第31話 聖女と少女と泡沫③ 復興と前兆 後編


 ムッとする暑い空気が満ちる外では、天頂に輝いていた太陽は傾き、朝とは逆の方向へ影を作り出していた。

 ホープと衛士長を先頭に、歩き出した一行が向かったのは、臨時行政所から歩いて十五分程度の場所にある騎士団詰所だ。


 町の南西にあるこの詰所は、現在ホープとアウラ、衛士長が寝泊まりしている場所でもある。

 本当は、皇子が宿泊するに相応しい宿か仮設住宅をあてがう予定だったのだが、ホープが「そんな資金と資材に余裕があるなら、一人でも多くの民の為に使うべき」との強い要望で、あえなく断念された。

 詰所とは別に、騎士が使用している宿舎が二棟ほどあり、その部屋数にも余裕があったが、聖都から来た騎士団の面々に割り振った為、今は満杯。

 結果、騎士団詰所の一室で寝起きする現状になっていた。

 ちなみに、騎士団詰所とは反対の地区。東南地区には憲兵団の詰所と宿舎がある。


 昼を過ぎ、若干ながら減った人々が、道行くホープに気が付いて、自然と横に退いて道を開けていく。

 騒ぎ立てる事はしないし、声をかける者もいないが、それでも民に信頼されている証だろう。見つめる視線には敬愛の色が濃く浮かんでいた。

 その様子を眺めながら、ノエルは隣にいたアウラへそっと話しかける。

「皆さん、意外と普通と言うか、落ち着いているんですね」

「殿下のご配慮です。自分の事は気にしなくていいから、いつも通りの日常を送ってくれ、と。いちいち自分が通る度に手を止められては復興作業が進まないから、と仰られまして」

「そうだったんですか」

「それでも、当初は伏し拝む方までいて大変だったのですが、最近はなんとかここまで落ち着きました」

 そう言うアウラの顔には、とても穏やかな微笑が浮かんでいた。


 正門前広場から西に向けて進み、大きな水道橋の下を潜って、綺麗に敷き詰められた石畳の緩やかな坂道を上る。

 西街区は比較的裕福な平民の暮らす地区らしく、二階建て、あるいは広い平屋の住宅が多く建ち並んでいた。

 ベランダやバルコニーには、色とりどりの草花が植えられた鉢が並べられ、干された真っ白いシーツが風にあおがれてたなびいている。

 虫干しされている古い書物が、太陽光を浴びて実に暑そうだ。

 道々にはパン系統の軽食を扱った屋台や、水やミルク等の飲料水を売る荷車、香辛料を量り売りする露天商等が、ジリジリとした暑さをものともせず、元気に客引きを行っていた。


 目指す騎士団の詰所はまだ少し先。

 道中、ただ黙って進むのも勿体ないと思ったのか、衛士長から互いに簡単な自己紹介を提案された。

 それを快く受け入れ、ホープを始めとして各々自らの名と身分等を話す。

 その中で、ノエルの素性が知れた時、一同は驚きに包まれた。

 ホープと衛士長は、ここ一年と少しの間はクロニカで過ごしていた為、ノエルの顔は知らなかったのだが、聖都にて聖神スクルドの神託を得て、五百年ぶりの聖女候補誕生という報を聞いていたのだ。

 送られてきた文は簡単なもので、ノエルの名前と年齢しか書かれていなかったが、それでも充分な情報だろう。

 ノエル・ノヴァーラと言う名、年齢、巡礼の旅をしている神官。

 これらだけでも判断するには困らない。

 唯一ある懸念は、ノエルの名をかたった偽物の可能性だが、今のところノエルの名は市中では全然さっぱり有名でない。

 無用の騒ぎを避ける為、聖女候補者ノエルの事は、政府関係者や神職者、聖職者ぐらいにしか伝わっていないのである。

 故に、偽物である可能性も低いとの事から、ホープ達は素直に驚いた。

 ホープに事情を聞いたアウラも、目を丸くして二度聞き返したほどだ。

 態度を改めようとした一同に、ノエルは「聖女候補とは言え、今はただの神官。どうかこれまで通りの態度でお願いします」と言って譲らなかった為、結局ホープ達が折れる形で落ち着く。

 ついでに、ノエルとアウラ、ファイとの出会いも軽く話して聞かせたのだが、まあ当然と言うべきか、ホープが激昂した。

 アウラを襲い、力ずくでものにしようとしたならず者共を捕まえると息巻くホープを全員でなだめ、説得して落ち着かせるのに一苦労したのだが、長くなるので割愛しよう。


 そんな他愛ない話をしながら歩を進め、ようやっと到着した騎士団詰所は、坂道のてっぺんにあった。

 四角く白い漆喰壁の建物は、縦にも横にも大きく、高さも三~四階建てほど。

 屋上から、聖教国の国章である、蒼白の剣と百合が描かれた垂れ幕が下がり、中央にある大扉の真上にまで到達している。

 上下共にフックで固定されている為、盛大にたなびくという事はないが、それでも緩やかな風に吹かれて、微かにはためいていた。

 出入り口である大扉は大きく開け放たれており、両脇を固めるように、帯剣したフル装備の騎士二人が仁王立ちしている。

 見た限り、詰所に出入りしているのは片手で収まる人数だけで、かなり少ない。

 それは恐らく、大多数の者が復興作業や憲兵の手伝い、クロニカ内外の警戒巡回に当たっている為だ。

 詰所を通り過ぎた反対側は緩やかな下り坂が控えていて、建物に吞み込まれた道の先には西大通りが微かに見えた。


 近づいて来るホープと衛士長に気が付いた番兵が、素早く敬礼して出迎える。

 ホープは軽く手を上げて応えると、短くねぎらいの言葉をかけ、衛士長以下四人を引き連れて詰所へ足を踏み入れた。


 外の焼ける様な暑さとは裏腹に、詰所内は適度にひんやりとした温度に保たれていた。

 理由は、この建物の中に設置された魔動機だ。

 天井に阻まれて見えないが、屋根裏部屋にあるタンスの様な魔動機が、大気中に漂う魔力を自動的に吸って稼働し、一年を通して屋内を適温に保っているのである。

 そんな、熱中症とは無縁の快適な騎士団詰所は、外観から察せるように中もかなり大きい。


 中央に上階へ続く鉄製の螺旋階段がそびえ、その階段を囲う形でドーナツ型をした円形のカウンターが備え付けられている。

 一度そこを経由しなければ上へは行けない造りだ。

 カウンター内には、当直らしい男の騎士が三人詰めており、それぞれ届いた文の整理をしたり、勤務表の確認をしたり、帰ってきた騎士から話を聞いたりと、それなりに忙しそうである。

 一階にあるのは、そのカウンターと階段、そして奥に待機場所と言う名の、一時休憩する為のスペースがあるだけで、他には何もない。

 恐らくは、騎士の整列をやり易くする為、あえての事だろう。

 灰色の石床や、黒檀こくたんの壁に装飾の類いは見当たらず、天井から吊り下がる照明も、壁に埋め込まれるようにしてある燭台も非常にシンプルで、およそ華やかと言う言葉からはかけ離れている。

 無駄な物が存在しない、正しく〝仕事場″だ。


「お帰りなさいませ!殿下、衛士長殿!」

 カウンターにいた三人と、休憩スペースにいた数人が、ホープ達に気付くや否や即座に立ち上がり、門番をしていた騎士達と同じく、素早く敬礼する。

 その顔に、僅かにいぶしむ色が浮かんでいたのは、本来ホープ達が帰ってくる時間ではないからだろう。

「アウラ様までお戻りとは、何かございましたか?そちらの方は?」

 ホープは軽く振り返り、ノエルを見た後、訊ねてきた騎士へ視線を戻した。

「特に何が、という訳ではないのだが……ちょっと事情聴取をな。落ち着ける場所がここしか思い浮かばなかっただけだ」

 騎士の気配がピリッと張り詰める。

「事情聴取……でございますか?不逞の輩であるならば、我らでお受けいたしますが?」

「いや、それには及ばない。何か犯罪を犯した者ではないからな」

「は?では一体……」

 疑問符を浮かべる騎士に、ホープは若干言い辛そうに顔をしかめると、ため息と共に答える。

「バルト男爵と、些か悶着をな……」

 〝バルト男爵″。

 そのひと言を聞いた瞬間、何がしかを悟ったようで、騎士の顔に同情めいたものがぎった。

 どうやら、男爵が問題を起こすのは、これが初めてという訳ではないようだ。

「左様でございましたか……」

「第二応接室は空いているか?」

 そう問いかけてくる衛士長に、ピンと背筋を伸ばした別の騎士が答えた。

「はっ。現在利用している者はございません」

「よし。少しばかり借りるぞ」

「はっ」


 カウンターの一部を跳ね上げて通り抜け、螺旋階段を使って三階へ上がる。

 階段はまだ上へ続いている事から、この詰所は四階建てらしい。

 通り過ぎた二階には食堂があるようで、昼食と思しき、香ばしくクリーミーな匂いが漂っていた。

 そして、この三階

 左右を見ても人の姿は無い。

 無いが、人の気配まで無いという事はなく、微かに声が聞こえる。言葉の意味までは分からずとも、利用している者がいるようだ。


「第二応接室はこっちだ」

 そう言うと、ホープと衛士長は迷うことなく左の廊下を進む。

 螺旋階段を抜けた目の前にも部屋があったのだが、ここではないらしい。

 よく見れば、部屋の上部に〝一″と書かれた石板が埋め込まれている。

 黙って後を付いて行くノエルに、アウラはそっと囁いた。

「三階は応接室と会議室だけで、応接室は左半分にあるんです」

「では、会議室は右側に?」

「はい。全八室ありまして、それぞれ第一から第四まで。会議室は基本的に騎士団長様方が、進捗の報告やその日の予定の確認、騎士団員さん達の割り振りの話し合い等に使っていますので、右側には行かないようにお願いしますね」

 ノエルの質問に、アウラは頷きながら簡単な説明を交えて答えると、「機密と言うほどではないですが、一応情報漏洩は避けたいので」と言って締め括った。


 黒い板張りの壁と床の廊下は、やはり一階と同じく飾り気がない。

 しかも、進行方向右側に部屋が造られているせいで、窓の類いが無いのである。

 よって、昼間にも関わらず、廊下には火の灯った燭台が並んでいた。

 盗み聞き対策なのか、床に絨毯等も敷かれていない為、カツコツと硬い足音が響く。


 最初の角を曲がった最初の部屋が第二応接室のようで、ホープは念の為一度軽くノックをして、使っている者がいないか確認した後、ノブを回して扉を押し開けた。


 清潔感のある白い壁と、飴色に変わった床が一同を出迎える。

 次いで、部屋の奥にある大きな四角い嵌め殺しの窓が視界に入った。

 薄く白いカーテンは両脇に纏められ、窓辺から見えるのは、賑やかな街並みと端っこに神殿の一部、そして遠くには更地になった北街区の一部が見て取れる。

 部屋の中央には、シックな黒いローテーブル。それを挟んだ前後に、四人掛けのソファが置かれている。

 テーブルの下には白い円形のラグが敷かれている他、窓辺には観葉植物、壁には鳩時計と幾つかの絵画まで掛かっていた。

 落ち着いた感じの格式ある部屋、と言えば良いだろうか。

 正しくここは、客人を招くに相応しい部屋だった。


「アウラとノエルさんはそっちに座ってくれ」

 言いながら、ホープは奥のソファへ腰掛ける。

 衛士長はホープの背後へ移動し、彫像の様に直立不動で控えた。

 そんな衛士長に、まあまあの圧を感じるが、アウラはすでに慣れたものらしく、特に気後れした風もなく手前側のソファに腰掛けた。

 それに釣られて、ノエルもおずおずとソファに座った。


 ソファは軋む事もガタつく事もなく、ふわっと柔らかい反発をノエルに伝えてくる。

 布地に刺繍された蔦模様は緻密で、肘置きの為にある木枠は、ささくれの一つも見当たらないぐらい滑らかだ。

 背もたれ側の木枠の両端には、今にもさえずり出しそうなほど精巧に彫られた小鳥がいた。

 これだけでも、このソファが高価な物である事が分かる。

 一般にある物とは格が違う。

 若干、居心地の悪そうなノエルに、ホープが訝しげな目を向けた。

「どうした?」

「あっいえ。お気になさらず。ちょっと、座り心地の良すぎるソファに感動していただけですので……」

「そうか?至って普通だと思うが……まあいい。それじゃあ早速、バルト男爵と何があったのか聞かせてもらおうか」

 一瞬、分からないと首を傾げたが、ホープはすぐに本題へ切り込んだ。


 それから話す事暫し。


 事の経緯を聞き終えたホープは、いい加減にしてくれと言わんばかりの、辟易とした重苦しいため息を吐いた。

 後ろにいる衛士長も同じく、ため息こそ吐かないものの、鬱々とした雰囲気を醸し出している。

 ホープが激昂しないあたり、やっぱり何度か似たような事が起こっているようだ。


「……バルト男爵……。悪い人物ではないんだが……」

 すると、その時の事を思い出したのか、ノエルの眉間に浅からぬ皺が寄った。

「そうなのですか?申し訳ありませんが、私から見て、アウラさんへの態度は目に余るものがありましたよ?」

 声にも若干の険が混じるノエルを見て、衛士長はやれやれと首を振りながら口を開いた。

「些か、皇家への忠誠心が過ぎるのだ。それ自体は悪いものではないのだが、男爵は幾分度が過ぎていてな。伝統や規律、身分や血脈を重んじるあまり、余裕が無くなっているのだよ。……それに、くだんの惨劇で一人息子を亡くしてからは、輪をかけて酷くなったようでな……」

「その件に関しては同情するが、それを抜きにしても頭が固すぎるんだ」

「殿下」

 たしなめるように、衛士長がホープへ声をかける。

 が、ホープの口は尖ったままだ。

「本当の事だろう?アウラの事は、非公表とは言え父……教皇陛下も認めていると伝えたのに、未だあのような態度を取り続けているんだ。頭がバカみたいに固いんだよ」

「口が過ぎますぞ。殿下」

「……悪い。だが、撤回も訂正もするつもりはないからな」

 顰めっ面で言い捨てるホープに、ふっと衛士長から嘆息が漏れる。

「頑固さで言えば、殿下も似たようなものです。それに、アウラ殿に問題が無い訳ではありませんぞ」

 そう突然言われたアウラは、一度ビクッと肩を跳ねさせた後、視線を落として自らの膝を凝視した。


 ピリッとホープの気配に不快感が混じる。

 向けられた先は当然、衛士長だ。

 軽く振り返り、睨みつけるように見上げた。

「アウラに問題だと?衛士長。お前まで男爵と同じような事を言うつもりか?」

「血がどうの生まれがどうのという問題ではありません。アウラ殿は我らに気兼ねしすぎる。なまじ頭が良いせいで色々考えているのでしょうが、それでは皇宮で暮らしてはいけませんぞ?もう少し毅然とした態度で自分の意見を言わねば、舐められ侮られるだけです」

 それを聞いたアウラは、苦しい表情で、震える唇を無理やり開いた。

「……ですが、皆さん知っての通り、私は貧民街の出です。のみならず、生活の為とは言え、時折身も売っていました。男爵様に下賤……汚らわしいと言われても、否定は出来ません」

 ギュッと服を握り締めるアウラに、フォローする為かホープが口を開きかけた瞬間、それより一歩早くノエルが「あの……」と小さく手を上げた。

 全員の視線がノエルに注がれる。

「口を挟んですみません。その話を聞いた時から疑問だったんですけど、アウラさん、無闇に散財するようには見えませんよね。身を売らなければ生活できないなんて、何か事情でもあったんですか?」

 すると、アウラは顔を上げてノエルを見た。


「借金の返済です」


 事も無げにあっさりと答えるアウラに、一瞬固まるノエル。

「え?」

「正確に言えば、叔父の借金です。賭け事にのめり込んだ結果、かなりの額を借りたらしく、その連帯保証人が私の両親だったんです」

「で、でしたら、借りた本人が返すのが筋では?」

「蒸発しました。以来クロニカでは見かけないので、恐らく他の町か国へ逃げたのではないかと。そもそも、最初から返す気なんて無かったのでしょう。頭の軽い遊び人だったと聞いていますし」

 絶句するノエルに、アウラは感情を込めず淡々と言葉を続ける。

「そのような訳でして、借金返済の義務が両親に回ってきたんです。北街区にあった自宅を売っても足らず、祖父母の遺品を売っても足りず。父も母も、寝る間を惜しんで働き続けた結果、私が十三の時に身体を壊して亡くなりました。それからは私が返していたんです」


 控えめに言っても、同情に値する話だろう。

 いくら血縁者とは言え、他人の借金のせいで自らの家族が死に、家も失くして身を売る羽目になったのだ。

 だと言うのに、アウラからマイナスの感情は見えない。

 悟ったようなと言えばいいのか、或いは諦念と表すのが正しいのか。

 そんな冷めきった目をしていた。


 どう言葉をかけるべきか、ノエルが悩んでいると、

「ああ、ご安心下さい。借金は二週間前の惨劇直前に、全て返し終わりましたので」

 アウラはそう言って締め括った。

「……大変……でしたね……」

 結局、ノエルの口から出たのは、そんな当たり障りのない在り来たりな台詞セリフ

「そうですか?貧民街では珍しくない話ですよ?むしろ、まだマシな方です。こちらの事情をかんがみて、貸主かしぬしの方は返済期限を延ばしてくれましたし、あばら家とは言え壁と屋根のある家で暮らせていたんですから」

「……それは、そうかもしれませんが……。アウラさんが、辛く苦しい生活を強いられていたのに変わりはありませんでしょう?しかもそれが、他人の身から出た錆を背負わされていたなどと……。あまりにも……あまりにも、酷い話です」


 顔に苦渋の色を滲ませ、絞り出すようなノエルの言葉に、しん……と部屋に沈黙が降り積もる。

 すると、ハッと我に返ったノエルが、手をブンブンと身体の前で勢いよく振りつつ、

「す、すみません!知った風な口をきいて!」

 大慌てでそう謝罪した。

 そんなノエルに、言われた方のアウラはふっと穏やかな微笑を返す。

「……いえ。知り合って間もない私の事を、そこまで思って頂いてありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。確かに、当初は叔父の事を恨みましたし、憎みましたし、呪いもしましたが……今は違いますから」

「違う?」

「はい。見方を変えれば、こうして貧民街で過ごしていなければ、ホープ様に出会う事はありませんでした。自分の身以上に大切な人が出来たのは、本当に得難い素晴らしい事。そこに関してだけは、叔父に感謝してもいいぐらい。……だから、全くとは言えませんが、今はそれほど叔父を憎んではいないんですよ」

 それを聞いたホープは感動したのか、潤んだ目でアウラを凝視しつつ、祈る様に手を組んで溢れる感情をそのままに、ポツリと零した。

「アウラ……好き。愛してる」

「はい。私も愛してますよ。ホープ様」

 不意に訪れた惚気のろけた空気に、途端蚊帳の外になってしまったノエルと衛士長が、何とも言えない表情で口をつぐむ。


 しかしすぐに、衛士長が盛大な咳払いをして空気を戻した。

「殿下。そのようなお話は、二人きりになった時にお願いいたします」

 続いてノエルが口を開く。

「話を戻しましょう。アウラさんの事情は分かりました。ですが、それなら尚更責められるべき事ではないはずです。否応なく押し付けられた借金が元なのですから。そこを男爵様に言う事は出来ないのですか?」

「すでに告げてある。が、それでも男爵にとって大事なのは、過程ではなく結果なんだ。〝貧民街の住人″で〝身を売っていた″という事実だけが、彼の中では重要なのさ」

「聖教国の法では、認可を得ていない身売りは軽犯罪に値する。そこも引っかかっているのでしょうな」

 補足を追加する衛士長に、ホープはイラついたように一度足を鳴らした。

「だが、だからこそ、その罪をあがなう意味も込めて、アウラには雑用をこなしてもらっているんだ。しかも無給で。それを男爵も知っているだろうに……」

「頭で分かってはいても、と言う所ですかな」

「頭でっかちの石頭め……」

「殿下。気持ちは分かりますが、慎んでくだされ。そもそも、そのようにアウラ殿をうとましく思っているのは男爵だけではありません。貴族の大半は男爵と同意見で、残りも態度を決めあぐねている日和見主義の者共です。肯定的に捉えている貴族は、今の所見当たらずと言った所でしょうか」

「それは……衛士長様も、ですか?」

 恐る恐る、ノエルが訊ねる。


「む。私ですか?」

 問われた衛士長は、うーむと目を落として悩んだが、すぐに結論を出すと、首を振って答えた。

「……確かに、当初は男爵と似たような感情を抱いていましたな。千年続く聖教国の、次代教皇の妻に貧民街出身の、しかも身売りをしていた者など、と。高位貴族である必要はありませんが、やはりそれ相応の身分の者が良いのでは、と」

「衛士長っ!お前そんな事をっ!!」

 激昂して振り返るホープと、悲しげに俯くアウラに、衛士長は落ち着けとばかりに手を上げた。

「当初は、と申し上げましたでしょう。今は違いますよ。彼女の人となり、仕事ぶりを見て、考えは変わりました。先読みする能力。物事を俯瞰ふかんして見る事の出来る能力は素晴らしく、与えられた仕事は真面目にしっかりとこなす。だけでなく、状況に応じて臨機応変に対応する事も出来る。傲慢にも怠惰にもならない。まさに逸材と言っても良いでしょう」

 ぱあっと顔を輝かせるホープとノエルに、衛士長は「しかし」と続ける。

「あくまで、これは私個人の意見に過ぎませぬ。まして、我がルーシリア家は由緒はあれども、貴族の中では最下位。いかに筆頭貴族の一席を預かっているとは言え、他の貴族の方々を納得させ、抑えられるほどの力はありませなんだ。いくら教皇猊下のお墨付きがあっても、正式に殿下の婚約者とするには、まだまだ厳しいと言わざるを得ないでしょうな」

「それでも、僕はアウラしか妻にする気はないからな」

「存じておりますよ。ですが、いくら殿下たってのご意向とは言え、根性論や感情論だけでは無理があるのです。せめて、全貴族の七割の承認を得るか、或いは私以外の筆頭貴族の理解を得なければ……」


 衛士長が言う筆頭貴族とは、千年前の大戦時に活躍した英雄の血筋であったり、聖教国以前にあった国の王族に連なる血であったり、国の発展にいちじるしく貢献した者等が爵位を得て構成された者達で、普通の貴族より強い権力を持ち、直接教皇への諫言かんげんを許可された特権階級の総称である。

 筆頭貴族の総意であれば、教皇の勅命ちょくめいを覆す事も可能。

 所謂いわゆる教皇トップが暴走しない為のストッパー役だ。

 ある意味、教皇、宰相に次ぐ権力を有しているのだが、それ故に筆頭貴族には清廉潔白さと強い忠誠心を求められ、資格無しと判じられれば、爵位自体を没収される事もある厳しい役職。

 単純な爵位で固められたものではないので、上は公爵から下は勲爵士までと幅広い。

 特別な褒賞等も無い為、〝高貴さに付随する義務ノブレス・オブリージュ″を体現する為にある貴族、とも言えるだろう。

 そんな筆頭貴族は現在八家あり、衛士長のルーシリア勲爵士家、二週間前の惨劇で亡くなったホープの元許嫁であるローズの生家、クラリアス公爵家、そしてバルト男爵家もこれに名を連ねている。


「教皇様の手を借りる事は出来ないんですか?鶴の一声とはいかずとも、正式に布令を出せば一応は認めてくれるのでは?」

 そう案を出したノエルだが、それは全員から首を振られて否定された。

「それは、公平性の問題から出来ないんです。議題に出されたとしても、筆頭貴族の方々から即座に却下されるでしょうし、何より強権を発動すれば、それに比例した反発が起こってしかるべきですから。後々の事を考えて、貴族の方々との間に禍根を残すのは避けたいんです」

 冷静に分析するアウラに続いて、

「付け加えて、アウラに関する事は自分達で何とかするように、と父からすでに申し渡されている。それぐらい自ら解決できなければ、将来の教皇として役不足。アウラが皇宮で暮らしていくなんて夢のまた夢。まあ、簡単に言うと、甘えるなって事だ」

「教皇として、自らのお立場をよく理解しておいでなのですよ。自らのひと言の重みをご存知であればこそのお言葉なれば、恨んではなりませんぞ、殿下」

「分かっている。僕だって、それを理解出来ないほどの馬鹿じゃない」

 ムッとしつつも、頷いて呑み込むホープに、アウラと衛士長から苦笑が漏れる。

 しかしすぐに衛士長は襟を正すと、アウラへ視線を移した。

「何にしても、アウラ殿にはもう少し自分の意志を強く持って意見を述べて頂きたい。事ある毎に男爵が悶着を起こし、その度にこうして殿下の手が止まっていては、こちらの仕事にも支障をきたします故」

「はい。善処いたします……」

 僅かにしゅんとしつつも、アウラがそう言って頷いた瞬間。


「それは違うと思います」

 と、ノエルが険しい表情でキッパリと言い放った。

「ほう?」

 それに衛士長は興味深げに返す。

 反対に、アウラとホープは驚いて目を丸くしていた。

「問題があるのは、偏見故に視野の狭まった男爵様の方です。そのお言葉は、率先して騒動を起こしている男爵様に向けて言うべきものだと思います」

「ノ、ノエルさん。いいんです。衛士長様が仰っている事は事実ですから……」

「だとしても、アウラさんだけに言うのは不公平です」

 慌てて口を挟むアウラに、それでもノエルは真剣な面持ちを崩す事もなく、やはり衛士長を見据えたままはっきりと言い返した。

 すると、衛士長は鷹揚おうように頷き、口の端に微かな笑みを乗せて口を開いた。

「なるほど確かに。ノエル殿の言う通りですな。耳を貸すかどうかは別ですが、男爵にも釘を刺しておきましょう」

「よろしくお願いします」


 ほっと胸を撫で下ろすホープとアウラ。

 衛士長は熟慮の人物とは言え、怒らない訳ではない。

 むしろ、本来は短気な性格だ。

 仲裁するには骨が折れる為、いさかいに発展しなくて本当に良かったとしみじみ思う。

 そこでふと、ホープは壁に掛けられた時計に目を向ける。

 針は、この応接室に来てからすでに二時間は過ぎた事を知らせていた。

 窓から差し込む光は柔らかい色合いを帯び、伸びる影もずいぶんと長い。

 夏の季節は陽が長いのが特徴だが、灼熱の時期は終わっている。

 空が赤く染まり始めるのはまだ先だが、時刻だけで言えば夕方に差し掛かる頃だ。

 さすがにこれ以上続けるのは、仕事に影響が出ると判断したらしく、ホープは短くため息を吐くと、パンッと一度手を打って立ち上がった。


「当初の目的からずいぶんと脱線してしまったな。まだまだ話し足りないが、ここら辺にしておこう。そろそろ戻らないと、溜まった書類を今日中に処理出来なくなる」

 するとノエルも、ハッと時計を見上げる。

「あっ!私もそろそろ台車の回収にいかないと!」

「台車、ですか?」

 アウラが小首を傾げて訊ねる。

「はい。有り難い事に、神殿に泊めていただける事になりましたので、その代わりに雑用をしているんです。台車は、昼食のお弁当を運んだ時に使った物でして、もしも夕食のお弁当もあるようでしたら必要でしょうから、そろそろ回収に行かないと」

「神殿に……。宿には泊まらないのか?旅費は大神院から出るんだろう?」

 不思議だ、と今度はホープが問いかける。

「清貧の教えがありますから、神殿があればそこに泊まる事にしています。出来るだけ出費は抑えたいと思いまして」

「なるほど。さすがは聖女殿。ご立派ですな」

 しきりに頷いて感心する衛士長に、ノエルはげんなりした声色で、

「ですから、私はまだ〝聖女″ではありません……」

 そう力なく呟いたのだった。


 その後、応接室を出て一階へ下り、騎士団詰所を出た所で、ノエルはアウラ達に別れを告げ、急いで北街区方面へと歩いて行った。


 降り注ぐ光の中、次第に小さくなっていくノエルの背中を三人で見つめていると、不意にアウラが「あら?」と声を上げた。

 ホープの視線がアウラへ向かう。

「どうしたの?アウラ」

「あ、いえ……。そう言えばノエルさん、ホープ様に訊ねたい事があると言ってらっしゃったので……」

「僕に?」

「はい。イヴルさん達の行方を知りたいのだとか……」

 告げられた瞬間、ホープの脳裏に旅人二人の姿が過ぎった。


 夜闇の様な漆黒の長髪を後頭部で結い上げた、紫電の瞳を持つ絶世の美青年こと、魔王イヴル・ツェペリオン。

 そして、自分の先祖であり自分と瓜二つの容姿をした、勇者ルーク・エスペランサの姿を。


 確か、聖剣や封印遺跡の話をしたから、二人が向かう場所として思いつくのは、ヴィルグリーズ山脈。

 ……と言うか、そこしか浮かばない。

 アウラには、気を失っていた時の事を大まかに話してはいたが、二人が千年前の魔王と勇者である事は伝えていない。

 その為、二人の事は自分達を助けてくれた、ただの旅人としての認識しか持っていないはずだ。

 ノエルが元から知っていた場合は別だが、アウラから彼らの素性がバレた可能性はないだろう。

 なんにせよ、候補とは言え聖女が魔王と勇者の後を追うとはどういう事だと、疑念が絶えない。


「イヴル達の?なんでまた……」

 思わず、ホープの声に探る様な色が出てしまう。

 それを察したのか、アウラの顔にも深刻そうな表情が浮かんだ。

「これには複雑な心理が絡んでいまして、一概にコレ、とは言えないのですが……。まあ簡単に言いますと……」

「簡単に言うと?」


「恋です」


 ホープの思考が停止する。

「…………うん?」

 そしてすぐに再始動。

「こ……い?……鯉?え?恋??」

 さらに反復して確認。

 疑問符満載でアウラを凝視し、聞き返した。

「はい。恋愛の、恋です」

「え……えぇ?!本当に!?」

 信じられないと、驚愕を浮かべるホープに、アウラはしっかりはっきり、凛々しい顔で力強く頷く。

「はい。ノエルさんは認めていらっしゃいませんでしたが、十中八九、恋に違いありません」

「いや……本人が違うと言うなら、違うんじゃないか?と言うか恋って……」

「ノエルさんは自分の気持ちに気付いていないだけです。あれは、間違いなく恋です」

 爛々と輝く瞳で言い切るアウラに、ホープもはたから聞いている衛士長も、軽く身を仰け反らせて引いている。

「大切な巡礼の旅お役目の最中に、それでも相手の足跡を追っているなんて。しかも出来たら共に旅をしたいなどと、恋以外に考えられません!」

「いや……でもアウラ?ノエルさんは神官で、聖女候補だよ?そんな恋愛なんて」

「まあ!ホープ様!それでは神官は恋をしてはいけないとでも言うのですか?!」

 前のめりで訊ねてくるアウラに、思わず困ってしまうホープ。


 アウラの一方的な断定はともかく。

 イヴルとルーク、どちらが対象かは知らないが、もしも本当にノエルが恋をしているのだとしたら、これほど不毛な事はないだろう。

 何せ、片方は三人の奥さん(しかも三女神)持ちで、片方は魔王な上に恋愛事には全く、興味の〝き″の字すら見当たらない。

 加えて、どちらも不老不死の身。

 寿命的な問題でも隔たりは深い。

 上手くいく可能性は限りなく低く、億が一の光明も見えない。


 それらの事が、内心浮かんで止まらないホープは、口からつい本音がポロリと零れ落ちた。

「い……いや、そうは言ってないよ。ただ不毛だな……と」

「不毛とはなんですか!では、実らなければ恋をしてはいけないのです?!」

「そ、そんな事はないけど……」

「ならば良いではありませんか!叶う叶わないなど結果論でしかありません!誰かを恋しく思い、愛す事を責められるいわれなどないはずですよ?!」

「そ……れはそうだけど……」

 いつもの、大人しく儚げな雰囲気は何処へやら。

 凄まじい形相で、凄まじい気迫でホープに熱弁を振るうアウラに、衛士長は我関せずと外野を決め込んで放置している。

 無理に口を挟んでも良い事はないと悟ったのかもしれない。

「友愛や親愛、情愛等々。愛の形はたくさんあります。ですが、理由はないけれど何となく気になる。気が付いたらその人の事を考えている。もっと一緒にいたい。もっとその人の事を知りたい……。正に!恋愛の走り!恋!!ですっ!!」

「そ、そう……」

 こんなに興奮……もとい、はっちゃけたアウラを見るのは初めてなのだろう。

 もはや否定する事は出来ず、ただ頷いて肯定するしか出来ないホープに、衛士長から生暖かい同情の視線が寄せられた。

(殿下……。その状態になった女性に、異論をしてはなりませぬぞ……。話が長くなるだけ故……)

 過去にこれと似た経験をしたらしい衛士長は、内心でそのように忠告するが、口には出していないのでもちろんホープには届かない。

 なので、仕方ないとばかりに助け舟を出す事にした。

「さあさあ、アウラ殿。恋の講義については道々にてお伺いしますので、とりあえず天幕に向かいますぞ」

「あ、はい!さ、ホープ様!参りましょう」

「う、うん……」


 そうして歩き出したホープは、不意に外套のポケットへ手を突っ込んだ。

 特に理由があった訳じゃない。

 本当に自然に、何となく突っ込んだだけ。

 すると、コロッとした感触がホープの手を刺激した。

 疑問に思いつつ取り出したソレは、立体的に作られた星の折り紙だった。

 ああ、そう言えば……とホープが黄色い折り紙を見ていると、

「ホープ様、それは?」

 顔を覗き込ませたアウラが訊ねてくる。

「ああ。例の迷子の女の子から、去り際にお礼にって貰ったんだ」

「まあ、可愛らしい贈り物ですね」

 微笑ましげに表情を綻ばせるアウラを見て、しかしホープは反対に顔を暗くした。

「……あの子が泥棒なんて……。そんな風には見えなかったけどな……」

 落ちる様に零したひと言に、返す言葉が見当たらないアウラと衛士長は、ただ黙ってホープを見つめる。


 そんな三人がいるクロニカの町に向かって、冷気を含んだ暗雲が近付いていた。


 その日の夜。

 聖教国第一皇子であるホープは、忽然こつぜんとその姿を消したのである。








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