第30話 聖女と少女と泡沫② 復興と前兆 中編
〝
そう言った老紳士――もといファイに、言葉の意味が分からないノエルとアウラは、揃って首を傾げてしまう。
「ああ、お気になさらず。こちらの話ですので」
正直、気にならないと言えば噓になるが、かと言って出会ったばかりの人に、事情を根掘り葉掘り聞くのも失礼と言うもの。
ノエルは湧き上がる好奇心を押し殺して、とりあえずと言うべきか改めてと言うべきか、とにかく腰を折って礼を述べた。
「えっと、何はともあれ、先ほどはありがとうございました。ファイさん。あなたがいなければ、あの人達から隙は生まれませんでした」
予想だにしていなかった言葉なのか、キョトンと目を
「……はあ。あくまで私は、自分の知りたい事を訊ねただけですので、礼を言われるような
「それでも、ありがとうございました」
重ねて礼を言うノエルに、少しだけ困り顔のファイだったが、そこまで言うならと、小さく頷いた。
「……では、どういたしまして」
すると、今度はアウラがファイに対して言葉を放った。
「ファイさんは何か探し物をしているんですよね?」
「ええ。闇を押し込めた様な黒い玉です。見かけましたか?」
「あ、いいえ。ただ、それなら遺失物として届いていないか、臨時行政所に確認に行った方が良いかと思いまして」
「遺失物……落とし物として、ですか……」
「はい。話を聞いた限り、宝石に近い物のようなので」
アウラの
なぜ悩んでいるのか、ある程度察せたらしいアウラは、
「……ファイさんの考えている事は理解出来ます。もし、お探しの物が宝石であるなら、天幕に届いている可能性が低いのは確か。この状況下です。拾って、そのまま
と続けた。
それを聞いて、ノエルもうんうんと頷く。
「そうですよ!それに、天幕には大勢人もいます。巡回に出ている憲兵や騎士の人達もいるでしょうから、その方達に聞いてみるのも一手かと思います!」
ファイは視線を上げて、ノエルとアウラを見る。
そして、何か言いたげな表情を浮かべるも、結局は緩く首を振って口には出さず、再び思案げに地面を見つめた。
それから少しして、ファイは首肯した。
「……そう、ですね。僅かでも可能性があるのならば、確認してみるべきでしょう」
提案を受け入れたファイに、アウラは穏やかな笑みを浮かべて頷く。
「ではご案内します。ちょうど天幕へ戻る途中でしたので」
「あ!でしたら私もご一緒します。少し殿下にお聞きしたい事があるので」
ノエルのひと言に、アウラが首を傾げる。
「ホープ様に、ですか?すみません。内容をお伺いしても?」
現在アウラは、
ここにいるのも、修道院、教会、神殿の三箇所を回り、被災した人々の現状、そして職の状況が記された書類を受け取り、さらに建設現場の進捗具合いも確認する為。
任された仕事を終え、その帰り道にふと所用を思い出し、最近はあまり帰る事もなかった自宅に戻ったのだが、そのせいであの男達に絡まれてしまったのである。
改めて、アウラは眼前にいるノエルをじっくりと眺めた。
自分より二つか三つは年上の女性。
蒼氷色の髪に、銀色の虹彩をした浅葱色の瞳の、凛とする雰囲気を持つ人だ。
見返りなしに自分を助けてくれたノエルの人柄については信頼しているが、それとこれとは話が別。
仕事柄、最低限内容は把握しておきたい。
重ねてもう一度問おうとした時、不意にファイが口を挟んだ。
「失礼。その話、道すがらに致しませんか?ここで立ち話と言うのも迷惑でしょうし……」
困り顔のファイにそう言われて、二人とも
今自分達がいるのは、人がごった返す西大通りの歩道のど真ん中だという事に。
迂回し、すれ違う人々が、例外なく迷惑そうな視線を送ってくる。
「そ、そうですね!」
「話なんて、歩きながら出来ますしね!」
ノエルとアウラは慌ててそう言うと、正門前広場にある天幕群へ向けて、せかせかと足早に歩き出したのだった。
道中、ノエルはアウラに、ホープに訊ねる予定の内容を話し始める。
クロニカ復興の為に自分に出来る事はないか。
そして、とある旅人二人を追っている事。
その二点を。
ついでにその旅人達との経緯も話し始める。
話す必要があったのかと問われれば、無かったと返す他ないが、ノエル的に話した方がいいと判断したらしい。
やがて、追っている旅人二人との出会いを大まかに話し終えた辺りで、
「……ではノエルさんは、巡礼の旅の
真正面にあった大きな樽を避けながら、アウラは訊ねた。
アウラの隣を行くノエルは、急流の様に押し寄せる人にぶつからないよう、気を付けつつ答える。
「はい。この町に寄った事は確かなので、何か心当たりは無いか、ダメ元で聞いてみようと思いまして……」
「……名前や容姿の特徴などお聞きしても?私も
アウラの協力的な態度に、ノエルの表情がパッと明るくなった。
「はい!イヴルさんとルークさんと仰いまして、イヴルさんは長い黒髪を後頭部で結い上げた黒ずくめの方で、稲妻の様な紫色の瞳が特徴的です。ルークさんは、なんと殿下と瓜二つの外見でして、深い緋色の外套を身に着けた方です!」
早口で
「えっ!?もしかしてその方達って……」
その反応に、ノエルが食い気味に身を乗り出す。
「アウラさん、もしや心当たりがあるんですか?!」
アウラは大きく頷いて肯定した。
「私のみならずホープ様も、ひいては
「大恩って……あの、どういう……?」
こんな身近に二人の手がかりがあるとは思っておらず、その事に関しては僥倖であったものの、第一皇子、そしてクロニカにとっての恩人と聞いて、予想外の話大きさにノエルは戸惑いを隠せずにいた。
「二週間前にあったクロニカの惨劇。それを最小限に抑えてくれたのが、イヴルさん達なんです。それに、あの方達がいなければ、私も殿下も、教皇様方も命は無かったでしょう」
「え、ええ?すいません……ちょっと話が大きすぎて……一から順に説明してもらってもいいですか?」
「あ、はい。私も後日、殿下に聞いた話になるのですが、事の起こりは……」
そうして、
前方を行く二人の話を聞きながら、ファイはさり気なく周囲を見回す。
雑踏ひしめく西大通り。
賑やかな喧騒は、もはや言葉としての体を為しておらず、ただの音として場に満ちている。
二階建てから三階建ての建物が軒を連ねる通りを、近隣の村から来たと思しき商人や
幌の隙間から見える荷台には、大量の野菜や香辛料の詰まった壺が積まれ、また別の馬車には建築資材らしき木材、石材等が積まれていた。
ここが稼ぎ時と思っているのか、商人達の顔は一様に明るく、やる気に
一方町の人達は、めいめい悲喜こもごもと言った様子だ。
働く男達は建ち並ぶ飲食店に入り、家庭を預かる女達は、各食材店で難しい顔をしつつ買い物。威勢のいい値引き交渉をしている声も聞こえた。
暇な主婦陣は、足を止めて井戸端会議に勤しみ、先行きの不安や旦那への愚痴を零す。
野良犬や野良猫は、精肉店の主人から肉の切れ端を貰い去って行った。
〝歴史都市″の名に恥じず、大小幾つもある書店や古書店には、老若男女問わず多くの人が出入りしているが、やはり平時と比べると幾分少なく見える。
加えて、本を買っていくのは役人と思しき身なりの整った者が大半で、購入した物も、古びた巻物や古書がほとんどだ。
恐らく、惨劇が起こる前の、町の様子が描かれている物を選んで買っているのだろう。
一見すると穏やかで平和な風景。
それらを視界に収めながら、ファイは慎重に目を配る。
実の所、ファイは探している黒い玉を持っている人物を知っていた。
いや、〝見ていた″というのが正しいだろう。
この町で与えられた仕事を終え、後は最後の締めを残すばかりとなった段階で、地に転がった
追おうとはした。
が、疲労困憊となった身では咄嗟に動くことが出来ず、さらに迷宮の様に複雑な街路に阻まれて、結局そのまま盗人を見送ってしまったのである。
それが、あの貧民街。
ノエルとアウラがいた場所から、そう遠くない所での事だった。
盗って行った人物は深くフードを被っていた為、その年齢や性別、顔の造形も分からない。
しかし、小さな体躯だったので、まだ成人前の子供に違いない事は確定だ。
誰かに頼まれたのか、それとも自主的にかは定かでないが、躊躇なく玉を持って行ったという事は、初めからそれが目的だったのだろう。
あの玉は黒曜石に似てはいるものの、実際は全くの別物。
売ろうにも一銭の価値すらない物なので、換金するのは厳しいはず。
ならば、質店や雑貨店等、買取を行っている店を巡るより、その人物を探した方がいい。
だから、ファイは探していた。
小柄で、挙動の不審な者を。
ノエルとアウラの話を耳に入れつつも、会話に参加する事はなく、ただ往来する人々を注意深く観察する。
まあ、今ここで見つからなくとも、臨時行政所へ行けば町に詳しい者がいる。何か手がかりがあるだろう。
よしんば無くとも、それはそれで構わない。
また別の手を考えるだけだ。
そんな思惑を秘めながら、ファイは歩を進めた。
西大通りを進み、クロニカ城に到達した所で右折すると、町で最も大きく、最も広く、もっとも賑やかな中央大通りに出る。
構造は西とあまり変わらない。
二階から三階建ての建物が軒を連ねているのも一緒だが、違うのは商店の数だ。
旅人や行商人を目当てにした宿屋が幾つもあり、それに比例して、飲食店の数も激増している。
他にも武器や防具を扱う店、薬草を専門に扱っている店、青果店に生花店、宝飾店、古書店等々。挙げればキリがないほどの店が建ち並んでいた。
そして、通りの真ん中を、大きな馬車が三台は並んで行けるほどの道が貫いている。
今の時間帯は歩行者天国になっているが、早朝と夕方は多くの馬車が行き交う場所だ。
証拠に、石畳には等間隔に引かれた僅かな凹み――
正しく、
まだまだ昼時という事もあり、西大通りよりもさらに雑踏賑わう通りを、ノエル達は縫う様に進みながら話していた。
そうして、前方に見える南の正門が手のひら大ほどの大きさになった辺りで、漸くアウラは二週間前のあらましを話し終えたのである。
「――――と、そういう訳で今に至るのです。イヴルさんとルークさんがいなければ、今の私達はいなかったでしょう。本当に、あのお二方には感謝しかありません」
「そうだったんですか……」
アウラから聞く二週間前の事件の話は、ノエルが旅の途中で聞き及んでいた内容の数倍残酷で悲惨なものだった。
犠牲になった多くの住人と、魔族に殺された貴族、魔族に喰われて成り代わられていた公爵嬢。
それらに思いを馳せ、胸を痛ませつつも、ノエルはイヴルが人を助け、町を救った事に嬉しさを滲ませていた。
初めて出会った時のイヴルは、躊躇なく、容赦なく、無慈悲に人を殺していたが故に、その時の印象が強かった反動もあるのだろう。
沈痛な面持ちの中、微かに見え隠れする喜びの感情。
それに若干の疑問を感じないでもなかったが、アウラは特に追及する事も見咎める事も無く、微かに首を傾げただけで続けた。
「私は途中で気を失ってしまいましたので、イヴルさん達が向かった先は分からないのですが、ホープ様であれば何か知っているかもしれません。あの騒動の
そこで、アウラはふと言葉を区切ると、少しだけ逡巡した後、思い切った様に再び口を開いた。
「……でも、いくら巡礼の旅の
「好っ――――!?」
アウラの突拍子もない質問に、思わず驚いたノエルが前方から来た人と衝突する。
迷惑そうな表情で舌打ちする人に、ノエルは「す、すいませんっ!」と大慌てで謝ると、アウラへ視線を向けた。
「違います。私がこの話をすると、皆さん何故か
憤慨、とまではいかないが、それでもムスッとした顔でアウラに返すノエル。
「そう……ですか?」
控えめに返すアウラに、ノエルは大きく頷き、「そうです!」と鼻息荒く答えた。
正直な所、肉体関係さえ結ばなければ、恋愛はしても構わないんじゃないかと思うアウラ。
恋をしてはいけないなんて掟は無いし、何よりアウラが知っている〝神官″という職業は、望めばその職を辞して誰かと添い遂げる事が出来たはず。
選択の余地が充分にある職なのだ。
故に、ここまで強く否定する理由はない。
何より、確たる理由もなしに、ただもう一度会いたい、出来るなら共に旅をしてみたいなどと、それは恋の走りではないのか。と、思わないでもない。
気付いていないのか、或いは気付かないふりをしているのか。
まあ、些か穿った見方、偏見であると言われればそれまでだが。
結局そう考えたら、アウラは二の句を継げられずにいた。
僅かに気まずい雰囲気が二人の間に流れる。
ノエルとしても、少しきつく言い過ぎてしまったかもしれないと軽く後悔するが、一度口から出た言葉は戻らない。
短い沈黙の後、やがて二人が見出した打開策は、歩き出してからずっと無言のまま、空気と化していたファイへ話しかける事だった。
二人の一歩後ろを行くファイへ、アウラは軽く振り返りながら、
「ところでファイさん。ファイさんはこの町に住んでいるんですか?」
母親に手を引かれ、通り過ぎる少女を見ていたファイは、唐突に振られた世間話に僅かに驚きつつも、
「いえ。違いますよ。私は仕事で来訪しただけでございます」
アウラに目を戻してそう返した。
「仕事、ですか?」
言いながら、アウラはサッと素早くファイの服装を確認する。
この暑い時期だと言うのに、襟元までしっかりと閉じられた黒く長い外套を着ており、履いているズボンや革靴には傷や
老紳士然とした、品の良い雰囲気を纏っている事と言い、丁寧な言葉遣いと言い、傭兵や卸業者には見えない。
商人と仮定しても、上流階級と関わりのある宝石商や美術商、骨董商辺りが妥当か。
そう言えば、探している物は黒曜石に似た玉だと口にしていた。
ならば、やはり先三つの内どれかだろう。
しかしそうなると、探している物は単なる落とし物の可能性は低く、
探している物が届いている可能性は低いのだ。
いつ換金されてしまうとも限らないのだから、天幕へ行くよりも、このまま盗人を探した方が良いのかも。
そう思い至っても仕方ない。
それでも提案を呑み、こうして一緒に天幕へ向かっているのは、
アウラが前方から来た男性を避けつつ、つらつらと考えを巡らせていると、アウラと同じ方向に避けたファイが頷いて肯定した。
「はい。大方終わっていたのですが、締めの部分で盗まれてしまいまして」
やはり、と思う傍ら、ノエルが驚いて声を上擦らせた。
「えっ!?盗まれたんですか!?」
「ええ。体格から言って、恐らく子供だと思いますが、なにぶんフードを被っておられましたので、性別から顔の造形に至るまで不明。一般の方よりも粗末な服装だったので、多分貧民街に住んでいる方かと思うのですが……なんとも」
「
「そんな……」
捕捉をする様に話すアウラに、ノエルはショックが隠し切れないのか、表情を曇らせて声を落とす。
大きく豊かで、華やかに見える町の影に、そんな人達がいるとは思いもよらなかったのだろう。
貧民街があるのだから何を当たり前な、と思うが、ノエルの中では大人が犯罪に身をやつしている事には想像が及んでも、子供までがそれに手を染めているとは思わなかったのだ。
泣きそうな顔で俯くノエルを見ながら、ファイはふっと嘆息を吐き出して、多少疲れた色を瞳に浮かべる。
「天幕で、何か心当たりのある方が見つかれば良いのですが……」
そう言って、向けた視線の先にあったのは、間近にまで迫った正門前広場。
灰色の開けた広場の中央には、涼しげに水を噴き出す円形の巨大な噴水があり、それを囲む形で三人掛け用の木製ベンチが設置されていた。
ついでに、幾つか大きな街路樹も植えられ、広場に彩りを添えている。
と共に、その木陰で少なくない人が暑さを
座って水分補給をする者や
石畳からの放射熱から解放され、吹き抜ける風と木陰の下、芝生の上で寝るのはさぞ気持ちが良いだろう。
目指す臨時行政所はその向こう側。
正門の両側。防壁沿いに横一列で白い天幕が多数並んでいた。
こうして戻って来た、臨時行政所である天幕群。
その内の一つ。向かって右側。
聖教国皇家の紋章である、二つの丸い月を背負い、
入口の両脇に直立不動で立つ騎士二人が、「おかえりなさいませ。アウラ様」とにこやかに述べた事から、アウラとこの騎士達の関係が良好なのを示している。
アウラの事は、将来の教皇妃として
その是非については賛否両論だが、アウラの人となりを知っている人物からは好意的な意見しか出てこない。
つまり、この友好的な態度の騎士もまた、アウラの事を認めている訳である。
そんな騎士達へ、疲れた雰囲気をおくびにも出さず、アウラはたおやかに微笑んで「ただいま戻りました」と返すと、天幕の
朝の時とさして変わらない光景。
違うのは、かなり減った人の数と、奥に見える皇子用の執務机の上に、量の増した紙の束がある事ぐらい。
が、今はそこにホープの姿はなかった。
主のいなくなった机と椅子が、冷たい石畳の上で寂しげに鎮座している。
「あら?ホープ様、どこへ行かれたのかしら?」
キョロキョロと、思わず視線を巡らすアウラの目に、執務机の横に立つ、同じように視線を忙しなく彷徨わせる一人の青年が入った。
アウラと同年代か、もう少し上だろう。
渋草色をした髪と瞳の、優しげと言えば聞こえはいい、ちょっと頼りなさげな雰囲気を纏うその青年は、内心とても混乱しているのか、帰ってきたアウラに気付く様子もない。
アウラは、ノエルとファイに「ちょっと失礼します」と言って離れ、おろおろと
「エペさん。どうかなさいましたか?ホープ様はどちらに?」
エペと呼ばれた青年は、アウラと同じくホープに付いて雑用をこなしている人物だ。今この場にいないホープの行方について、何か知っているだろうとアウラが訊ねるのは当然の事だった。
が、その思惑に反して、エペはアウラの姿を見ると、逆にほっとため息を漏らした。まるで、良かった。これで何とかなる。と言わんばかりである。
エペは急いでアウラへ距離を詰めると、周りを窺いつつ、
「ア、アウラさん。それが、その……殿下の姿が見当たらないのです」
声を震わせながら小さく囁くように告げた。
「え……」
聞いた途端、驚いて目を見開き、パッと身を離す。
しかし、またすぐにエペへ身を寄せると、アウラも小さな声で聞き返した。
「……ホープ様が?」
一瞬サボっているのかと、そんな考えが頭を過ぎるアウラだったが、即座に打ち払う。
確かに、アウラと出会った当初のホープは、城での鬱屈とした生活に嫌気がさし、さらに次期教皇という重責から逃避して、ちょくちょく城から抜け出していた。
だが、二週間前の件を経験してから、ホープは真面目に、真摯に、それこそ寝る間も惜しんで職務に当たっている。
悲惨な町の状況を見て、甘えていられる余裕などないと、思いを改めたのだろう。
だからこそ、今さら仕事を投げ出してサボるなんて事は考えられない。
そう考えていると、エペがそっと続けた。
「
「……どれぐらい経っていますか?」
言われたエペは、壁に掛かっていた時計を確認する。
「四十分近くになります……」
エペの言うように、お手洗いにしては長い。
腹を下した可能性も無きにしも
往復に五分もかからない。
一応行き先を告げているとは言え、戻らないホープに、アウラの中でぞわりと背筋を這い上がる様な焦燥感が生まれる。
心臓がそれに応えるかのように、どんどんと拍数を上げていく。
思考が止まり、息苦しくなっていく状況の中で、それでもアウラがなんとか落ち着く事が出来たのは、
頼りになるとか、そんなプラスの要因ではない。単に、自分より先に、自分以上におろおろしている者を見ると、自然と冷静になってしまう心理が働いただけの事。
アウラは一度頭を振って、無理やり焦りを吹き飛ばすと、先ほどから気になっている事をエペに訊ねた。
「衛士長様はいらっしゃらなかったんですか?」
そう、衛士長だ。
普段であれば、ホープの傍を離れず警護しているはずの人物。
てっきりホープに付いて出ているものと思っていたが、衛士長が一緒に出て行ったのなら、エペがここまで不安がる事もなかったはず。
それ故の問いだった。
「あ、はい。それが、間の悪い事にちょうど騎士団長殿と会議中でして……。伝令役として残っていた騎士の方に伝えたので、そろそろ戻られると思うのですが……」
「そうですか……」
ふと、アウラの脳裏を嫌な考えが掠めた。
ここ最近、クロニカで多発している行方不明事件だ。
誘拐される現場を見た者も、声を聞いた者もいない、しかし確かに消えてしまった人々。
手がかりらしい手がかりが無い為、憲兵と騎士の巡回を強化するぐらいしか手がない現状の中、不可解とも言えるその事件に、ホープが巻き込まれたのではないか、という危惧だ。
このまま何事もなくホープが戻れば良いが……。
そんな、再び首をもたげた不安感と焦燥感に
エペと小声で話し始めたアウラを遠目に眺めつつ、ノエルは傍らにいるファイへ視線を向ける。
そして、おずおずと話しかけた。
「あの……ファイさん」
「はい?」
ファイの目が、アウラ達からノエルへ移る。
「少し、お聞きしたい事があるのですが……。よろしいですか?」
「私に答えられるものであれば。どうぞ?」
快く、とまではいかないものの、特に拒否される事もなく促されたのだが、それでもノエルは若干躊躇する。
聞いたところで、明確な答えがあるとは限らないし、むしろ異常者に見られてしまう可能性もあるからだ。
しかし、それでも抱いた疑問を聞かずにはおれない。
好奇心と言うものに押されて、ノエルは恐る恐る口を開いた。
「その……実は私、神眼と言って、人と魔族を纏っている色で見分ける事が出来る眼をしているんです」
「ほう。それは素晴らしい眼をお持ちですね」
「お、驚かないんですか?」
軽く言い放つファイに、反対にノエルの方が驚いてしまう。
「長く生きておりますから、大概の事では驚きませんよ。それで?」
「あ、はい。基本的に魔族の方は黒、人はそれ以外の色を纏っているのですが、ファイさんはその……色が無くて、と言うか見えなくて、ですね……。何故かな、と。理由があれば知りたいな、と思いまして……」
尻すぼみになり、掻き消える様に途絶える言葉。
視線も下を向き、顔も俯く。
改めて、そんなの本人ですら知らないだろうと考えたからかもしれない。
そして、それは正にその通りで。
「……申し訳ございません。色が見えない明確な理由については、私には分かりかねます」
「そ、そうですよね!すいません、変な事を聞いて……」
顔を上げ、咄嗟に言い募るノエルに、ファイは緩やかに首を振った。
「いえ。普段自らが見ている世界。その中で異物があったのなら、知りたいと思うのは当然の反応でございますから」
「異物なんて、そんな!私の……眼が、少し特異なだけですので……」
再び目を落とし、呟くように零すノエルを見るファイの目には、特に何の色も浮かんでいなかった。
そうして話の区切りがついた所で、ノエルは全然戻ってこないアウラに、心配そうな視線を向けた。
「何かあったのでしょうか?アウラさん、少し顔色が悪いように見えますが……」
「……恐らく、ですが……殿下の姿が見えなくなったのかと」
見えなくなった。
つまりは消えた。
=行方不明。
脳内で即座に変換した言葉の意味に、
「――――えっ!?」
思わず叫ぶように声を上げてしまった。
が、咄嗟に口を覆ってキョロキョロと周りを見る。
声に驚き、ギョッとする人達に向けて、ノエルは慌てて取り繕う為の作り笑いを浮かべ、気にしないで下さいと両手を振った。
続けて、ススッとファイに近寄り、ピッタリと身を寄せる。
「……ほ、本当に?」
「恐らく、と申し上げたはずでございますよ。しかし、いつからかは存じ上げませんが、可能性は高いかと」
冷静に、淡々と告げるファイに、目に見えて
「ど、どうしましょう」
「
「そ、それはそうですけど……」
「失礼。少し拾得物を扱う部署に行って参ります。盗まれたとは言え、万が一という事もございますから」
くるっと反転して歩き出すファイ。
「あ、ファイさん」
名残惜しそうに呼びかけるノエルの声を無視して、ファイは近くにいた人に、遺失物課はどこか訊ねた後、あっさりと天幕から出て行った。
パサッと淡白に響く帳の音を聞きながら、ノエルは物思いに沈んだ。
ファイの言い分は理解できる。
しかし、そうは言っても次期教皇たる皇子が消えたのだ。そんな悠長にしていていいのだろうか、と思ってしまうのも事実。
もしも、
そう考えていた矢先である。
静かに閉まった先ほどとは逆に、今度は天幕の入口を閉ざしていた帳が跳ね除けられ、勢いよく捲られた。
出て行ったファイと入れ替わる様に入ってきたのは、金糸の刺繍が見事な、ひと目で高級品と分かる服装の、もみ上げと髭が繋がった五十代ぐらいの金髪碧眼の男。
品のある顔立ちだが、何をそんなに
醸し出す雰囲気や身なりからして、恐らく貴族だろう。
天幕内にいた全員が、突然乱暴に入ってきた男に驚き、瞠目して固まってしまう。
一同が唖然としている中、その男は殴りかかるんじゃないかと思うほどの荒々しい足取りでアウラに近寄ると、一気に彼女の襟首を掴んで持ち上げた。
地面と足の接地面は僅かつま先だけ。
必然的に首を絞められる形になったアウラは、苦しげに呻く。
あまりにも急な行動だった為、ノエルはもちろん近くにいたエペですら止める間もなく、呆気に取られてしまった。
周りにいる面々も、続く困惑と驚愕に、目をアウラ達に向けるだけで言葉を失っている。
「貴様っ!殿下を何処へやった!!この薄汚い淫売がっ!!」
どこで聞いたのか、或いは察したのか、ホープが消えた事を知ったらしい貴族の男は、自分より遥かに体格に劣るアウラを掴み上げてなお、恫喝する様に怒鳴り声をぶつけた。
「バルト、男爵様……。私、は……何も、知らな……」
苦しそうに顔を歪めて否定するアウラに、バルトなる男爵の男はさらに大声で吼える。
「嘘を吐くなっ!!何が目的だ!金か!!幾らでもくれてやるからさっさと吐け!!」
「ちが……」
「お優しい殿下は騙せても、儂は騙されんぞ!どうせ、この穢れた身体で殿下に情けを乞うたのだろう!!下賤な女めが、殿下の妻になろうなどと……身の程を知るがいいっ!!」
「あ、あの」
おずおずと、それでも勇気を振り絞ってエペが男爵に声をかけるが、
「黙っておれっ!!ルーシリアの
「ひっ――――!」
とんでもない剣幕で怒鳴られた。
エペはビクッと身体を震わせると、俯いて一歩後退る。
その理不尽とも言える光景を見ながらも、周りにいる人々は、同情の篭った視線を二人に送るだけで、誰一人として止めに入る者はいなかった。
仮にも相手は貴族。
いくらアウラに無体を働いているとしても、取り押さえるのは
むしろ、
一方、激昂し、トマトの様に顔を赤くした男爵は、自分のした事など知る
聞くに堪えない罵詈雑言をぶつけられている以上に、酸欠のせいでアウラの顔はどんどん悪くなり、青を通り越して白くなり始めている。
「わ、わ……たし……は……」
「
アウラの意識が途絶えるのも時間の問題だ。
そんな時、勢いよく二人の間に割って入ったのは、
「やめて下さいっ!!」
情けないと取られても仕方のない一同を横目に、ノエルは男爵からアウラを取り戻し、その背に庇う。
崩れ落ち、ゲホゲホと苦しそうに
「……殿下が心配なのは分かります。ですが、それは彼女を不当に
ノエルの厳しい一喝に、男爵の
「なんだ貴様は!儂を誰だと心得る!儂は聖教国筆頭貴族が一人」
「貴方がどこの誰かなんてどうでも良い!!私は貴方の、人が人に向けるとは思えない発言を怒っているのです!謝りなさいっ!!」
「なっ――――」
「国を支えるべき貴族であるならば、それ相応の発言、振る舞いをするべきです!!証拠も無いのに、身分や生い立ちで口汚く人を責めるなど、貴族にあるまじき行為!彼女に、アウラさんに謝りなさいっ!!」
「あ、あのノエルさ」
「き、貴様ああぁぁぁぁっ!!」
呼吸を落ち着かせて立ち上がり、仲裁に入るべく口を挟んだアウラの声を遮って、男爵は血走った目で、ノエルに向かって大きく拳を振り上げた。
殴られる。
ノエルがそう思った時だった。
「何をしている」
地鳴りの様な低い声が天幕内に響いた。
荒々しくはないが、自然と背筋が伸びる、威厳に満ちた声だ。
ピタッと全員の動きが止まり、ゆっくりと声のした方を向く。
男爵も、振り上げた拳を下ろして、しかし顔は険しいまま振り返った。
そこにいたのは、銀糸の刺繍が施された白い騎士服を身に纏う初老の男。
白髪の中に、ちらほらと見える渋い緑色の髪を後ろに撫で付けた男が、天幕の入口で仁王立ちしていた。
かなりガタイが良い為、初老と言えど生半可な若者には決して負けないだろう。
そんな大木の様な男は、口を真一文字に引き結んで、厳しい表情を浮かべている。
「衛士長殿……」
ポツリと、誰かが呟く。その中には、敬意と畏怖が入り交じっていた。
逆に、アウラは声の主を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
「衛士長様」
「ち、父上ぇ~」
エペも泣きそう……もとい泣きべそをかきながら、姿を現した衛士長を見ていた。
そんな頼りない
「な、なんの騒ぎだ?これは……」
と、続けて衛士長の背中から現れたのは、この騒動の原因となった人物。
稲穂の様な暖かな色合いの金髪と、
半袖の白い夏用外套を身に纏った、聖教国第一皇子。
ホープ・アレクサンドル・スクルディアがそこにいた。
「で、殿下!?」
目を剥いて驚く男爵。と、天幕内にいた面々。
当然、ノエルとアウラ、エペも口をポカーンと開けて固まっている。
「ゆ、行方不明に、なられたと……」
なんとか、つっかえつっかえ訊ねてくる男爵に、ホープはバツが悪そうに視線を地に落として、カリカリと頭を掻いた。
「あ、それは……すまない。
絶句。
まさにそのひと言が相応しい場面である。
そんな中で、深く深くため息を吐いたのが、倦怠感を隠しもしない衛士長だった。
「……殿下。殿下の御心は立派ですが、その様な場合は憲兵か騎士に任すか、最低でも報告と連絡はするべきですぞ」
「も、申し訳ない……」
「大体、殿下は先の件と言い、少しばかり軽率に過ぎます。民を
「すまない……」
「今回だって、殿下が行方不明になられたと聞き、肝が冷えましたぞ。クロニカで起こっている事件を知らぬ訳では無いでしょうに、まったく……。御身のお立場をお忘れか?」
「…………すまない」
周囲を置いて、
受けるホープは首が折れそうなほどに項垂れ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
教師に叱られる生徒と言うべきか、それとも親に叱られる子供と言うべきか。
どちらにしても、皇族を護る衛士長と次期教皇である第一皇子の間柄とは思えない光景である。
ある意味、気心知れた仲だと言えなくもないが、それはそれとして、ホープの皇子としての威厳が消し飛んでいるのは言うまでもない。
「ち、父上。もうその辺で……」
「エペリット。お前もお前だ。ルジャンドールの様になれとは言わぬが、その様に気弱では将来殿下を護る事など出来ぬぞ」
思わず制止の言葉をかけたエペだったが、それは不幸にも矛先が自身に向くだけで、衛士長の説教が止まる事はなかった。
むしろ、予期せず兄と比較された事で、エペの表情は引き攣り、硬直してしまう。
兄であるルジャンドールは、現在聖騎士として働いており、魔族を討伐する為に聖教国内はおろか、場合によっては国を跨いで活躍している身だ。
エペとはかなり歳が離れている上に性格もまるで逆。
幼い頃は接点があり、尊敬していたが、事あるごとに父である衛士長が引き合いに出してくる為、今ではコンプレックスになってしまっていた。
兄弟仲は悪くないし嫌ってもいないが、父に名前を出されると鬱々としてしまう。
そんな感じである。
エペは、性格的に騎士の様な戦闘を主とする武官ではなく、計算や書類作成等をする文官の方が向いている。
しかし、爵位としては最も下である
兄が聖騎士として働いている以上、自分に近衛騎士になる期待がかかっているのは分かるが、それにしたって向いていないものは向いていない。
重くのしかかる父の期待が、最近は一層辛く感じてしまっているのが、エペの悩みであった。
例え言っている本人にその自覚が無くとも、受け取る側を追い詰めてしまうのは往々にしてある事。
特に、他者ではなく身内であればこそ、出る言葉には遠慮がなく、言い換えれば無神経になってしまうものだ。
自然と目が泳ぎ、ずーんと沈んでいくエペを見て、ホープは慌てて声を上げた。
「衛士長!その話は後ででいいだろう!」
ホープとエペは同い年であり、主従を通り越して、友人と言ってもいいほどに仲が良い。
それ故に、エペの性格も悩みもよく熟知している。
比較される事の辛さ、親や周りからの重圧は筆舌に尽くし難い事を、身をもって知っているからこそ出た制止の言葉だ。
いずれ、自分の意思を伝えるにしろ伝えないにしろ、貫き通すにしろ折れるにしろ、この問題と向き合う時が来るのだろうが、それは少なくとも今ではない。
責めを多分に含んだ
「そうですな。今は置いておきましょう」
そう言って、今度は視線を男爵に向けた。
「それで、バルト男爵。貴殿は一体何をしていた。一瞬だったが、そこの少女を殴ろうとしていたように見えたが?」
「この娘が儂を愚弄したのでな。それ相応の罰を与えてやろうとしただけの事よ」
「――っ!先に愚弄したのはそちらです!アウラさんに、あんな酷い事……」
当然の事と、しゃあしゃあと
「黙れっ!!事実であろうが!!」
すると、再び激昂した男爵が、ノエルに向かって唾を飛ばしながら怒鳴った。
ノエルもノエルで、まったく引く気がないものだから、
「例え事実だろうと、言って良い事と悪い事があります!いい大人が、ご立派な貴族様が、そんな簡単な判断も出来ないんですか?!」
なんて、火に油を注ぐような事を口走る。
「な、にいぃぃぃぃっ!?」
ギリギリと、歯を噛み砕きそうな勢いで歯軋りしながら、ノエルに腕を伸ばす男爵。
が、その手が瑠璃色のローブに届く寸前で、
「両者やめよっ!!」
ホープの一喝が場に響いた。
ビクッと、男爵の手が止まる。
ホープは苦み走った顔で二人を見た後、疲れたため息を盛大に吐いた。
「……二人とも、互いに言い分があるのは分かったが、これ以上ここで
皇子であるホープにそう言われては、臣下として引かざるを得ない。
とは言え、なぜ貴族である自分が後回しにされなければいけないのか、と憤りが湧き上がる。
しかし、ここで異を唱えるのは不敬に当たるし、
男爵は悔しげに唇を噛み、ノエルと、その背にいるアウラをきつく睨みつけた後、
「……畏まり申した。失礼いたす」
怨念の篭ってそうな低い声で告げて、肩をいからせながら天幕を出て行った。
過ぎ去った嵐に、天幕内にいた面々から安堵の吐息が漏れる。
「皆も済まなかった。業務に戻ってくれ」
続くホープの言を聞いて、漸くと言うべきか、ザワザワといつもの喧騒が戻ってきた。
「殿下」
「ああ。分かっている」
短く呼びかけてきた衛士長の意を理解したホープは、エペとアウラ、そしてノエルを見やる。
「何があったのか大体は察するが、一応事の
「畏まりました」
首肯するエペを見た後、ホープは傍らにいる衛士長へ目を向けた。
「衛士長は……」
「もちろん、殿下に同行いたします。また突然消えられたら堪りませぬ故」
「ぅあ……はい……」
拒否する事は許さないとばかりに、硬い口調で言い切る衛士長に、ホープが苦い表情で頷く。
そんな中、アウラは沈痛な面持ちで俯き、赤いエプロンドレスの裾を、きつく握り締めていた。
「私のせいで……申し訳ありません。ホープ様、衛士長様……」
「い、いや!アウラが気にする事じゃ」
「弁解も謝罪も、話を聞き終えた後だ」
今にも泣き出しそうなアウラを見て、明らかに
男爵と同じく、アウラを
アウラは僅かに息を呑むが、すぐに顔を上げて衛士長と目を合わせる。
「はい」
そこに込められていたのは、怒りや恨みではなく、前向きな潔さだ。
「ア、アウラ……」
何故か感極まって涙ぐむホープ。
皇子である自分ですら怖気づいてしまう厳しい衛士長に、懸命に立ち向かっていく様な姿を見て、感銘を受けたのかもしれない。
そんなホープを見たアウラから苦笑が漏れ、衛士長からはただため息が漏れた。
ノエルとエペは、その様子を微笑ましげに見ている。
和やかな空気がふわりと漂う中、ホープは一度盛大に鼻をすすると、
「では移動しよう。エペ、任せたぞ」
気を取り直すように言った。
「御意。殿下」
腰を折って一礼するエペを置いて歩き出す一同。
が、突然ノエルが何かを思い出した様に「あっ!」と声を上げた。
「ま、待って下さい!実はもう一人同伴者がいまして!」
言われてアウラも思い出したらしく、同じように「あっ!」と零した。
「同伴者?」
「はい。ファイさんと言って、ここに来る途中で出会った方なのですが……」
怪訝そうなホープに、ノエルが遺失物課に行ったまま戻ってこないファイの事を説明し出した時。
バサッと天幕の入口が開かれた。
入ってきたのは、ちょうど話題に上っていたファイである。
「あ、噂をすれば!ファイさん!」
パッと表情を明るくして手を振るノエルに気付いたのか、ファイは一瞬目を丸くした後、ホープ達に向かって歩き始めた。
近寄ってくるファイを見て、ホープは胡乱げに首を傾げる。
夏にも関わらず、長袖の黒衣に身を包んでいるせいだろうか。それとも何か気にかかる事があったのか、探る様な視線を向けている。
その様子を見て、自然と衛士長の気も引き締まった。
何か妙な素振りを見せれば、斬って捨てるのも
ファイはファイで、衛士長から滲み出る微かな敵意を感じ取っているだろうに、顔色一つ変える事無く進む。
神経が太いと言うよりかは、無関心と言い表した方が適切か。
まったく意に介していない。
衛士長に対してもホープに対しても、せいぜいがチラッと
ものの数秒でホープ達の元へ辿り着いたファイに、まずはアウラが開口一番謝罪する。
「すみません、ファイさん。わざとではないとは言え、放置してしまって……」
「お気になさらず。そもそも
続けて、ファイはついっとホープへ目を向けた。
「殿下は無事お戻りになられたのですね。何よりでございました」
柔和な微笑を浮かべて
敵意、というよりは、やはり訝しむ色が強い。
「私の事を知っているのか?」
「当然でございます。この聖教国内において、殿下を知らない者など一握りでございましょう」
「……名を名乗られよ」
厳しい口調で告げたのは、ホープの背後に控えていた衛士長だ。そこに、僅かな油断も隙も見当たらない。
「これは、無作法をいたしました。私はファイと申します。
言いながら、ファイはホープに向かって軽く腰を折り、簡略化した一礼をする。
「ファイ……か。……貴殿、私とどこかで会った事はないか?何か、妙な既視感を感じるのだが……」
ホープが、ファイに対してずっと妙な表情を浮かべていた理由がこれだ。
その顔にも声にも、まったく心当たりがないにも関わらず、何故か感じてしまう懐かしさの様なもの。
しかも、それは古いものではなく最近。
だが、いくら捲ってみても自分の記憶の
故に、こうして聞いているのである。
若干言い難そうに問いかけてくるホープに、ファイは少し考え込んだ後、ゆるりと首を振った。
「…………いいえ。ございません。気のせいでございましょう」
そう否定されても、まだ引っかかっているらしく、ホープの表情は以前曇ったままで一向に晴れない。
気まずい沈黙。
そんな澱んだ空気を吹き飛ばしたかったのか、ノエルは少々強引とも取れるほどの急カーブで話題を変えた。
「それで、いかがでした?ありましたか?」
何が、と言わずとも主語を察したのか、ファイは一度首を振った。
「いえ。やはり届いてはいないようです」
淡々とした返事。
元々期待していなかったせいか、ファイの瞳にも口調にも落胆の色は浮かんでおらず、むしろ可能性を一つ潰せたとスッキリした表情をしている。
「そう、ですか……」
反対に、ノエルとアウラは小さくため息を吐いて、しょんぼりと肩を落とした。
「ですが、手がかりは見つかりました」
「手がかり?」
ファイは首を捻るノエルから、再びホープへ視線を移す。
「単刀直入に失礼いたします殿下。この一時間以内に、子供と接触いたしませんでしたか?」
突拍子もない質問に、ホープの目が丸くなり、さらに疑問符が頭の上に浮かんだ。
一方、アウラとノエルは、ファイの探し物が盗まれた経緯を知っている為、ハッと息を呑んで察した。
「ファイさん、もしかして……」
「如何でしょう?思い当たる事はございませんか?」
ポツリと零すアウラを無視して、ファイは重ねてホープに訊ねる。
すると、ホープは、何が何やら分からないながらも、ゆっくりと頷いて肯定した。
「あ、ああ……。確かに、少し前に迷子の女の子と一緒にいたが……」
「その女児の容姿、特徴を教えて頂いてもよろしいですか?」
口調も語気も一切荒くないし、問いかけるその表情は至極落ち着いたもの。しかし、どことなく圧を感じる。
「は、は?」
困惑ここに極まれりと言った様子で、ホープは微かにたじろいだ。
すると、ホープを庇うようにアウラが二人の間に割って入った。
「ま、待って下さい!ホープ様が助けたその子が、ファイさんの物を盗んだ人とは限りません!何か、証拠はあるんですか?」
「証拠……」
言われたファイは、顎に手を当てて視線を落とす。
が、すぐに上げるとアウラと目を合わせた。
「あなた方に分かる証拠はございません。ですが、アレを手にした者は分かります。残滓が残りますから」
「ど、どういう事ですか?私達には分からなくても、ファイさんには分かる何かがあると言うんですか?」
「その通りでございます。説明は期待しないで下さい。時間が無いので。さ、お教え下さいますか?殿下」
再度話を振られたホープは、相変わらず当惑したままだったが、それでも気丈にファイを見返した。
「何やら事情は分からないが、貴殿があの子に危害を加える可能性があるなら、教える訳にはいかない」
「ご安心を。私は、私から盗んで行ったアレを返して欲しいだけでございます。わざわざ害を為そうなどと言う無駄な行いは致しません」
「真か?」
「言うに及ばず」
交差する黄昏色の瞳と深紅の瞳。
ファイの心中を推し量る様に、ホープは抉り込む様な強い視線を向ける。
それを微動だにせず受け止めるファイ。
やがて、ホープは一度目を閉じて熟考した後、小さく「分かった」と呟いた。
「よろしいのですか?」
確認する為に衛士長が訊ねると、ホープはおもむろに目を開けて頷く。
「ああ。ファイと言ったか、私の信用を裏切る真似はしないでくれよ」
「御意」
即座に返答するファイを、やや疲れた様子で見たホープは、件の女児の容姿を思い出しながら口を開いた。
「年の頃は八~十歳ぐらいだったな。目と髪は藍色。髪の長さは首筋まで。白いシャツと薄茶色のロングスカートを着ていた。特徴……と言えるかは微妙だが、前髪で左目を隠していたな」
「なるほど。向かって行った先等はご存知ですか?」
「そこまでは知らない」
「左様でございますか……」
「……これで満足か?」
心持ちブスッとした面持ちのホープに、ファイは穏やかに目を
「はい。有り難く存じます、殿下。では、私はこれにて」
そして、ファイは優雅に一礼した後、
「あ……」
咄嗟に引き止めようと手を伸ばしたノエルだったが、結局どう声をかけたらいいのかが分からず、追い縋る様なその手は、寂しげに自身の胸元へと戻って行った。
そんなノエルを視界に端に捉えながら、ホープはアウラへ訊ねる。
「アウラ、彼は一体……」
「す、すみません。詳しく素性を聞かなかったので、私達もよくは……。ただ、仕事でクロニカに来ていて、それに関連した物を貧民街で盗まれたのだと言っていました……」
しかし、その肝心の仕事内容を突っ込んで聞いたりはしなかった。
ファイの
せめて、軽い概要だけでも聞いておくべきだった。
暫しの沈黙の後、ホープは小さく嘆息を吐き出す。
「……とりあえず、僕達も移動しようか……」
分からない事をこれ以上考えても、明確な答えを持ち、答えてくれる者はすでにここにはいないのだ。
返ってこない疑問など、ひとまずは置いておくべき。
今はバルト男爵の件を聞く方が先。
そのような事を考えたのだろう。
そうして、一同も漸く天幕を後にしたのである。
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