第36話 聖女と少女と泡沫⑧ エピローグ


 眼前で、深い深いため息が吐き出された。


 その顔に浮かんでいるのは、色濃い疲れと辟易。

 取り巻いている三者は、それぞれ違う色を表情にしている。

 おもんぱかる者。

 冷静な者。

 面白がる者。

 あと二者足りないが、厄介事が起きていると以前言っていたから、恐らくそれ関連でいないのだろうと察せた。


 雲一つ無い澄み切った赤紫色の空。

 地平に輝く黄金の光。

 見渡す限り続く水鏡の大地。

 凹凸おうとつなどどこにも見当たらない水平線。

 黄昏か、暁か。

 時の移ろわない世界の中で、涼やかな風だけが穏やかに吹いている。

 その中で、空と大地を繋ぎ止める様にそびえ立つ、巨大な灰色の塔。


 塔内の壁を埋め尽くすようにして並ぶ、優に計羅を超える本の数々。

 この一冊一冊が、根源神の管理する一つの世界。

 きっとこの中に、本体のいる世界ノルンもあるのだろうと思う。


 相変わらず圧巻だな。と考えながら、果ての見えないその塔の中で、頭を抱えそうな勢いでいる眼前の神に告げた。

 対処をよろしく頼む。と。

 漆黒のローブを纏う根源神は、ため息混じりに返してきた。

 善処する。と。

 なんともはっきりしない返答に、自然と眉間が寄る。

 それを目に留めたのか、中央にある巨大なオベリスクの前にいた、深緑色のローブを着た男が不機嫌そうに口を開いた。

 不服か?と。

 いな

 そう即答すれば、顰めっ面はそのままに口を閉ざした。

 真実、不服はない。

 そも、こちらはただ報告と苦情を言いに来ただけ。

 恩を売る目的も、伝え終わった時点で達成済み。端末の役目は終えている。

 要望を呑むも呑まないも、あくまでそちらの問題だ。

 そんな冷めた気持ちがおもてに浮かんでいたのだろうか、深緑の男に睨まれた。


 壁に沿って造られた、上へ伸びる螺旋階段。

 そのちょうど二階相当の場所で、こちらを見下ろす青藍色のローブを着た女が立っていた。

 女は、仲裁するように静かに口を開く。

 貴方の要望をきいてあげたいのは山々なのですけれど、こちらも今忙しくて、すぐには無理かもしれませんわ。と。

 頷く。

 承知している。と返す。

 続けて、多少なりとも改善してくれれば、それで構わないとも。


 金糸雀カナリア色のローブを着た少女が、ウロウロと落ち着きなく歩き回りながら喋る。

 今、魂を根源ここへ導く為のシステムを管理してる専門家やつがいないからね~。がんばっては見るけど、あんま期待しないでね~。と。

 頷く。

 承知した。と。

 黒い神が、側転してケラケラ笑っている黄色い配下を見て、げんなりしたため息を吐いた。

 アイツの能天気さが羨ましい、と顔に書いてある。


 宵の様に美しく黒い神は、黄昏色の瞳をこちらに戻した。

 そして繰り返した。

 善処はする。と。

 少なくとも、そちらノルンに甚大な影響が出ないようにはする。と。

 頷いて返す。

 不意に浮かんだ率直な感想が口をついて出た。

 大変そうだな。と。

 黒い神は、フッと笑った。

 失笑だ。

 他の者からも、お前と同じ報告と苦情が来ているよ。と。

 なるほど。どうやらこの事案は、この神が管理している全ての世界に影響が出ているらしい。

 ならば、一朝一夕に解決するなど無理難題もいい所だろう。

 神は言葉を続けた。

 まあ、良い暇潰しだ。と。

 予期せぬトラブルすら、暇潰しだと簡単に言い切ってしまうのは、永劫を生きる者の宿命みたいなものか。


 自身をかえりみて、しみじみとそう思った。


-------------------


 朝、とある村のとある宿屋で、イヴルはパチリと目を覚ました。


 暗い天井。

 朝とは言え、まだ日の出前らしい。

 むくりと身体を起こすと、ガチャリと腰から音が鳴った。

 見れば、外套も剣帯も付けたままである。

 なんだったら靴も履いたまま、布団も被っていない。

 なんでこんな状態で寝てたんだ?と、素朴な疑問が頭を過ぎる。

 前日の記憶がほぼ無い。

 確か、村に来て宿を取った後……。


 と考えていると、イヴルが起きた気配を感じ取ったのだろう。

 隣のベッドで寝ていたルークも目を覚ました。身を起こして、目を擦りながらイヴルを見る。

「……ようやく起きたのか。お前、寝すぎだぞ」

 寝起きが悪いのか、はたまた単にイヴルに腹が立っているのか、その声色は非常にムスッとしている。

「俺、そんなに寝てた?なんか昨日の記憶が全然無いんだけど」

 些かボサボサになった頭を小さく掻きながらそう言うと、ルークは嘘だろ?と引き攣った面持ちでイヴルを凝視した。

 やがて大きなため息を吐くと、茶色いミドルブーツを履き、立ち上がって壁に引っ掛けてあった深緋こきひ色の外套を纏う。

 次いで、焦げ茶色のウエストポーチを通した剣帯を腰に巻いた。

 そして、ベッド脇に立て掛けてあった長剣を剣帯に装備しつつ、前日にあった事をポツリポツリと話し始めた。


 今二人がいるのは、クロニカから歩いて二週間弱かかる場所にある小さな村。

 魔族や野盗、害獣、魔獣を阻む為の防壁も無く、あるのは最低限の物見台だけという、ささやかなと言えば聞こえは良い、そんな貧相な村。


 前日。

 まだ陽も昇り始めたばかりの頃。

 村に着いて早々に宿を取ったイヴルとルークは、いつも通り依頼を受けるべく掲示板の前にいたのだが……。

 ゴリゴリに口喧嘩をした。

 理由は単純かつ明快なもの。

 クロニカでの惨劇の後、ルークがイヴルに無断で金銭報酬を断った事。

 その後、また路銀を稼ぎながらの旅路になってしまったのを、チクチクと針で刺す様に、恨みがましくルークにぶつけていたのがきっかけだった。


「今さらなんだ!女々しいぞ!」

 とキレるルークに対して、

「事実だろうが!」

 とキレ返すイヴル。

 飛び交う罵詈雑言。売り言葉に買い言葉。

 互いに剣を抜かなかったのは奇跡に近い。

 まあそんなこんなで、最終的にルークは、

「そんなに言うなら、今回は僕だけで依頼を受ける。お前は、グースカ間抜けに寝てろ!この陰湿根暗狭量カビ野郎!!」

 と捨て台詞を吐いて、掲示板に貼ってあった依頼の紙を全部引き剥がし、ノシノシと立ち去って行ったのである。

 一人取り残されたイヴルは、肩をいからせるルークの背中に向かって、似たような罵声を浴びせた後、鼻息荒く言われた通り、村の端にある大木の上で昼寝にいそしんだのだ。


「――――と、言う訳だ。僕が依頼の合間にお前を探しに行ったら、木の上で本当に寝てるし、起こしても夢うつつのまま。それならと宿に連れて行ったら、夕飯はいらないと言って、ベッドに倒れ込んでさらに寝る始末。で、今に至る。思い出したか?」 

 振り返ったルークが訊ねると、いつの間にか窓の傍へ移動したイヴルが、腰に手を当てて外を見ていた。

 着ている服には皺ひとつ無く、髪も整っている事から、話の最中に身支度を済ませたらしい。

 見え始めた太陽によって、世界が明るく染まり始める。

 晴れた空には雲一つなく、今日も暑くなるであろう事が容易に想像出来た。

 地平線の彼方に見える山並みは、ずいぶんと大きくなってきたがまだ遠く、到着するにはそれなりの日数がかかる事を訴えている。

 それを、イヴルは遠い目で眺めた。

「あ~~~~……。そう言えばそんな事あったような~……」

 ジトーッとした視線が、イヴルの背中に突き刺さる。

 遠慮なしにグサグサと痛い。

 その内、小さな嘆息が聞こえた。

 そろっと振り向けば、外套の上半身部分を脱ぎ、袖を腰で結んだルークが、呆れた表情でイヴルを見ていた。


「まあいい。寝てろと言ったのは僕だしな。それで?どんな夢を見ていたんだ?途中うなされていたが」

「え、そうなの?いや~、実はよく覚えてなくてな。なんか死ぬほど面倒で、死ぬほど疲れて、死ぬほど嫌いな奴と一緒に行動していた……ような、そんな漠然とした感じは覚えてるんだけどな~」

 腕を組んで、う~んと首を捻るイヴル。

 最後に浄化魔法を使って、身なりを整え終えたルークは、何とも言えない顔で、

「悪夢だったと言うのはよく分かった」

 そんな相槌を打った。

「いつもは覚えてるんだが、なんでか今回は駄目だな。いくら考えても思い出せん」

「いつもはって、夢だろう?覚えていられるものなのか?」

「……まあ、大体同じ内容の繰り返しだしな。いい加減飽きて困ってる。だから、今回の夢は面白そうだと思うんだが……さーっぱりだ」

 肩をすくめるイヴルに、ルークは「ふーん」と気のない返事をした後、ふわりと香ってきた匂いに鼻をひくつかせた。

 この村では、村人のほとんどが農業に従事している為、朝は途轍もなく早い。

 太陽はまだ半分も見えていないのに朝食の時間だ。


「そろそろ朝食だな。さすがに食べるだろう?」

「当たり前だ。なけなしの金払って宿に泊まってるんだから……って」

 そこでふと何かを思い出したのか、イヴルは眉根を寄せる。

「……昨日、俺夕飯食わなかったって言ったよな?」

「ん?ああ」

「じゃあ、その分の宿代が戻ってきたり……」

「イヴルの分は僕が美味しく頂いたから無理だな」

「何食ってんだよ!人の分!!」

「朝から夕方まで、お前の分も働いたんだ。腹も減っていたし、残すのも悪いだろ?そもそも、いらないと言ったのはイヴルだ。僕を責めるのは筋違いだぞ」

 うぐっと言葉に詰まる。

「それに、宿代は最初から食事付きの値段だ。前払い制だし。払った後に、やっぱり食べないから一部返してくれなんて器の小さい事、言えるはずないだろう?食材だって用意しているんだから。魔王のくせに、さもしい事を言うな」

 ぐうの音も出ない。

 正論ど真ん中を行くルークに、反論する事も出来ず、イヴルは悔しげな表情を浮かべてギュッと拳を握り締める。

 が、すぐに緩めると、色々と諦めた様なため息を吐き出した。


「もういい。腹減った。飯食う」

 短い単語を呟いて、イヴルは窓から離れて歩き出す。

 小さな村の小さな宿屋だ。当然、部屋も広くない。

 ルークの寝ていたベッドを通り過ぎれば、即扉に辿り着く。

 ノブを下げて、引き開いた扉を潜ると、イヴルに追随する形でルークも部屋を出て行った。


 その後、タンパク質多めの朝食を摂った二人は、早々に宿を後にして外へ出る。

 まだまだ低い位置にある太陽。

 それでも、脳を焼く様な強烈な光を目に届ける。

 イヴルは立ち止まり、眩しそうに目を細めながら、手で傘を作り空を見上げた。

 そんなイヴルを追い抜かしたルークが、隣に移動して声をかける。

「暑くならない内にさっさと行くぞ」

 そう急かすルークに、イヴルは目をすがめて見返した。

「なんで命令口調だよ。言われんでも行くっつの」


 グロンズ街道目指して歩き出した二人の蹴る土が、一陣の風に巻き上げられて、濃く蒼い空へと舞い上がって行った。


-------------------


「殿下!東街区の断水の件、暗渠で発生した魔獣の影響と判明いたしました!つきましては、補修班に警護の為の人員を割きたいのですが!」

「許可する。第三騎士団で、暗渠の見回り兼魔獣討伐班が作成されている最中だ。団長と相談して組み込んでもらうと良い。一筆書くから少し待て」

「殿下!建築用の資材ですが、これを商機と見たのか、一部の卸業者が値を吊り上げてまして、酷い者だと三倍も……」

「論外だ!浅ましいにも程がある!その業者とは取引しなくて良い!足りなくてどうしてもな場合でも、相場の五割増までが限度だ!」

「殿下……クロニカ城主殿からまた文が……」

「あの老害……いい加減にしとけよ……。今が尋常じゃなく忙しいのは知ってるだろ……」

「で、殿下……」

「…………しょうがない。昼過ぎに伺うと伝えてくれ」

「……御意」

「殿下。行方不明事件の被害者ですが、総数は188名。内、生き残ったのは殿下を含めて30名のみ。リストを見る限り、やはりクロニカだけでなく、近隣の村や町の住人も含まれているそうです」

「そうか……。私も後で目を通しておく。リストを持ってきてくれ」

「御意」

「衛士長。ちょっといいか?」

「はっ」


 喧騒ひしめく臨時行政所。

 時刻は陽も昇った午前中。

 ひっきりなしに指示を飛ばすホープの目の下には、濃い疲労からか隈が出来上がっていた。頬も、心なしかやつれているように見える。

 そんなホープの後ろや脇を、書類を持ったエペとアウラが忙しなく動き、警護兼お目付け役の衛士長も、ホープの背後に立って目を光らせつつ、時折求められる助言に返答していた。

 三人とも、ホープに負けずとも劣らない疲労感を滲ませている。


 行方不明事件から二日後。

 クロニカの惨劇すら冷めやらぬのに、新たに加わった死者多数の事件のせいで、天幕内は蜂の巣をつついた様な有り様になっていた。

 ざっくり言って、ノエルがクロニカに再訪した日以上の多忙具合いだ。

 事件直後の混乱も然る事ながら、日が経つにつれて明らかになる全容のおかげか、今現在の方がより混沌を極めている。

 男爵とレイニスは、憲兵団詰所の地下にある一室で拘置され、連日取り調べを受けていた。

 二人の後の処遇に関してはまだ明確に決まっていないが、男爵の爵位剥奪は免れないだろうと、もっぱらの噂である。


 猫の手も借りたいほどのてんてこ舞いぶりを眺めながら、髪をハーフアップにしたノエルは、天幕の入口で途方に暮れていた。

 クロニカを出発する前に、アウラとホープにひと言挨拶をして行こうと思って寄ったのだが、この有様である。

 あまりの鬼気迫る忙しさを前に、どうしようと突っ立っていると、不意に後ろから何かがドンッとぶつかって来た。


「んだあ?邪魔くせぇな……って、またアンタか」

 反射的に謝ろうと、勢いよく振り返ったノエルの目に映ったのは、日に焼けた肌の大柄な男。

 西防壁の修復を担当している、現場監督の男だった。

 目が丸くなるのを自覚しながら、ノエルは男を見上げる。

「貴方は……」

「どうした?また殿下に用事か?」

「え、あ、は……いえ、火急と言う訳では……」

 咄嗟に頷いて肯定しようとしたが、初日の事を思い出し、言葉の途中で首を横に振った。

「……時間かかるのか?」

「いいえ。旅立つ前に挨拶をしようと思っただけですので……」

「ならちょっと待ってろ。聖女様が相手なら何とかなるかも知れん」

「でも、お忙しいようですし」

「いいからいいから。待ってろ」

「あっ――――!」

 引き止めようとしたノエルの手が、力なく垂れる。

 そして、小走りにホープ達の元へ行ってしまう男の背を見送りつつ、疲れたため息を零した。


 ノエルは、今回の行方不明事件の解決と第一皇子ホープ救出を成し遂げた者として、一躍その名を聖教国中に広めていた。

 聖女候補、と言う神官の中でも特別な位置にある事が、名が広まる一因になったとも言える。

 本人としては、慎ましく静かに巡礼の旅をしたかったのだろうが、人の口に戸は建てられない。

 号外も相まって、あっという間に広まってしまった現状に、頭を抱えたい気分でいっぱいだった。

 低空飛行を始めた内心を振り切って、ノエルはつい先日の事を思い返す。


 結局、ファイの正体については分からなかった。唐突に現れたヘルと言う少女についても然り。

 ファイについては、そうかもと言う予測があったが、予測は予測。確証はない。

 障壁の割れる音に掻き消されて、ファイとホープが交わした会話の内容も聞こえなかった。

 当のホープも、ファイの正体については分からないとの一点張り。

 〝色″が分からない上に、多分名前も偽名。これ以上どうする事も出来ない。

 自らを〝泡沫の存在″と称したファイ。

 それを証明するように、時が経つにつれ、その姿が朧気にかすんでいく。

 遠からず声も、関わった記憶も、存在自体思い出す事が出来なくなるだろう。


 自分では為す術もない事に、寂寞せきばくの思いが胸に去来する。

 頭と一緒に再び落ち込んだ意識を、どうにか浮上させようと躍起になっていると、

「ノエルさん」

 少女の声が引っ張り上げてくれた。

 自然と視線も声の方へ向く。

 薄紅色の髪を揺らして駆け寄ってくるアウラが映った。傍らにはホープも一緒だ。

「アウラさん。ホープ様。すいません、お忙しい所……」

「いや。……少し場所を移そう。ここだと邪魔になる」

 ホープはそう言うと、即座に歩き出して天幕のとばりを潜る。

「あ、はい」

 続けて、アウラとノエルも外へ出た。


 暑い空気が割合を増し始めた中、広場にある噴水から勢いよく水が噴き上がった。

 眩い太陽光を受けて、出来上がる鮮やかな虹が目に飛び込んでくる。

 今日も良い天気だ。

「それで、もう出発するんだって?」

 ホープに訊ねられ、ノエルは大きく頷いた。

「はい。これ以上ここにいても、私に出来る事はなさそうですし……むしろ、無駄に騒がせている気がするので……」

 ノエルの言う通り、彼女が聖女だと知れ渡った後は、ひと目その姿を拝もうとする人々のせいで、クロニカ全体が浮足立っていた。

 それこそ、騎士や憲兵、復興に従事する人達の足を引っ張ってしまうほどに。

 現に今も、ノエル達を見つめる熱い瞳が無数にある。

「ああ……」

 ホープは苦虫を噛み潰したような渋い顔で視線を落とした。

「すみません。ノエルさん……」

 同じような表情を浮かべて、何故かアウラが謝罪する。

「いえ!いいえ!アウラさんが謝る事ではないですから!!気にしないで下さい!」

 首と手をブンブン振りながら言うと、アウラから苦笑が漏れた。

「ありがとうございます。……あ、ホープ様。あの事をお伝えしないと」

 ふと、何かを思い出したらしく、アウラは突然ホープを促す。

「え?あっ!そうだった、忘れてた!」

 一瞬怪訝そうにしたホープだったが、すぐに思い出したようで、アウラからノエルへ目を向けた。

 反対にノエルは首を捻っている。

「はい?」


「君が追っている旅人二人についてだ」


 ノエルの目が驚きに見開かれる。

「何か知っているんですか!?」

 思わず詰め寄るノエルに、軽く一歩後退りながらも、ホープは頷いて返した。

「あ、ああ。多分……と前置きが付いてしまうが……」

「構いません!教えて下さいっ!!」

 ホープの手をガッシリと掴むノエル。

 ゴクリと、ホープが生唾を呑み込む。色気云々ではなく、その迫力に押されたからだ。


「ヴィ、ヴィルグリーズ山脈だと思う……」

「ヴィルグリーズ山脈……って、あの国境の山ですよね?」

 ノエルの表情が翳る。

 ヴィルグリーズ山脈は、スクルディア聖教国とヴェルノルンド王国の境にある、北から南西に向けて連なる非常に長い山々だ。

 故に、ヴィルグリーズ山脈とひと口に言っても、広大に過ぎる為、詳しい場所を特定しない限り出会うのは難しい。

 そんなノエルの内心を読み取ったのか、ホープは安心させる様に力強い声色で続ける。

「恐らく、ラウルスの町だ。北西にある山のふもとの町なんだが、知っているか?」

「はい、一応。確か、魔王が封印されている神造遺跡が近くにあるんでしたよね?」

「ああ。その封印遺跡に用があるような事を言っていたから、立ち寄るとしたらラウルスが一番有力だろう」


 麓と言うものの、国境の町ラウルスは山に少しだけ登った位置にある。

 聖教国に属する町であるが、山の中腹にあるトンネルを抜ければ即王国だ。

 話題に上がった封印遺跡は、町からトンネルに向かう途中にあり、ちょっとした観光名所になっている。

 と言っても、外観を外から眺めるだけだが、それでも良い収入源であるらしい。

 ラウルスの人達の商魂逞しい事この上ない。

 クロニカからは、歩いて行けばひと月弱。馬車を使えばその半分程度で辿り着ける。

 ノエルが到着する頃には、季節は秋へ移り変わっているはずだ。


 ノエルは一度、大きく首肯した。

「ありがとうございます。ホープ殿下。ラウルスに行ってみようと思います」

「ああ。気をつけてな」

「その後は王国へ行かれるんですよね?」

 不安げな表情をしたアウラが訊ねる。

「はい。大神殿を巡るのが、巡礼の旅の主目的ですから」

 迷いなく答えながらも、ノエルの顔は不思議そうな色を浮かべていた。

 アウラが何故、不安そうな面持ちをしているのか分からないからだろう。

「どうかなさいました?アウラさん」

 一瞬の逡巡。

 が、すぐにアウラは目を移して、ホープへと訊ねた。その声色は硬い。


「ホープ様。あの話、してもよろしいですか?」

 問われたホープは、前後の脈絡からアウラが訊ねている事を瞬時に理解したのだろう。首肯して促した。

「ああ。あくまで噂の域を出ないが、王国に行くのなら知っておいた方がいい」

「それと、あちらの方は……」

「あちらは荒唐無稽に過ぎる。今伝えても混乱させるだけだろうから、しなくてもいいんじゃないかな」

「でも……」

「真実、そんな事が起こっているのなら、ラウルスで話題に上っているはずだ。なら、その時に聞いても遅くはないと思うよ」

 二人の話が全然呑み込めないノエルは、蚊帳かやの外に置かれたような微妙な疎外感を抱く。

 が、話の腰を折るのは、雰囲気からして憚られた為、雲った表情のまま「よし」を待つ犬の如く、大人しく待ち続けた。

 アウラが寂しそうにしているノエルへ視線を戻す。

 ピッと、ノエルは背筋を伸ばして、居住まいを正した。

 アウラの瞳の奥に、重苦しい色を見たからだ。ホープにも、同様の色が見え隠れしている。


「あくまでも風の噂、なのですけれど……」

 そう前置きして話し出したのは、現在の王国の状況。

 各町に号外として出されている王国内情の話。

 そこにプラスして、耳を疑ってしまうほどの重大な情報だった。


 いわく。

 王国での反乱。

 それを扇動し、主導したのが魔族だと言うのである。

 しかも、ほぼ無血で王都を乗っ取ったらしい。

 極めつけは、魔族はそのまま王都を占拠し、今に至るまで出て行っていないとの事。


 にわかには信じ難い内容に、ノエルは呆然としたまま口を開閉する。

「本当……ですか?」

 ホープは難しい顔で首を横に振った。

「分からない。言ったように、これはあくまでも風の便りで届いてきた、信憑性の乏しい話だ。確たる証拠はない」

「王国民の方から得た、直接的な情報ではないんです。ただ……もしも本当だとしたら……」

 これ以上深刻な事はない。

 と、沈んだ表情が物語っていた。

 王都を、実質的に魔族が支配、統治しているのと変わらないのだから、然もありなんと言った所だ。

「王国へ行く君には、一応伝えておいた方が無難だと思ってな。近々、聖教国から王国への渡航も禁止される。王国向こうが落ち着くまで、聖教国こちらに留まっている手もあるが……」

「いえ、それならば尚更の事。行って、何が起こっているのか、この目で見てきます。その上で、もしも魔族の方が王国の方に無体を働いているようなら、私が必ず止めてみせます」

 即答で断言するノエルに、ホープは「そう言うと思った」と、苦笑じみた微笑を浮かべた。


 そして、それならとホープはノエルに少し待つよう言い置くと、アウラを残して天幕の中へ一度戻っていった。

 少しして、再び姿を現したホープの手に握られていたのは、一枚の羊皮紙。

 大きくはない。広げてもてのひら程度だろう。

「これを持って行くといい」

 そう言われ、疑問符を浮かべながら開くと、そこにはノエルの聖教国から王国への渡航を許可する旨と、ホープの署名、皇家の紋が焼印されていた。

 渡航禁止の布令が出されても王国へ行ける、特別な通行手形だ。


「これは……」

 驚くノエルの顔には、遠慮の色が浮かんでいる。

 それを吹き消すかのように、ホープは穏やかに微笑んだ。

「今回助けてもらった礼だ。受け取ってくれ。君なら問題ないと思うが、火のない所に煙は立たないと言う。充分に気をつけてな」

 ふっと、ノエルの表情が緩む。

 渡された通行手形を大切に胸に抱いて、深々と腰を折った。

「ありがとうございます。色々とお世話になりました」

 釣られてか、アウラも腰を折って頭を下げる。

「いえ。こちらこそ、大変お世話になりました」

 そうして上半身を起こした後、気遣う色を濃く浮かべた顔で、少し躊躇いつつ続けた。

「ノエルさんの旅を無理に引き止める事は出来ませんが、くれぐれも気をつけて下さいね。魔族云々の話は抜きにしても、王都で反乱があり、王国が半ば無法地帯になってしまったのに変わりはありませんから……」

 その言葉に対して、ノエルは安心させる様に落ち着いた声色で返す。

「お心遣い、ありがとうございます。肝に銘じておきますね」

 が、そこに関してはあんまり信用されていないのか、アウラの表情は晴れない。

 しかし、ここを突っ込んでも良い事ないと思ったらしく、微かなため息と共に首を振って意識を切り替えた。


「イヴルさんとルークさんに追い付けましたら、私達がよろしく言っていたとお伝え下さい」

「はい。必ず。アウラさんも、あの話頑張って下さいね」

 言われた言葉の意味が分からず、少しの間記憶を探るアウラ。

 やがて、幾つか候補が上がるものの、主語を欠いているせいで確証が持てない。

 ウロウロと振り子の様に視線が揺らぐ。

 そんな様子に見かねたのか、手形を丁寧に折り畳んで懐にしまっていたノエルが、呆れたように続けた。

「養子の話です。衛士長様にはまだお話していないのでしょう?」

 ああ!と、アウラがスッキリした爽やかな表情になる。

 が、すぐに暗雲が垂れ込めた。

 この地獄の如き忙しさの中で言い難いのもあるが、何より自分から衛士長の養子にして欲しい等とは言い出せないのだろう。

「はい……」

 雨粒より小さく呟き、自然と俯くアウラに、何の事か分からないホープが首を傾げた。

「養子?」

 どうやら、衛士長だけでなく、ホープにも話していないらしい。

 ノエルは、暗渠でファイが話した事を掻い摘んで説明する。


 すると、聞き終えたホープの顔が、本日の天気と同じく晴れやかに輝いた。

 ポンッと手を鳴らしそうな勢いである。

「それは名案だ!」

 反対にアウラは、抉りそうなほど一心に石畳を見つめている。

「でも、ご迷惑では?筆頭貴族に名を連ねるルーシリア家に、私の様な犯罪を犯した者が加わるなど……」

 落ちる言葉も、めり込みそうなほど暗い。

「衛士長が、そんな事を気にするような人物に見えるか?」

「それは……」

 そんな狭量な人間ではない。と断言出来る。

 だが、それは衛士長個人の話。

 いくら当主が賛成しても、一族から反対多数だった場合、上手くいかないのは目に見えている。それだけでなく、衛士長の立場も悪くなってしまうはずだ。

 それを考えてしまい、自然とアウラは口篭っていた。

「大丈夫だ。ルジャンドールもエペも、衛士長の細君さいくんも、ルーシリア家に関わる人間を僕はよく知っているが、アウラの人柄を知ってなお反対する様な、視野の狭い人達でない事は保証する」

「そう……でしょうか……」

 拭いきれない不安。

 これを払拭するには、やはり本人に聞いてみるより他ないのだろう。

 この不安の中には、〝結果が分からない″に対する恐怖も混じっての事。

 だから、やはり結論は〝聞いてみる″に辿り着く訳で。

 すると、ノエルは不意にアウラの手を両手で強く握った。

 アウラの視線が上がる。


「アウラさん。ファイさんも仰っていましたでしょう?自らを卑下してばかりでは何も変わらないと。何より、この話は衛士長様にもメリットがあると。口に出す分にはタダです。戻りはしないですが……。結果がどちらに転ぼうと、聞いてみない事には話が動きません。アウラさん。殿下と共に生きると決めたのでしょう?なら、こんな事でへこたれている場合じゃありませんよ」


 握った手と同じく、力強い言葉と声色で言うノエルに、束の間呆けたように固まっていたアウラだったが、じわりと戻ってきた意識は、目をホープへと向けさせた。

 本当に、言ってもいいのだろうか?

 そう瞳は訴えていた。

 ホープはアウラを見返して、ただ黙って頷く。

 その視線は、ノエルの手に負けず劣らず力強かった。

 アウラの顔が、ほころぶ花の様に和らぐ。

「そう、ですね。〝頼って″みます」

「その意気です!私はアウラさんと殿下の事、ずっと応援してますからね!結婚式には是非とも呼んで下さい!」


 そして、さらに二言三言会話を交わすと、ノエルは二人に背を向けて、クロニカの正門を潜り町を後にした。


 去って行くノエルの背を、未来の教皇たるホープと、未来の教皇妃たるアウラは、三人目の恩人を見えなくなるまで見送る。

 大切な友に向けるように、二人の視線は澄み切った空の如く、清々しいものに満ちていた。


-------------------


 二週間とちょっと前。

 くだんの旅人二人が歩んだ峠道を行くノエルは、クロニカを一望出来る坂道の上で一度振り返る。

 クロニカの北側に広がる黒い更地は痛々しいものの、復興への道を着実に進んでいるのが、ポツポツと点在するようになった仮設住宅と、建設の進む防壁が物語っていた。


 峠を吹き抜ける風が、涼やかに心地良く、道々に咲いている甘やかな花の香りをクロニカへ運んでいく。

 まるで、この先にあるのは希望だけだと言うように。


 ノエルはそれを予感して、朗らかにうららかに微笑むと、明るく陽気な鼻歌を奏でながら、足取り軽く一歩を踏み出した。







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