第37話 転生者の憂鬱 前編


 オレの名前は、究極皇帝。

 碓井究極皇帝。


 はい。ふざけてません。本名です。

 誰が見ても分かる通りのキラキラネームですね。

 読みはもっとイカれてます。


 パーフェクトカイザーです。

 ウスイ、パーフェクトカイザー。


 信じられんですよね。分かります。

 キラキラネームの中でも、ひと際ぶっ飛んでる名前ですもんね。

 究極だったらアルティメットだろ!とか、パーフェクトだったら完璧だろ!とか、苦情は諸手もろてを挙げて受け付けます。

 オレもそう思うからです。

 ええ、ええ。この名前のせいで、小中高大と見事にいじられ倒しましたよ。

 初見で読める人間なんていないでしょコレ。

 卒業証書を渡す時の校長先生だって五度見してたわ。担任はその倍ぐらい見てたわ。

 こんな、クールを通り越したマッドでクレイジーな名前を付けた両親を、オレは本当に軽蔑してます。

 発案者の母親も、それを止めなかった父親も正気じゃない。


 まあ、そんなこんなも前世の話。

 今のオレには平凡な名前があります。

 今の両親大好き。ありがとう。マジ親孝行するわ。老後は任せろ。


 たらいに張った水に、今のオレの顔が映る。

 とび色の髪と、オリーブの実に似た緑色の眼。

 十八という年齢に見合った、前世よりもイケてる顔からポタポタと水が落ちて、波紋を作る。

 オレは、持っていた布で顔を拭った。

 ゴワゴワしていて地味に痛いが、贅沢は言えない。

 拭き終わった布を折り畳んで、たらいの横に置くと、見計らったように今の母が声をかけてきた。

「ライル。今日は隣のカノンちゃんと牛の放牧をするんでしょ?これ、お昼に二人で食べなさい」

 そう言って、母は巾着をオレに手渡した。

「ん。ありがとう。母さん」

 感謝を述べながら、巾着の口を開ける。

 四角く茶色い草籠が入っていた。

 大きさからして、中身は多分サンドイッチだろう。

 と言うか、ほぼ毎回サンドイッチである。


 オレが転生したここは町ではなく、中の中の村。平均を突っ走る、有り触れた村だ。

 子供よりも老人の方が多いのはもちろん、若者の多くが町へ出稼ぎに行っている。

 今世でのオレの弟も町で働き暮らしているし、妹は結婚してさらに別の町へ嫁いで行った。

 畑もあるし果樹もあるが、それら農業よりも畜産に力を入れている村であり、チーズや干し肉を町に卸す事で生計が成り立っている。

 加工品を出荷しているのは、村が町から遠い為、生乳や生肉では今の季節腐ってしまうからだ。

 どれぐらい遠いかと言うと、馬車で半日以上かかる。

 早朝に出ても着くのは日没前後。普通に運んだら普通に食中毒になる。ヤバいのは言わずもがなだろう。

 そんな訳で、決して裕福ではないが貧乏でもないこの村で、我が家も当然のように畜産業にはげんでいた。

 今日も今日とて、牛の世話である。


「ケンカしちゃダメよ?」

「しないよ」

「どうかしら?小さい頃は掴み合いのケンカして、流血騒ぎまで起こしたのに」

「子供の頃の話だろ?じゃあ行ってきます」

「はい。行ってらっしゃい」


 母と短い会話をして、オレは家を出る。

 硬い木の板で作られた内開きの扉を潜ると、ようやく顔を覗かせ始めた太陽が目を刺激した。

 みる……。

 空を見上げれば、千切られた様な白い雲がぷかぷか浮いていた。とりあえず今のところは雨の気配はない。放牧には打ってつけだろう。

 オレは足を左に向けて歩き出した。

 白と茶のニワトリが、ケコケコと鳴きながら平和に歩いている。実に牧歌的である。

 自宅から歩いて二、三分程度の場所にある木造平屋の家が、幼馴染であるカノンの家だ。


 実はカノンも、オレと同じ転生者。記憶もある。

 しかも、前世でもオレん家の隣で幼馴染。

 小中と同じ学校に通っていた。

 なんの因果で、と思わないでもないが、生まれる場所は選べないので仕方ない。

 ちなみに性別は前世と逆だ。

 オレは前世も今世も男。

 アイツは前世が男で今世は女。

 特別感を味わいたくて、自分が転生者である事を話したら、実はアイツも。と判明した次第。

 思わず膝から崩れ落ちたわ。


 ゴンゴンと、カノンの家の扉を叩く。

 中から何かが落ちた音と、何かにぶつかる音、ついでに色気のない叫び声も聞こえてきた。多分カノンだ。

 少しして出てきたのは、簡素な白い服を着て、ヘーゼル色の瞳を涙で潤ませた女。

 小豆あずき色の短い髪を持つ、黙っていれば可愛い部類に入るこの女が、カノン。

 年齢はオレと同じなので、十八歳。

 前世に照らし合わせればまだ成人前の子供だが、転生したこの国では十五歳が成人なので、一応は大人という事になる。

 寝間着パジャマのままだった事から、今の今まで寝ていたらしい。

 カノンの両親は畑仕事だろう。姿が見えない。

「ああ?んだよ、カイザーじゃん。急いで出て損した。何か用か?」

 女らしさの欠片も見えない口調で喋るカノンは、前のオレの名前を呼んだ。

 自分の顔がめちゃめちゃ渋くなるのを自覚する。

「今のオレの名前はライルだっつってんだろ。何回言や分かんだよ、ナ」

 言い終わる前に、カノンに襟首を掴まれて締め上げられた。苦しいけど、絶妙に窒息しない塩梅あんばいだ。慣れてやがる。

「前のオレの名前言いやがったらあご砕いてやる」

 女とは思えないドスの効いた低い声で言われた。超こえー。


 カノンは前世の名前を、それはそれは毛嫌いしている。下手したらオレ以上だ。

 オレとは違って、まともに読めるだけマシだと思うが、女っぽい名前であるのと、乙女ゲーのキャラの名前であると言うのが、本人にとっては耐え難いものらしい。

 最推し声優が役を勤める押しキャラ、って事で母親に付けられたんだと、頭の血管が切れそうな勢いで、生前コイツが愚痴っていたのを思い出す。

 ある意味、コレもキラキラネームなのかもしれない。


 おかげで、コイツはグレにグレた。

 そんな事で?と思うだろうが、コイツにとっては自分の根幹を成すほどの重要な事だったのだろう。なまじ繊細な奴だったし。

 思春期ど真ん中の十五歳の時に、〝貴方の名前の由来はゲームのキャラです。理由は推しだからです″なんて、頭空っぽな事言われたんだと言っていた。

 その瞬間、理性の糸と我慢のネジが軒並み吹っ飛んだとも。

 父親の耳を千切り取り、母親の頭をもてあそばれた末のバービー人形みたいに禿げ散らかさせ、家中の窓ガラスを割って警察沙汰になったあの日の事を、オレは今でも鮮明に思い出せる。

 パトカーと救急車のサイレンがクソ五月蠅うるさかった。

 最終的にコイツは、通っていた高校を中退。

 半グレ組織に入り、追ってくる警察を振り切る為、盗んだバイクで峠道を大爆走した挙句、ガードレールをダイナミックに突っ切って転落。

 そのまま人生をフィニッシュさせた。

 享年二十歳。


 ちなみに、さっき母が言っていた、幼少時の掴み合いのケンカと言うのは、この名前が原因。

 七歳とは言えコイツの全力グーパンで、普通にオレの前歯は折られた。

 周りの大人が制止する中、血走った目で近くに転がっていた石を掴み、尚もオレを殴ろうとしていた姿は、記憶に焼き付いて離れない。未だに背筋がゾッとする、恐ろしい思い出だ。

 メンチを切られ、ギリギリと締め上げられながら、オレは急いで両手を上げる。

 右手に持っていた巾着が、プラプラと迷惑そうに揺れた。

「悪かったって。でも先に言ったのはそっちだからな」

 カノンの手がオレの襟から離れる。

 軽く浮き上がっていた足が地に着いた。

 相変わらずの顰めっ面だが、さっさと謝った事でとりあえず溜飲は下げてくれたらしい。

「っせぇな。で、なんなんだよ?」

「お前、もしかして忘れてんのか?今日はオレと放牧の日だろ?」

 暫しの沈黙。

 からの「あ」と言う一音。

 がっつり忘れていたようだ。まあ、寝間着だった時点で察しはしていたが。

「勘弁してくれよ。爺ちゃんはともかく、オレの父さんがめちゃくちゃ時間に厳しいの知ってるだろ?」


 父と祖父は夜明け前からすでに働いている。

 乳牛舎に行って、牛の餌やりを祖父が、搾乳さくにゅうを父が、その後の放牧がオレ達の今日の仕事。

 牛舎の掃除は別の人の役目だ。

 今日の、と言っている通り、これは日毎のローテーション。

 オレが餌やりや搾乳をやる日もあるし、日によっては肉牛舎に振られる場合もある。

 言った通り、この村の収入源は畜産物。

 乳牛、肉牛の管理は村全体の仕事とも言えた。

 他にも豚舎や鶏舎もある為、畑や加工に従事している人以外は、村人全員の持ち回り制なのだ。

 一番楽な放牧は、五日に一度回ってくるご褒美デー。

 もちろん、牛が逃げないように、害獣に襲われないように見張っている必要はあるし、万が一に備えて攻撃魔法が使える奴との二人一組ペアだが、それでも他の仕事に比べれば天国だ。

 そんな恵まれた日に遅刻なんてしたら、拳骨どころかピッチフォークで殴られるかもしれない。

 考えただけで震える。


 オレと同じ事をカノンも考えたのだろう。

 父は女と言えども容赦しない。

 以前、大欠伸あくびこいて遅刻してきた日があったが、綺麗なアッパーカットがコイツの顎にクリティカルヒットしてた。

 元憲兵だった父の、腰の入った一撃は痛烈だったろう。

 カノンは顔を青くして急いで扉を閉めた。

 バサバサと衣擦れの音が束の間聞こえる。

 一分もしない内に再び出てきたカノンは、皺だらけの男物の服を着ていた。

「行くぞ!グズグズすんな!!」

 言うや否や、カノンが走り出す。

「いや走んなくても間に合うって」

「やかましい!早く行くに越した事ねぇだろが!!」

 よほどトラウマになっているらしい。

 カノンは怒鳴り散らしながら、全力ダッシュして行った。

 しょうがなくオレも後を追う。


 舗装されていない道だが、常日頃使われているだけあって、しっかりと踏み固められており、地面は雑草一本生えていない。

 そんな大地を踏み付け、蹴り飛ばして走る。

 暫く真っ直ぐ進んだ後、井戸と物見台のある広場を左折。

 さらに、小麦畑とトウモロコシ畑に挟まれた道を突っ走っていると、畑の中にいたカノンの両親と数人の村人が、目を丸くしてこちらを見ていた。

 オレもカノンも、必死の形相で駆けて行くので、何事かと思ったようだ。

 脇目も振らないカノンに代わって、オレが走りながらジェスチャーで伝えると、それぞれから苦笑が返ってきた。

 がんばれ、と生温なまぬるい視線に、若干の不満が湧き上がる。

 人の話を聞かないお宅の娘さん、なんとかなりませんか?


 やがて、村の端っこにある目的の茶色い乳牛舎が見えてきた。

 温和な顔をした爺ちゃんが、駆け寄ってくるオレ達に気が付いたのか、片手に持っていたピッチフォークを軽く振っている。

 カノンは、当然ながらそれに手を振り返す余裕もなく、暴走車よろしく牛舎に飛び込んで行った。

 その後ろ姿を見送りつつ、オレはスピードを落として爺ちゃんに近付く。

 喉が熱い。けど、へたり込むほどじゃない。

 上がった息を歩きながら整えていると、疑問符を頭の上に生やした爺ちゃんが話しかけてきた。


「どうしたんだ?そんなに急いで。まだ搾乳は終わってないぞ?」

「いや、オレも走んなくていいって言ったんだけど、アイツ聞かなくて……」

 それを聞いた爺ちゃんは、浅黒い肌に刻まれた皺を、より深くして笑った。

「ふっふっ。以前あやつに殴られたのがよほど堪えたと見える」

「そりゃ、あんだけ綺麗に飛ばされればね」

 ふっふ。と、爺ちゃんはもう一度楽しそうに笑う。

 そして、不意に顔を曇らせ、少し悩んだかと思うと、躊躇ためらいがちに口を開いた。

「……ところで、ライル。あの話は考えているのか?」

 脈絡がない上に漠然とし過ぎていて、何の話かさっぱり分からない。主語はきちんと言いましょう。

「あの話……って、どの話?」

 爺ちゃんの顔が、より険しくなる。よほど言い難いものらしい。

 ゴホンッ!と胸のつかえを取るように、盛大に咳払いをした。

「……うむ。その……な。カノンちゃんとの縁談話についてだ」

 聞いた瞬間、オレの思考が止まった。ついでに顔が引き攣る。なんだったら冷や汗も滲み始める。


 そう。

 オレとカノンアイツは今、途轍もない問題に悩まされていた。

 生まれた時から家が隣な上、両方の家族が、これまた昔からの友人ときている。

 なので、その子供であるオレ達の間に縁談の話が持ち上がるのは、まあ当然の成り行きと言えた。

 とは言え、オレとアイツは同じ転生者同士。

 加えてアイツは前世が男。

 前世の記憶が色濃く染み付いているオレ達にとって、難し過ぎる話だった。

 恋愛感情はからっきし湧かないし、身体は女でも中身がアイツだと思うと、性的興味も湧かない。

 正直、結婚なんて土台からして無理だ。

 特にカノンアイツにとっては。

 〝無理です。駄目です。出来ません。諦めて下さい″

 と、そうはっきり言えたら良かったのだが、いかんせんオレもアイツも今の家族は好きだ。

 ガッカリさせるのは本意じゃない。

 出来れば喜ばせたい。でも無理。

 そんなジレンマにさいなまれて、オレ達は結論を出せずにいた。

 いや、出てはいるが、伝えられずにいる。が正しいか。

 前世の記憶を持っているという事が、こんな面倒事になるとは、昔はつゆほども思ってなかった。


 はあっと、つい口からため息が出る。

 そんなオレを見て、なんとなく察したらしい爺ちゃんは、困ったように眉尻を下げた。

「……言い難いなら、儂から言っておこうか?」

 その声で、意識が引き戻される。

「あ……い、いや。大丈夫。その……オレもアイツも、まだ早いって言うか、まだ十八だし」

 手を身体の前でブンブン振りながら言うと、爺ちゃんは首を傾げた。

「何を言っとる。儂が妻と結婚したのはお前と同じ歳だぞ?お前の父さんと母さんは十六の頃だ。早くはあるまい?」

 あ。

 すっかり忘れてた。

 今いる世界ここは、十代半ばで成人年齢に達するのだと。

 大体の者が二十代半ばになるまでに結婚するのだと。

「あ、あ~……アレ、アレだよ。こう気持ちの問題って奴で、まだ踏ん切りがつかないだけで……」

 問題を先送りにしているだけだと、理解はしている。

 それでもと、しどろもどろになって言うオレに、爺ちゃんはやはり困り顔でため息を吐いた。

 そして空を見上げると、

「ん。そろそろ行かないと、あやつに起こられるぞ?」

 そう言ってオレを促した。

 釣られて見上げれば、空はずいぶんと明るい。確かに、そろそろ時間だ。

「うん。じゃあ、また。爺ちゃんぎっくり腰には気をつけてな。こないだやったばっかりなんだから」

 爺ちゃんに背を向けて歩き出す。そんなオレに、爺ちゃんのカラカラとした笑い声が届いた。


 乳牛舎の中では、父が最後ラストの牛の乳を搾っていた。

 木桶バケツの中には、今まで絞ってきた生乳がなみなみと溜まっている。

 後は別の部屋にある殺菌用の魔動機タンクに移すだけだ。

 カノンは父の後ろで、先端に小さな鐘の付いた放牧の為の杖を握って、入ってきたオレへ目を向けた。

「おっせぇぞ。何やってんだグズ!」

 開口一番カノンから放たれた口汚い罵声に、思わず顔を顰める。

「いや、間に合ったんだから別にいいだろ?てか口悪っ!どうにかなんねぇの?その口調。マジ萎えるんですけど」

「あ゛ぁん!?テメェ……いい度胸してんなぁ?もっぺん前歯折られてぇのか?」

 威圧感マシマシで詰め寄ってくるカノンに、オレは軽く身構える。

 売られた喧嘩は買うぜ!じゃなく、速攻逃げてコイツの両親に被害を訴えに行く為だ。

 情けないと言われようが、痛い目を見るのはゴメンである。

 すると、搾乳を終えた父が、心底迷惑そうな顔でオレ達を見た。

「やめろ。喧嘩するなら外行け。牛が驚くだろ」

「はっ!す、すんませんっした!!」

 オレじゃなくて父に勢いよく謝罪するカノン。なんやねんコイツ。


 父は小さく嘆息すると、木桶を手に立ち上がった。

「放牧してきていいぞ。戻すタイミングは分かっているな?」

「ああ。二回目の搾乳が夕方からだから、日暮れまでに戻せばいいんだよな?」

「そうだ。柵から出ないよう、ちゃんと見張っておけよ」

「分かってるって」

 軽く頷いて返すオレと、直角に腰を折って頭を下げているカノンを見て、父から若干疑わしい目で見られたが、結局は何か言われる事はなかった。

 何か思う所でもあるんだろうか?

 代わりに、腰に下げていた鉄製の水筒を外してオレに渡してきた。

「これは?」

 受け取りながら訊ねる。

「走ってきたんだろ?飲みかけだが、まだ中に入ってる。二人で飲め」

 飲みかけ、とは言いつつも、恐らく父はさして手を付けていないのだろう。

 ズッシリとした重さが手に訴えている。

 こういうさり気ない気遣いが、早婚出来た理由かな。

 なんて事を内心しみじみ思いながら、オレは素直に感謝を口にした。

「ありがとう」

「恐縮っす!!」

 オレ達の礼に、父は小さく微笑んで頷いた後、隣の部屋に移動すべく、木桶を持って歩いて行ってしまった。


 その後ろ姿を見送りながら、オレはカノンと放牧用の杖と水筒を交換する。

 そして、カランッと鐘を一度鳴らした。

「じゃ、やりますか」


 父が去って行ったのとは反対方向に、放牧地へ出る為の出入口がある。

 そこには、オレの身長の倍はある大扉がそびえており、放牧するにはまずそれを開けなければならない。

 なので、最初の仕事として、大扉を二人でズリズリ押し開けて開放する。

 ブワッと、気温が上がり始めた夏の空気と一緒に、牧草の濃く青い匂いが鼻を通り抜けた。

 最初の頃は慣れなかったが、何度も嗅ぐうちに好きな匂いになっていた。それは多分、カノンも同じだろう。

 現にオレの隣で、これでもかと深呼吸して肺にめちゃくちゃ取り込んでいる。

 前の人生では、自分達が第一次産業に就くなど想像もしていなかった事だ。

 辛い事や苦しい事も多いが、同時に何もかもが新鮮で楽しい。

 そんな事を考えつつ、オレは親牛と仔牛、合わせて四十頭の牛を外に出すべく動いた。

 牛同士を仕切る棒を外し、外へ出る為の太い二本の丸太を外して、鐘を鳴らして誘導する。


 この鐘。実は簡易な魔動機だ。

 魔力を込めて鳴らせば、ほぼ自動的に牛を任意の場所へ誘導出来る。

 今回は放牧地のある外。

 きちんと躾られた牛は、パニックさえ起こさなければ基本は大人しい。

 非常にのそのそした足取りで、牛は扉を潜り放牧地に向かう。

 幸いにも相性の悪い牛もいないし、放牧は実に楽に済んだ。

 取り残されている牛がいない事を確認すると、オレとカノンも外に出る。


 季節が秋に進んでいるとは言え、未だ夏にも関わらず、比較的涼しい風がオレ達に吹いた。

 やはり、アスファルトとかビル群が無いせいだろうか。反射熱や放射熱、ヒートアイランド現象とは無縁のこの地。クーラーなんて無くても朝夕は実に快適だ。

「だあ~~!すずし~~!!」

 隣から腹の底から出た声が飛んできた。気持ちは分かる。すんごく分かる。まだ朝だし、日陰だしな。

 牛達もオレ達と同じなのか、解放感からしもの方が緩くなったり、寝そべって昼寝に興じ始めたりと、囲われた柵の中で思い思いに過ごし始めていた。


 この村は丘陵地帯にある。

 故に、今オレ達の前には、なだらかながらも小高い丘が広がっていた。

 丘の向こうにはそれなりに大きな川が流れていて、橋を渡ったずっと先に、加工品を卸している町があった。

 父が職場にしていた憲兵団もそこにあった為、小さい頃一度だけ行った事がある。

 レンガ造りの立派な町だった。

 もう一度行ってみたい気がしないでもないが、ここでの生活に不満はないので、殊更に憧れを抱いている訳でもない。


 放牧地に作り付けられた、丸太を半分に割ったベンチに腰掛けて、オレは杖を牛舎の壁に立て掛けた。ついでに片手に持っていた巾着もベンチに置く。

 オレもカノンも田舎育ちである為、視力はとても良い。前世とは比較にならないぐらいだ。ここからでも柵の向こう側まで余裕で見通せる。

 オレは、おもむろに手をカノンに差し出した。

「あん?」

 隣に座ったカノンから、ガラの悪いいぶかしげな声が飛んでくる。

「水筒。お前に付き合ったせいで疲れた。飲ませろ」

「あ~、はいはい。りょーかいりょーかい」

 と言いながら、カノンは水筒の口を開けると、そのままグイーッと自らの口に運んでゴクゴク飲み始めた。

「あ゛ーーーーーーっ!!」

 つい汚い声が喉から迸る。

 ビールでも飲むかのようにグビグビ喉を鳴らして飲んだ後、ぷはぁ~っ!と盛大に息を吐くカノン。

 急いで水筒を奪い取ると、中に入っていた水は半分以下になっていた。

「お、ま、え、なぁ~……」

 恨みがましい目を向けて、地獄から響く様な声で不満を訴えると、カノンは意地の悪い笑みを顔に浮かべた。

「いやいや。オレの方が全力で走ったんだから、オレが最初に飲むのは当然だろ?」

「走んなくても間に合うって言ったオレの言葉を無視したの、どこの誰ですかねぇ~?」

「さあ~?誰だったかねぇ~?」

 しらばっくれるカノンに、ジト目を繰り出すが、さっぱりダメージを負わないので、諦めてオレも水筒に口をつける。

 冷えた水が口を濡らし、喉を潤す。

 微かにレモンと塩味を感じる事から、熱中症対策に入れてるんだと察せた。後味が仄かに甘いから、蜂蜜も入れてるのかも。

 うむうむ。実に美味い。


 そうして風に吹かれる事しばらく。

 そろそろ昼飯にするかと巾着に手を伸ばしかけた時、不意にカノンが口を開いた。

「……オレさ。実は異世界転生って奴に密かな憧れを抱いてたんだよな……」

 突然しだした脈絡のない話に、思わず瞠目してしまう。

「な、なんだよ。突然……」

「前世の記憶を持って、異世界でチート無双。周りの人間に「凄い」とか「素晴らしい」とか「馬鹿な……」的な事を言われて、アレ?オレなんか凄い事しました?みたいな事を言ってさ。出会う女は全員オレに惚れて、もう入れ食い状態のハーレム状態。結婚相手なんてあみだくじで決めちゃうぜ!的な?地味に優越感に浸れると思ってたんだよ……」

「……気持ちは分からんでもないけど、実際に口に出すとキモイ」

 渋い顔でそう言った途端、おもくそ顔面をぐーで殴られた。

 地面に転がるオレを一瞥いちべつすらせず、カノンは続ける。コイツ、分かっていたが最低だ。

「だって言うのにさ。気が付いたら寒いし視界はボヤけて何にも見えないし急に腹は減るししもの方はゆるゆるだしオレの大事なムスコは無くなってるし……。誕生から幼児期までの屈辱の日々と来たらよ……。転生に当たって、特に神様らしい奴との面談も無かったし、スキルの選択とかタップの回数だけレベルが上がるとか、容姿の選択キャラメイクに種族の選択、攻略情報インプット済みとかも一切無かった。前世で得た知識も、こっちじゃほぼ役に立たないし。なーんかよ、オレの思い描いていた異世界転生と違うな~って思ってよ」

 中二病満載の愚痴を聞きながら、オレは再びベンチに座る。

「そりゃあな。魔法は使えるし、魔族とかもいるけど、ここはゲームや本の世界じゃないからな。この世界の概念的に、レベルやスキルが存在しないなら当然なんじゃないか?」

「お前、つまんねぇ奴だな~。でも、千年前は魔王とか勇者とかいたんだろ?その頃ならワンチャンあったかもしんねぇのに」

「どうだろな。どっちにしてもオレ達は今この時代にいるんだから、今さらグチグチ言っても仕方ないだろ?」

「はぁ~つまんねぇつまんねぇ。さすが、前世で陰湿根暗な復讐をやり遂げた奴だよな~」

「それは関係ねぇだろ」

 ムッとして言い返しながら、オレはカノンに言われた事を反芻はんすうしていた。


 そう。オレは前世で復讐を果たした。

 誰にって?究極皇帝パーフェクトカイザーなんて、こんな頭のおかしい名前を付けた両親に対してだ。

 カノンみたいに、分かりやすい反抗の仕方ではなく、もっと地味で、しかし確実にダメージを与えるやり方で。

 端的に、そして分かりやすく言うと、死ぬほど金をかけさせてやった。


 小学校は間に合わなかったが、中学は私立に行きたいと親を拝み倒し、猛勉強の末、名門と言われる学校に入学した。

 スポーツや芸術、音楽等の専門知識をしっかり学べる所で、少なくない著名人を輩出した学校である。

 カノンも、その頃は真面目で頭の良い奴だったので、親の音楽方向に行って欲しいとの希望に応えて、同じ学校に入学した。

 エスカレーター式だったので、よほどの馬鹿じゃない限り自動的に大学まで進める。

 が、カノンは知っての通り十五でグレた。高等部へ進級して僅か半年で退学。

 オレはオレで、別の私立高校に行きたいと言って新たに受験。

 受験費用やら新たな入学費用やらを絞り出させ、中学よりもさらに金のかかる高校に入学。

 高校を卒業すると、今度は大学。さらに大学院の博士課程まで進んだ。

 その中で、取れる資格は全部取った。親の金で。

 老後用に貯めていた貯蓄を全て吐き出させ、素寒貧にして、贅沢なんて一切させなかった。

 モンペになるぐらいの馬鹿な両親だ。家計は常に火の車だったろうに、それでも満足そうだったのは笑えた。

 まあ、オレの外面が途轍もなく良かったってのもあるだろう。

 良い子ちゃんを演じるのは面倒だったし、目的の為とは言え、復讐の対象に愛想を振り撒くのは癪に障ったが、必死に堪えた。

 良心?全然痛まなかったね。

 なるべく家に居たくなかったのもあって、十七から大学卒業までの十年間、個人レストランで働きまくったが、稼いだ金は全部ソシャゲに費やした。

 貯金しても良かったが、まあ若気の至りと言う奴だ。

 そうして、大学院を卒業した後は、当然就職が待っている訳だが、オレは受ける会社受ける会社、ことごとく落ちた。

 当然わざとである。

 面接の時にふざけた態度と質疑応答をしまくって落とさせた。

 と言うか、多分大多数は名前の時点で落とされてたと思う。

 面接官は、面接を受ける本人だけでなく、その向こう側にいる親も見ている。

 〝究極皇帝″なんて、どう考えても気違いな名前を付ける人間と、間接的とは言え縁を結びたいなんて思わないだろう。触らぬ神になんとやら、だ。

 本当。いい名前を付けてくれたよ、まったく。

 まあ、たまに正気じゃない会社から内定の連絡が来たりもしたが、全部辞退した。

 当たり前だ。これは、オレの人生全てを使った復讐なんだから。

 どこにも就職せず、フリーターにもならなかったオレは、無事ニートと相成った。

 自室に引きこもり、風呂とトイレ以外は部屋から出ない日々が続くと、当初は嘆き悲しんだり心配したり、怒ったりしていた両親は、やがて何も言わなくなった。

 そっとしておくのが一番だと思ったんだろう。

 そして、オレは死んだ。

 享年三十六。

 自殺や事故じゃない。ただの病死だ。

 ちょうど流行っていたウイルスにやられて死んだ。

 どこで感染したのか、今もってサッパリ分からん。多分、父親か母親が外からウイルスを持ち込んだんだろう。

 もう少し無駄飯喰らいを続けたかったんだが……まあいいか。

 金は使わせまくったし、老後の面倒を見る為の一人息子オレも死んだ。

 ざまあみろだ。


 これが、カノンがオレの事を陰湿根暗と言った理由。

 至極的を得た評価だ。

「お前は考えねぇの?こう……人生が劇的に変わる瞬間ってか、俺TUEEEE展開」

 回想を終えたオレに、カノンは続けた。

 少しだけ悩む。

 目に映るのは、ひたすらにのんびりした風景。

 蒼い空に青い草原。そこを吹き抜ける風、降り注ぐ眩い光、小鳥のさえずりや牛の太い鳴き声。

 実に穏やかな時間が静かに流れていく。

 前世の、ささくれた気持ちで過ごしていた毎日とは対極にある時間。

 オレには今、満たされている実感が確かにあった。これ以上の贅沢なんて無いと確信できるぐらいに。

 だから、オレはそれを口にした。

「ん~~……。まあ、憧れが無いと言ったら嘘になるけど、オレは今の生活に不満は無いしな。簡単なものとは言え一応魔法は使えるし。今の両親には、オレにまともな名前を付けてくれただけでも感謝してる。これ以上を望むなんて、それこそ強欲ってもんだろ。お前だって、本当は分かってんじゃねぇの?」

「それは……そうなんだけどよ……」

 カノンが居心地悪そうに口篭る。

「カノンって名前、音楽の如く美しく豊かな人生になるようにって想いから付けられたんだろ?良かったじゃんか」

「言うなよ!小っ恥ずかしい!!」

「でも、嬉しいだろ?」

「…………嬉しい」

 ボソッと、水滴並みの小ささで呟くカノン。

 顔を耳まで赤くしている。

「だろ?」


 なんだ、可愛いとこあんじゃんと思った瞬間、もう一度殴られた。裏拳で。

 牛舎の壁にぶつかって跳ね返るオレ。ぐわんぐわんと揺れる視界。

 それを必死に立て直しながら、オレは殴られた箇所を押さえてカノンを睨んだ。

「お……お前、なんなのっ!?事ある毎にオレを殴って!殴るのが癖になってんのか!?オレ、サンドバッグじゃねぇんだけど!?」

「っるっせぇ!!腹減った!!飯っ!!」

 真っ赤になりながらも、普段通り横暴な振る舞いをする。

 理不尽過ぎる……。

 とは言え、確かに腹は減った。

 痛みを訴える右頬をさすりつつ、仕方なしに巾着を漁り、中から草籠を取り出した。

 オレの寛大な心に感謝しろ、カノン。


 チーズとレタスとゆで卵の挟まったサンドイッチを頬張る。

 うむ。絶妙な塩加減で美味しい。間に塗られたハーブバターが良い仕事をしている。

「んむっ。そういやお前、爺さんと何の話してたんだ?」

 むぐむぐと食べながら、カノンがまた口を開いた。

 カノンに渡した……もとい奪い取られたのは、生ハムがたっぷり詰まったクリームチーズのサンドイッチだ。

 オレの大好物であるが故に、ついつい目が追ってしまう。

「ん……ああ。アレだよ。オレとお前の縁談話の事」

 カノンの手がピタリと止まった。

「どうするんだって聞かれた」

「……なんて、答えたんだ?」

 恐る恐る訊ねられ、オレは遠い目をして答える。

「……とりあえず、保留中。と……」

「そ……っか……」

 ほっと息を吐くカノン。

 憂鬱げな表情は、やはりオレと同じ悩みを抱いているのだろう。

「最悪、結婚だけはして、子供作らない手もあるが?」

 そう提案すれば、カノンは力なく首を振った。

「ダメだろ。ここでは結婚=子供だ。作らないなら結婚する意味が無い」


 カノンの言う通り、この世界では結婚と子供を作る事は同義だ。

 オレ達が元いた世界からすれば、もはや時代遅れの考え方だが、ここでは当然違う。

 何せ、同族である人間に魔族、魔獣に野獣と、人間の天敵がわんさといる。

 死が有り触れている世界では、種を続かせる為、そして自分達の身を守る為にも、次の世代こどもが必須と言う訳だ。村としては、単に人手が欲しいと言うのもあるんだろう。

 なかなか世知辛い。


 オレは思わず、天を仰いだ。

 オレ達の悩みとは裏腹に、抜けるような清々しい蒼穹が広がっている。

 それを若干恨めしく思いながら、盛大なため息と一緒に、うんざりした思いを吐き出した。

「だよなあ~。じゃあ、やっぱり断るしかないか」

「お前はそれで良くても、オレはそれじゃ解決しねぇんだよ。お前の代わりに、違う奴をあてがわれるだけだ」

 カノンは渋い顔をして首を振った。

 こう見えてカノンは地頭が良い。無謀でちょっと……いやかなり手が早いが。

 だからこそ出てきた返答に、オレも苦い顔しか返す事が出来ない。

「あ~……そっか……」

「……いっその事、前世の記憶なんて無くなっちまえばなぁ~。そうすれば、もっと楽に生きられるかもしれねぇのに……」

 空を見上げて、ポツリと零したカノンの言葉に、オレは掛ける言葉が見つからず、ただ黙るしかなかった。

 前世の記憶があるからこそ感謝出来る事。

 前世の記憶があるからこそ苦悩する事。

 前世の記憶があると言う、一種憧れにも似た想いは、実際なってみると思い描いていたものとかけ離れていたのだと痛感する。

 そうして二人して、嫌味ったらしい長閑のどかな風景を、ただぼんやりと眺めた。


 解決しない憂鬱をツマミにサンドイッチを食べ進め、少し早めの昼食を終える。

 最後に、残しておいた水を二人で回し飲んだ。

 カノンは空になった水筒を自らの傍らに置き、オレは無言のまま草籠を巾着に戻す。

 すると、不意に牛達の様子に変化が起きた。

 寝そべっていたり、牧草をんでいた牛が、顔を上げて丘の彼方を見ている。

 不穏な空気が漂い始め、なんだ?とオレもそちらへ目を向けた。

 カノンも異変に気が付いたのか、立ち上がって鋭い視線を配る。


 それは唐突だった。

 飛来する人間が、柵の手前で墜落したのだ。

 草と土を顔面で抉り、ドリルよろしく掘り進んでストップする。

 驚いた牛達が叫び声を上げて、反射的にこちらへ逃げて来る。

 咄嗟に杖を手に取り、鐘を鳴らして牛舎の中へ誘導していると、後を追うようにもう一人。

 こちらは足から綺麗に着地して、先に落下していた人の一歩後ろで止まった。


 それは目を見張るほどの美人だった。

 どんなスーパーモデルだって裸足で逃げ出すだろう。男か女か、ひと目では判別出来ないほどの美人。

 年齢は二十歳前後。

 うるしの様に艶やかで傷みの一切ない黒い長髪を、後頭部で一つにまとめ、黒く長い外套を腰で結んでいる。

 黒い剣帯が巻かれた後ろ腰に、金色のつたが巻き付いたようなつかの、銀色の短剣が見えた。

 他にも、肩まで捲り上げた黒いジャケットを着て、下に着ている半袖のシャツは濃灰色。ズボンも履いている靴ミリタリーブーツも黒と、全体的に黒で統一されている。

 スラッとした細身の体型だが、女性の様な華奢さは見当たらない。

 絶世と言っても良いほど整った顔立ちに紫水晶アメジスト色の瞳。

 首には黒いチョーカー、右手首には金色のバングルと、およそ一般人とはかけ離れた容姿を持つその人物は、オレ達には一瞥いちべつもくれず、ただ地面にめり込んでいる人間を見下ろしていた。


「余計な手間をかけさせてくれやがって。無駄な抵抗なんてするから、こんな痛い目にあうんだぞ?」

 嘲りを多分に含んだ低い声色が、落下して動かない人間にかけられた。

 この時点で、黒衣の人物が男であると判明する。

「おーい。おっきろー」

 ピクリとも動かない眼下の人に向かって、男は一蹴り入れた。

 鈍い音とくぐもった呻き声がして、その人物が仰向けになる。

 片側の髪だけ刈り上げた人相の悪い男だ。

「た……たすけ、て……」

 転がった男が助けを呼ぶ。

 誰に向けてかは分からない。

 自分を蹴った男かも知れないし、遠くから見ているオレ達なのかも知れないし、ただ口から出ただけかも知れない。


「……牛の避難は任せた」

 カノンが黒衣の男を見据えながら、短く囁いた。

「任せたって、お前はどうすんだよ?」

「アレを放っとく訳にはいかないだろ?」

「お前……意外と正義感が強いんだな」

 つい口から本音が滑って出てしまう。

 すると、当然の如く三度みたび殴られた。口は災いの元とは、よくぞ言ったものだ。や、自業自得なのは理解してるが。

 殴られた頭をさすっていると、

「じゃ任せた!」

 そう言って、カノンは駆け出した。

「あ、おい!」

 呼び止める声が虚しく宙に消える。


 考えたのは、ほんの僅かな間だ。

 オレは杖を置いて、カノンを追いかけた。

 攻撃魔法を使えるとは言えカノンは女。万が一の事が無いとは言えない。

 牛はさっきの鐘で先頭が牛舎に入った。後はそれに追随する形で中に入って行くだろう。

 追いついたオレに、カノンがギョッとした目を向けた。

「はあ!?なんで来んだよ!?牛は!?」

「あの鐘が簡易魔動機だって忘れたのか?問題ない!それよりもお前一人で行かせる方が心配だ!」

「ハッ!泣き虫カイザーがよく言うぜ」

「やかましいっ!!」


 カノンと並んで緩やかな丘を駆け登る。

 ぐんぐん近付く二人の会話が耳に入る。

 黒衣の男は鼻で笑って、転がった男を見下ろしていた。若干、顔が引き攣っている気がしないでもない。

「おいおい。俺の尻に、俺の許可なく勝手に触ったのはどこのどいつかな?自分に賞金が掛けられている事実を忘れて、迂闊にも手を出したのはどこのどいつだ?ん?」

 それを聞いて、オレ達の足が一気に遅くなった。

 おい、マジか……。と、オレとカノンは顔を見合わせる。

 転がってる男、痴漢な上に賞金首かよ……。同情すら消えた。

「ゆ、許し……」

 土に塗れた汚い顔を恐怖で彩って、言葉を詰まらせながら許しを請う賞金首の男。

 対して、黒衣の男は相変わらず薄笑いを顔面に張り付けている。

 底の見えない闇を瞳に湛えた、背筋が凍るほどの冷笑だ。

「俺を女と見紛うのは仕方ない。そういう容姿だからな。だが、許可なくと言うのは頂けない。せめてひと言、触ってよろしいでしょうか?と聞くのが筋だろう?」

 とても軽い口調だが、言葉の端々から隠しきれない怒りが滲んでいる。

 ……まあ、当然だな。

「す、すみませ……」

 急いで謝る男の言葉を遮って、黒衣の男は続ける。

 まるで、聞くに値しないとでも言うように。

「そんな小物なお前の賞金額は、なんと実にお安い。たったの4000Dデア。ざっと町宿で二泊分だな。しょぼすぎて逆に笑える。いっそ殺しちまった方がスッキリするかもなぁ」

 表情はにこやかだが目が笑っていない。

 多分、半分は本気で言ってるのだろう。

 賞金首の男から息を呑む音が漏れた。

 見ず知らずの犯罪者の生死なんて死ぬほど興味無いが、さすがに目の前で死なれるのは寝覚めが悪い。

 殺すなら、どこか別の場所でやってくれ。

 そう止めるべく口を開きかけた時、乱入者がもう一人増えた。


「イヴル待てっ!殺すなっ!!」

 鋭く短く制止しながら、黒衣の男と同じように飛来した人物。


 稲穂に似た金色の髪と、柘榴石ガーネットの様な深紅の瞳を持つ青年だ。

 歳はオレ達と同じぐらいで、だがオレ達以上に整った顔立ちをしている。黒衣の男ほどではないにせよ、充分美形に入る部類だ。

 上半身は裾を出した白い五分袖のシャツを着て、腰には丈の長い深緋こきひ色の外套が巻かれている。

 外套の上から、焦げ茶色のウエストポーチを通した剣帯を締めていて、鈍色に光る長剣もまた装備していた。

 下半身は、シャツとは対照的な黒いズボン。そして茶色のミドルブーツを履いている。

 町人や行商人には見えず、騎士にも憲兵にも見えない。傭兵にしては軽装に過ぎる事から、恐らくは旅人であろうことが窺えた。

 黒衣の男の事を〝イヴル″と呼んでいた事からして、知り合いか、或いは一緒に旅をしているのかも知れない。


 そんな赤金の青年は険しい表情で、腰に巻いた深緋こきひ色の外套を翻しながら、黒衣の男に駆け寄った。

 黒衣の男が面倒そうに振り返る。

「ああ?殺すわけないだろ。そこまで短気じゃない。賞金かねだって貰えなくなるし」

「どうだかな。その人を吹き飛ばした時のお前は、少なくとも冷静には見えなかったぞ?」

「いや当たり前だろ。尻触られたんだぞ?尻」

「減るもんじゃないだろ?イヴル男だし」

「そう言う問題じゃねえっての!!お前も痴漢にあえ!!」

「僕はイヴルと違って中性的じゃないから問題ない」

「分からないだろ?!お前みたいのがタイプな奴もいるかも」

「いたとしても、イヴルそっちに目が行くのは確かだ」

 話題が斜め上に逸れ、仲良さげに言い合う二人を横目に、賞金首の男がそろりと動き出した。

 この隙に逃げてしまおうと言う算段だろう。

「あ」

 オレの声を遮って、黒衣の男が口を開く。

「おーい、こらこら~。何逃げようとしてんだ~?」

 パチンッと指を鳴らす音が響いた。

 瞬間、まるで何かの圧力がかかったように、賞金首の男の両足がし折れた。

「――――っ!?」

 すねの辺りが開放骨折し、白く尖った骨が皮膚を突き破って飛び出している。

 思わずオレの顔が歪んだ。見ているだけでも痛い。

 隣のカノンは、前世でそれなりに怪我を繰り返したおかげか、微かに眉をひそめるだけで終わっていた。


「いぎゃああああぁぁっ!!」

「イヴルッ!!」

 賞金首の男が絶叫するのと同時に、紅い青年がキツイ口調で黒衣の男を責める。

「殺してないんだ。骨の一本や二本でガタガタ騒ぐな」

「だからって!」

 言い募る紅い青年に、黒衣の男は深くため息を吐いた。面倒だと言わんばかりの重い吐息だ。

「あ~うるせぇうるせぇ。小姑ばりにうるせぇ。そんなにソイツに危害加えられるのが嫌なら、さっさと町に連れてって換金してこいっての」

 は~ウゼ~と、そんな態度をとる黒衣の男に、紅い青年は明らかにムッとした顔で、地面をゴロゴロと転がって叫びまくっている賞金首の男に近寄る。

 あまりにも騒いでうるさいのが気に障ったのか、それとも連れて行くのに暴れられては困るからか。青年は賞金首の男の首に手刀を入れて気を失わせると、その首根っこを無造作に掴んで身を起させた。

「そうだな。そうさせてもらう。浮風エアライド

 紅い青年と賞金首の男が、ふわりと宙に浮き上がった。

 爽やかな風がオレの頬を撫でる。

 初めて見る魔法だ。名前の通り、風に乗っているのだろうか。

 汎用性高そうだし、後で練習してみようかな……。

 そんな事を考えていると、空中にいる紅い青年が、黒衣の男を見下ろしながら首を傾げた。

「……どうした?町に戻るぞ?」

「いや、俺はここで待つ」

「?何故?」

 その問いに黒衣の男は答えず、代わりに視線をオレ達に向けた。


 初めて目が合う。稲妻の様な瞳だなと、やや緊張感に欠けた感想が浮かび上がる。

「すいません。この村に宿屋はありますか?」

 ぼけっとしていたオレへ、黒衣の男は先ほどとは打って変わって、丁寧な口調で訊ねてきた。一応、オレ達の存在は認識していたようだ。

「え……?あ、は、はい。一軒だけ、小さいですけど……」

「満室ですか?」

「さ、さあ?でも、多分空いてると思いますよ?客人なんて滅多に来ませんから……」

 その答えに、黒衣の男は満足そうに微笑んだ。視線を紅い青年に戻す。

「って訳で、今日はこの村に泊まる。そいつの換金が済んだら戻って来い」

「何が〝って訳で″なのか、さっぱり分からないんだが?」

「町の宿よりも村の宿の方が安いだろ?経費節約だよ。それに、経路的にもこっちの方が進んでる。逆に何か問題があるか?」

「……無い。分かった。……くれぐれも、村の人に迷惑はかけるなよ?」

「俺はガキか。さっさと行け」

 しっしっと、虫でも追い払うように手を振る黒衣の男。

 紅い青年は、やはりムスッとした表情のまま、

ラン

 と言って、風を走らせた。

 青い草を散らし、瞬く間に小さくなっていく紅い青年と賞金首の男。

 やがて後ろ姿が丘の向こうに消えた辺りで、黒衣の男は身体ごとこちらに向いた。


「では、宿への案内お願いします」


 ニッコリと笑った顔は、惚れ惚れするほど晴れやかだった。





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