第32話 聖女と少女と泡沫④ 暗渠 前編


 焦る。

 焦る。

 焦る。


 逸る心が足を動かして、叩き付けるように強い雨を振り切って走る。

 焦燥感に煽られて踏み出した足が、ザボッと深い水溜まりに入った。

 靴の中に入り込んでくる水。

 不快な感触。

 でも、そんなものに気を取られている暇はない。

 水溜まりを蹴散らして、足を前に出す。


 自らの荒い息も、太鼓の様な音を奏でる心臓も、焦る自分を諫める声も。

 今はただうるさい。

 雨とは違う熱い水が頬を伝う。

 氷柱を抱え込んだかの様な、凍える不安が心を侵していく。

 反対に頭は、熱した火箸でぐるぐるかき混ぜられているかの様に熱く、思考が定まらない。


 どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 お願い。お願い。お願い。

 ――――どうか。どうか。


 一縷の望みと共に、私は大きく振りかぶって、眼前の扉を叩いた。


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 ザアザアと、激しく窓を打ち付ける雨を眺めながら、ノエルはふうっと物憂げにため息を吐いた。

「……酷くならないと良いんだけど……」

 零した独り言に、返す人物はいない。


 ノエルが今いるのは、神殿二階の一室。

 二階と謳ってはいても、元々この神殿がとても大きいせいで、純粋な階数で換算すると、ざっと三階と四階の間に相当するが、それはともかく。

 ノエルにあてがわれたのは、三つある宿直室の内一つで、初めてクロニカを訪れた際にも使用した部屋である。

 決して広いとは言えないが、かと言って狭い印象も受けない。そんな平均的サイズの部屋だ。


 壁や天井は白く、入って左側にある簡素なチェストも白い。

 部屋の右側には、壁をくり抜いて作られたような二段ベッドがあり、下の段を本日の宿直当番であるモニカ、上の段をノエルが使っているらしく、白い布団の上には脱いだ瑠璃色のローブが放り投げられていた。

 さらに、壁にはガラスで覆われた燭台が等間隔に取り付けられ、天井からも三角形の照明がぶら下がっている。

 そのどれもに火が灯っている為、室内はすこぶる明るい。

 その部屋でノエルは一人、正面奥にある窓辺に立ち、遮光性の白いカーテンを捲って外を眺めていた。

 モニカは今日の分の報告書を纏めている為、未だ一階の執務室で仕事にはげんでいる。


 夜に入って、にわかに降り始めた雨は、時を追うごとに強さを増し、風まで強く吹き始めていた。

 雷が鳴っていないだけマシだが、もはや嵐と言ってもいいだろう。

 視界に映る世界は夜闇に呑み込まれ、当然眼下に広がる街並みも黒く沈んでいる。

 唯一心和むものと言えば、家々から漏れる光。

 オレンジの明かりが、けぶる雨に滲んで朧気に霞みつつも、そっと街を彩っていた。

 この嵐のおかげで、通りはひどく閑散としていて寂しい事この上ない。

 普段であれば、残業をこなした人々が帰宅の途についたり、夢遊病者の様にフラフラと酒場へ入って行く人がいる時間帯。

 だと言うのに、今時折通りかかるのは、雨用の外套を着込み、照明魔法で行く手を照らして巡回する憲兵と騎士だけ。

 悪天候の中、サボる事もなく真面目に仕事に取り組んでいた。


「ファイさん。無事に盗まれた物を取り返せたのかな……」

 結局、あれからファイとは会えていない。

 当然と言えば当然。特別、約束なんてしていないのだから。

 実の所、ノエルはホープと同じ感想をファイに抱いていた。

 つまり、初めて会ったとは思えない既視感である。

 容姿や口調、名前に心当たりは全くないものの、纏っている独特の雰囲気と言うべきか、醸し出す空気感と言うものに、覚えがあるような気がしてならないのだ。

「〝色″が分かれば良かったのに……」

 ついポロリと本音が漏れた。

 こういう時、いかに自分が普段、意識しないまでも〝神眼″に頼っているのかが分かる。

 普通の人に見えないものが見える境遇に、色々と苦い思い出もあるが、それはそれとして、旅をする上で役に立っているのも確か。

「ままならないなぁ……」

 その事を痛感しつつ、ノエルは再び黒い空を見上げ、バケツをひっくり返した様に降りしきる雨を眺めながら、ふうっと悩ましげなため息を漏らした。


「……あれ?」

 視線を下ろし、カーテンを閉めようとしたその時、ノエルは眼下を行く騎士達を見て、訝しげに首を傾げた。

 基本は二人一組で行動している憲兵と騎士。

 街路を行く騎士達もしかり。憲兵と騎士のペアだ。

 そこへ、別の巡回班が合流したのである。

 それだけでは別におかしくないのだが、ノエルが首を捻る原因になったのはこの後の行動。

 四人は二、三言葉を交わしたと思しき後、慌ただしげにそれぞれ反対側へと走り出したのだ。

 その後もさらに、バタバタと幾人かの騎士達が何かを探す素振りで路地を覗き込みながら、通りを右へ左へ駆け抜けて行く。

 顔は見えないが、挙動から焦りの様なものが感じられた。

 理由は定かでないが、何か予期せぬ事態が起こったと考えていいだろう。

「……何かあったのでしょうか?」

 突然変化した状況に、ノエルの口調もいつもの引き締まったものへと変わり、表情にも険しさが滲み始める。


 脱いでいたローブを纏い、外へ聞きに行こうと足早に扉へ近づいた時、ひと足早く向こう側からノックされた。

 それとほぼ同時に、

「失礼します。ノエル様。少しよろしいですか?」

 と、か細い声も聞こえてきた。

「あ、はい!」

 驚きつつも、急いでノブを引いて扉を開けるノエル。

 そこにいたのは、緊張した面持ちのモニカだった。柔らかい色合いの青い瞳が不安げに揺れている。

「モニカさん?どうしました?」

「その……ノエル様にお客様です」

「私に、ですか?」

 夜に、しかもこの激しい風雨の中の客人。

 疑問に思うなという方が無理な話。

 モニカの歯切れの悪い言い方も引っかかる。

「どちら様でしょう?」

 だから、当然問いかけた。

「えっと……」

 言い淀みながらも、モニカが答えようとした瞬間。

 そのモニカを横に押し退ける形で、見知った人物が顔を覗かせた。


「ノエルさん!」


 アウラである。

 ボタボタと、着ている黒い雨用外套から水滴を落とし、顔もビシャビシャに濡れている。

 神殿へ入る直前までフードを被っていたおかげか、そんなびしょ濡れの状態にも関わらず、薄紅色の髪は僅かしか水滴が付いていない。

 アウラの顔色が、心なしか青ざめているように見えるのは、何も時間帯や明かりの加減ではないだろう。

 声には焦りがはっきりと出ていたし、瞳も焦燥感に煽られて頼りなく揺れているのがその証拠だ。


「アウラさん?」

 想像だにしていなかった客人に、ノエルも混乱を色濃くして戸惑う。

「アウラ殿。落ち着きなされ。ノエル殿が驚いておられる」

 すると、モニカ、アウラの後ろから、ぬっと衛士長が姿を現した。

 こちらもアウラと同様、雨用外套を着ている上にずぶ濡れだが、フードは外していない為、陰影によって幾分顔色が悪く見える。

 いや、実際悪いのだろう。

 顔に、アウラと似たような焦りの色が見え隠れしているのだから。

「ど、どうされたんです?こんな時間にお二人で……」

「実は」

「ホープ様、こちらに来ていませんか!?」

 ノエルの疑問に冷静に答えかけた衛士長だったが、それを遮って、アウラは叫ぶように逆に訊ねた。


「え、え?ど、どういう事ですか??」

 話が掴めず、戸惑いが濃くなるノエル。

「簡潔に申し上げます。殿下が消えました」

 即座に答えたのは衛士長だ。

「――――え」

 傍らにいるモニカが目を丸くして驚いている。

 同様に、ノエルも瞠目して驚くが、頭の片隅で「また?」と率直な感想も沸き上がった。

 しかし、さすがにそれを口に出すのははばかられた為、ぐっと呑み込んで堪える。実に賢明な判断だ。

「如何でしょう、ノエル殿。殿下はお見えになっておりませぬか?」

 アウラに代わって、再度訊ねてくる衛士長に、ノエルは申し訳なさそうに緩く首を振った。

「い、いえ。残念ながら……。モニカさんは?」

 ふわりと、薄茶色の柔らかい髪が揺らぐ。

「すみません。ノエル様と同じです。私は夕方からずっと神殿ここに詰めていましたが、殿下と思しき方は見ていません……」

 二人の否定的な答えに、ガックリと肩を落とすアウラ。

 衛士長も、そこまでとは言わないが、落胆の色を隠しきれない様子。


「その……お昼の時と同じく、トイレに行かれている可能性は?」

 アウラ達の取り越し苦労という可能性もある。

 それを加味した上で、ノエルは言い難そうにしながらも問いかけてみた。

 すると、二人同時に首が横へ振られる。

「それは有り得ませぬな。厠ならば詰所内にあります故、すでに調べも済んでおります」

「そもそも、ホープ様が部屋の外へ出たのを見た人もいない有り様でして……」

「……では」

 そこからノエルは、思い浮かんだ疑問、質問をアウラと衛士長にした。


 少しばかりの時間の後、分かった事が幾つか。

 まず、天幕にて執務を終え、夕方に騎士団詰所へアウラ、衛士長、エペと共に戻ってきたホープは、四階にある自室に戻って以降、出てきた姿を見た者はいない事。

 当然、詰所唯一の出入り口である大扉の番をしている騎士も、ホープらしき人影は見ていないらしい。

 詰所内にある窓は全て嵌め殺しで、開け閉めは出来ない仕様。

 強化ガラスではない為叩き割れはするが、もぬけの殻となったホープの部屋は、争った痕跡や荒れた様子は一切なく、窓も指紋一つないほど綺麗だったと言う。


 次に、ホープが転移魔法を使い、自発的に消えた可能性について。

 これは、ノエルも薄々気付いていた事だが、改めて衛士長から否定の言葉が放たれた。

 聖教国の皇族は、古くからあるしきたりによって、魔法を使う事を禁じられている。

 それを抜きにしても、生まれてからこれまで一度も魔法を使ったことのない者が、高位魔法である転移ポータを使えるなど有り得ない。

 そう断言された。


 さらに、騎士団詰所内部、或いは騎士団員に誘拐犯が潜り込んでいたかもしれないという点。

 これもやはり、衛士長から否定された。

 いわく。

 クロニカに常駐している騎士団。そして新たに聖都から派遣された騎士団は、騎士として勤めて長い者、いわばベテランばかりで構成されている。

 入って日の浅い者は、あの詰所にはおらず、皆顔見知りとの事。

 故に、見知らぬ者がいれば、即座につまみ出されるとまで言い切っていた。

 付け加えるなら、よしんば誰にも見つからず詰所内に入り込んだとして、さらにさらに、運良くホープと接触する事が出来たとして、そこからどうやってホープを連れ出すかの問題が残っている。

 転移魔法は使用者本人しか適用されない。

 誰かと手を繋いでいようが、抱き合っていようが、共に移動するのは不可能。

 その他諸々もろもろ、多種多様な方法や手段が浮かぶも、そのどれもに一長一短がある。痕跡を一切残さず煙の様に消えるなど、土台無理な話なのだ。

 だからこそ、昼とは違い、なんの手がかりもなく忽然と消えてしまったホープに、アウラは酷く狼狽し、衛士長も顔色を悪くしているのだろう。


 結局、詰所内を隈なく探したもののホープは発見できず、嵐の中こうして市中にまで出向いて捜索しているのが、現時点までの話。

 ひと通りの話を聞き終えたノエルだが、自分の頭では良い打開策が見当たらず、どうする事も出来ないと悲しげにため息を吐いた。


「……衛士長様。ホープ様の件、やはり今クロニカを賑わしている行方不明事件と、何か関わりがあるのでしょうか?」

 ポツリと、外套から滴る水と一緒に零すアウラに、衛士長は眉間に深くシワを刻んだ。

「……分からぬ」

「あの行方不明事件も、何の痕跡も手がかりもなく、人がかすみの様に消える話だったはず。状況から見て、この件と酷似しています」

 深く俯くアウラの表情は分からない。

 しかし、耳に届く声色は冷たく凍えて、氷の様だ。

「……分からぬ」

「もしもそうだった場合、どうやって探したら良いのでしょう……。相手の目的も、いなくなった人達がいると思しき場所も分からないのに……」

 ぎゅうっと、アウラは外套の裾をきつく握り締める。

 絞られた外套から、バタバタバタッと勢いよく水が落ちた。

「……分からぬ」

「相手からの接触を待ちますか?もしも金銭目的の誘拐だった場合、遠からず連絡があるかも……」

 ノエルとモニカは、愕然とした面持ちで口を閉ざしている。

 ギリッと、衛士長から歯を食いしばる音が聞こえた。

「分からぬ」

「誰が捜査指揮を執りますか?いつ、聖都に報告しますか?教皇様方には、どうお伝えしますか?」

「分からぬっ!」

 叩き付けるように怒鳴る衛士長に、アウラは止まらない独り言の如く、さらに零す。

「ホープ様はこの国の第一皇子、次期教皇様です。常識的に考えて、むやみやたらに殺す真似はしないと思いますが、万が一の可能性もあります。もしも……」

「――――っっ!!」

 そこまで言った所で、衛士長は勢いよくアウラの襟首を掴み、自分に向き直らせた。

 春の花に似た色の髪が、ばさりとひるがえる。

 かなり力強く引っ張ったせいで、襟首を留めていたボタンが二つほど千切れて飛んだ。


「衛士長様!」

「ご無体はお止め下さい!」

 思わず制止するノエルとモニカ。

 それをよそに、コツン、カツン、と、ボタンが床を叩く、無機質な寂しい音が響いた。


 〝何が言いたいっ!!″

 と発しかけた言葉は、寸前で衛士長の喉に引っかかって出て来なかった。

 それは、目を大きく見開いて瞬きもせず、しかし涙だけはとめどなく流れているアウラを見たからかもしれない。

 息を呑み、固まる衛士長の向こう側にある中空を見つめて、アウラはさらに続ける。

「もしも、ご遺体が発見されなかった場合、皇位継承権はつづがなく弟君に移行されるのでしょうか?それとも、微かな望みに賭けて、宙ぶらりんなまま放置されるのでしょうか?ホープ様のご意思はどちらなのでしょう。やはり、前者でしょうか?」


 どこかを見ているようで、その実どこも見ていない。

 人形の様になってしまったアウラを見て、衛士長は悲しげに、同時にどうしようもない憤りに顔を歪めると、ふっと腕から力を抜いて、襟首から手を離した。

 支えを失ったアウラの身体がかしぐ。

 咄嗟に受け止めたのはノエルだ。

 倒れ伏しそうになるアウラを、そっと床に座らせ、肩に手を回して、落ち着くようにとゆっくりとさする。


 二度、三度と深呼吸する衛士長。

「……すまない。年甲斐もなく激情に駆られた。許されよ……」

 そして、力なくそう謝罪した。

「……いえ。私の方こそ、気が動転していたとは言え、不謹慎な事を口にしました。お許しください……」

 釣られるように、アウラも謝罪を口にする。

 二人の中で、それだけホープと言う人物は大きな存在なのだろう。

 それが、見ていて痛々しいまでによく分かった。


 かける言葉が見当たらず、重苦しい嫌な沈黙が流れる。

 と、そこで不意に、ドンドンッと神殿の大扉が激しく叩かれた。

「あ――――」

 モニカの視線が、客人を告げる大扉とノエル達の間で彷徨さまよう。

「いいですよ、モニカさん。お願いします」

 ノエルがアウラをゆっくりと立たせながら促すと、モニカは頷いて駆け出し、階段を下りて行った。

 その後ろ姿を見送りつつ、ノエルはなんとはなしに神殿内部を眺める。


 二階建て造りの神殿は、さすが聖都の大神殿に次ぐと言われるだけの事はあった。

 吹き抜けの天井から幾つも吊り下がった雫型のランプを始め、薄く半透明な帯状の布が、等間隔で滝の様に垂れ下がっている。

 正面奥に、三神教の紋章と聖教国皇家の紋章、そして聖教国国章の三つが、天井に近い位置の窓に並んで描かれてある。

 真ん中に三神教の紋章、左右に皇家紋と国章と言った形だ。

 赤や青、白や緑等の色とりどりのステンドグラスで描かれている為、日が当たれば、それはそれは荘厳な雰囲気になるのだろうが、今は夜であるせいか、普段のそれより半減している。


 一階は普通とは一風変わった造りをしていた。

 一番外側に、大人が三人並んで歩ける程度の通路。

 中央に長方形の大きな広間。

 その二つの間に、ぐるりと囲う浅く広い水路。

 壁面の上部には小さな取水口が横並びで幾つかあり、そこから下の水路に向かって浅い溝で繋がっている。

 澄んだ水が涼やかな音を奏でて流れ落ちていた。

 床面の水路を遮って、中央と繋がっているのは、出入り口である大扉から伸びる一本の通路だけ。

 中央奥には見事な祭壇が造りつけられており、普段の礼拝はここで行われているようだが、今はその祭壇以外にも縦長の机が四つ置かれていた。

 職業斡旋を行う為に一時的に置かれている物らしく、この机達だけが可哀想なまでに浮いてしまっている。

 目を移して大扉と反対側、最奥にポツンと重厚な扉がある。ここが執務室だ。

 他にも左右に部屋が一つずつ見られ、それぞれ記録庫と食堂である。


 二階は一階と比べ、ごく一般的だ。

 コの字型の二階は、左右に木製の階段が造り付けられ、部屋数は七つ。

 一階から二階に上がるまで、一直線の階段だと必然的にかなりの急階段になってしまうので、途中で踊り場が造られ、折れ曲がっている。

 大扉側を上り口にした〝く″の字、と言えば分かりやすいだろうか。

 そんな階段だ。

 ノエルがいる宿直室は三つ並んだ左半分の一室。大扉側にある端っこの部屋である。

 二階で一番大きな奥の部屋は書庫。

 反対にある右半分の部屋三つは、備品庫二つと応接室に割り振られていた。


 ガチャリと一階から音が響いてくる。

 大扉は読んで字の如く、本当に大きい。普通なら女性一人で開けるのは不可能だ。

 故に、閉じられた後の夕方以降は、大扉の一部が開閉可能となり、宿直担当者はそこを通って出入りをしたり、訪問者に応対する仕組みになっていた。

 モニカが開けたのはそこだ。

 大人の背丈ほどの大きさに切り取られた四角い扉を開けている。


 内容までは聞き取れないものの、モニカの高い声と、男性と思しき低く太い声が微かに聞こえてくる。

 この時間、このタイミングに来るとは、やはり騎士か憲兵の人だろうか。

 そうノエルが推測を巡らせていると、

「すいません!衛士長様!」

 突然、モニカの大声が上がってきた。


 衛士長はいぶかしげな表情を浮かべつつも動き、手すりに寄りかかって階下を覗き込んだ。

 ノエルもアウラと一緒に移動し、衛士長と同じように手すりから一階を見下ろす。

 そこにいたのは、二階を見上げるモニカと、黒い雨用外套を着込み、濡れネズミさながらにビショビショの騎士二人。

「どうした!!殿下が見つかったのか?!」

 大声で訊ねる衛士長に、騎士二人もまた大声で返す。

「申し訳ありません!未だ殿下は見つからず!しかし、くだんの行方不明事件について進展がございます!!」

「っ!!少し待て!!」

 そう叫ぶや否や、衛士長はなんの躊躇もなく手すりを乗り越え、飛び降りた。


「なっ!?」

 思わず驚いて、落ちそうなほどに身を乗り出すノエル。

「あ、危ないです!ノエルさん!」

 焦ったアウラの声と共に、服を掴まれる感触が伝わってくるが、正直自分より衛士長の方を気にするべきだとノエルは思ってしまう。

 だが、そんなノエルの心配とは裏腹に、目に映ったのは、重い音を立てつつも危なげなく踊り場に着地した衛士長の姿だった。

 年齢に見合わない身体能力の高さに舌を巻いていると、アウラから

「衛士長様はホープ様の護衛役でもありますから、身体能力がずば抜けているんです。この程度の高さであれば、魔法を使わずとも特に問題なく降りれるんですよ」

 そんな説明をされた。

「そ……そうだったんですね……」

 唖然としながらも、ノエルがやっとそれだけ返した所で、アウラの耳に、さらにドスンッと重い音が届いた。

 衛士長が一階に到達した音だ。

 モニカと騎士達の所へ急いで向かう衛士長を見下ろしていた二人だが、はっと我に返る。

「わ、私達も行きましょう!」

 慌てて言ったノエルに、アウラは力強く頷いて身を翻すと、二人して階段へと走って行った。


 そうして一階に下りた二人だったが、衛士長達の元へ着く頃には話は終わっていたらしく、衛士長は駆け寄ってくるノエルに向かって、

しばらくアウラ殿の事をよろしくお願いいたす」

 とだけ一方的に言い残して、騎士達と共に神殿から足早に立ち去ってしまった。

 なんの説明もなく取り残されたアウラは、ポカンとしたまま立ち尽くしている。

 いわんや、ノエルとモニカも同様だ。


「え……っと……。モニカさん。お話を伺っても?行方不明事件に進展がどうとか言っていましたけど……」

 なんとか絞り出して訊ねたのはノエルである。

「あ……でも……」

 しかしモニカは表情を曇らせると、言葉を詰まらせて視線を彷徨わせた。

 事件に関して、ノエルはもちろんモニカもアウラも部外者同然。

 なし崩し的にモニカは聞いてしまったが、それを二人に話していいものかどうか、考えあぐねているのだろう。

 そんなモニカの手を、アウラはぎゅっと握り締めた。

「お願いします、モニカさん」

 真剣な声と、じっと見つめてくる鬼気迫る雰囲気に圧されたのか、モニカは思わず息を呑む。

 関連性は不明だが、もしかしたら消えたホープに繋がる話なのかもしれない。ならば、どんな事でも知りたいと思うのは当然である。

 アウラにとっては、正に藁をも掴む思いだ。

 そのアウラの想いを悟ったのだろう。モニカは諦めた様なため息を吐くと、

「…………分かりました」

 ゆっくりと頷いた。


「町の北西に、峠があるのはご存知ですか?」

 そう切り出したモニカに、アウラは頷き、ノエルは記憶を漁りながら口を開く。

「メリエス峠……でしたか?緩やかですが、北に延びる主要グロンズ街道を横断するほどに長くて、大きい峠ですよね?」

「はい。その峠の正規ルートを外れた奥地に、どうやら大きな廃屋があるらしいんです。たまたま、道に迷った旅商人の方が発見したみたいなんですけど、そこから妙な音がするもので、人がいるのかと思い覗き込んだら、大勢の人が監禁されているのを見たのだと」

「それが、最近頻発している行方不明事件と関係していると、衛士長様を含め騎士団の方々は判断されたわけですね?」

 確認するように訊ねるアウラに、モニカは頷いて続ける。

「はい。聞いた話によると、殿下のお姿は見えなかったようですが、行方不明になられた方と特徴の一致する人が何人もいたらしいので、まず間違いないだろうと……」

 むうっとノエルの眉根が寄る。

「メリエス峠ですか……。クロニカから歩いて行くと、最低でも一時間はかかりますね」

「通常、馬を使えばその半分の時間で済みますが、この風雨ですから……。足場も視界も悪いとなると、歩きでも馬でも倍の時間はかかるでしょうね。モニカさん。衛士長様方は、すでにメリエス峠に向けて出発したのですか?」

「そこまでは……。ですが、先遣隊と本隊の編成がどうとか仰っていたので、まだだと思われます」

 そこまで話すと、皆一旦口を閉ざした。

 単純に、モニカが二人に与えられる情報が終わってしまっただけなのもあるが、思案している気配の方が濃厚だ。


 やがて、ノエルが確かめるようにアウラへ訊ねる。

「……どうしますか?」

「?どう、とは?」

「行きますか?メリエス峠」

「えっ!?」

「…………」

 驚いたのはモニカで、沈黙したのはアウラだ。

「な、何を言っているんですか!ノエル様!衛士長様から、アウラ様の事をよろしく頼むと言われていたじゃありませんか!」

 あわあわと、大慌てでノエルの説得を開始するモニカ。

 しかし、ノエルの決意はすでに固まっているらしく、一切顔色を変える事なく、静かにモニカを見た。

「確かに、〝よろしく″とは言われました。しかし、〝止めろ″とは言われていません」

 そんな屁理屈な……と、モニカが愕然としていると、さらにノエルは、

「ですので、アウラさんがメリエス峠に行くのなら、私も同行する次第です。アウラさんの身は私が守ります」

 爆弾発言を言い放った。

 もはや絶句するしかないモニカは、引き攣った顔で、一縷の望みを賭けてアウラを見つめた。

 モニカからの、〝お願いだから「行く」と言わないで……″と言う、懇願が込められた視線を一身に浴びながら、アウラは視線を落として考え込む。

 少しして出した結論は、まあ当然と言えば当然のものだった。

 僅かながらモニカへ罪悪感が湧くが、こればかりはどうしても引き下がれない。


「行きます。私に何が出来るのかは分かりませんが、このまま何もせず待っているのは……耐えられません」

「な……な……」

 言葉をうまく紡ぐことが出来ないモニカが、喘ぐように零す。

「では、同行します」

「よろしくお願いします。ノエルさん」

 着々と進む二人の会話に、大きく息を吸ったモニカが声を荒げた。

「何を言っているんですか!アウラ様はもちろん、ノエル様も!アウラ様は将来の教皇妃様で、ノエル様は聖女候補の身ですよ!?何かあったらどうするんですか!!」

「大丈夫です!私、巡礼の旅で色々経験しましたから!魔獣とか来てもへっちゃらです!」

「私も、二週間前の件を機に、魔法の練度を上げましたので、心配ご無用です。攻撃魔法も幾つか使えるようになりましたし、障壁魔法については衛士長様からもお墨付きを頂きました。自分の身は自分で守れます」

 溌剌はつらつと言い放つノエルと、冷静に言い返すアウラに、モニカは頭を抱えたい気持ちを必死に押し殺して首を振った。

「そういう問題じゃありません!自ら危険に飛び込むような真似はお止め下さいと言っているんです!そもそも、そのような慢心を抱いていては、万が一の事態もありますでしょう?!自重して下さい!」

「確かに、慢心はいけませんね。気を引き締めて行きます」

「肝に銘じておきます!」

「だから違いますっ!!」

「お願いします、モニカさん。どうか協力して下さい」

 アウラの真摯な願いはしかし、

「ダメです!出来ません!」

 と、にべもなく却下された。

「どうしても、無理ですか?」

「無理です!」

 聖女候補であるノエルのお願いにも、即答で否を返すモニカ。


 そのような、押したり引いたりの綱引きみたいな言い合いを続けていると、

 ドンドンドンッ!

 と三度みたび大扉が激しく叩かれた。

 千客万来にもほどがある。

 口論の最中だったので、興奮冷めやらぬモニカが鼻息を荒くしながらも出ようとした瞬間、それよりも早く扉が開かれた。

 許可なく扉を開けたのは、渋い緑色の頭髪と瞳を持つ青年。

「父上!あの廃屋の持ち主が分かりました!」

 エペが、ほぼ叫びつつ、転がる様に入ってきた。


「エペさん!」

 アウラの声に反応して、エペが勢いよく顔を上げる。

「アウラさん?あれ?父上は?いずこ?ここにいると聞いてきたのですが?」

 せわしなく首を振り、自らの父こと衛士長を探すエペ。

「あ、衛士長様なら、むぐっ!?」

 すでに騎士の方々と去りましたよ。と続けようとしたモニカの口を、咄嗟に塞ぐノエル。

 次いで、代わりとばかりにアウラが先を続けた。

「衛士長様は今ちょっと席を外しておりまして……。戻り次第お伝えします。用件は何ですか?エペさん」

 冷や汗を浮かべつつ、さらりと嘘を吐くアウラ。

 目を白黒させていたモニカが、さらに〝信じられない″と、これ以上ないまでに目を見開く。

 が、口が塞がれている為、抗議をしたくても出来ない。

 そんなモニカの様子とノエル達の行動に、一瞬怪訝そうにしたエペだったが、よほどいているらしく、特に深く聞く事はなかった。

「はあ。そうですか?では……。あ!皆様、殿下の事は……?」

「先ほどお話ししました。皆さん知っています」

 念の為聞いたエペに、アウラがはっきりとした口調で告げる。

「承知しました」

 すると、エペは一度咳払いをして、改めて持ち込んだ情報をアウラ達に話し始めた。


「メリエス峠の奥地にある廃屋の持ち主ですが、――――バルト男爵の館……元別荘でした」

「バルト男爵って……お昼に天幕に乗り込んできて、アウラさんを罵倒した、あの?」

「はい。すでに放棄されて久しいみたいですが、名義はまだ男爵様のものです」

「男爵様は今どこに?聴取は?」

アウラの問いに、エペは苦く顔をしかめる。

「……見当たりません。すぐに東街区にある別邸へ話を伺いに行ったのですが……。家人が言うには、夕方に急用が出来たと言って出て行ったそうです。行き先は告げなかったようですが、明日の朝までには戻ると」

 一気に怪しさが増した男爵に、全員なんとも言えない表情のまま、嫌な沈黙が場に降りる。

「……バルト男爵は仮にも筆頭貴族の一員。殿下に危害を加えないと信じたいですが……」

「はい……。しかし、噂によるとバルト男爵家は近々筆頭貴族から抜けられるとか……。爵位没収ではないにしろ、逆上して殿下を攫う事も、可能性としては無きにしもあらずです」

 アウラとエペの話に、ノエルは驚いて、つい口を挟んでしまう。

「え……たったそれだけで、ですか?」

矜持プライドの高い方ですから。それに、貴族と言うのは、多かれ少なかれ家名を大事にします。長く続いてきた名家であれば尚更に。名を傷付けられたとなれば、黙ってはいないでしょう」

 エペにそう言われてもピンと来ないのか、ノエルは理解出来ないと険しい表情のままだ。

「とは言え、男爵が確実にこの件に関わっているとは言えません。名義が男爵のものでも、別の誰かが勝手に住み着いて使っているだけかもしれませんし、家人の言う通り、何か別の用事で家を空けているだけやもしれません。明確な動機は分からず、攫った方法も分からず、確たる証拠も何もない状態ですから……」

 そうは言いつつも、エペは男爵に対してすでに敬称をはぶいている。

 その事からも、彼の中で男爵は、ホープ失踪の件に何かしら関与していると考えているのだろう。

 難しい表情で押し黙る一同。

 全員、エペと同じ心境らしい。


「ああ、そうだ。あともう一つ。これは伝えるべきかどうか悩んだんですけど、一応お教えしておきますね。父上に伝えるかは、皆様のご判断にお任せします」

 そう前置きすると、エペは矢継ぎ早に話し始めた。

「メリエス峠への道ですが、調べた所、地上よりも地下を行った方が早いかも知れない事が分かりまして」

「地下、ですか?」

 話の途中で、首を傾げたノエルが訊ねる。

 エペはノエルを不思議そうに見たが、すぐに合点がいったのか、頷いて答えた。

「はい。ノエル様はご存知ありませんでしたか。この町クロニカは、地下水脈から水を魔動機で汲み上げ、地上にある水道橋を使って各家々に分配しているんですよ」

「それは、知っています」

「その魔動機を設置してあるのが、町の下を走っている暗渠あんきょ。地下水路、と言った方が分かりやすいでしょうか」

「暗渠……」

「ええ。水の供給だけでなく排水も兼ねている水路です。魔動機の点検、補修は当然の事ながら、水質調査も時々行っていますので、その為のものです」

「でも、今はこの嵐ですよ?水嵩が増して危ないのでは?」

「大丈夫ですよ。増水しても問題ないように造られていますから。とは言え、狭く暗い場所な上に道もアリの巣みたいに複雑ですから、大勢で通るには少し難しいかもしれません。一応、暗渠の地図は持ってきましたが、どこまで役に立つか……」

 言いながら、エペはゴソゴソと懐を探り、小さく折り畳まれた紙を取り出す。

 ガサッと広げると、そこに描かれていたのは暗渠の詳細だった。


 大きな通路は幾つかあるものの、ほとんどが細い通路で、行き止まりもかなりあるようだ。

 クロニカの街路以上に複雑な様相を呈している。

 エペが言うように、〝アリの巣″と表現するのが相応しい。

 薄らと描かれてある大きく丸い円は、おそらくクロニカの外壁だろう。

 そこを飛び越えた左上の一部分が、赤く丸印で囲われている事から、ここが目的とするメリエス峠への出口と推察出来た。

 他にも点々と丸印が描かれているが、ここは別の出入口らしい。

 この地図だけでは、赤丸の場所から目当ての廃屋まで、どのぐらい離れているかは見当もつかない。

 もしかしたら廃屋の真下かもしれないし、或いはかなり離れた森の中かもしれない。

 行ってみなければ分からないと言った所だ。


「この地図は置いていきます。必要であれば父上に渡して下さい」

 そう言って地図をアウラに渡すと、エペは「では、ぼくはこれから男爵別邸の家宅捜索の準備があるので、これで。父上に、どうぞよろしく伝えて下さい」と告げて、慌ただしげにきびすを返し、ザバザバと喧しい雨風吹き荒ぶ街へと飛び出して行った。


 バタン。

 と、扉の閉まる音が重く響く。

 ふっと全身の力を抜いたノエルの手から逃れたモニカが、くるりと振り返って、吊り上がった目をノエルとアウラに向けた。

「お二人とも、何を考えているんですか!何も知らないエペ様を騙すなんて!」

「すみません……。思わず身体が動いてしまいました……」

 しゅんとして謝るノエルとは対照的に、アウラは、

「嘘も方便です。おかげさまで、良い情報が得られました」

 と、しゃあしゃあとのたまった。

「なっ!なんて事を……アウラ様っ!!」

 激昂し、怒鳴るモニカへ、しかしすぐにアウラは腰を折る。折って続けた。

「ごめんなさい。モニカさん。今の私にとって、ホープ様が全てなんです。それ以外の事は、今はどうでもいいんです。理解してくれとは言いません。協力も、無理なら別にいいです。ただ……放っておいて下さい」

 外の景色と同じく、暗く突き放すようなセリフに、モニカは二の句を継ぐことが出来ずに固まる。

 ホープを深く愛している故なのだろうが、それにしても盲目的過ぎる、と。

 依存に片足突っ込んだような、そんな危うさを、モニカはアウラに感じていた。


 天を見上げたり、地へ落としたり。視線を忙しなく動かしながら、うーんうーんと悩む事暫し。

 険しい表情のまま、ぐっと息を呑んだモニカが出した結論は。

「……分かりました。その感情に、私も覚えがないわけではありません。微力ながらお手伝いいたします」

 弾かれたようにアウラの上半身が起き上がる。

 その顔は驚きで満ちていた。

「えっ!?協力して下さるんですか!?」

 同じように驚くノエルに、渋々と言った様子を隠す事もなくモニカは続ける。

「あくまでも良識の範囲内……私に出来る範囲までなら。それと、事の如何いかんに関わらず、後ほど衛士長様にはご報告いたします。エペ様とお約束もしましたので。そこはご承知願います」

 放っておいて、より危険な道に進まれては堪らないと思ったのか、或いは二人の行動を把握しておきたいと思ったのか、どちらにせよ結局モニカは、自ら折れる形でノエル達に協力する事を告げた。

「ありがとうございます!モニカさん!」

「感謝します」

 晴れやかな笑顔のノエルと、ほっと胸を撫で下ろしたようなアウラ。

 嬉しそうにしている二人に、心中複雑なものを感じるモニカだったが、すぐに話題をエペの置いていった暗渠へと移した。


「それで、どうなさるおつもりです?暗渠を通って行くのですか?」

 アウラは、手に持っていた地図を再び開く。

「そのつもりです。視界、足場、気象。どれを取っても外よりマシですし、正しい道順で行けば、エペさんの言う通り峠へ早く着きそうですから」

 ノエルがアウラの背後へ回り、地図を覗き込む。

「ですが、この地図だと峠の何処に出るかまでは分かりませんね。道も複雑ですし、何より二週間前の惨劇のせいで、北の方は消滅しているはず。影響が出ていないとも限りません」

 それを聞いたモニカは、「ちょっと失礼します」と言うと、反転し急いで中央の広間へと駆け出して行った。

 そして、四つ置かれた机の内、手前右にあるものへ近寄ると、机の上に置かれていた書類やら紙やらをガサガサと漁り始める。

「え~~っと……確かここら辺に……あれ?誰か触ったのかな……う~~ん、と……」

 ブツブツと零しながら、さらに物色する。

 やがて、

「あ、あった!すみませんお二人とも!こちらへ!」

 声を上げて、アウラとノエルを呼び寄せた。

 二人は小走りにモニカの元へ向かう。


「モニカさん。それは?」

 ノエルが、モニカが手にしていた紙を見て訊ねる。

「クロニカと、その周辺が記載されている地図です。寸法や縮尺もそちらと一緒だと思いますので、重ね合わせれば峠のどの辺に出るか分かるかと」

「さすがです」

 モニカは感心するアウラから暗渠の地図を借りると、持っていた地図に被せ、天井へかざした。

 乳白色の照明の光によって、二枚の地図が透ける。

 二つのクロニカの外壁が、ピッタリと重なった。

 三人でそれを見上げながら、エペが赤丸を記した場所へ視線を移す。

 そこはちょうど峠の奥地。バルト男爵の別荘があると思しき場所へ繋がっていた。

「男爵様のお家へ繋がってそうですね……」

 ボソッとモニカが零す。

「元々貴族様の別荘ですから、直で繋がっていても不思議はありません。上下水道は必須でしょうし。実際に出てみるまで気は抜けませんが、それでも重畳と言えます」

 アウラの、まったく弾まない声を聞きながら、モニカは腕を下ろした。

 そして今度は机の上に広げる。

 これでもまだ、薄らと重なっているのが分かった。

 モニカはさらに、机の上に転がっていたペンを手に取ると、素早く暗渠地図に線を引いていく。引き終わると、続けて線で囲んだ部分に斜線を引いていった。


「これが、二週間前の惨劇で無くなった箇所です」

 それは、先日の惨劇にて失われた部分。

 北東から北西。中央の一部分までの広い範囲。

「改めて見ると……本当に酷いですね……」

 きっちり四分の一が消失したのを表す地図を見て、悲しげに呟くノエルに、同様の表情を浮かべたモニカが「そうですね」と返した。

「暗渠の状況は分かりませんが、城の裏手に空いた大穴は暗渠よりさらに深かったそうなので、この部分は完全に無くなっています」

 言いながら、モニカは斜線を引いた場所の一部を丸く囲う。

 それを眺めつつ、続けてアウラが口を開いた。

「今の所、そこは修復作業中です。暗渠の名の通り、水を扱っている場所ですので、一時的に隔壁を築いて別の所へ浸水しないようになっているそうです。他にも、被害が認められた箇所は程度に応じて閉鎖されているそうなので、余裕をもって見積もれば、この斜線部分は立ち入らない方が無難でしょうね」

「なるほど……。では、そこを経由しない順路を導き出さないとですね」

「はい。出口からさかのぼる形で辿っていきましょう」

「待って下さい。出口は分かっているのでいいですが、入口はどうするんです?地図を見る限り幾つかあるんですよね?」

 緻密に描かれた、迷路の様な順路を指で辿り始めた二人に、モニカはそう言って待ったをかけた。

 ああそう言えば、と気が付いたノエルとは逆に、アウラは冷静に頷いてモニカを見返す。

「逆算していった先にある、最寄りの入口から入れば良いかと思いまして。確かに幾つかありますが、見た限り数が多いと言う訳ではなさそうなので」

 などと言われては反論のしようもないモニカ。

 嘆息した後、「分かりました」と零し、再び順路を辿り始めたアウラの指を追って、ペンで線を引き始めたのだった。


 やがて、指はクロニカ市街へと入る。

 北側へは行かず、出来る限り南寄りに進んで行くと、ふとアウラの指が止まった。

「……すいません、モニカさん。ここに点を打って下さいますか?」

「?はい」

 疑問符を浮かべながらも、アウラに言われるまま、素直にトンッと打つ。

 すると、アウラは二枚の地図を持ち上げ、再び光に透かして見た。

「あっ!」

 思わずノエルが声を上げる。

 点の打たれた場所。そこからさほど離れていない所に、今ノエル達がいる神殿があった。

 ついでに、入口を表す記号も重なっている。

 順路的にも、少し迂回すれば合流出来る。実に都合がいいと言うべきか、運が良い。

神殿ここも入口だったんですか!?」

「みたいですね。位置的にもしかして、と思ったんですが、当たりました」

「え……。アウラさん、ご存知なかったんですか?」

「ええ。暗渠の地図なんて、土木作業に従事する方々でないと見る機会がありませんから。モニカさんは知っていましたか?」

 モニカはふるふると首を振る。

「い、いいえ。クロニカ神殿の責任者である司教様ならご存知だと思いますが、私は知りませんでした。……となると……」

 一瞬考え込んだモニカだったが、すぐに踵を返すとバタバタと走り出し、大急ぎで一階奥にある執務室へと駆け込んで行った。

 開け放たれた扉の向こうから、ゴソゴソやガサガサ、ドサドサといった慌ただしい音が響いてくる。同時に、右へ左へと動くモニカの姿も映る。

 少しして、つんのめりながら出てきたモニカの手には、またと言うべきか、一枚の大きな紙が握られていた。


 ダッシュで戻ってくるや否や、二人が口を開く前に紙を盛大に広げる。

 その紙は机をほとんど占拠するほど大きく、描かれていたのは細々とした線で組まれた建物と、その間取りだった。

 ちょうど真上から見た構図である。

「神殿の見取り図です!これなら、どこが暗渠への入口か分かるはず!」

 ぜえぜえと息を切らせて、身を離すモニカ。

 アウラとノエルは感謝を述べつつ、素早く、しかし注意深く見取り図を眺める。

 それはすぐに発見できた。

「あ。これ、ではありませんか?」

 ノエルが指差したのは食堂。

 息を整えたモニカと隣にいたアウラは、ノエルが指し示す場所へ目を向ける。

 食堂入って左側。キッチンと思しき空間の奥。

 もっとも水を使う所に、点検口それはあった。


 「行ってみましょう」

 アウラの言葉に、二人は固い表情で頷いた。


 暗渠の地図と神殿の見取り図を片手に、アウラは食堂の扉を開ける。

 広い広い部屋には、無数の長机と椅子が縦向きに置かれていた。その気になれば、あみだくじでも出来そうな勢いである。

 向かって左側には、見取り図の通り大きなキッチンが備え付けられ、手前の壁にはメニュー表が貼り付けられていた。

 対面式のキッチンなので、入口からでもざっと中を窺い見ることが出来る。

 奥にシンクと作業台、保存庫がある事から、手前側にかまどがあるらしい。

 広間の奥にある大きな窓には、暗く黒い景色が広がっている共に、今もなお激しい雨がうるさく打ち付けていた。

 こんな感じの食堂だが、今の時間帯は誰もいない為、ガランとしていて寂しいことこの上ない。

 暖かに揺れる光の下、微かに残った夕飯の残滓とも言える香ばしい匂いが、三人の鼻腔を刺激する。

 自然とほっとするそれを取り込みながら、三人は食堂に足を踏み入れ、硬い床板を鳴らしつつキッチンに向けて歩き出した。


 奥にある、薄い木の板を貼り合わせて作られた軽い扉を開けてキッチン内部へ。

 水場がある事から、キッチンの床は石造りかと思いきや、意外にそんな事はなく、食堂の床と同じく板張りフローリングである。

 腐らないのかと若干疑問が湧くが、些細な事なので置いておく。色々と対策はしてあるのだろう。

 中は外から見たのと大差ない。

 入って右側、奥からシンクと作業台、大小の保存庫。

 左側に四つ並んだコンロとカウンター。

 外から見えなかったのは、左の壁に掛けられた調理器具の類いと、壁に埋め込まれるようにしてあった食器棚。そしてシンクのさらに奥のスペースぐらいだ。


「……見取り図だと、この奥でしたね」

 アウラを先頭にして、ノエル、モニカと続く。

 キッチンは狭くはないが広くもない為、横三人並ぶのはキツイ。

 それ故か、誰も何も言わずとも縦一列に行儀よく並んで進む。

 すぐに着いたキッチン奥のスペースには、蓋を逆さにした状態の大きな寸胴鍋が幾つも置かれていた。

 おかげで床の状態が分からない。

「退かしましょう」

 言いながら、アウラは地図を脇に挟むと、寸胴鍋を持ち上げてノエルに渡す。

 ノエルはそれを受け取り、モニカに渡した。

 モニカはそれを作業台の上に置いていく。

 所謂いわゆる、バケツリレーだ。

 少しの間、ガシャガシャと金属の擦れる音と、置かれる耳障りな音がやかましく響いた。


 そのうち作業台に余裕がなくなり、次は床に置くしかないかとモニカが思ったあたりで、ようやく鍋は来なくなった。

「ありましたか?」

 モニカが問いかけると、

「はい。恐らくですが」

 アウラが即座に答えた。

 それを聞いて、ノエルとモニカが移動する。

 ちょうど三角形になるような配置で、二人はアウラの後ろから床を眺め下ろした。


 薄らと見える溝と、軽い窪み。

 ノエルは「ちょっとすみません」と断ると、身体をねじ込ませてアウラの前に出た。

 そして、おもむろにしゃがむと、窪みに手をかけ、一気に上方向へ力を入れた。

 カチッと小さな音が鳴り、ギシィィッと草臥くたびれた音が叫ぶ。

 最後、ガコンッと固定されたのを知らせる声が響くと、それきり押し黙った。

「間違いないですね。ここが暗渠への入口です」

 努めて冷静に零すノエルの視線の先にあったのは、四角く黒い穴と、鉄製の梯子はしご

 錆びてはいないものの、闇に呑まれるようにしてある細い梯子は頼りなく、些か不安を煽られる。

 穴から吹き付ける冷たく湿った風が、ノエルの蒼氷色の髪を揺らした。

 ゴクッと、思わず生唾を飲み込んだノエルは、最後の確認とばかりにアウラへ目を向ける。

「本当に、いいんですね?」

 アウラは大きく頷いた。

「もちろんです。行きましょう」

 はっきりと言い切ったアウラから、今度はモニカへ視線を移す。

「では、行ってきます。モニカさん」

「お気をつけて。何か不測の事態があれば、すぐに戻ってきて下さい」

「はい。ありがとうございます」

 次いでアウラが、暗渠地図を懐にしまいつつ口を開く。

「無理を言って、すみませんでした。行ってきます」

 そう言って、モニカに神殿の見取り図を返してから、ノエル、アウラの順番で梯子を降りて行った。


 冥府に続いているかのような黒い穴へ消えた二人に、モニカは心の底から祈る。

「どうか、女神様の御加護を……」


 ザアザアと降りしきる雨に止む気配は無く、じわじわと湧き上がる不吉な予感が、モニカの肩へ重くのしかかっていた。




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