第29話 聖女と少女と泡沫① 復興と前兆 前編


 落ちる。

 堕ちる。

 墜ちる。


 呪詛が。

 怨恨が。

 未練が。


 しんしんと降る雪の様に、凝り固まって地へと落ちる。

 澱み、濁ったそれらが、降り積もる。


 あと少し。

 あと少し。


 落ちるそれらを眺めながら、力を使い果たし、鉛の様に重くなった身体を引き摺る。

 降り積もったそれらを眺めながら、ぼんやりとする意識のまま、ひざまずく。


 あと少し。

 あと少し。


 それらを掬い上げる為、震える手を伸ばした。


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「殿下!東街区の一部で断水が発生しております!至急、調査のための人員を!」

「新たに派遣された騎士団の内、数名を遣る!メンバーの中に補修魔法を使える者を入れておくから、組み込んで調査班を立ち上げろ!原因が判明次第、適宜てきぎ対応して早急に直せ!」

「殿下!住居用の建築資材ですが、供給された分だけでは想定の半分しか完了できません!近くの森林から、さらに伐採の許可を頂きたく!」

「駄目だ!これ以上森を切り開くと、生態系に影響が出る!」

「しかし!」

「住処を失くした動物が、食物を求めて次に行く場所は分かるか?我々人間の住む町だ。自分達の事で手一杯なのに、これ以上厄介事が起こるのは願い下げだ。よって、資材の切り出しは許可できない!追加の資材なら、既に要請してある。今聖都から運ばれている最中だから、届くまでは近郊の村や町から買い取れ。廃材の中から使えそうな物も見繕って供与する」

「殿下!城主殿から、いつクロニカ城を直すのかと、催促さいそくふみが届いております!」

「あの方か。まったく困ったものだ……。何度も言っている通り、城の修復作業は一番最後だ。倒壊しないよう、厳重に補強もしてあるし、城主殿も、今は無事残った別邸にて暮らしているのだろう?衣食住には困らないはずだ。行政も、とりあえずはここでこなせているし、人の住まわぬ象徴としての城など後回しだと何度言ったら……」

「い、如何なさいましょう……」

「…………。後日、改めて私が説明に伺う。城主殿にはそのように伝えてくれ」

「御意」

「殿下。ここ最近頻発ひんぱつしている行方不明事件に関してですが……」

「ああ、あの件か……。進展は?」

「申し訳ございません。目撃情報も無く、声を聞いた者もないとの事で、一向に……」

「……分かった。なら、第三騎士団の一部を派遣しよう。ちょうど、瓦礫の撤去作業も一段落ついた所だ。多少人数を割いても問題ないだろう。憲兵団と共に、警備巡回に力を入れる事はもちろん、互いに情報交換をして、打てる手は全て打ってみてくれ」

「有り難く存じます」

「誰か!第三、第六騎士団の団長を呼んでくれ!」

「はっ!」


 クロニカの惨劇から二週間後。

 太陽が高くなり始めた朝。

 臨時行政所となった天幕テントの中は、有り体に言って騒然としていた。

 その入口にて、呆然と立ち尽くす者が一人。


 蒼氷色アイスブルーの緩くウェーブした長髪と、銀糸を散らしたような、浅葱色の不思議な瞳。

 首から二つの月をモチーフにした銀製のロザリオを下げ、羽織るように瑠璃色の薄手のローブをまとう十八歳ほどの女性。

 巡礼の旅の真っ最中である、聖女ノエルその人だ。


 つい少し前にクロニカへ到着したノエルは、臨時の行政区と化した、正門前広場にのきを連ねる天幕群へと立ち寄った。

 理由は二つ。

 一つは、何か手伝える事がないかを聞く為。

 二つ目は、クロニカここに立ち寄ったであろう、二人の旅人の情報がないかを確かめる為である。


 クロニカの事件については、旅の途中で聞き及んでいた。

 魔族の襲撃を受け、町の四分の一が焦土と化してしまった事も。

 その際、スクルディア聖教国第一皇子である、ホープ・アレクサンドル・スクルディアの婚約者と目されていた、クラリアス公爵家の令嬢を含めた十数名の貴族達、そして大勢の無辜むこの民が犠牲になってしまった事も。

 おかげで聖都アトリピアでは、魔族との戦争を声高に叫んで血気に逸る民衆をなだめたり、貴族の再編やらクロニカへの支援やらで大わらわだと伝わっている。


 とは言え、直接的な被害を受けているクロニカよりはマシだろう。

 失った家族や恋人、友人を想って涙に暮れる者。

 綺麗さっぱり消失してしまった家や職場に、為す術もなく途方に暮れている者。

 その原因となった魔族に対する怨嗟の声が、ヘドロの様にべっとりとこびり付いて渦巻いているクロニカここに比べたら。

 正直、ここでも魔族との戦争を望む声は少なくないが、今は自分達の生活基盤を整える方が先だと考える者が多い為、そこまで大きな動きにはなっていない。


 そうして、天幕を潜ったノエルだったが、すぐに驚愕から立ち尽くしてしまった。

 声をかけるのもはばかられる様な喧騒も然る事ながら、何より〝殿下″と呼ばれ、ひっきりなしに指示を飛ばしている人物を目にしたからだ。


 天幕の正面奥にある、簡素だが大きな執務机には、書類が文字通り山積みとなっている。

 そこにいる、稲穂の様な金色の髪に、柘榴石ガーネット色の瞳をした青年。

 周囲の話を聞く限り、彼が聖教国の第一皇子である事は確かなのだが、ノエルが探している、もとい追っている旅人の一人と瓜二つの容姿をしていたのだ。

 纏っている〝色″が違う為、すぐに別人だと分かったのだが、それでも我が目を疑うほどに、彼はよく似ていた。


 ノエルの眼は、普通の人とは違い、魔族と人を〝色″によって判別することが出来る特別な物。

 魔族は黒。人間はそれ以外の色、と言った感じだ。

 〝神眼″と呼ばれる特異な眼なのだが、ノエルのそれはかなり精度が高く、人によって色の違いを見分ける事が可能。

 例えば、ノエルが追っている旅人の一人は魔族であり、その色は夜闇の様な漆黒に黄金の粒子が舞い散り、時折紫色の稲妻が走る、戦慄するほどに美しいものだ。

 もう一人の旅人は人間で、眩いが柔らかい色合いをした白金に焔の様な紅は迸っており、冬の太陽の様な印象を抱く色をしている。

 これが、ノエルに見えている世界であるが、とはいえ塗り潰されている訳ではなく、身に纏う様に色は重なっている為、個々人の判別は可能だ。


 では、くだんの殿下はどのような色をしているかと言うと、春の草原に似た鮮やかな若草色をしていた。

 この殿下とよく似た外見の旅人は人間の方。

 なので、探している旅人と違う事は一目瞭然なのだが、外見がここまで似ているのには何か理由があるのだろうか、とノエルは考えずにはいられなかった。


 すると、物思いに沈んでいたノエルに、突然ドンッと後ろから何かがぶつかった。


「入口でぼうっと突っ立ってんなよ。邪魔だろが」

「あっ、ご、ごめんなさい!」

 口は悪いが、至極真っ当な苦情に、ノエルは即座に謝罪を口にする。


 衝突してきたのは、ノエルより二回りは大きい男。

 頭に白いバンダナを巻いた三十代後半と思しき人物だ。

 役人や騎士ではなく、土木作業に従事している様な軽装で、日に焼けた逞しい身体つきをしている。

 その手には、丸めた大きな用紙を三つ持っていた。


「なんだ?アンタもホープ殿下に用事か?」

「えっ、あ、私はその……」

 口篭るノエルに、男は呆れた口調で続ける。

「見ての通り、殿下は今忙しいんだ。火急の用じゃないなら後にした方が良いと思うぞ」

 正しく正論。

 火急か、と問われれば、まったく火急ではない。

 何か手伝える事はあるか、ここに来たはずの旅人二人を知らないか等と、どうして火急と言えよう。

「そ……うですね……。そうします……」

 しょぼーんと肩を落とし、ついでに視線も落とすノエルに、そこはかとなく罪悪感を抱いたのか、男は頬をポリポリと掻いた後、

「……昼頃なら、みんな昼飯を食いに行くから、殿下も多少は手が空くと思う。面倒な用事じゃないなら、その時が狙い目だと思うぞ。じゃあな」

 そう助言をし、ノエルを追い越して行った。

「っ!あ、ありがとうございます!」

 まだ聞こえる内にと、ノエルが大声で礼を言うと、男は手を軽く上げて返した。


 そうして、一度天幕を後にするノエル。


 さて、これからどうしようと一瞬考え込むノエルだったが、ふと何か思い当たったのか、すぐに歩き出した。


 クロニカは大きな町だけあって、主要となる門が四つある。

 南にある正門、北にある裏門、西と東にある街門だ。

 厳密な役割は決まっていないものの、基本的に正門は最も使用頻度の高い門で、四つある門の中で一番大きい。

 大きな商隊はもちろん、凱旋や王侯貴族の出迎えから町人、旅人の出入りまで多岐に渡って使われている。

 その為か、正門の警備が一番厳重だ。

 逆に裏門はあまり使われておらず、通る者と言えば旅人ぐらいだろう。

 西と東の街門は、食料や生活必需品を卸す為の中小商人がよく使用しており、クロニカの住人にとっては、正門より街門こちらの方が馴染み深い。


 正門から真っ直ぐに伸びる広い大通りを進んで行けば、町の中心に無数の尖塔を組み合わせた様なクロニカ城がある。

 クロニカ城を通り過ぎ、北街区に入れば、クロニカの名物とも言える大図書院があるのだが、二週間前の事件のおかげで綺麗に焼失してしまっていた。

 倒壊しただけならまだしも、熱線にて焼き払われてしまった為、瓦礫どころか本の一冊すら残されていない。

 貴重な文献や本が多く所蔵されていた故、大図書院が跡形も無く消し飛ばされたと聞いて、大勢の学者が悲嘆に暮れたのは言うまでもないだろう。


 そんな中、ノエルが足を向けたのは、クロニカ城から少しだけ西にある神殿だ。

 元々、巡礼の旅の途中であるノエル。

 聖都アトリピアにある大神殿で、聖神スクルドの神託を得て〝聖女″と呼ばれているが、本人的にはただの〝聖女″であり、それ以前に一神官であると認識している。

 聖教国内において、このクロニカにある神殿は、聖都の大神殿に次いで大きい。

 今回の件で喪失していないか、或いは損傷を受けていないか気になったのだ。


 大通りを暫く歩き、途中から脇道に入ってショートカットを図る。

 城塞都市であった名残りの、迷路の様な町を危なげなくスイスイと進んで行くノエル。

 以前訪れた時、散々迷い倒したおかげで、正門から神殿に至るまでの道程は嫌というほど身に付いていた。

 ノエルは町の見所の一つである、家屋の上を縦横に走る水道橋を見上げ、次いで視線を落とす。

 そして、ふっと表情をかげらせた。


 月並みな言葉になるが、街中はひどく雑然としていた。

 使えなくなった建物を取り壊した残骸は、搬出が間に合わないのか、道の比較的大きなスペースにゴロゴロと乱雑に置かれてある。

 道行く人々も、心なしかピリピリとしており、路上に座り込んで俯いている人を鬱陶しげに見ては通り過ぎていた。

 恐らくは家を失い、仮設住宅にも入れなかった人達なのだろうと思う。

 本来であれば同情され、支援されるべき人達であるが、今クロニカに住んでいる人々に、そんな心の余裕は無いのだと察せた。

 天幕での一幕を見るに、行政がサボっていると言う訳でもない。

 単純に、人手と物資が足りていないのだ。

 ノエルとしては、すぐにでも駆け寄って助けになりたいと思うのだが、そうは言っても身体は一つきり。

 焼け石に水、にもならないのは目に見えている。

 だから、ノエルはその衝動をグッと我慢すると、足早に通りを進んで行った。


 やがて見えてきた神殿は、見る者を圧倒するほどに大きく、また威厳に満ちていた。


 真っ白い幾本もの石柱は、中にある建物を囲う様に四角く建ち並んでおり、上には蓋をする様に三角形の屋根が乗っかっている。

 所謂いわゆる、列柱式神殿と呼ばれるものだ。

 建物の高さは優に五階建ての建物ほどもあり、まさに圧巻。

 横幅も家を五、六軒連ねたぐらいに長い。

 眼前にある十段程度の階段を上った先に、土台となる石の床が広がっており、その少しだけ先にメインとなる建物がある。

 ナイフで切り分けた様な、綺麗な四角い石材を積み上げて造られた本殿であるが、今は正面にある重厚な大扉が大きく口を開けていた。


 ざっと見た限り、建物自体に損傷は見受けられない。

 が、代わりにと言うべきか、大扉付近に人々が詰めかけていた。

 負傷者、ではない。だが皆覇気がなく、目も虚ろだ。

 まるで、葬儀に参列している様な鬱々さである。


 なんだろう?と思い、ノエルが階段下から様子を窺っていると、

「ノエル様?」

 不意に後ろから声をかけられた。

 呼び声に反応して振り返ったノエルの目に映ったのは、以前ここに来た時に懇意こんいとなった修道女シスターの姿だった。

 ノエルと同世代ぐらいの女性で、頭に被った白いヴェールから覗く髪は薄茶色でくるくるしている。

 瞳の色は春空の様な柔らかい青。

 おっとりとした印象を受ける小柄な人物だ。

 その低い身長も相まって、実年齢よりも若く見られるのが、彼女のささやかな悩みである。

 そんな彼女は今、大きな紙袋を抱えていた。

 野菜や果物、パン等の食材が口から覗いている事から、どうやら買い出しの帰りらしい。


「モニカ……さん?」

 モニカ、と呼ばれたシスターは、ノエルの顔を見るや否や、パアッと嬉しそうに顔をほころばせて駆け寄って来た。

 袋から落ちそうになったリンゴを慌てて抑えながら、それでも足は軽快だ。

「やっぱりノエル様!どうされたんです?またクロニカこちらに立ち寄られるなんて……」

 モニカに釣られて、自然とノエルの顔も明るくなる。

「お久しぶりですモニカさん!お変わりないようで何よりです。クロニカで起こった事、道々で聞き及んでいましたが、かなり酷いようですね……」

 それを聞いた途端、モニカの表情が一気に曇る。

「はい。本当に……。まだ行方不明の方が何百人もいて、規模が規模だっただけに全容が掴めず、そもそも見つけ出せるかどうか……」

 モニカのその口振りから、彼女の中では既に行方不明者=死者として結び付けられているらしく、生存者については諦めている節が窺えた。

 その事を敏感に感じ取ったのだろう。

 ノエルは顔を暗くして聞き返した。

「そんなに……ですか?」

「……ノエル様、北街区の惨状をご覧になりましたか?」

「いえ、まだ」

「……〝ここまで酷いのならば、いっそ諦めもつく″。あの光景を見れば、誰しもがそう思います。亡くなった方々……死者数として計上されているのも、北街区に住んでいた人や、あの時あの場所にいたとされている人ばかり。こう言っては何ですが、ご遺体を発見できた方は運が良いぐらい。ですので、行方不明になっている方々も、恐らくは……。ノエル様、どうか一度赴いて、鎮魂の祈りを捧げて下さいませ」

 北街区は主に平民が多く住む場所。

 ある程度避難は出来たものの、それでも犠牲者の多くは、そこに住んでいた無辜の民だった。

 ノエルは苦い顔をしたまま小さく頷く。

「……分かりました。所で……」

 そして、ふいっとおもむろに神殿へと目を配った。

「あの人だかりは一体?」

 言われ、モニカの目もそちらに向いた。


「え?ああ、あの方達は職を求めて来たのです」

「職……ですか?」

「ええ。事実上の北街区消滅によって、必然的にそこで働いていた人達は無職になってしまいましたから。町で生きていく上で、お金はどうしても必要になります。臨時の給付金も永遠に出る訳ではありません。なるだけ早く生活の基盤を整えておく必要があるかと思いまして。……本来なら、これは行政の役割なのですけれど、あまりにも人数が多い為、私達が請け負って斡旋あっせんしているのです」

 そう言われ、ノエルは臨時の行政所となった天幕での光景を思い出した。


 ひっきりなしに報告に来る人達。

 絶え間なく指示を飛ばす殿下。

 どんどん積まれていく書類。

 あちらこちらへ駆けずり回る、部下と思しき人々。

 控えめに言っても東奔西走。

 てんてこ舞いという言葉がよく似合う有様で、とてもじゃないが余裕のある様子ではなかった。

 であれば、モニカ達のこの行動も、当然と言えば当然である。


「そうだったんですね……」

「申し訳ありません。本来、神殿はまつりごとには関わってはいけないのですが、教会や修道院だけでは手が足りず……」

 罪悪感からか、暗く声を落として項垂れるモニカに、ノエルは即座に首を振って返した。

「いえ。非常時ですから。何より、困っている方に手を差し伸べるのは、三神教の教えでも推奨されています。女神様はもちろん、総神官長様とて怒りはしないですよ」

 候補とは言え聖女であるノエルにそう言われ、酷く安堵したのか、モニカは顔を上げてホッと表情を和らげる。

「ありがとうございます。ノエル様」

 それを見て、ノエルも穏やかに微笑んだ。

 

 そして、おずおずと言った感じで続けた。

「あの、もしよろしければ、私も何かお手伝いしましょうか?」

「え?」

 キョトンと、モニカが面食らった様に目を丸くする。

 そんな彼女の様子に、途端不安げに視線を彷徨さまよわせるノエル。

「その……出来れば一晩泊まらせて頂きたいと思いまして、代わりに何か手伝いを……と。お邪魔……ですか?」

「あ、い、いえ!そういう訳では!とても光栄で有り難い事なんですけれども……」

 言い淀み、うーん……と考え込んでしまうモニカに、ノエルは慌てて手をブンブンと振った。

「や、やっぱり迷惑ですよね!突然来て、泊まらせてくれ、手伝わせてくれだなんて!お忙しいのに!」

「あっ!ち、違いますよ!そうじゃないんです!以前にもお泊まり頂きましたし、その時の部屋も空いているので、一晩でも一週間でも問題ないのですが、ただ……手伝って頂きたいお仕事と言うのが、その……雑用、と言いますか……。こんな事を聖女候補であるノエル様にお願いしてもよろしいものか……」

「雑用……。なんでしょう?神殿のお掃除ですか?ゴミ捨てですか?それとも……」

 指折り数え始めたノエルを見て、今度はモニカが勢いよく手と首を振る。

「いえいえ!さすがにそこまででは!えっと……お願いしたい事と言うのはですね……」


 そう言ってモニカが告げたのは、雑用と言えば確かに雑用の範疇はんちゅうに収まる事柄。

 だがそれは、別段軽い仕事と言う訳でもなく、ある意味最も重要な仕事だった。


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 遠くに大きな入道雲が見える昼手前。

 ノエルは、大きな木製の台車に山積みになった弁当を、北街区に向けて慎重に運んでいた。


 モニカに頼まれた仕事、と言うのはつまり、北街区にて復興作業にいそしんでいる人々への、昼食の配達だった。

 彼女の話では、弁当配達、職業斡旋以外にも、日に二度の炊き出しも行っているとの事。

 神殿、教会、修道院と、三方で手分けして作っているのだが、神殿の場合、元々シスターの数が少ない為に手が回らず、いつも配達が遅れてしまっていたらしい。

 そこで、ノエルに白羽の矢が立った訳だ。

 本来なら二人以上で運んでいるこの作業。

 当然今回も、比較的余裕のあるシスターが付くはずだったのだが、ノエルはこれを断った。

 理由としては本当に単純で、神殿内が筆舌に尽くし難いほど忙しそうだったから、である。

 故に、魔法を駆使すれば、運ぶぐらいなら自分一人でも大丈夫だと譲らなかったのだ。


 であるからして、ノエルは現在一人。

 周囲に町人の姿はあれど、シスターの姿は無い。

 現場にて働いている作業員の総数と比較すると、ノエルの運んでいる弁当の数は少ないが、それでも台車いっぱいにうず高く積まれているのは確かだし、かなりの力を入れて運んでいるのは間違いのない事実だ。

 例え隙間なく綺麗に敷かれていたとしても、石畳は石畳。

 ちょっとした凹凸おうとつで、台車がガタガタと揺れる。

 一応、台車と弁当を固定する魔法をかけてはあるが、それでも台車自体が転倒してしまっては意味が無い為、ノエルは無意識に息を詰めてしまうほど慎重に運んでいた。

 汁物等、零れやすいものが無い上に、重力制御の魔法によって、ある程度重量の軽減はしてあるものの、それを差し引いてもなお重い。

 そこへさらに追い打ちをかけたのが、この天気である。

 出来るだけ日差しを避けて進んでいるが、季節は夏。しかも昼。

 まるで試練の様に、ノエルへ暑い空気が襲いかかっていた。

 道行く町人達は自分の事で手一杯らしく、ノエルの手助けをしようとする者はおらず、むしろ、なんて邪魔な、と煙たげな視線を向ける者すらいる始末。

 薄情だと思うだろうが、これがこの町クロニカの現状。

 そんな中、ノエルは気を悪くした風もなく、首筋を流れる汗に気持ち悪さを感じながら必死に運んだ。


 西の大通りを抜けて中央区。

 その中心地にあるクロニカ城が見えてきた時、ノエルは思わず足を止めて、言葉を失った。

 南側にある前半分は至って普通。

 石とレンガを組み合わせた、巨大で豪奢な城がある。

 門扉や白い階段も、特に損傷は見当たらない。

 だが、その後ろ半分は酷いものだった。

 崩れているのではない。

 溶けたようにツルリと無くなってしまっているのだ。

 あまりにも綺麗に無くなってしまったせいか、城には倒壊の気配も見られないぐらいである。

 それでも念の為か、大量の木材が幾重にも組まれ、尖塔の先に至るまで、かなり厳重に補強作業が行われていた。

 そんなクロニカ城よりもさらに酷かったのが、北に広がる光景。

 元は北街区であった場所だ。

 クロニカ城が中央区にある事から、実際の被害は北街区に留まらず中央区北側も含まれるのだが、北街区の想像を絶する悲惨さに、皆の目はそちらに向いてしまっているのだろう。


 端的に言って、焦土だった。


 瓦礫どころか石一つ、草木一本残らない黒く焼けた大地。

 つい最近、大穴でも埋めた様な真新しい土が一部に見られるが、ほぼ全てが黒く焦げている。

 綺麗さっぱり何もない景色に、モニカの言っていた、『ここまで酷いのならば、いっそ諦めもつく』と言う言葉が甦る。

 なるほどその通りだ。

 これでは、行方不明者と言う名の死者など、蒸発してしまって骨のひと欠片さえ見つけるのは無理だろう。

 今現在の死者数は、分かっているだけで二万人弱だが、ここに行方不明者を加えれば余裕で超える。

 多いか少ないか。

 町の人口比で換算すれば、少ない方なのだろう。

 だが、生命いのちと言うのは単純な数では推し量れない。

 本人はもちろん、家族や友人にとっても、当たり前にあった日常が唐突に奪われたのだ。

 その心中たるや、想像するにかたくない。


 ノエルは痛ましげに顔を曇らせると、目を閉じ、静かに黙祷した。

 その魂が根源神の元へ無事還るように、次の生が女神の祝福を得て、平穏で幸せに満ち溢れたものになるように。

 そうして、短い祈りを捧げ終わると、ノエルは再び目を開け、台車を更地になった北街区へ向けて押したのだった。


 北街区の復興作業は、まず外敵からの侵攻防ぐ為の防壁を再構築する班と、住人の仮設住宅を建てる班の二つに別れている。


 まず中央付近に、建築班によって造られた仮設住宅群。

 そこから東に向かって、以前の記録を元に本来の住宅を造っていく計画になっている。

 住宅が完成し、住人の引っ越しが完了次第、それに合わせて仮設住宅は解体し、また別の住宅資材として回っていく仕組みだ。

 が、今はその資材自体が充分でない為、仮設住宅の数もまだ少なく、数える程度しかない。

 現在も急ピッチで建造されているが、家を失くした住人全てが入れるようになるのは、まだまだ先の事だろう。


 防壁は、西と東の消失した部分から順次造られるが、それとは別に裏門から修復作業していく組がある。

 故に、防壁班は三つに組分けられており、教会と修道院が担当する弁当は、最も人の多い中央と東分だ。

 ノエルが運んでいる弁当は、西で働く防壁班の人達の分。


 石畳でなくなった為、より足場の悪くなった道を、ノエルは西寄りに向かって進む。

 そこに、作業員の詰所となった仮設の建物がある、と聞いていたからだ。

 木造二階建ての、それなりに大きい建物だからすぐに分かると言われていたのだが、果たしてそれは合っていた。

 まあ、周りに何もないのだから、それはそうだろう。

 遠くに見えてきた、暖かい色身の茶色い建物。

 そこへ近づくにつれ、トントンカンカンと何かをハンマーで叩く音と共に、活気のある……もとい荒々しい男達の声がノエルに届き始めた。


 復興の為の土木作業員は、今は猫の手も借りたいほどに足りない。

 その為、本業の作業員に加え、職を失った人達が、臨時とは言えこの建築現場で大勢働いている。

 が、この北西地区は元々貧民街であったのもあり、上記以外の貧民も多く手伝っていた。

 それ故か、西で働いている人達はあまり素行が良くない。

 態度はもちろん、口調も乱暴。殴り合いの喧嘩になる事など日常茶飯事だ。


 腹が減れば気も立つ。

 昼前など、一番厄介事の起こる時間帯だった。

 いわんや、ノエルの耳に届いたのは、そんな声である。


「だから!この資材はこっちじゃねえつってんだろっ!!何回言わすんだ、このボケ!!」

「ああんっ!?誰がボケだコラッ!」

「ボケじゃなかったらバカか?それともサルか?とにかく、コレは北門建築班に持ってけ!」

「命令すんな!ぶっ殺すぞ!!」

「オレは西防壁ここの現場監督だ!命令出来る立場にあんだよ!!次にその生意気な口きいたら給料減らすからな!さっさと行け!!」

「覚えとけよ、このゴリラ野郎っ!!」


 などと、口汚い捨て台詞を残して、ボロ衣の様な服を着たかなり人相の悪い男は、両脇に大量の板材を抱えて走り去って行った。

 一方、ゴリラ野郎と言われた男は、盛大なため息を吐いてその後ろ姿を見送る。

 その目に不快感や苛立ちと言った色は薄く、どちらかと言えば、近所の悪ガキを見る様な、疲労と呆れが入り交じったものが浮かんでいた。

「ったく、マジで減俸にするぞバカが……」

 そう呟き、反転しようとした所で、ゆっくりと近付いて来るノエルの姿に気が付いた。

 そして、パチッと目が合う。


「んお?」

「あ、あなたは……」


 驚いて目を丸くする両者。

 その男とは、臨時行政所となった天幕で、ノエルに助言をしてくれた人物だった。

「よお、嬢ちゃん。どうした?こんな所で……」

 男の視線がノエルから台車へと落ちる。

「ああ、弁当……。もうそんな時間か」

 言いながら男はノエルに近付くと、台車を奪い取って押す役を変わった。

「あっ!?」

「嬢ちゃんの細っこい腕でコレを運ぶのは大変だったろ。……ん?」

 男は怪訝そうに首を傾げる。

「なんか、見た目に反していやに軽いな。なんだ?まさか、今日は野菜サラダだけなんて言わねぇよな?」

「重力系の魔法で、本来の半分程度の重さに軽減してるんです。って、そうじゃなくて!これを運ぶのは私の仕事ですから」

「はぁ~なるほどねぇ~。お~い!!お前ら~!飯だぞ~っ!!」

 慌てふためくノエルをよそに、男はしきりに頷いて感心した後、防壁の修復作業をしていた男達に向かって叫んだ。


 それに反応して、高く組まれた足場にいる数十人から、歓声とも返事とも取れる声が返ってきた。

 続けてゾロゾロと下に降りると、男とノエルに向かって歩いて来る。

「あっあの!」

「おう。これで嬢ちゃんの仕事は終わりだ。弁当のゴミ処理はこっちでするから、後で台車だけ回収しに来てくれ」

「え?で、でも……」

「嬢ちゃん、殿下に用事があったんだろ?今から行けばまだ間に合うぞ」

「あ……」

「今の時間帯、大通りは死ぬほど混んでるから、防壁沿いに進んで正門に行った方が近道だ。街路に入らなけりゃ迷う事もない。さ、さっさと行け」

「あ、ありがとうございます!」

 そう、勢いよく腰を折って礼を言うと、男は朝方と同じように軽く手を上げて返したのだった。


 そうして、ノエルは男達の横を通り過ぎて、防壁沿いに進み始めた。


 まだ無事な防壁と、辛うじて残った住宅に挟まれて、行く道の半分は薄暗い。

 今時分は皆食材を買いに大通りへ行っているらしく、この通りには人っ子一人いなかった。

 場所が貧民街の一部である、と言うのも、人が寄り付かない一因だろう。

 民家の屋根で三毛猫が昼寝をし、鳥のさえずる声がちらほら聞こえるものの、大通りの喧騒はさっぱり届かない。

 ここだけを切り取れば、平和そのものと言ってもいい光景。

 その中を、ノエルは足早に、しかし心持ちはのんびりと歩いて行く。

 道中、二人一組で巡回に当たる憲兵や騎士とすれ違い、最近行方不明事件が頻発している事、故によくよく身辺には気をつける事、もしも何かあれば、すぐに大声を上げて助けを呼ぶ事等を厳しく言い含められた。

 いくら町の治安維持を役目としているとは言え、正直、町の復興で手一杯なのに、これ以上問題が重なるのは勘弁願いたい。

 とは言え、すでに事が起こってしまっている以上、見過ごす事は出来ない。であるならば、なるだけ早急に解決したい。

 そんな思惑が、憲兵からも騎士からも見て取れた。

 それを読み取ったノエルは頷きつつ、不審者等を見かけたらすぐに報告する旨を伝えて別れた。


 それから進む事暫く。

 そろそろ西門が見えてくる頃合いで、唐突に脇の薄暗い路地の奥から、女性の悲鳴と思しき声が微かに聞こえてきた。

 控えめに言って、和やかとは程遠く、緊迫感を孕んでいる。

(もしかして、くだんの人攫い!?)

 普通であるなら、ここできびすを返し、別れた憲兵や騎士を呼びに行くのだが、どうやらノエルは普通ではなかったらしく、弾けるように声のした方へ走り出した。


 飛び込んだのは、先ほどまでいた場所よりもさらに暗く狭い路地。

 人と人がすれ違うのもやっとな道を、ノエルは声のする方へ駆ける。

 二階建てのアパートの角を曲がり、廃屋なのか半分倒壊した家の前を突っ切り、そびえ立つ古い防壁を避けて進んでいると、徐々にただの音だった声が意味のある言葉へと変わっていき、同時に、複数の濁った男の声も聞こえ始めた。


「やめて下さい!」

「ああっ!?なんでだよ!」

「前は金さえ払えばヤラせてくれただろうが!」

「値段吊り上げようって魂胆か!?」

「違いますっ!私、もうそういう事はしないって決めたんです!」

「はあ!?何突然良い子ぶってんだ!!」

「調子に乗りやがって!ただの売女ばいた風情が!」

「第一皇子に目をかけて貰ってるから、いい気になってんだろ!!」

「いい気になんて……私っ!」

「ああ~もういいわ。嫌だっつーんなら無理やりにでもすっから」

「むしろそっちの方が金もかからねぇしな!」

「っ!やめて!!離してっ!!」


 緊迫感なんて生ぬるい。

 刺すような鋭い空気が辺りに満ちている。

 会話の内容的に人攫いではないようだが、無理やり女性を辱めようとしているのは明白。

 力で劣る女性を相手に恥ずかしくないのだろうか。

 強いいきどおりにノエルは唇を噛むと、キッと道の先を見据えた。

 まだ言い争いをしている人達の姿は見えないが、数メートル先に角を曲がれば分かるはずだ。

「――――っ」

 ノエルは焦る内心をぶつけるかの様に石畳を強く蹴り出し、走るスピードを上げた。


 ついに目当ての角を曲がり、ザッと石を抉り飛ばしそうな勢いで停止したノエルが見たのは、二十代~三十代と思しき三人の男に囲まれ、腕を掴まれた女性の姿だった。


 女性、と言うよりは、少女と言った方が適切か。

 薄紅色の長い髪を片側で三つ編みにして流した、赤い眼の十五、六歳程度の少女である。

 病人の様に白く、細すぎる身体に、少しでも血色が良く見えるようにか、緋色のエプロンドレスを着ていた。

 肩から斜め掛けの大きなカバンを下げており、焦げ茶色のショートブーツを履いた足は、取り囲むガラの悪い男達に負けるものかと、必死に踏ん張っている。


「っ!何をしているんですかっ!!」

 ノエルの一喝に、男達はもちろん、少女も驚いてノエルへ視線を向けた。

「な、なんだあ?テメェ……」

 男の一人が、困惑しながらもノエルへ、ドスの効いた低い声で訊ねる。

「私は神官のノエル・ノヴァーラと申します。あなた方は、そこで一体何をしているんですか?」

 律儀に答えつつも、ノエルの表情は険しく、また口から出る言葉も鋭い棘を宿していた。

 チッと、強い不快感の篭る大きな舌打ちが、別の男から出る。

「アンタには関係ねぇだろ。とっとと神殿にでも帰って、クソの役にも立たない女神サマとやらにでも祈っとけ!」

「関係なくなんてありません。その人は困っていらっしゃるみたいですし、女神様の教えに従って、見て見ぬふりは出来ません。とりあえず、その手を離して頂けますか?」

 毅然と言い放つノエルに苛立ったのか、さらに別の男が足取り荒くノエルへ近寄ると、グイッと襟首を掴んで引き上げた。

 宙吊り、まではいかなくとも、つま先立ちの状態になるノエル。

 自然と首が締まり、息がし辛くなる。

 それでも、ノエルは怯んだ様子もなく、自分を掴み上げる男達を厳しい目で見据えた。

「彼女から、手を、離して下さい」

 途切れ途切れながらも同じセリフを発するノエルを見て、ビキッと男の額に青筋が浮かんだ。

 そして、おもむろに男の腕が振り上がった。

「……うっぜぇんだよ。このクソアマ


「やめてっ!!」


 引き裂くような絶叫が路地に響き渡る。

 発したのは少女。

 自らの腕を掴んでいた男の手を強引に振り払い、ノエルを殴ろうとしていた男へタックルをかました。

「――なっ!?」

 思わずよろけた男の手からノエルが落ちる。

 たたらを踏んで、軽く咳き込むノエルはしかし、すぐに少女の腕を掴むと引き寄せ、即座に自分の背へと庇った。

「私が時間を稼ぎます。逃げて下さい」

「えっ!?で、出来ませんっ!」

「私の事は気にせずに、早く人通りの多い所へ」

「てめぇら……。舐め腐りやがって……」

 避難を促すノエルと戸惑う少女に、タックルを受けた男がどす黒い悪意を向ける。

「少し痛い目を見ねぇと分からねぇみたいだなあ……」

「なんだったら、あの神官にも付き合ってもらおうか?一人じゃ物足りなかったし」

「お、そりゃいい!神官ってこたぁ初物だろうしなあ」

 男達は下卑た目をノエルと少女に向けると、一歩足を踏み出した。

 いわんや、二人に向けてである。


 欲望に満ちた男達の目を見て、思わずノエルはゴクリと生唾を呑んだ。

 神官は一生純潔である事が大原則。

 事の如何いかんを問わず、異性と関係を持ったならば神官は辞さなければならない。

 当然、聖女候補であろうとそれに変わりはなく、例外は認められない。

 巡礼の旅を続ける為にも、ノエルはここで大人しく襲われる訳にはいかないのだ。

 まして、好きでもない者となど、冗談ではない。


 嫌悪感から、ギリッとノエルが唇を噛む。

 ノエルは魔法が使えるが、そのほとんどが回復と補助。

 旅の最中色々と経験した事もあって、目眩めくらましの魔法は覚えたが、やはり攻撃に特化した魔法は覚えられなかった。

 障壁魔法を使って、男達に諦めさせようか。

 それとも閃光ルミナスを使って相手を怯ませた後逃げようか。

 加速アクセルを自分と少女に付与して、一気に距離を離す手もある。

 この場で、より安全に、より確実に状況を打破出来る方法はどれか。

(……何か、隙さえあれば……)

 そう冷静に、ノエルが頭の片隅で考えていた時である。


「失礼。お取り込み中、申し訳ありません」


 そんな静かな声が、ノエルと少女の背後から聞こえてきた。

「あ?」

 訝しげな男達の顔と声色。

 思わず振り返ったノエルの目に映ったのは、同じように振り返る少女と声の主。

 距離にして十歩程度後ろ。

 そこにいたのは、年齢五十前後の初老の男だった。


 綺麗に後ろへ撫で付けられた灰色の髪グレイヘアと、黄昏時の様な黄金色の瞳。

 歳がいっているにも関わらず、思わず見惚れてしまうほど整った容貌をしており、スラッとした細身の体型ながら、弱々しい印象は受けない。

 むしろ、まっすぐに伸びた背筋や佇まいからは、洗練された剣の様な所感を抱く。

 季節はまだまだ夏だと言うのに、夜色の長い外套ロングコートを襟元まで締め、きっちりと着込んでいた。

 暑くはないのだろうか、と素朴な疑問が湧き上がるが、男は汗の一つもかかず涼しい顔をしている。

 ただ立っているだけなのに滲み出る気品は、正しく老紳士と言った体を為していた。


 その老紳士を見て、ノエルは驚く。

 外見の良さや着ている服、突然口を挟んできた事ではない。

 この老紳士に、〝色″が見えなかったからだ。

 生きている者であれば、産まれたばかりの子供であろうと纏っている〝色″。

 それが、一切見えないのである。

 植物や無機物、死体であれば分かるが、生きた人に色が見えないなど生まれて初めての経験。

 驚くなと言う方が無理だろう。


 唖然とするノエルを置いて、老紳士が再び口を開く。

「少し、お訊ねしたい事があるのですが、よろしいでしょうか?」

 物腰柔らかく、口調も丁寧。浮かんでいる表情も穏やかそのもの。

 怒りや不快感等の負の感情など、微塵も感じない。

 だと言うのに、何か抗い難い圧の様なものを感じる。

 ごく自然と、この場にいる全員が息を詰めてしまっていた。

 そして、誰も返答していないにも関わらず、

「実は私、探し物をしているのですが、どなたかお見かけしませんでしたか?これぐらいの、黒曜石に似た黒い玉なのですが」

 人差し指と親指で丸を作って、老紳士は淡々と訊ねた。

 ノエルと少女、暴漢三人。

 この五人のやり取りは聞いていたはずだろうに、老紳士はそれには一切触れず、ただ自分の質問をする。

 呆気に取られる五人だったが、最初に我に返ったらしい暴漢の一人が声を荒げた。


「誰だテメェ!?この状況が見て分かんねえのか!」

 目を丸くし、首を傾げる老紳士。

「?はあ。ですから、お取り込み中申し訳ありませんと申したはずですが?」

 怖気づかない態度が気に障ったのか、別の男が不快げに顔を歪める。

「舐めてんのか?ジジイ……」

 低く、威圧感満載の声で言い放たれ、怒りの視線をぶつけられながらも、老紳士はひるんだ様子もなく、ゆるりと首を振った。

「まさか、とんでもございません。私の問いに答えて頂ければ、即座に立ち去る所存にて。それで、如何でしょう?見ませんでしたか?黒い玉」

「知らねぇよ!!見てねぇからどっか行け!」

 三人目の男が怒鳴り、叩き付けるように答えるが、

「左様でございますか。残念です。ちなみに、どなたかが持っている所を見かけたとか、或いは持っていそうな人物に心当たりなどは?」

 老紳士は相変わらず飄々と言うべきか、慇懃無礼なままである。

「知らねぇ、つってんだろっ!!とっとと失せろ老いぼれが!!」

「今すぐ消えねぇとぶっ殺すぞっ!!」

 なので、まあ男達が激昂するのは当然と言えば当然だった。

 顔を真っ赤にして、湯気でも出そうな勢いだ。


 男達の荒々しい問答を見聞きしつつ、ノエルは暴漢達に気付かれないよう、少女を背に庇いつつジリジリと後退る。

 目の前の暴漢と、突如現れた正体不明の老紳士であれば、後者の方が襲われる可能性は低いと判断しての事だ。

 何より、三人と一人だったら、どちらが確実に逃げられそうかは問うまでもない。

 それを察しているのだろう。

 少女も特に口を挟むことなく、ノエルに従って慎重に後ろへ足を運んでいく。

 徐々に近寄ってくるノエル達に気が付いているはずだが、老紳士は特にどちらに肩入れする気もないらしく、ただその様子を視界に収めていた。

 そして、男達に向かって残念そうにため息を吐いた後、ふむと一度頷く。

「知らないのであれば仕方がございませんね。あなた方であれば、もしやと思ったのですが……まあ良いでしょう。では、私はこれにておいとまさせていただきます。失礼いたしました」

 老紳士が踵を返した瞬間、


閃光ルミナス!」


 ノエルから、鋭い声と共に魔法が放たれた。

 辺り一帯に満ちる、灼き尽くす様な真っ白い閃光。

「なっ!?」

「ぎゃっ!!」

「ぐあっ!?」

 視神経を引き裂く様な激烈な光に、暴漢達から短く悲鳴が上がった。

 ノエルの中で僅かに罪悪感が芽生えるが、今はそんな事を気にしている暇がない。

 ノエルはさらに、

「走って下さいっ!!」

 と叫んだ。

 少女が弾けるように反転し、全力で駆け出す。言うに及ばず、ノエルもだ。

「貴方も、ついて来て下さい!!」

「は?」

 ノエルは、この状況下にも関わらず、のんびりと歩き始めていた老紳士の手をすり抜けざま取り、無理やり引っ張りながら急いで少女の後を追い始めた。

 このまま老紳士を残して行っては、逆上した暴漢達に襲われるかもしれないと案じた結果の行動である。

 強制的に手を引かれる老紳士は、困惑を色濃く瞳に宿したまま、つんのめる様にして走り出した。

 少女二人の中にある焦りと、追われるかもという本能的な恐怖。

「ま、待ちやがれぇぇっ!!」

 背後から飛んでくる、暴漢達の恨みがましい罵声と暴言。

 それらを振り切る様に、必死に足を前に出した。


 走る。

 走る。

 走る。


 あれだけの光量。すぐに視力を取り戻せるとは思わないが、絶対に追ってこないとも言い切れない。

 少女は、頭の中にあるクロニカの地図を引っ張り出し、現在地から西大通りへ至る最短ルートを導き出す。

 いくら欲に溺れたならず者とは言え、さすがに多くの人目がある中で事は起こさないだろう。

 撒く為に遠回りしてもいいが、それよりはなるだけ早く通りに出た方が良い。

 特に今は、自分を助けようとしてくれた人や、関係ない人までいるのだから。

 それらを考えながら、少女は先頭をひた走った。


 二回ほど狭い路地を曲がり、廃屋の中を突っ切って進んでいると、やがて人々の喧騒が三人の耳に届き始める。

 同時に、薄暗かった路の先で、眩い光がベールの様に差し込んでいた。

 安堵から、ほっと息を吐き出すと、ノエルと少女は飛び込む様に大通りへ続いている光の中へ駆け込んだ。

 一拍遅れて、引き摺られる形の老紳士も飛び込んで行った。


 突然、息を切らせて現れた三人に、道行く人々がギョッとしたような目を向ける。

 が、ノエルと少女はそれに構う余裕がないらしく、膝に手を着いて荒い呼吸を繰り返した。

 唯一涼しい顔をしているのは、半ば強制的に連れて来られた老紳士だけだ。

 相変わらず、汗の一つもかいていない。


 ガヤガヤと人が溢れる通りを見て、少し痛いが眩しい陽の光の下に出られて、ノエルと少女から盛大なため息が吐き出される。

 念の為ノエルが振り返れば、狭く暗い路地の先に、男達の姿は影も形も無かった。

「良かった……。なんとか、切り抜けられたみたいですね……」

 乱れた息を必死に整えつつ、ノエルは少女に声をかける。

 少女は、ぶわっと噴き出した汗を腕で拭いつつ、ノエルへ朗らかな笑みを向けた。

「はい……。あの、ありがとうございました。私、アウラと言います」

「ああ、いえ。礼を言われるほどの事では……。改めまして、私はノエルと申します。どこかお怪我などはされていませんか?」

 手を横に振って、ノエルは再度自己紹介すると、アウラと名乗った少女にそう訊ねた。

「あ、はい。特には」


 良かった、と胸を撫で下ろすノエルの後ろで、老紳士は微かに眉をひそめながら口を開いた。

「……もし。そろそろ手を離して頂きたいのですが」

 そこでようやく気が付いたのだろう。

 自分が、今もってまだ老紳士の手を握り締めていた事に。

「す、すみませんっ!」

 ノエルは慌てて手を離すと、老紳士から一歩離れた。

「いえ」

 短く返した老紳士に負の感情は見当たらない。

 しかし、朗らかさや和やかさも感じない事から、本当にただ返事をしただけなのが窺えた。

 そんな老紳士に、今度はアウラが声をかける。

「あの……すいませんでした。巻き込んでしまって……」

 しょぼんと俯き、申し訳なさそうに謝るアウラに、老紳士はゆっくりと首を振る。

「いえ。状況は充分理解した上で声をかけたのです。貴女が気に病む必要はありませんよ」

 慰めるような、とは違うが、それでもアウラをフォローするセリフに、ノエルは思わず嬉しくなり、ふっと微笑を浮かべた。

 それを目に留めた老紳士が首を傾げる。

「何か?」

「あ、いいえ。えっと……お名前をお伺いしても構いませんか?」

「名前……」


 すると、老紳士は何故か俯いて考え込み始めた。

 聞いてはいけない事だったのだろうかと、ノエルは慌てて手をブンブンと振って追加の言葉を出す。

「す、すいません!何か事情がおありでしたら、無理にとは言いませんので!」

「ああ、いえ。別段そう言う訳ではないのですが……」

 そう言って、暫し悩んだ老紳士が次に出した言葉は、

「そう……ですね。では、私の事はファイとお呼び下さい」

 そんな、名乗りとは到底思えない自己紹介だった。

 ノエルもアウラも、疑問に思うのは当然で、アウラは今一度、確かめるべく口を開く。

「ファイ……さんですか?」

「はい。陽炎かげろうの様な泡沫うたかたの存在である私には、その名が相応しいでしょうから。どうぞ、その様にお呼び下さいませ」


 φファイと名乗った老紳士は、穏やかな微笑を浮かべ、改めて首肯した。







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