手に取り、桜の刺繍が施された淡い紅色の着物を着たわたしが、お茶碗をテーブルに置いた時。

 薄青い布地に白い桜の描かれた着物を着た姉が、丁寧に箸を置いて、おもむろに口を開いた。


「私、他に好きな方が出来ました。すでに契りも交わしましたので、その方と添い遂げます」


 あまりにも唐突な爆弾発言に、父は飲んでいたお茶を盛大に噴き出した。

 霧吹きの様に舞う飛沫しぶきの向こう側で、母は手にしていたお椀を落とし、自分の下半身へ熱々のお吸い物を掛ける。

 わたしはと言えば、持っていた箸を落としただけ。

 カランッと硬い音を立てて、箸がお茶碗に当たった後テーブルへ転がる。

 栗皮色の短い髪を揺らして、せに噎せ返る父と、白茶しらちゃ色の髪を振り乱し、絶叫して部屋を出て行く母。

 そして固まるわたしに向かって、同じく白茶色の長い髪を赤珊瑚のかんざしで一つに纏めた姉は続けた。


「ですので、陛下にとつぐ事は出来ません」


 と。

 至極落ち着いた様子で、キッパリと断言した。

「んな、ぐふっ!な、なぁ……」

 どもる父に、姉はさらに冷静に続ける。

 その声色たるや氷の如しで、有無を言わせない強さに満ちていた。

「陛下には、先日その旨を書いた親書を出しました。今頃は王城に届いているでしょう」

「は……な……」

「代わりに八重やえを推挙しておきました。歳も私とは十ばかり離れただけ。今年で百を迎えますし、ちょうど良いかと」


「わ、わたし!?」

 急に向いた矛先に、わたしは当然驚く。

 姉は、さも当然とでも言うように、わたしへ向かって軽く頷いた。

「そう。貴女。好きな人もいないし、婚約の話も縁談の話も無い。現時点で完全なフリーなんでしょ?」

「そ、それは、そう……だけど」

「陛下は正妃を取らないお方。加えて、誰も愛す事はないと、大々的に公言しておられるお方だけど、待遇や扱いについて悪い噂を聞いた事は無いわ。ちょっと探りを入れてみても、パワハラもモラハラもDVも一切無し。倹約家だけれどケチではなく、外見はすこぶる良し。決して無理強いはせず、でも「子供が欲しい」と言えば協力してくれる。必要であれば乳母うばまで付けてくれるんだから、これ以上の方がいる?」

「で、でも……」

「他に好きな人が出来たなら離縁してもらえばいいのよ。二つ返事で別れてくれるって」

「なら、お姉ちゃんが」

「私はすでに心に決めた人がいるからダメ。あの人以外と結婚する気無し」

「え~……そんなぁ……」

「噂ではなく、実物の陛下を知りたいのであれば、面会してみるのも手よ?自分で出しておいてなんだけど、実際手紙だけじゃ一方的過ぎると思うし、こちらから説明に伺うのが筋ってものだもの」

「う~~~~っ」

「いいじゃない。妃妾ひしょうと言えど、きさきには違いないんだから」

「そういう問題じゃない!」

 なんてやり取りをしていると、突然耳をつんざく激しい打音が、場の空気を震わせた。

 カチャカチャとお茶碗類が小さく悲鳴を漏らす。


 見れば、額のつのと顔を真っ赤にした父が、テーブルに手を付いていた。

 瞳も、燃え滾っているかの様にメラメラと赤く、激情に吞まれている。

 どうやら、怒りに身を任せてテーブルを叩いたらしい。


 わたし達が属する、亜人種緋鬼ひき族と言うのは、額にある緋色の一角と頑強な肉体、素の状態でも発揮される圧倒的な膂力りょりょくが特徴だ。

 例え幼子おさなごであっても、大人の牛の首を容易にじ切れる。

 なので、かなり加減をしないと、家具やら食器やらがたちまち壊れてしまうのである。


 わたしは、何代目になるか分からないほど買い替えられたテーブルと、そこに置かれた食器と料理が破壊されなかった事に、内心安堵の息を吐いていた。

 知能も寿命も肉体も劣化した小鬼族や緑鬼族と比べればまだマシだが、それでも落ち目の緋鬼族に資産の余裕はない。

 それは、緋鬼族のおさである我が家と言えども変わらない訳で。せいぜいが一般家庭に毛の生えた程度。

 屋敷いえは立派でも内情は火の車。

 だからこそ、わたしが胸を撫で下ろしたのも当然なのである。


 そんなわたしの心の内を知らずに、父はまなじりを吊り上げて、怒りをそのまま声に乗せた。

「霞!!そんな我儘わがままが通ると思うのかっ!!」

 吹き飛ばされそうな怒号。

 厳しく名を呼ばれた姉は、それでも涼しい顔をしていた。

 ……いや、栗色の瞳に薄らと軽蔑の色が浮かんでいる。

「父様、貴方は、この落ちぶれた緋鬼族を再び盛り立てるのが目的なのですよね?畏れ多くも陛下を利用し、縁を結んで家名に箔をつける。ならば、私でなくとも良いのでは?と、そう申し上げているのです」

 ならわたしは良いのか?と、思わないでもないが、それは置いておく。

 むやみに口を出して、良い結果になった試しを、わたしは知らないからだ。

 姉の鉄の様に冷ややかで突き放した言い方に、見た目わたし達と変わらない年頃の父は、さらに顔を赤らませた。

「わ、儂が、お前の為を思って必死に組んだ縁談だぞ!?それを無下にすると言うのか!?」

「笑えない冗談はやめて下さい。私を言い訳だしにして、貴方が、貴方の野心の為に仕組んだ縁談でしょう?私は、生まれてからこれまで一度も、結婚相手の面倒を見てくれなどと言った覚えはありません」

「き、貴様っ!!親に向かって、よくもそんな口をっ!育てて貰った恩を忘れたかっ!!」


 ドゴンッ!!


 と、先ほど父が叩いた時よりも、重くて低い打音が響いた。

 姉が、グーでテーブルを叩いた……もとい殴った音だ。

 硬い樫の木で作られた厚いテーブルが、メシリッとへこんでいる。

 そこから、ビシビシとひびが縦に走った。

 ああ……また買い換えないと……。削るとしたら食費……かな。お母さんと相談しないと……。


 父と姉は、昔からすこぶる相性が悪い。

 これは、互いの性質が真逆だからではなく、むしろよく似ているが故だ。

 性質――――一度こうと決めたら、テコでも動かない。自分の納得しない事は絶対に受け入れない。

 要は頑固なのである。

 が強いと言うのも善し悪しだ。


 そんな事をしみじみ考えていると、姉は鋭く父を見据え、一段低くなった声で言った。

「親?育てたと仰いました?家では偉ぶって命令するだけ。怒鳴る事をしつけと勘違いし、外では私達や母様を下げる事でしか自分を上げる事が出来ない、器のちっさい方が親?私達がいなければ、炊事洗濯掃除、金銭管理と何も出来ない赤ん坊の様な方が親ですって??思い上がりもはなはだしい。笑わせないで下さい。聞いて呆れるわ」

「――――っ!!」

 あまりにも的確な物言い……いやさ本人にとっては激烈な暴言に、父は言葉を発する事も出来ずにパクパクと口を動かして、口角に泡を溜め始める。

 このまま頭の血管が切れて、脳出血で死ぬんじゃないかと若干心配になるが、姉はそう思わないようで。

「そも、たかだか種を植え付けた程度で、偉そうにしないで頂けます?そんなの、そこらの羽虫でも出来る事だわ」

 父に比べて冷静そうに見える姉だが、その実、かなり頭に血が昇っているらしい。

 躊躇うことなく、するりと蔑視発言を繰り出し、淡々と火に油を注いだ。

「きっ!きっきっきっ!きさっきさっ!!」

 バグった様に上手く言葉を吐けない父。

 実に滑稽な姿だが、ここで笑ったらこっちにまで飛び火する。

 わたしは努めて神妙な面持ちで俯いた。もちろん目も伏せる。

 逆に姉は鼻で笑っていた。

「絶縁いたしますか?構いませんよ?私は自分で稼げますし、好いた方となんの遠慮も無しに結婚出来ますから。むしろ、厄介極まりない貴方と縁が切れると思えば、これ以上胸のすく事もないでしょう。清々します」


 父は、盛大に息を吸い込んだ。

 そして。


「今っ!!すぐにっっ!!出て行けええぇぇぇぇええぇぇっっっっ!!!!」


 屋敷いえが倒壊するんじゃないかと言う声量で怒鳴ったのだった。


 それから僅か一時間後。

 まるで、最初からこうなる事を見越していたように、手早く荷物を纏めた姉は、引き止める母を振り切って家を出た。


 魔皇国の首都であるカロンとは違って、辺境一歩手前の山間にあるこの緋鬼村はとても素朴だ。

灯篭あかりは置かれてあるものの、道は舗装されておらず、木造の家屋は点々と広い間隔で並んでいる。

 冬になると豪雪地帯で知られる場所でもある為、家々は全て鋭い三角屋根だ。

 言うに及ばず、我が家もこんな感じ。

 雪崩や吹雪、土砂崩れ等の災害に備えて、村全体を覆うほどの結界魔法が込められた、大きな晶柱が村の中心にそびえているのも、特徴と言えば特徴か。

 遥か昔には、火砕流やマグマから村を守った事もある、由緒ある結界柱だ。

 その山も、今や死火山。噴火の危険も無くなった現在では、雪害を防ぐ目的が大半を占めている。

 そんな環境であるが故に、真夏の昼日中であろうと気温は10℃を超えない。

 それが深夜であれば尚更だ。

 何か防寒具でもないと寒くて仕方がない。

 わたしは赤く厚い羽織りを着て、大きな風呂敷を担ぎ、藍色の羽織りを身に纏った姉を、村の入口まで送っていた。


「お姉ちゃん、本当にいいの?こんな形で……」

 恐らくは、もう二度と家に戻って来ることのない姉。

 今までずっと一緒に暮らし、共に成長してきたのだ。寂しくなるなと言うのが無理な話。

 わたしの言葉に滲んだ寂しさものを感じ取ったのだろう。姉は、反対に気遣わしげに微笑んだ。

「いいの。父さんとはりも合わなかったしね。……でも、八重には申し訳ないと思ってるわ」

 誰もいない静かな道を歩きながら、姉はそう言った。


 通り過ぎる明かりの灯った灯篭を横目に、つい目をしばたたかせてしまう。

「……わたし?」

「ええ。結局、私の尻拭いをさせてしまう結果になってしまったから……」

 尻拭い……多分、結婚の事。

 相手はこの国の王様だと言うのに、さすがにその言いざまはどうなの?と、思わず吹き出す。

「いいよ。冷静に考えたら、お姉ちゃんの言う通り、確かに悪い話じゃないし。わたしも家を出たいと思ってたから」

「あら、八重も?」

「うん。お父さんの矜持プライドも、言ってる事も考えも一応は分かるんだけど、押し付けてくるのがどうにも窮屈で……。お母さん、どこが良くって結婚したんだろ」

「恋愛結婚って聞いたから、惚れた弱みって奴じゃない?知らないけど」

「お姉ちゃんが言うと実感ある~」

「失礼ね。私はちゃんと吟味して見極めました~」

 朗らかな笑い声を上げながら、そのままわたしと姉は他愛ない会話をする。

 お互いに、湿っぽくなるのは性に合わない。


 そうして村の入口が見え始めた時。

 そこに、一つの人影が見えた。

 誰だろう?と思っていると、姉が聞いた事のない弾んだ声を上げた。


「朔彦さん!」


 嬉しそうに破顔して、小走りに駆け寄る姉を、朔彦と呼ばれた男が出迎える。

 明るい色の髪と目。朴訥ぼくとつとした印象を受ける穏和な顔立ちの男。

 その額にある黒い二本の角。

 黒鬼こっき族だ。

 黒鬼族は緋鬼族と比べて膂力に負けるが、その分頭の巡りが良く、魔力操作に長けている。

 おかげで文官として王城に勤める者も多く、未だ隆盛を保ったままの一族だ。


 顔を赤らめて、楽しそうに彼と会話する姉を見て、そこはかとない疎外感に襲われる。

 百年、共に暮らしてきた姉の、見たことのない姿。

 嫉妬でも羨望せんぼうでもない。

 ただ、なんとなく居心地が悪い。

 未だ初恋すら知らないわたしに、姉のたかぶる気持ちなんて分かろうはずもない。

 そんな感情が重くのしかかってきたせいか、わたしの顔は自然と下を向いた。

(……帰ろっかな……)

 そっと吐いたため息は、冷たい夜風に流されて消える。


 すると、沈鬱そうなわたしの様子に気がついたのだろう。

 姉が踵を返して戻ってきた。

 茶色いブーツが暗い土の道を鳴らし、わたしの前で止まる。

 折角の新しい門出だ。明るく振る舞わなければ。

 わたしは、明るい笑みを無理やり張り付けた顔を上げる。


 瞬間。

 ガバッ!と勢いよく抱き着かれた。

 あまりの勢いに、片足が一歩後ろに下がる。

 困惑して目を見張り、両手を挙げていると、不意に肩がじんわりと温かくなった。

 視線の先には、微笑ましげに苦笑する〝朔彦さん″の姿。

「お、お姉ちゃん?」

 そっと目線を下ろしながら、なんとかそれだけ呼びかければ、姉は鼻をすすりつつゆっくりと身体を離した。

 酷い泣き顔が、わたしの目に映る。

 声を上げて泣きたいのを我慢している五歳児の様な顔面だ。

 そんな、べしゃっとなった泣き顔のまま、姉は震える唇を開く。

「八重……元気でね……」

 唇と同じく震える声に、ツン、と鼻の奥が痛くなった。

 ジン、と目頭が熱くなる。

 間違いなく貰い泣きだ。

「うん……。お姉ちゃんもね」


 短く、それだけ。

 それ以上は何も言わなかった。いや、言えなかった。

 そこから先の言葉は、未練一色に染まっていたから。

 黒鬼族は攻撃でもされない限り、穏和でふところの深い一族だ。

 きっと、緋鬼族の姉でも受け入れてくれる。

 魔族は母体となる者の形質を引き継ぐ特性があるから、産まれてくる子供も緋鬼族になるのだろうが、きっとそれも大丈夫。大丈夫に違いない。


 黒鬼族の村は、緋鬼族の村ここから二つ山を越えた向こう側にある。

 行けない距離じゃない。

 会おうと思えば会いに行ける。

 今生の別れじゃない。


 そうやって、わたしは強引に感情を押し込めると、姉の前途が明るいものであるよう祈って、顔に笑みを浮かべた。

 引き攣った、泣き笑いの酷い表情だったろうが、姉も似たような顔だったので、おあいこだ。


 こうして、わたしと姉は名残りを惜しみつつ別れたのだった。


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 次に話が動いたのは、姉が家を出て半月ほど経った日の事。

 空が嫌味なほど晴れ渡った、冷たい風の日だった。


 その日の昼、わたしはご飯が炊き上げるのを待つ間、外の空気を吸いに庭先に出ていた。

 庭先というか、まあほぼほぼ玄関先。

 火元から目を離すのは危険な事だと分かっていたが、どうしても胸中に渦巻く鬱屈としたものを吐き出したかった訳で。

 要は疲れていたのだ。

 例え王と言えど、名前と実績以外何も知らない人の元へと嫁ぐ事が半ば決まっているのだから、当然だと思って欲しい。


 魔王陛下は、大きなもよおし物や礼典祭典の時以外は滅多に顔出しをせず、城から離れないお方だ。

 城の外に出なくとも、魔皇国の全てがお分かりになられるとか、単に執務が忙しくて出られないだけだとか、様々な憶測が飛んでいるものの、結論としては一切不明。

 ただ、写真や絵画の類いも一切出回らない為、そのご尊顔を拝するのは本当に限られた機会しかない、と言うのは確かである。

 年末年始に魔都へおもむき、一年の結果と一年の予定を報告しに行く父と、後継ぎであった姉ならば、陛下のお顔や容姿を知っているが、正直わたしは生まれてからほとんど村を出たことがない。

 魔都へ行った事も、ただの一度も無い。少なくとも、わたしの記憶には見当たらない。

 なので、魔王陛下が一体どんな方なのか、不安になるなと言うのが無理な話なのである。


 姉の件の後、父は今回の事を改めて報告する為、魔都カロンにある王城へと上っている。

 母も、その付き添いでいない。

 二人が家を離れて、すでに一週間が過ぎていた。

 緋鬼族の村ここから魔都まで、大陸横断鉄道を使っても、往復で約二週間はかかる。

 距離をかんがみて、予定通りならそろそろ帰途につく頃合いだろう。

 続く白い稜線を見上げ、ふっと息を吐くと、白く色付いた空気がたなびいて消えた。

 空の高い所で、とんびだかたかだかが飛んでいる。

 悠々と広い天空を泳ぐ鳥に、まあまあ強めの羨望を抱いていると、ふと誰かの声が耳に届いた。

 数は二つ。

 男と少女の声。

 そちらへ目を向ければ、重い足取りでこちらに向かって来る二人が映った。

 思わず、わたしは息を呑んだ。


「ひ、ひもじい~……」


 消え入りそうな声で呟く男は、美形揃いと言われる竜種の半人形態を遥かに凌駕するほど美しかった。

 猫の様に背を丸め、げっそりとしているにも関わらず、それは一切翳りを見せていない。

 パッと見、女と見間違ってしまうぐらい無性的だ。

 うるしを落とし込んだような、傷みの一切ない黒く艶やかなサラサラの髪は腰まであり、下の方で結っている。

 猫の眼と同じ尖った瞳孔の紫水晶アメジスト色の瞳は、今は虚ろに地面を辿っていた。

 ピンと尖った両耳には、シンプルな金色のイヤーカフスを着けており、紫色の宝石が嵌まった細長い棒状の金飾りが下がっている。

 すらりと伸びた長い手足と言い、全体的に細い身体つきをしているが、華奢きゃしゃという事はなく、弱々しい印象は受けない。

 細マッチョ……と言うんだろうか?絶妙に均整の取れた肉体からだだ。

 陶器の如く白く滑らかな肌には、傷も日焼けの跡もなく、それだけで良い所の出なのだろうと察せた。

 黒いシャツの上から、黒い長袖の長い外套ロングコートを着、黒いズボンと膝下から先は黒い軍用靴ミリタリーブーツを履いている。

 腰にはベルト代わりに黒い剣帯を締め、後ろ腰に銀色の短剣を横向きに差してあるのが見えた。


「お父様。ですからわたくし、もう少しお金をお持ちした方がと言いましたのに」


 男の一歩後ろを行く若干呆れ気味の少女は、どうやら彼の娘らしい。

 白銀色の短い髪は、両サイドだけ長い独特な髪型をしている。

 その頭部に立つピンとした獣耳は……狼の耳だろうか?腰の少し下辺りからも、フサフサとした白銀の尻尾が生えている。

 男のものより若干薄めな藤色の瞳は大きく、くりくりとしていて可愛い。

 まだあどけなさの残る顔立ちをしているが、魔族は見た目で判断出来ない。

 身体の全盛期が十代中頃なら、そこで止まってしまうのが魔族だからだ。

 彼女も、もしかしたらわたしより年上なのかもしれない。

 ほぼ絶壁の胸……もといつつましい華奢な身体には、ピッタリとした黒い長袖のジャケットと、黒いショートパンツにショートブーツを履いている。

 寒くないのだろうかと、薄ら疑問に思うがそれはともかく。

 右大腿に巻いた黒いレッグホルスターには、短剣ダガーが装備されていた。


 男が苦しそうな呻き声を上げる。

「うぅ……まさか、物価があんなに上がってるとは思わなかった……」

「今年は春が来るのが遅かったんですもの。作物の実りに影響が出るのは当然ですわ」

 少女のセリフに、男は反論するだけの気力もないようで、代わりに苦渋の色をその美貌に浮かべた。


 きゅう……っと男の腹が鳴る。

 少女の獣耳みみがピクリと反応し、憐れみに満ちた表情を男に向けた。

わたくしにはもう少し余裕がありますから、お貸しいたしましょうか?」

 同情過多な申し出に、男は力なく首を振る。

「いい……。子供に金を借りるなんて、情けなくて泣きそうになる」

「そう気を使わないで下さいまし。大丈夫ですわ。きっちり利子は頂きますから」

「……ちなみに利率は?」

「一日二割」

 サラッと言った少女に、男が顔をガバッと上げて振り返った。

「暴利過ぎるだろっ!!」

 うん。暴利だ。そこは月で換算すべきである。

 などと、わたしも心の中で男のセリフに賛同していると、少女は困った様に頬に手を当てた。

 白魚の様に細く綺麗な指に、素直な羨ましさを覚える。

「そう仰られましても……。『人に金を貸したならこれぐらい取れ』と、お母様が……」

「あのアマ……ろくでもない事を吹き込みやがって……」

 地の底から響いてくるような低い声で呟いた男は、自分達を見つめてくるわたしに気が付いたのか、はたと顔色をリセットした。

 わたしの存在を少女も認識したようで、小さく会釈えしゃくされる。

 それに、わたしも腰を折って返していると、男が短く咳払いをして、背筋を伸ばした。

 そして、幾分早くなった足取りで近寄ってくる。


「すいません。ちょっと探している方がいるのですが、お聞きしても?」

 間近で見ると、本当に迫力のある美形だ。

 ここまでの美貌を見たことのないわたしは、そんな気も無いのに、つい鼓動を速めた。

 紫電の瞳が、本当に綺麗だ。

「さ、探している方、ですか?」

 つっかえる言葉で、それでも頑張って聞き返すと、男はゆっくりと頷く。

「はい。緋鬼族族長のご令嬢で、〝桜葉さくらば八重やえ″様と仰るのですが」


「え……」

 思考が止まる。

 不意に出てきた自分の名前が予想外過ぎて、思考が追いつかない。

「?何か?」

 目を丸くするわたしに、男が首を傾げる。

 男の一歩後ろで控える少女も、ならうように胡乱げだ。

「あ、す、すみません。えっと、桜葉八重はわたしです……」

 遅れてやってきた現実感に戸惑いながら、やっとそれだけ返すと、

「え゛っ…………」

 今度は男の方が固まった。

 岩の様に微動だにしない男。

 意味が分からなさ過ぎて、どうしたらいいのか困惑してしまう。


 そうこうしていると、業を煮やしたらしい少女が口を開いた。

「失礼いたしましたわ。私はイオナ。このお方は」

「っとぉ!俺はグリムです!八重様の護衛を頼まれました!!」

 突然、男――――グリムは、イオナの言葉の途中で無理やり割り込んで、そう告げた。

「お父様!?」

 当然驚くイオナを、引き攣った笑顔のグリムが背に隠す。

 イオナ……彼女の名を、どこかで聞いた気がするけれど、思い出せない。

 多分、わたしとあまり関係がないから覚えなかったんだろう。

 むしろ、重要なのはそっちじゃない。

「護衛……って、どういう事ですか?」

 そう。そっちだ。

 護衛。何故?

 頼まれた。誰に?

 この二つの疑問を込めて訊ねると、グリムは、

「申し訳ありません。内々の話ですので、ここでするのは……」

 苦笑気味に、そう言ったのだった。


 結果、移動したのは我が家の中。

 お手伝いさんなんてものを雇う余裕はないので、今この家にいるのはわたし一人。

 人気ひとけも無く寂しい家は、それでも族長の家と言うだけあって、平屋であっても無駄にだだっ広い。

 客間なんて五つもある。

 昔――先代の頃はよく人を呼んでいたが、今は一年に一度あるかないか。

 正直、掃除するのも手間なので、邪魔な存在になっている。


 時刻が昼時だった事もあって、家の中には炊けるご飯の良い匂いが漂っていた。

 本日のメニューは、以前狩った氷猪の肉が余っていたので、それを使った丼物にする予定。

 あとは、昨日の残りの味噌汁と、ちょっとした漬物ぐらいか。

 わたしもお腹空いたし、手短に話が終わるといいんだけど……。

 そう思いながら、厨房を通り過ぎ応接室に案内しようとした瞬間、ひと際大きい腹の虫が鳴った。

 廊下いっぱいに響き渡る音に驚いて振り返れば、食い入るように厨房を凝視しているグリムの姿が目に入る。

 彼の後ろを行くイオナは、嘆かわしいとばかりに、そっと目を伏せて悲しそうにしていた。


 ぐぎゅ……きゅうぅ~……


 再度の空腹を訴える音は、思った通りグリムから発せられた。

 見ていられないと、イオナの目が閉じられる。

 事ここに至っては、無視するのも厳しい。と言うか、心苦しい。

 わたしは滲みそうになる憐れみを必死に隠して、口を開いた。


「……あの、もしよろしければ、お昼をご一緒しませんか?」

「えっ!良いんですかっ!?」

 パアッと輝く端正な顔。

「はい。わたしの作るつたないものですが、それでもよろしければ……」

 おずおずと申告すれば、グリムは満面の笑みを浮かべて、大きく二度頷いた。

「喜んでっ!!」

 その姿に、子供みたいな人だな、と思わずわたしの顔もほころぶ。


 すると、ふとイオナが訝しげな視線をわたしに向けているのが見えた。

 だからまあ、見えてしまったからには、聞くのが礼儀と言うもので。

「えっと、何か?」

「ああ、いえ。ごめんあそばせ。少し疑問が湧いてしまったもので……」

「疑問、ですか?」

「……失礼を承知で訊ねますが、この屋敷に使用人はおりませんの?ここへ足を踏み入れてから、貴女以外お見かけしませんし、ご飯の件も……。族長の家、ですわよね?」

 少しだけ言い難そうに聞いてくるイオナに、わたしは頷いて返した。

 彼女の言葉の裏に、悪意やあざけりの類いが見えなかったのが、素直に肯定出来た理由だ。

「ええ。お手伝いさんはおりません。緋鬼族は、今はそれほど裕福ではないので」

「だからと言って、誰も雇えないと言うのは……」

「先代ならば兎も角、父に商才はありませんから」

 そんなつもりはなかったが、結果的に突き放すような言い方になってしまったのを、若干後悔する。


 魔皇国では、必要最低限のインフラ整備や結界柱の設置、医院の開設運営に魔獣討伐等、大掛かりなものは全て国がやってくれる。

 しかし、それ以外の細々とした事は、月に一度、族長に支給される補助金でやり繰りする事になっており、ある程度は族長の裁量で好きに使えた。

 が、実はこれが厄介なもので。

 馬鹿……もとい才能の無い者にお金を渡した所で、碌な使い方はされないのである。

 いわんや、父がそう。

 浪費はすれども増やせず。

 今は先代の遺産を食い潰し、これまで行ってきた習慣に倣って、狩猟や林業で食い繋いでいるが、いつまで続くやら。

 反対に、姉が嫁いで行った黒鬼族は立派だ。

 元々所有していた鉱山から鉱石を採掘し、それを売りつつも、独自の手法で細工して、付加価値を足した上で町へ卸している。

 だけでなく、地質や地形等を計算して、新たな鉱脈を見つける事もままあった。

 得たお金はしっかりと村に還元しているので、あちらは次代以降も安泰だろう。

 せめて、父が他人の意見を聞いて飲み込む人であったなら、もう少し状況は違っていたはずだが……まあ、所詮は無いものねだり。

 これ以上は惨めになるから考えないけれど。


「あ、ごめんなさい。言い方が少しきつくなってしまいました」

 なんとも言えない表情で口を閉ざしたイオナへ、半ば反射的に謝ると、彼女はゆるりと優雅に首を振った。

「いえ、私もいささか不躾に過ぎましたわ。忘れて下さいまし」

 わたし達のやり取りを聞いていたはずのグリムは、他家の内情などこれっぽっちも興味無いらしく、我関せずと無表情のまま聞き流していた。

 そうして、若干悪くなった空気のまま、わたし達は応接室へと再び歩を進めた。


 厨房を通り過ぎた廊下の突き当りが、くだんの応接室だ。

 全体的に和モダンで統一された我が家は、当然ながら応接室もそれに該当する。

 焦げ茶色のフローリングに、天井から下がる細長いランプ、黒いローテーブルと三人掛け用の濃い緑のソファが二つ。

 障子の張られた丸い格子窓からは、優しい色合いの陽光が差していた。


「どうぞ、座って下さい」

 二人に窓側の席を勧め、座ったのを確認すると、わたしもソファに腰を下ろす。

「それで、お話と言うのは?」

 ようやく本題に踏み込めたわたしの声色は、緊張で軽く張り詰めていた。

 最初に口を開いたのは、居住まいを正したグリム。

 先ほどまで、お腹をきゅうきゅう鳴らしていたとは思えない、神妙な態度をしている。


「単刀直入に言いましょう。我々は貴女の意思を伺いに来ました」


「は……い?い、意思?」

 前後の脈絡が無さ過ぎて、意味不明だ。

「お父様、性急に過ぎますわ。まずは順序立ててお話しませんと」

 イオナがたしなめると、グリムは一瞬視線を斜め上に向けた。

「あ~っと、そうだな。失礼。八重さん、我々は王城から来たのです」

「王城って……カロンにある?陛下の住まう?」

 グリムは首肯して続ける。

「そうです。先日、城に〝桜葉霞″の名で親書が届きましてね。そこには、自分には既に夫婦の契りを交わした相手がいるから、今回の結婚の話は無かったことにしてくれ、と書かれていました」

 そこまで言われて思い出した。

 そう言えば、確かにあの夜、姉は王城に親書を出したと言っていた。

「そして、自分の代わりに、妹の〝八重″を推挙するとも書かれていましてね。こちらとしても、「そうですか、ではその方と」と二つ返事は出来ない訳でして。まずは八重さんの意思確認に来た次第です」

「えっと……?」

 そうは言っても、自分に拒否権はないはずだ。

 何せ、緋鬼族の存亡が関わっている。

 見栄っ張りな父の意見に同調するのは癪に障るが、それでも王家と縁を結んで緋鬼族に箔を付け、村を盛り立てようとする気持ちは理解できる。

 だからわたしは、首を傾げて困る事しか出来なかった。

「他に好いた方や、嫁ぐ意思が無い……つまり、嫌なら拒否してくれても構わない、という事です。王の言質も取ってありますので、正直な所をお聞かせ下さい」

 真っ直ぐ、わたしを見つめる紫電の瞳。

 嘘は許さないとばかりの鋭い視線に、自然と背筋が伸びた。

 真剣に聞いているのだ。わたしも真剣に返さなければ。


「魔王陛下の元へ嫁ぐ事に、わたしは異論ありません」


「ええ、ええ。そうでしょう。そうでしょう。嫌でしょう。道具の様に将来を決められ、知らない者に嫁ぐなど、普通嫌に決まって……ええっ!?」

 したり顔で頷いていたかと思えば、何故か驚いて絶句するグリム。

 なんだろう。まるで、拒否して欲しかったみたいな態度だ。解せぬ。

「えっと……あの、いいんですよ?親の顔を立てるとか、王への不敬がどうのとか、そういうのは度外視して……」

「はい。ですから、構いません。今回の話は、わたしにも緋鬼族にもメリットのある事ですから。拒否するいわれもありませんので」

「その、本当に分かっておいでで?夫婦になるという事は、つまり、もしかしたら事もするんですよ?」

 顔面真っ青にして言うグリムに、言わんとしている内容を理解したわたしは、こくりと頷く。

「よく存じていますよ?むしろ緋鬼族の数はかなり減っていますから、望む所です」

「……子供を望む、と?」

「はい」

「……王は、誰であろうと愛さないと明言されている方です。愛の無い家庭になるのは明々白々ですよ?それでも、ですか?」


 さっきから本当に何?

 何故こんなに否定的なの?

 疑問と混乱と、拒否させる為のあからさまな誘導に、思わずムッとしてしまう。

 王城からの使者とはいえ、いくらなんでも失礼過ぎる。


 そんな気持ちが自然と声に乗ってしまい、

「はい。別に愛が欲しくて結婚する訳ではないので」

 刺々しく断言してしまった。

 同時に、少しだけ焦る。

 発した言葉に嘘偽りはないが、ちょっと言い過ぎたかもしれない。

 内心、冷や汗が滲む。

 しかし、そんなわたしの心配をよそに、

「え、えぇ~~……」

 そんなぁ……と、グリムはため息を吐いて俯き、盛大に肩を落とした。

 わたしの口調を咎める気配は皆無だ。

 グリムの隣に座るイオナも、気にした様子は無い。

 二人に気付かれないように、ほっと胸を撫で下ろしていると、真っ白く燃え尽きて微動だにしなくなったグリムの代わりに、イオナが口を開いた。


「そうなりますと、貴女を早急に城までお連れする事になりますわ」

「早急にって、そんなすぐにですか?何か理由でも?」

「え、ええ。それはまあ……色々とあるのですけれど……」

 どうにも煮え切らない返事。

 彼女の視線は、相変わらずしょんぼりとしているグリムへ向かっている。

「お父様、お父様!しゃんとして下さいまし!」

 肘でツンツンと父を小突く娘。

「……ほっといてくれ……。俺は今、自分の身に降りかかる女難に打ちひしがれてるんだ……」

 消え入りそうな声で、視線を上げる事なくボソボソと答えるグリム。

「もう!またそんな事を言って!後ろから刺されますわよ!」

「勝手に存分に刺してくれ……」

「お父様!」

 なんかよく分からないが、本当にうちとは違って仲の良い親子だ。

 ちょっとだけ、本当にちょっとだけ羨ましい気持ちが芽生える。


 言い合う事暫し。

 やがて、グリムは大きく息を吐くと、沈んでいた顔をわたしに向けた。

「今、王の周りは少し慌ただしくてですね、貴女にも危害が及びそうなので、こうして我々が護衛を兼ねてお迎えに上がった次第なんです。まあ、大々的に動くわけにはいかないので、名目上、貴女は〝特使″と言う扱いで城に来て頂きますが」

「?はあ……」

 それと自分に一体なんの関係が?と、首を捻ってしまう。

 すると、わたしの態度から察したらしく、グリムは居住まいを正して、一度咳払いをした。

「他言はしないで頂きたいのですが、簡潔に言って、開国タカ派勢力による王位簒奪さんだつ計画が進んでいるのです」


「は――――っ!?」

 瞬間、あまりの衝撃に息が詰まった。

 王位の簒奪はつまり、言い換えるなら陛下を弑逆しいぎゃくする事と同義。

 開国派は、現状鎖国を続ける魔皇国を開き、他国……人間の国と積極的に関りを築こうとする者達の総称だが、まさかそんな大それた事を考えていたなんて。

 民が弾圧され、理不尽な目に遭い、対価に見合わない重い税と苦役が強いられているならまだしも、この魔皇国にその翳りは無い。

 どころか、魔皇国フィンヴル成立以来、そのような圧政があった事もない。

 国外に出るのも特に禁止はされておらず、自由だ。ただ戻る事が叶わないだけであって。

 去る者追わずな陛下の主義が、よく現れている。

 故に、暗君でも暴君でもない、賢帝と言える不滅の陛下が統治する魔皇国は、無理に開国する必要もないのだ。

 メリットとデメリットを比較して、鎖国いまの状態の方が有益だと判断されたのだろうから。

 出て行きたい、人間と関わりたいのなら、個人で勝手に好きにすればいいのである。

 だからか、過激タカ穏健ハト派を問わず、開国派とそれを指示する者はかなり少ない。

 細々とし過ぎて、わたしも今の今まで忘れていたほどだ。

 絶句するわたしに、目の前のグリムはやんわりと首を振った。

「ああ、ご心配なく。開国タカ派――アルバは、お世辞にも大きい勢力とは言えませんし、簒奪計画自体も今までに何千回と繰り返されてきた行為です。特に珍しくもありません」

「え、で、でも!」

「王自ら退位、禅譲すると言うのなら話は別ですが、そうでないなら、彼らが簒奪を成功させるのはかなり厳しい。成功確率はゼロと言ってもいい……とまあ、ここら辺は関係ないので置いておきましょう。問題は、その攻撃の矛先が貴女に向いている事です」

「わ、わたし?」

「貴女の父君が、方々ほうぼうで自分の娘が王に嫁ぐと吹聴しましてね。そのせいで、貴女を人質に取って王に退位を迫る、なんて計画が進んでいるようなのです」


 うわっ……。

 と、自分の顔が急激に渋くなるのを自覚する。

 ついでに、頭を思い切り殴られたような、ぐわんとした目眩にも襲われる。

 よもや、父の軽率な行動のせいで、わたしだけでなく陛下にまで迷惑が及ぶなんて。

 我が父ながら、馬鹿だ阿呆だと心の片隅で思っていたが、本当に大概にして欲しい。

 想像の中で父の頭を叩き潰しつつ、わたしは深くこうべを垂れた。


「大変なご迷惑、またお手間をおかけしまして、誠に申し訳ございません。この様な事態になってしまい、どう責任を取れば良いか……」

「いえ、そこは気にしないで下さい。さっきも言った通り、別段特別な事でもないので。ただまあ、そんな訳でして、貴女が緋鬼村に留まったままだと危険なのです。アルバが今すぐ貴女を襲う気配はありませんが、万が一という事も考えられますので、今回の話に至りました。ご納得頂けましたでしょうか?」

「はい」

「では、わたくし達と共に、〝特使″として王城へ登って下さいますの?」

 イオナの問いに、わたしは首肯する。

「是非もありません。よろしくお願いします。ですが、その前に一つだけ質問を」

 これは、彼等から用件を聞いてすぐに抱いた、素朴だが無視出来ない疑問だ。

 キョトンと、グリムは娘と顔を見合わせる。

「我々に答えられる事であれば、なんなりと」

「あなた方についてです」

「……と、申しますと?」


 すっと、わたしは息を吸い込む。

 訊ねたい内容を纏める為と、冷静さを保つ為、そして覚悟を決める為に。

「気分を悪くされたのならごめんなさい。先に謝っておきます。あなた方は陛下……王城からの使者。そのように聞きましたが、その証をお示しいただけますか?……あなた方が、開国派アルバでないという証明をして下さい」

 途端すっと、イオナの目が不快そうにすがめられる。

「もしも私達が開国派であったのなら、アルバの話などいたしませんわ。それが証明になりませんの?」

「疑われない為に、えて話した可能性もあります。それに、先ほどのグリムさんからは、陛下を軽視しているかのような発言が見受けられました。開国派であるなら、この言動にも辻褄つじつまが合います」

 イオナの全身から殺気が滲む。

 ゆらりと立ち昇ったソレは、矢の如く鋭くわたしに突き刺さった。

 気圧され、息を呑んでしまうほどの気迫だが、負けるわけにはいかない。

 わたしは視線を外さず、真っ向から受けた。

 彼女の眼差しが、さらに鋭くなる。

「貴女、不敬ですわよ。お父様は」

「イオナ落ち着け。やめろ」


 静かに待ったをかけたのは、疑いをかけられた張本人――グリムだった。

「ですがお父様っ!!」

「やめろ、と言っている。聞こえなかったか?」

 一段階低くなった声色で、薄くイオナを睨みながら言う。

 ゾワッと、息を呑むのではなく、息が出来なくなるほどの気配に、否応なしに身の毛が逆立った。

 じわりと冷や汗も滲む。

 少し前に抱いた子供っぽい印象はなりを潜め、今は反対に、老練な威厳を漂わせていた。

 直接向けられた訳でないわたしですらこうなのだ。向けられた側はひとたまりもないだろう。

「っ!も、申し訳ございません。出過ぎた真似をいたしました。お許し下さい……」

 イオナは顔色を悪くして、平伏でもしそうな勢いでグリムに深々と頭を下げた。


 ふっと、空気が弛緩する。

 彼の視線が、わたしに向けられた。

 背筋が勝手に伸びる。

「失礼。お見苦しい姿をさらしました」

 軽く頭を下げて謝るグリムの姿に、わたしは思い切り首を振った。

「い、いえ。お気になさらず……」

 全力で走る鼓動と共に、なんとか絞り出した言葉は、硬く張り詰めていた。

 そんなわたしの気も知らず、グリムは元の穏やかな雰囲気で首を傾げる。

「で、なんでしたっけ?……ああ、我々が真実城からの使者であるか、でしたね。イオナ、アレを」

「アレ?」

 身を起こしたイオナが、今度は首を捻った。

 漠然とし過ぎて、さっぱり分からないようだ。

「城を出る前に渡されただろう?お前の新しい身分証明書」

 途端、ポンッと手でも叩きそうな勢いで、彼女の顔が晴れた。

「ああ!アレですわね!もう、それならそうとハッキリ言って下さらないと。え~っと、確かここに入れたはず……」

 言いながら、イオナは胸元まで閉められたファスナーを下ろし、ゴソゴソと内ポケットを探り始める。


 ジャケットの下はカーキ色のキャミソールだった。

 露出しても色気の無い慎ましい身体つきなのはさて置き、上着に隠れて見えなかったが、彼女は首からボールチェーンに繋がれた四角いドッグタグを着けていた。

 タグには何やら彫り込まれているが、ここからだとよく見えない。

 多分、数字……だと思う。

 そうしてタグを見ていると、すぐに目的の物を発見したらしく、得意満面でソレを取り出した。

「こちらをご覧下さいませ」

 ずいっと突き出される手帳型の身分証明書。

 受け取り、まじまじと眺める。

 そこに書かれていた文言は実にシンプルだった。


 魔皇国陸軍

 第七特務小隊所属

 イオナ

 階級少尉

 個体識別番号11572369-8


 手帳の隣のページには彼女の顔写真。

 文字の下には魔皇国の国章が薄く描かれてある。

 真円と、それを囲む様にある蝙蝠こうもりに似た黒い左翼と鳥の様な白い右翼が、付け根の部分を下部で交差させている紋章だ。

 真円は魂と不滅、種類の違う両翼が多様な種族を示しているのだと、昔姉から教わった事がある。

 凝ってはいないし、かなり質素な部類に入るデザインだが、品が無い訳ではない。

 むしろわたしは、この紋章をとても好んでいた。

 人間の国など足元にも及ばないほど長く続いてきた魔皇国。

 建国当初からあるこの国章しるしを、誇りに思わない魔族はいないだろう。


 だからこそ、国章これが使われる場面は少ない。

 国章の刻まれた服を纏う事が出来るのは、国主である魔王陛下のみ。

 あとは国が正式に発行した書面や軍関係等、その重みを背負うに値すると認定された場合にしかもちいられない。

 それだけ歴史のあるものだという事だ。


 だが、自信満々に出されたこの身分証明書が、本物である確証はない。

 故に、わたしは不敬だと重々承知の上で、思い切って動いた。

 判別の仕方は、すでに姉に聞いて知っている。

 国章の上に手でひさしを作り、暗くする。

 そこを覗き込めば、章は仄かに紫色に輝いていた。

 これは、夜星石と呼ばれる特殊な鉱物を使ったインクを使用している為に起こる反応。

 さらにその中でも、紫色を出すには他数種類の鉱物と特別な薬品が必要になり、複雑に組まれた独自の配合によって作られているらしい。

 なので、これが偽造品だと暗くしても光らない、或いは別の色になるのだ。

 この見極め方を知っているのは、本当に限られた者だけ。

 姉も、晩餐会の折に、ついポロリと漏らした軍将校から聞いたのだと言っていた。


 わたしは手の庇を退け、手帳をイオナへ返す。

「ありがとうございました。確かに本物でした。今までの非礼をお許し下さい」

 手帳を受け取ったイオナは、再び懐に戻しつつ、感心したように言葉を発した。

「偽造判別の仕方、よくご存知でしたわね」

 気を悪くしなかったようで安心した。

 胸を撫で下ろしながら、わたしは頷く。

「ええ。以前姉から聞き及んでいたので。……あ、姉もお酒の席で将校様から聞いた話なので、変なルートから出た話ではないですよ」

「それはそれで、あまりよろしくないのですけれど……。その将校のお名前、仰っていました?」

「いえ、すみません。そこまでは……」

 申し訳なさから、曇った表情で返せば、共鳴したかのように彼女の顔も沈んだ。

「そうですの……」


 すると、グリムから殊更ことさらに明るい声が上がった。

「まあまあ。兎にも角にも、これで我々の事は信じて頂けますね?」

「あ、はい。それはもちろん」

「良かった良かった!では、お昼を食べたら早速出発しましょう。本日の夜、トーアの町から魔都カロンへ向けて、直通の寝台特急列車が出ますので、それに乗ります。途中、食料の補充とエネルギー補給も兼ねて三駅ほど停まりますが、カロンまでは四日で到着する予定です」


 トーアの町。

 言われてすぐに、わたしはそれに関する知識を頭の片隅から引っ張り出した。

 トーアは確か、獣人種灰狼族と妖精種水洸すいこう族が共に協力して統治している、湖畔の大きな町だったはず。

 緋鬼村ここから行けば、歩きで四時間程度。

 魔法を使って移動すれば、もっと早く着くだろう。

 昼食を摂り、色々と用意する為の時間を取ったとしても、列車の時間には充分に間に合う。

 かなり急な話だが、事情が事情だ。


「承知しました。よろしくお願いします」


 わたしは、初めて行く町に胸を躍らせながら、頷いてグリムを見た。











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