第35話 聖女と少女と泡沫⑦ 禁忌指定魔法 後編


「――――プロイア……叔父さん?」


 アウラの呆然とした声が、蒼碧の空間に虚ろに落ちる。

 プロイアと呼ばれた男が、やはり呆然とした様子でアウラを見つめた。

「――――アウラ、ちゃん?」

 藍色の少女がプロイアに駆け寄る。

 バルト男爵はその場に留まって、些かバツが悪そうに顔を伏せていた。

「……お父さん、知ってる人?」

 不安げな眼差しで少女は訊ねる。

「レイニス。ああ、ぼくの姪……父さんの兄さんの子供だよ」

 そう言うと、少女レイニスは視線をプロイアからアウラへと向けた。

 探る様な見定める様な、品定めする色を浮かべて、アウラを足のつま先から頭のてっぺんまで無遠慮に眺める。

「じゃあ、わたしの従姉妹いとこ?」

「そうなるね。いや~見違えたよ。ずいぶんと大きくなって……」

「ふーん……」

 しきりに頷いて感心するプロイアの背後に、レイニスはそっと隠れつつ、「馬鹿っぽい髪の色……」と小さく暴言を吐いた。

「な――――っ!?」

 それが耳に入ったノエルは、顔を怒りでカッと赤らめて絶句した。


 一方、言われた側のアウラは、自らの風貌を中傷されたにも関わらず、一切関心を払うことなくプロイアを凝視したまま固まっていた。

「ど……して、叔父さんが?ここに?子供?叔父さんの子供?クロニカでの行方不明事件は、叔父さんが?あの死体の山は?そこにある死体は?男爵様はどうして?その人達は?殿下は?何故?目的は?」

 とめどなく溢れ、零れていく疑問。浮かんできた泡のような思いを、アウラはただ吐き出す。

 恐らく本人は口にしている自覚はないのだろう。

 だが、全ての疑問の解を持っているプロイアは、その全てに笑顔で答えた。

 罪悪感も後悔もなく、純真と無垢の篭った透き通った笑みが、三人に向けられる。


「ぼくの目的?そんなの簡単だ!ぼくは妻を、ミシェルを生き返らせたいんだ!」


 それを聞いた三人の反応は様々だった。

 ファイは、やはり……と目をすがめる。

 ノエルは、信じられないと眉を寄せる。

 アウラは、理解出来ないと固まったまま。

 そんな三人を置き去りにして、プロイアはさらに続けた。


「クロニカで起きた二週間前の惨劇は知っているだろう?実はアレの少し前に、妻とこの子と一緒に戻ってきていてね。ぼくとこの子は、たまたま南街区へ買い出しに出ていて難を逃れたんだけど、妻は北街区の自宅ごと焼き払われて、骨すら残さず蒸発してしまってね……。男爵さんも同じだ。あの時、騎士だった男爵さんの一人息子は、住人の避難誘導をしている最中に巻き込まれたんだ。必死に住人を助けようとしていた善良な人が、報われること無く不条理に死ぬ。こんな現実、受け入れられないだろう?到底許せないだろう?だから、考えたんだ。決めたんだ。不可能と言われている蘇生魔法を実現させ、妻を甦らせると。男爵さんは、ぼくの思想に共感し、協力してくれているんだよ。もちろん、彼の息子さんも甦らせる予定さ!ああ、ギャラリーに保管されていた死体ね、あれはちょっと協力してもらっただけだよ。肉体も何も無い人を一から再構成して甦らせるんだ。神の所業と言ってもいいこの魔法を実現させるには、まず桁違いな量の魔力が必要でね。ぼく達だけの魔力では、とてもじゃないが足りない。だから、足りないなら他の人に助けてもらえばいいと思って。檻の中にいる人達はその一部さ。で、これは人から魔力を抽出する器具。大変だったんだよ?何せ、これまた一から作る羽目になったから……あ、大丈夫!蘇生魔法が出来たら、あの人達も生き返らせるから!えーっと、後は何だっけ……あ!殿下ね!彼はどうやら特異体質みたいでね、普通の人より魔力を大量に溜める事が出来るんだ。だから、最後のトリガーとして使おうと思って!加えて、この黒い玉!聞けば人々の魂の結晶って言うじゃない?これがあれば、妻を甦らせる絶好の触媒になる!そうでなくても、ほぼ無尽蔵と言える魔力が篭っているんだ。人から時間をかけて抽出するより、ずっと効率的。使わない手はない。おかげで、蘇生魔法実現まであと一歩の段階まで来た!いやー、ぼくは本当に運が良い!」


 薄いジャケットの右ポケットから黒い玉を取り出し、自慢話をする子供のようにベラベラと、長々と得意げに喋るプロイア。

 それを聞くノエルの表情は憤怒に歪み、砕かんばかりの勢いで歯を噛み締めた。

 アウラなど、強く手を握り締め過ぎたせいで、爪が掌に食い込み、ブツリと皮膚を突き破ってしまったほど。

 赤い血が、蒼く染まった床にボタボタと模様を描いている。

 その様を視界の端に捉えつつ、ファイは辟易した風にため息を吐いて、周囲をそっと見回していた。

 そして、このやり取りに参加する気はないとばかりに動こうとした瞬間。


光縛鎖バインドフル


「えっ!?」

「なっ!?」

 レイニスの拘束魔法によって阻まれた。

 それはファイだけでなく、ノエルとアウラ。

 つまりは自分達の邪魔をしそうな全員に向けて放たれたものである。


 突如、空中や地面から出現した輝く鎖によって、手足を拘束されたノエルとアウラは、驚きつつも外そうと藻掻くが、当然の事ながらビクともしない。

 光縛鎖バインドは対象を逃がさない為に、その特性として捕らえた相手の魔法行使を阻害する。

 より具体的に言えば、低位魔法しか使えなくなる効果を有している。

 詰まるところ、ちょっとやそっとの手段では逃れられないという事だ。

 そんな中で、しかしファイは身動みじろぎ一つせず、舌打ちでもしそうな苦い表情でレイニスを見ているだけだった。

「お父さんの、わたし達の邪魔はさせない。固定クラウィス

 さらにダメ押しの固定魔法で鎖と身体を固められ、ファイは無言のまま、不快そうに目を細めた。


「ごめんね?アウラちゃん。もうちょっと話をしていたかったんだけど、こっちの作業も大詰めでね。そこで蘇生魔法が成る瞬間を見ていてよ」

 肩をすくめつつ、ほんのりと微笑を浮かべたプロイアはそう言った。

 そうして、隣に立っていた男爵を見た。

「男爵さん、皇子様を」

「う、うむ……」

 罪悪感からか、顔色の悪い男爵は、それでもプロイアの言葉に逆らう事は無く、のそりとした足取りで檻へ向かって歩き始めた。


 その様を見ながら、ノエルは怒りに震える声でプロイアへ問いかける。

「貴方、人の命をなんだと思っているんです?」

「何って……かけがえのない大切なものだよ。当然じゃないか」

 緊張感の欠けた声色で、拍子抜けするほどあっさりと答えるプロイア。

 ぶわっと、ノエルの怒気が膨れ上がった。

「なら!どうしてっ!」

 叫ぶノエルを、プロイアは呆れを込めた瞳で一瞥いちべつする。

「後で生き返らせるって言ってるじゃないか。ぼくの話、聞いてなかったのかな?」

 ヒュッと、息を呑む音が鳴った。

 それが、言葉を失ったからこそ出た音なのか、それとも怒鳴る為に息を吸い込んだ音なのか、恐らく出した本人にも分からなかった。

 どちらにせよ、ノエルが次のセリフを吐く前に、アウラが口を開いたのだから。


 戦慄わななく唇を必死に抑えながら、激情を殺して、冷静と言う名のヴェールをすっぽりと被って、地の底から聞こえてくるような低い声を絞り出す。

「……叔父さん。貴方が何故今頃クロニカに戻ってきたか、正直どうでもいいです。私に、私の父と母に多額の借金を押し付けて消えて、今更のこのこ、どの面下げて戻ってきたのか。どんな理由であれ聞いても腹しか立たないと思うので……」

「ああ、それについては悪かったと思ってるよ。でも、あの時はやむにやまれずだったんだ。あのままクロニカにいたら殺されちゃう所だったからね。それで、兄さんと義姉ねえさんは元気?」

 アウラの言葉の途中で、よりにもよってプロイアはそんな事を口走った。

 無邪気に、本心から出たセリフ。

 だがそれは、アウラにとっては逆鱗でしかない。

 額に青筋を浮かべ、怒りで目を血走らせたアウラは、当然の如く激昂した。


「死んだわよっ!!父さんも母さんもっ!!お前のせいで!!お前の残した借金のせいでっ!私は好きでもない男にこの身を差し出して!!抱かれて!!毎日毎日、金の事だけ考えてっ!!一日を生き延びるだけで精一杯で!!みじめなんて言葉じゃ生ぬるい生き地獄を私は経験した!!お前のせいでっ!!お前のせいでっ!!!!」


 雷鳴の様に轟く怒声。

 機器の動く重低音すら掻き消す、腹の底から出た悲痛な叫びが、ホールいっぱいに響き渡る。

 埋火のように燻っていた恨みと憎しみが、プロイアのひと言によって盛大に爆発した。

 その最中さなか、ガチャンッという冷たい音が淡白に響く。

 男爵が檻の鍵を開けた音だ。

 続く鉄の擦れる音は、扉が開いた音だろうか。


 それを耳にしながら、プロイアは沈痛な面持ちでアウラを見つめた。

「……そう。兄さんと義姉さんが……。君も……。そっか、ぼくの借金のせいで……。本当にごめん。申し訳なく思うよ。でも、それなら君にも、ぼくのこの想いが理解出来るんじゃないかな?蘇生魔法が成り立ったら、兄さんと義姉さんも生き返るよ?」

「……その為に、多くの人の命を使って?ホープ様を使って?」

「そうだよ。大丈夫!みんな最後には生き返るんだから!ね!アウラちゃんもぼくに協力してよ!兄さんと義姉さんみたいに、ぼくを助けてよ!」

 一切の引け目なく、名案とばかりに弾ける笑顔をアウラに向けるプロイアは、倫理観や道徳観、常識や良識と言うものが確実に欠如していた。

 俗っぽく言うと、頭のネジが数本吹き飛んでいる人物だった。

 一瞬、怒りを忘れて呆然とするアウラ。

 だが、その言葉の意味が頭に染み渡っていくにつれ、彼女の中に先ほどの爆発する怒りとは別の感情が、二つ浮かび上がった。

 即ち、嫌悪と侮蔑である。

「……あんた正気?糞喰らえよ」

 アウラは短く吐き捨てた。

 負の感情をありったけ込めた瞳で、驚くほどの低い声で。普段の礼儀正しい口調からかけ離れた言葉で。


 そうして次に、ホープを担いで戻ってくる男爵へ目を向けた。

 そこに込められていたのは失望である。


「バルト男爵様。この目で見るまで、よもやと思っていましたが、まさか本当にこの男の言葉に従って、行方不明事件の片棒を担いでいたのですか?」

 男爵の肩がビクリと震えた。足が止まる。

 しかしすぐに再び踏み出した。

 アウラの視線から逃げるように、その目は俯いたまま、返す言葉すら発さずに。

「答えて下さいっ!常日頃から口にしていた、皇家への忠誠は嘘だったのですか!?日々民の為に働くホープ様を間近で見ていながら、陰で裏切っていたのですか!?筆頭貴族の誇りはどこへやったのですか!?」

 泣きそうな顔で絶叫するアウラに、それでも男爵は言葉を返さず、ただ俯いて、唇を噛み締めて、ピクリとも動かないホープを運ぶ。

 酷くよそよそしい足音が、男爵の内心を表すかのように響いていた。

「アウラさん……」

 ノエルの同情と悲哀の篭った呟きは、機器の動作音に呑まれて虚しく消えた。


 やがてプロイア達の元へ戻ってきた男爵は、丁寧にホープを床へ横たえる。

 依然として起きる様子の無いホープ。恐らく何らかの薬品、又は魔法が使われているのだろう。

 さらに、遠目からでは分からなかったが、その両手首には、見慣れない枷の様なものが嵌まっていた。

 腕輪に似た華奢な枷。

 鈍色に光る枷は床に当たって、酷薄な音を奏でた。

 パッと見アクセサリーに見えなくもない枷は、とてもじゃないが拘束具として機能するのは難しく見える。

 だが、特筆すべき点が一つだけあった。

 枷の表面と裏面。目に見える部分にびっしりと彫り書かれた、蒼い古代文字だ。

 ざっと一万年前の文字であるそれは、一見するとただの記号や図形にしか見えない。

 もしかしたらこれが、ホープの意識を奪っている元凶なのかもしれない。


「っ!ホープ様っ!!」

 アウラの叫びも反応は無い。

 アウラは元より、ノエルも焦る。

 ここから先、一体何が起こるか想像もつかないから。

 脳裏に干からびた死体がチラつくから。

 だが、動きたくとも動けない。その身に二重の拘束が施されているから。

 そこで、不意にファイは口を開いた。

 ホープを見下ろしたまま、独り言のように。


「……蘇生魔法は、この世界ノルンでは禁忌として指定されている魔法の一つでございます。その理由は様々あれど、一番は成功した試しが無いからです」

 キョトンとした顔のプロイアが首を傾げる。

「?知ってるよ?だから、ぼく達が最初の成功者になるんだ」

 ファイは静かに視線を上げ、プロイアとその娘レイニスを見る。

「……理解していませんね。よろしいですか?試した者はいたのです。現行人類が始まって以来、それこそ数えるのも馬鹿らしくなるほどに。しかしその全てが失敗に終わった。ただ失敗しただけでは禁忌に指定されません。失敗した結果が問題なのです」

「……何が言いたいの?」

 意味が分からないと首を捻るプロイアに代わって、レイニスが訊ねる。

 どうせ何を聞いても止まる気はないが、それでも興味は湧いたのだろう。


「暴走いたします。皆様もご存知の通り、魂を管轄しているのは根源神です。死ねば魂は自動的に根源神の元へ還る。故に、反魂するのなら彼の神の承認が必須になる。その正式な過程プロセスを経ないで行う蘇生魔法は、当然の事ながら失敗しますし、代償が発生いたします。出来上がるのは生き返った故人ではなく、故人に似たナニカ。人ではもちろんないし、魔獣でもないソレは、通常の手段での討伐はままならず、まず目に付いたものを襲います。制御は不能。貪欲に、衝動の赴くまま、動力エネルギーが尽きるまで周囲のものを喰らい尽くすでしょう。死にたくなくば、諦める事をお勧めいたします」

 説明し終わったファイは口を閉じ、プロイア達の反応を窺った。


 プッと、誰かが吹き出した。

 思わず笑い出してしまった人物プロイアは、口に手を当ててファイを眺める。あざけりをありありとその目に浮かべて。

「君の言うそれは、魂が根源神の元に回収された後の話でしょ?今ここには、魂の塊であるこの玉がある。それは、これを作った君なら知っているはずだよね?この世界にまだ魂が残っているなら、蘇生魔法は不可能じゃない。それっぽい話をして、ぼく達の意志を折ろうとしても無駄だよ。愛は必ず勝つって言葉、知らない?」

 黙ってファイを見返す男爵とレイニスも同じ思いなのか、瞳に引き下がる色は欠片も見えない。

 多くの人を犠牲にしておきながら、しゃあしゃあと愛をうそぶくプロイアに、アウラもノエルも薄ら寒い感情を抱く。

 ファイは目を閉じて、疲れたようなため息を吐いた。

「……そうでございますか。これ以上私の仕事を増やさないで欲しいのでお話いたしましたが、まあどうしてもやりたいと仰るのなら、お好きになさいませ。――――ただし」


 キンッと、澄んだ音が突然響いた。

 ファイを拘束していた、光り輝く鎖がバラバラになり、まるで雪片のようにハラハラと落ちて、地に転がる前に解けて消える。

 ファイの手は動いていない。

 彼の思念波を受けて、独りでに動いた糸が鎖を解体したのだ。


「それならこちらも、全力で阻止させていただきます。どうぞ、悪しからず」

 鷹の様な鋭い眼光で、ファイは冷酷に、冷徹に、無情に告げた。


「――――っ!お父さん!」

「ファイさん!!」

 レイニスが父に警告するのと、アウラが自分達の拘束も解くよう、催促の言葉を投げたのは同時だった。

 言われるまでもないと、ファイが瞬時に二人の鎖を断ち切る。

 些か焦った様子のプロイアがレイニスを背後に庇い、敵意を露わにした男爵が一歩前へ踏み出す。

聖光穿ホーリーレイ

 間髪入れずに放たれた眩い光線は、ファイに向かって一直線に進んで行く。

 亜音速で迫る魔法。

障壁レモラ!」

 標的ファイに直撃する直前。

 その眼前で魔法を受け止めたのは、ノエルが展開した障壁魔法だ。

 ファイ、ノエル、アウラの三人を呑み込む様に、ドーム状の障壁が張られる。

 弾かれた光線が障壁の外周に沿って、放射状に拡散して消えていった。

 ほぼ同時に、役割を終えた障壁も消える。


「ホープ様!」

 アウラが弾かれたように駆け出し、ファイの横をすり抜けてホープに向かう。

「アウラさん!」

 制止するノエルの言葉も届かないのか、その足に止まる気配はない。

 そんなアウラに向けて手を伸ばし、男爵は魔法の照準を定める。

 瞳の奥に僅かな躊躇ためらいが見えるが、それは彼の行動を止めるほどの強いものではなかったらしい。

 口が開かれる。

「チッ……」

 小さく舌打ちしたファイの手が動いた。

 微かな残光を引いて、一閃された糸がアウラの腰に絡み付き、そのまま振り上げられる形で天井に向かって飛んで行く。

 急激に、強制的に体勢を変えられたせいか、アウラは悲鳴を上げる事すら出来ずに、シャンデリアを越えて宙を舞っている。

 天窓にぶつかるギリギリだ。

「ノエルさん!」

 ファイは、すぐさまノエルに向かって叫ぶ。

 それだけで、言わんとしている事を察したノエルは、再び障壁魔法を唱えた。

障壁レモラ!」


穿光弾レイバレット


 間一髪。障壁が張られた直後に、白金の光線が弾丸の如く大量に撃ち込まれる。

 弾かれた光線は床を抉り、壁を抉り、明後日の方向へと飛んでいく。

 弾幕と言っても過言でない攻撃。

 並みの障壁ではひとたまりもないだろうが、運の良い事に、ノエルはエキスパートと言っても良いほどに障壁魔法が得意である。

 たった一枚にも関わらず、破られる気配は薄い。

 障壁の内側から見る光景は中々のものだ。

 さながら、窓に当たる豪雨である。


 それを眺めながら、ファイは手短に訊ねた。

「ノエルさん。貴女、風魔法か重力制御の魔法は使えますか?」

「え?はい、一応。重力制御は簡単なものなら」

「では、落下してきたアウラさんを、貴女の魔法で受け止めてあげて下さい。私が彼らの目を引きますので、その隙に」

 一瞬、疑問がノエルの脳裏に走る。

 ファイは魔法が使えないのだろうか、と言う疑問だ。

 だが、それを聞いている暇がないのは、痛いほど理解している。

 こうしている間にもアウラの上昇は終わり、束の間の滞空の後は落下するだけであろうから。

 だから、ノエルは短く返事をした。

「分かりました」


 魔法の弾幕が止む。

 これ以上の攻撃は無意味と悟ったのか、もしくは、もうもうと舞い上がる煙で何も見えなくなったからなのか。

 どちらにせよ、攻撃の手が止んだ瞬間を、ファイが見逃す事はなかった。

 障壁が消えるタイミングを見計らって、アウラの身体に巻き付いていた糸を回収しつつ、取り巻いていた煙幕を切り裂いて払う。


 アウラは、落下している最中だった。


 ファイは強く床を蹴りつけ、正面にいる男爵目掛けて走り出す。

 その様は、走ると言うよりは跳躍と評した方が適切だろう。何せ、一足で約五歩分の距離を稼いだのだ。

 自分に向かって、躊躇なく突っ込んでくるファイを見て、男爵は思わず息を呑む。

 背後にいるプロイアとレイニスは、瞠目して固まっていた。

 が、男爵は即座に我に返ると、手をファイに向けて伸ばす。

障壁レモラ

 唱えたのは障壁魔法。

 ノエルの障壁とは違って、盾形式である。


 ドーム状の障壁魔法は全方位からの攻撃を防げるが、展開範囲が広い為、その強度は若干心許ない。

 対して盾型は一方向からの攻撃しか受ける事が出来ないが、その分強度は高く、場合によっては高位魔法すら耐え凌ぐ事が可能だ。

 そんな透明な盾として作り出された魔法は、二歩目を踏んだファイの眼前に立ち塞がる形でそびえた。


 ザッと鋭い音を鳴らして足が止まる。

 ファイが選べる道は二つ。

 迂回か上空に跳ぶか、どちらかしかない。或いはこの障壁を破壊する手もあるが、それには今のファイの状態では些か分が悪い。

 さて、ファイがどちらを選ぶかと言えば――――どちらも選ばなかった。

 ニヤリと不敵な笑みを口の端に浮かべる。

 三人の視線を自分に集めるのが目的であったのもあるが、それ以上に、今自分が持っている武器が、かなり応用の効くものだと把握している為だ。


重力衰グラビティレヴィス!」

 ファイの後方で、ノエルは重力制御の魔法をアウラに対してかけていた。

 落下するアウラの身体は急激に遅くなり、床に激突する直前でほぼ停止する。

「アウラさん!大丈夫ですか!?」

 ふわりと降り立ったアウラへ、ノエルは走り寄る。

 ジェットコースターばりの上下運動を、心の準備もなく繰り広げたアウラは、膝から崩れ落ち、軽く放心状態に陥る。

 しかし、ノエルの呼びかけで正気を取り戻したのか、頭を左右に振ると、立ち上がってノエルを見た。

「だ、大丈夫です!すいません。先走りました」

「気持ちは分かります。一緒に、殿下を取り戻しましょう」

「……はい!」

 真っ直ぐに自分を見つめ返し、親身になってくれるノエルに、少し前まで抱いていた得体の知れない恐怖感が解けていくのを、アウラは感じていた。

 自らの行動指針や生きる意味は千差万別。そこに口を出すほど、自分は偉くないしお節介でもないし、暇でもない。

 今この時、自分にとって大事なのはホープの事だけ。ならば、それ以外は今は些末な事。

 ホープ奪還の為、使えるものは全て使う。

 アウラは、そう心に決めると、目をプロイア達に向けた。


 一方ファイは、その手にある糸を駆使して、三人に攻撃を仕掛けていた。

 いや、攻撃と言うよりは、プロイアの手の中にある黒い玉を取り返す為に仕掛けている、と言った方が適切か。

 軌道の予測が難しい糸に四苦八苦しつつも、男爵が必死に障壁を張って防いでいる。

 その背後で、プロイアが攻撃魔法を放つ。

 ファイを狙い撃ちにする三本の光線レーザー。だがそれは紙一重でかわされてしまう。

 跳躍からの回転して避けていく様は、さながらダンスでも踊っているようだ。


「もう!当たってよ!」

「謹んでお断りいたします」

 苛立つプロイアに、感情を宿さない口調で返すファイ。

「お父さん!わたしも」

「ダメ!レイニスは古代魔法を使わなくちゃいけないんだから!」

 父娘おやこの会話に、ファイは眉をひそめた。

(古代魔法?……そうか、あの枷は)

 古代魔法は現在の魔法と違って長い詠唱を必要とする。

 本来、文字媒介は必要ないのだが、プロイア達はそれをわざわざ刻む事によって、魔法強度の底上げをしている事が窺えた。

 では、肝心の魔法の内容はと言うと、見えた部分がかなり断片的であった為、残念ながら不明。

 となれば、先にあの枷を破壊した方が無難か?

 そう考えていると、突然ファイの背後から、蒼い光線がプロイアに向かって放たれた。


障壁レモラ!」

 男爵が反射的に張った障壁にぶち当たって、水光穿アクアレイが口惜しげに消える。

 アウラが、男爵とプロイアの連携を崩すべく放った魔法。

 ファイにのみ意識を集中していた三人には、実に効果覿面てきめんだった。

 驚きによって生まれた一瞬の空白すき

 これを見逃す手はないと、ファイは糸を放つ。

 狙ったのはプロイアの手にあった黒い玉。

 音よりも速く、光と同等の速さで迫った糸は、しかし目標に到達する事はなかった。


 バシンッ!と痛い音を奏でて弾かれる。

 誰かが魔法を放った訳ではない。

 光速の攻撃に反応出来る者など、数多の死線を潜り抜けた一握りぐらいなもの。

 プロイア達三人が当てはまらないのは明白だ。

 では何に阻まれたのかと言えば、それは黒い波動。

 プロイアの持っていた、黒い玉から発せられたものに邪魔されたのである。

 ファイの顔が酷く不快げに歪む。

「痴れ者め……」

 呻きに似た低い声。

 それとは反対に、プロイアの顔は喜びで埋め尽くされた。

「ああっ!やっぱりぼくは間違っていない!みんな早く生き返りたいんだよね!任せて!安心して!ぼく達が必ず甦らせるから!」

 恍惚の吐息を吐いて、悦楽の表情を浮かべるプロイア。

 レイニスと男爵の顔にも、死者に肯定されたと言う事実が、自信となって表れていた。

「度し難い……」

 吐き捨てるファイに、余裕を浮かべたプロイアの笑顔が向けられる。

 その癪に障る顔に向けて、勢いよく糸を放った。

 明確な殺意の篭った攻撃。

 だが、結局は先ほどと同様、黒い波動に阻まれて届かなかった。


 矢継ぎ早に繰り出した追撃の糸と、さらに加勢するアウラの魔法が、黒い波動に加え、男爵が新たに張った障壁に激突する。

 その様を眺めながら、プロイアは微笑を湛えたまま口を開いた。

「レイニス。やれるかい?」

 プロイアが訊ねる。

 レイニスが嬉しそうに頷く。

「うん。お父さん」

 すっと、息を深く吸い込んだレイニスは、ホープの傍らに跪いて、意識を集中させた。

 ホープに嵌められた枷。そこに彫られた青い文字がみどり色に輝き始める。


「……其は傀儡くぐつ。無明たる人形。我は主。しるべたる光。汝の意思は我にあり。汝の意志は我が掌中――――」


 レイニスの詠唱を耳にしたファイの手が止まった。視線が声の方に向かう。

 そこには、ホープを中心に、床に蒼い二重円と八芒星が描かれていた。水滴の様にポツポツと古代文字も浮かび上がり始めている。

傀儡かいらい式の古代魔法か!よくも解読したものだ」

 忌々しげに吐き捨てたファイに、プロイアから得意げな笑みが贈られた。

「凄いでしょ。ぼくの娘。でも、君もよく知ってたね。古代魔法の文献はほぼ消失してるって言うのに」

「……まあ、長生きなものでしてね」

穿光弾レイバレット

 動きの止まったファイへ、男爵が容赦なく攻撃魔法を繰り出す。

 放たれたのと同時に、ファイは素早く跳躍して後退した。

 つい今しがたまでファイのいた床が、拳大に六つ抉れる。


 戻ってきたファイに、ノエルは急いで駆け寄った。

 アウラも、男爵とプロイアから視線を外さず、いつでも魔法を放てる態勢のまま近寄る。

「大丈夫ですか!?ファイさん!怪我していませんか!?」

 ノエルの問いかけに、ファイは小さく頷いて返した。

「無論です。それよりも、お二方。少しばかり時を稼いで頂けませんか?」

「それは構いませんが、何をするんですか?」

 怪訝そうに訊ねるアウラに、ファイは出来るだけ簡潔に答える。

「古代魔法は、それぞれ対になる魔法がございます。あの傀儡式も然り。ですが、長い詠唱を必要とするので、お二人には私が反魔法を唱えている間、邪魔をされないよう、この身を護って欲しいのです」

「知ってるんですか!?」

「私、長生きですから」

「させないよ!風刹エアレス!」

 三人の会話が聞こえたのだろう。プロイアから攻撃魔法が飛んだ。

 鋭利な風の刃が飛来するが、それはノエルが張った障壁に拒まれて霧散する。

「では、お願いいたします」


 改めて二人に頼みながら、ファイは内心考えていた。

 今から唱えても、恐らく間に合わないだろう、と。

 彼らの言う蘇生魔法は発動されてしまうだろう、と。

 それでも、やらないと言う手はなかった。

 ノエルやアウラの為ではない。ましてやホープの為でも。

 まだホープには利用価値があるからだ。

 ここで干からびて死んでもらっては困る。

 せめて、最後の一振りを可能にするだけの魔力は残しておいてもらわなければ。

 そんな思惑から、ファイはホープ救出に乗り出していた。


(ヘル。魔力は全て使います)

(我が主、それは……)

 思わず、ヘルは言い淀んだ。

 ファイのこのセリフはつまり、本案メインから別案サブへの移行を示しているからである。

 最後の一手までファイが主体で行う本案とは違い、別案は他者に任せ、ゆだねている。

 確実性を優先するヘルにしてみれば、感情に振り回される人間に、一番大事な部分を任せるなど不安が尽きない、と言った所だ。

 ヘルの言わんとしている事を察したのだろう。

 ファイは面倒そうな雰囲気を隠しもせず続けた。

(異論は認めません。最終判断は成った後に見極めますが、ほぼ確定です)

 静かだが、有無を言わせないセリフ。

(我が主……)

(詳しく説明している暇はありません。概要は演算領域にまとめてありますから、確認しておきなさい)

(……畏まりました)

 その言葉に肯定しながらも、ヘルの声色は沈んでいる。

 それに気付きつつ、ファイは特に言葉を投げかける事もなく、意識を集中させた。


 周囲の音が遠ざかる。


「絶界に吹く風。自由の名を冠せし絶風よ。其を縛る事あたわず。絶風の加護。解放をもたらす風は弓に。自由を告げる風は矢に――――」


 朗々と、淀みなく謳うファイの足元に蒼い魔法陣が浮かぶ。

 だけでなく、眼前にも身の丈ほどの魔法陣が浮かび上がると、そちらは徐々に形態を変化させていった。

 魔法陣から古代文字へ変移し、さらに長弓の形へ変わっていく。

 続いて、放つべき矢が形成され始めた。

 声を出すのもはばかられる神秘的な光景に、ノエルとアウラは障壁魔法を展開し続けながら、食い入るように見ていた。

 邪魔してくるものと言えば、プロイアと男爵から飛んでくる攻撃魔法ぐらいだが、それは当然ながらファイに届く前に障壁に当たって惨めに消える。

 その最中さなか、やはりと言うべきかレイニスの詠唱が先に終わった。


「――――傀儡マリオネット駆動」


 すると、まるで吊り上げられたかの様な不自然な動きで、ホープは起き上がる。

 顔は俯き、瞳には自我の欠片もなく、茹で過ぎた麺の如く身体に芯がない。

「ホープ様っ!!」

 アウラが叫んで呼びかけるも、ピクリとも反応は無かった。

「お父さん」

「うん。はい、これ」

 プロイアがレイニスに黒い玉を渡す。

 レイニスはさらにそれをホープに渡して、握らせた。

「さあ、殿下」

 操り主であるレイニスがホープを促す。

 玉を握っている腕が、酷く緩慢な動作で上がる。

 向けた先にあったのは、あの蒸留機に溜められた液体だ。

 ぼんやりとした表情で口を開く。

 ファイが、出来上がった弓に矢をつがえて、ホープに向けた。

 狙うのはホープの手首にある枷。

 そして、ホープの覇気のない虚ろな声が響いた。


「……蘇生アニマビス


 ひと足早く、ホープの声が響く。

 途端、蒸留機にひびが入り、けたたましい音を立てて割れ崩れた。

 低く鳴り響いていた音が消える。

 容器が割れたのだ。当然、中にあった液体が流れ出るのかと思われたが、驚いた事に割れる前と同様の形で、その場に留まっていた。

 そんな円筒型の蒼い液体は、風も揺れも無いのにタプリと波立つ。

 それに反応する様に、ホープの手から黒い玉が離れ、呑み込まれた。

 液体が、墨を流し込んだかの如く真っ黒に染まっていく。


「――――解来リベルタス執行」


 ファイの凍えた声が響いた。

 同時に矢が放たれる。

 蒼い軌跡は流星の如く真っ直ぐに。ホープの手首にある枷を目指して。

障壁レモラ!」

六障壁レモラゼクス!」

 プロイアと男爵が幾重にも張った障壁を、矢はまるで薄氷でも割る様に容易く貫いて進む。

 驚愕に目を見開く二人の横を通り過ぎ、つい身を庇ってしまったレイニスの頬を掠めて、矢はホープへ到来する。


 矢が枷に当たった瞬間、目もくらむほどの蒼い閃光がほとばしった。

 一拍遅れて、冬の空を渡るような清涼な風が吹き荒ぶ。

 思わず顔を覆い、目を閉じてしまう一同の中で、唯一ファイだけが動いた。

 手にある糸を風に逆らって伸ばし、ホープの腰に巻き付けると、勢いよく引っ張って手繰り寄せる。

 レイニス達が気付いたのは、ホープの身がファイの足元に転がった時。

 もはや手が届かないどころか、取り戻すのは不可能とされる場所に行ってしまった時だ。

 しかし、三人――もといプロイアとレイニスにとって、それはさして重大な事ではなかった。

 何せ、それを吹き飛ばすだけの成果が目の前にあったのだから。


「ホープ様っ!」

 アウラが転がったまま起きないホープに駆け寄り、跪く。

 ゆさゆさと、かなり激しめに揺らすが、目を開ける気配は見受けられない。

 アウラは、涙の溜まった目でファイを見上げた。

「心配ないですよ。心臓は動いているし呼吸も落ち着いている。瞬間的に大量の魔力を失ったせいで気を失っているだけです」

 それを聞いて安心したのか、アウラは傍目から見ても分かるほど大きく、胸を撫で下ろした。

 ノエルも同じように安堵の息を吐いている。

「問題はあちらです」

 そう零すファイの視線はレイニスの奥。蒸留機のあった場所に向けられていた。


 液体の蒼い妖光は消えて無くなり、代わりに燭台に灯った火が存在感を訴える。

 先ほどよりも確実に明度の下がったホールの中心。

 半壊した蒸留機。

 割れた容器の前で、薄灰色のワンピースを着た、一人の女がたたずんでいた。

 二十代後半ぐらいだろうか。目を閉じている為瞳は見えないが、長い亜麻色の髪がよく似合っている。


「ミシェル……」

 呆然としたプロイアの声が落ちる。

 その名前から、彼女がプロイアの妻である事は確実だ。

 裏付けるように、レイニスの「お母さん……」と呼ぶ声も聞こえた。

 協力していたとは言え、半信半疑だったのだろう男爵も、驚いた顔で女を凝視している。


 すると、不意にプロイアが振り返ってファイ達を見た。

 そこに浮かんでいたのは、やってやったぞ、と言う達成感と優越感。そして僅かなおごり。

 前人未到の蘇生魔法を成し遂げたのだ。然もありなんである。

 アウラは、驚愕と共に憎々しげな面持ちを浮かべ、ノエルは止められなかったと悔恨の色を口の端に乗せる。

 だが、そんな二人とは対照的に、ファイの瞳は冷たく、さざなみ一つの感情も宿っていなかった。

 ファイの手にあった糸が、力尽きた様にふっと消える。

 そして、二人にだけ聞こえる音量で呟く。

「ノエルさん、アウラさん。障壁魔法の準備を。可能であれば六枚以上で重ねて下さい」

「え?」

「それは、どういう」

「間もなく暴走いたします」

 短くそう返した時、ふと硬い靴音が響いた。

 プロイアが女に近付いた音だった。


「ああ!ミシェル!ミシェル!!聞こえるかい?ぼくが分かるかい?」

 嬉しそうに顔を綻ばせて、目尻を下げながら、プロイアは両手を広げて女に話しかけた。

「あな……た……?」

 鈴のような声が漏れる。

 それを聞いたプロイアは、より一層破顔して女に抱き着いた。強く抱き締めた。

 レイニスのまなじりから、喜びの涙が零れた。

「お母さん……」

「あ、なた……?あな、た?」

 ゆっくりと、女のまぶたが上がる。


 不意に、紫色の稲光がホールを明るく照らした。


 引き裂くように轟く雷鳴と共に、誰かの引き攣った声が響く。

 本来、眼球のある所。瞳のある場所に、黒々とした闇が渦巻いていた。

 黒曜石を押し込んだような、つるりとした闇が埋まっていた。

 幸か不幸か、女を抱き締めているプロイアに、その異様は見えていない。


「お……母、さん?」

 恐る恐るレイニスが訊ねる。

 強ばる足で近寄ろうとした彼女を、男爵は考える前に肩を掴んで引き止めていた。

「……行ってはならぬ」

「あなた?あなた。アなた。あナた。あなタ。アナた。あナタ。アなタ。アナタ。アナタ」

 壊れたテープの様に、同じ言葉を、しかし微妙に違うイントネーションで何度も吐き出す女。

「お、か……」

 本能から湧き上がる恐怖に身を震わせつつ、縋るように尚も母を呼ぶレイニスを、男爵はそっと引き寄せ、一歩後退った。

 彼女を抱え、いつでも逃げれるように、身体に力を込める。

 男爵の額から、氷の如く冷たい汗が一滴、流れ落ちた。


「あなたあなたあなたあなたアナタアナタアナタアナタあああなあなたなたあなた」

レイニスにしろ男爵にしろ、甦ったミシェルにしろ、どうにも様子がおかしい。

 ようやくそう思ったのか、プロイアが女から身を離した。

 そして見た。

 女の目を。


「――――――――へ?」


 そんな間の抜けた声が、プロイアの最期の言葉になった。

 女の口が開かれる。

 180度に。

 ライターの蓋の様に。ぱっくりとへし折れる様に。

 女の頭部が、異常なほどに肥大化する。


「あああああああああああああああああああああなだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 ひび割れた声色で叫びながら、女は咥え込む様にプロイアを頭からかぶりついた。

 一瞬の後、残ったのは膝から下のみ。

 喰い千切られた断面から、夥しい量の血液が噴出し、白い骨が顔を覗かせている。

 皮と筋の一部が、ベロンと垂れた。

 ゴリッボリッと、まるで煎餅でも食べている様な音が、女の口から漏れ聞こえた。

 飲み込んだ後、さらに残っていた両足をペロリと口に運ぶ。


 ガリッ……グチュッ……

 骨の砕ける音が、肉を咀嚼する音が耳に刺さる。

 頭がジンジンと痺れて、何も考えられない。

 身体が冷える。だが、それとは反対に、目頭に熱が篭る。

 息が、凍る。

 息の仕方が分からない。

 これは……これは――――ナニ?


 目の前の光景が理解出来ないレイニスは、彫像の如く固まったまま動かない。動けない。

 男爵は息を詰め、そんなレイニスを無理やり動かして、足音を立てないようにジリジリと後退していく。

 ノエルとアウラは、見るに堪えないと顔を顰めているが、それでも目を離さずにいた。

 恐らく、こちらに逃げて来るであろう男爵達を受け入れる為であり、女が自分達を標的にするだろうと予期しての事だ。

 ファイだけは、絶対零度の眼差しのまま、その様子を無表情で眺めていた。


 ゴクリと嚥下すると、女の頭部は通常サイズにしぼむ。

 こてっと、女が首を傾げた。

 食べていたものが無くなってしまったのが残念なのか、はたまた自分を凝視する者達が不思議なのか、それは定かでない。

 ただ、


「あなた?」


 女は、同じ言葉を繰り返した。


「わあああああああああああああああぁぁぁぁぁああぁっっ!!」

 現実に引き戻されたレイニスが叫ぶ。

 女に向かって駆け出そうとした彼女を、男爵は抜け出さないように力強く抱え込む。

「お父さんっ!お父さんお父さんお父さん、お父さんんんんんんんぅっっ!!うわあああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――っっ!!」

 藍色の髪を振り乱し、口から唾を飛ばし、目からとめどなく涙を流し、掴み止める男爵の腕に爪を立てて、必死に、全力で慟哭した。

 人として最低ではあったが、それでもプロイアは確かにレイニスの

 惨劇を生き延び、今日まで支え合って一緒にいた唯一の肉親を、肉親の姿をしたナニカに喰われて殺されたのだ。

 いくら自業自得と言えど、泣き叫ぶなという方が無理な話だろう。

 その絶叫を聞いて、女はにんまりと笑った。

 新しいご飯が見つかったと言わんばかりに。


 男爵はレイニスを抱え上げ、きびすを返して脱兎の如く走る。

 目指す先はアウラ達の所。

 善良で、まともな人間であるアウラなら受け入れて貰えると、半ば確信に似た思いに突き動かされた故の選択。

 逃げたのは、自分の張る障壁魔法では用を為さないと察したのもある。

 ひりひりと焼け付く恐怖に急かされたのかもしれない。

 腕を引っ掻かれながらもレイニスを離さなかったのは、ひとえに筆頭貴族としての矜持。

 弱者子供を放って自分だけ逃げるなど言語道断と、骨身に染み付いた貴族の心得に、自然と身体が動いた結果だった。


 全速力で走る男爵の後ろを、女が異常な歩幅のスキップで肉薄する。

 このままでは、アウラ達の元に辿り着く前に捕まってしまうだろう。

 ファイは一歩前に進み出ると、爪で手首を切り裂いた。

 鮮血が噴き出る。

「ファイさん!?」

 驚いたノエルが上擦った声を上げた。

 しかしそれには答えず、ファイは溢れ出た血をギュッと握って、女目掛けて放った。


 血が女の顔にかかる。床に撒き散らされる。

 すると、女の身体がピタッと唐突に止まった。

 そして、恐る恐る指で顔に着いた血を掬い、口に運ぶ。


 含んだ瞬間、女の顔があからさまに輝いた。

 これ以上ないご馳走でも食べたかのように。

 カラカラに渇いた砂漠で、オアシスを見つけたかのように。

「おおおおおおおおおおいじいぃぃぃぃぃぃぃいいいいぃぃ」

 次から次へと、両手を使って掬い舐める。

 顔に付着していたのを舐め終わると、今度は床に撒かれた血へ。

 這いつくばり、ベロベロと下品に舌を這わせて血を舐めとっていく。

 それを、ファイは実につまらなそうに見ていた。

 唐突に起こった女の奇怪な行動に、アウラもノエルも息を呑んで言葉を失う。


 そうこうしていると、レイニスを抱えた男爵が、アウラ達の魔法効果範囲に入った。

 あまりにも勢いよく走ってきたせいか、途中でつまずき、石ころよろしくゴロゴロと転がる。

 抱え込んだレイニスと一緒に、アウラの足元まで行った男爵が漸く止まった。

 床の血も根こそぎ舐めとった女が顔を上げる。

 向かう先は当然、ファイ達だ。


 四つん這いになって、飛蝗バッタの様に跳び上がった。

 それを目で追いながら、ファイは後ろにいる二人を促す。

「お二方、お願いいたします」

「っ!八障壁レモラアハト!」

九障壁レモラノイン!」

 ハッと我に返ったアウラとノエルが、ほぼ同時にドーム状の障壁を張った。

 総数十七枚。

 過剰とも言える枚数の障壁はしかし、まるでカエルの様に張り付いた女の前に、一気に三枚が消失した。

 女の触れた所から途端ひびが発生し、砕け散っていく。

 手を抜いた訳ではない。

 魔力もイメージも念入りに練って張った、強度の高い障壁だ。

 それだけに、予想外の展開に瞠目する。

 顔色を変えていないのは、やはりファイだけだ。

「……もって三分か」

 嘆息と共に吐き出す。

 ベロリと、女の妙に長い舌が障壁を舐めた。

 甲高い音を立てて障壁の一枚が割れ消える。

「な、何なんです!?この方!」

「ファイさん!これからどうするんですか!?」

六障壁レモラゼクス!」

 即座に体勢を立て直した男爵が、追加の障壁を加える。

 焼け石に水だが、無いよりマシだろう。

 レイニスは床に転がったまま、ダンゴムシの様に丸まって動かない。

 ファイは二人の問いには答えず、身を翻して倒れたままのホープに近付いた。


 そして、おもむろに蹴った。

「なっ!?」

「ファイさん、なんて事を!!」

「貴様、無礼であろうっ!!」

 アウラ、ノエルに続いて、自分の事を棚に上げた男爵も抗議の声を上げる。

 が、当然の如く無視するファイ。

 そこまで強く蹴ってはいないが、きっちり鳩尾みぞおちに入ったらしく、ホープが盛大に咳き込んで起きた。

「グフッ!なっ!?えっ!?なんっゲホッ!」

 キョロキョロと辺りを見回し、混乱と困惑ここに極まれりなホープ。

 何処とも知れぬ場所。何処かで見た気がする少女。何故かいるアウラにノエルに男爵。障壁の向こうにいる気持ち悪い女。

 そして、自分を冷たく見下ろすファイ。

 何が起きているのかさっぱり分からず、目を白黒させてしまう。

「ヘル。顕現なさい」

「御意」

 繊細な少女の声が聞こえた途端、ホープの背後に一人の少女の姿が、滲み出る様に浮かび上がった。


 両サイドが細い三つ編みの、白い長髪。

 顔の半分が隠れるように、黒い狐の面をしている。

 年齢はレイニスと同じぐらいだろうか。

 左前の黒い着物には、赤い椿の絵が品良く描かれていた。

 履いている赤い下駄の鼻緒には、銀色の小さな鈴が付けられている。

 カスミソウの様に可憐な少女は、真っ直ぐにファイを見ていた。


 突然現れた少女に、当然ながら全員が当惑する。

「え、誰ですか?」

 そんな一同を代表して訊ねたのはノエルだ。

 が、そう聞いた直後、障壁が立て続けに割られた事もあって、三人の意識はそちらに集中してしまった。

 急に現れた少女。でも味方っぽい。と、目の前で障壁を突破しつつある明確な

 どちらに気を向けるべきかは言うに及ばず。

 ファイもファイで、女の事はノエル達に任せっきりのまま、ヘルに話しかけた。


「ヘル。やる事は分かっていますね?」

「はい」

 ヘルはそう言うと、手を身体の前に出した。

 黄金の光の粒子が手の上に集まる。

 瞬く間に形成されていく一振りの剣。

 それを確認すると、ファイはホープへ視線を移す。

「貴方、この剣を振るいなさい」

「は?」

 突然命令口調で一方的にそう言われ、カチンときたのだろう。ホープは不快げに顔を歪めた。

 混乱冷めやらぬ中での事。意味が分からないと憤るのも仕方ない。

 そうして立ち上がって、ファイを睨んだ。

「当てなくてよろしい。アレに向かって一振りするだけ。簡単な話でしょう?」

「お前、失礼じゃないか?昼に一度話しただけの者に、何故そんな事を言われなくちゃならないんだ。そもそも、お前が自分で振るえばいいだろ?」

 至極真っ当な言葉に、ファイは失笑した。

「それが出来ないから、貴方に頼んでいるんですよ」

「何?」

「私には、もう時間がありませんので」

「それは、どういう」

「使えるモノは使うべき。この差し迫った状況を解消する為の一手です。納得は出来なくとも理解はして下さい」

「我が主。出来上がりました。時がありません。お早く」

 口を挟んだヘルの手には、出来上がったばかりの透明な長剣があった。

「まあ、よろしくお願いしますよ。タイミングはヘルが教えてくれるでしょうから、ご心配なさらず」

 踵を返したファイは、片手を軽く上げて振る。

「じゃあな。皇子様」

 その言葉に、その後ろ姿に、ある人物の姿が重なった。

 年齢も髪の長さも色も、瞳の色もまるで違うが、それでも妙な確信があった。

「……お前、もしかして……。――っ待て!」


 呼び止めるホープの声は確実に届いているのに、ファイは立ち止まるどころか振り返る事すらせず歩を進める。

 歩きながら、着ていた夜色の長い外套ロングコートに手をかけた。

 襟元から留め具を外していく。

 レイニスを通り過ぎ、男爵の傍らをすり抜け、アウラとノエルの背後に立つ。

 かなり破られた障壁は残り六枚。

 甲高い音を立てて、また一枚割られる。

 ここまで魔法を使い続けてきた三人の魔力はすでに限界。追加の障壁は望むべくもない。

 最後の一枚を破られれば、その時点で全員の死が確定してしまう。

「ファイさん!これ以上は」

 苦渋の顔で振り返ったノエルの目に映ったのは、こんな危機的な状況にも関わらず、不敵に微笑むファイの姿。


 外套を脱ぐ。

 元の状態だと、魔獣やら良くないモノにやたら狙われてしまう為、仕方なしにステルス加工を施した外套これを着ていたが、事ここに至ってはもはや必要ない。

 澱んだ冷たい空気が、薄手のシャツ越しに肌を撫でる。その感覚に心地良さを感じつつ、足を踏み出す。

 あの剣は、残っていた権能全てと、存在質量の半分を譲渡して創られたものだ。

 使用には魔力を要するが、特異体質だと言う皇子様あいつなら問題ないだろう。

 蘇生魔法で大量の魔力を失ったとは言え、剣を使うぐらいは残っているはず。

 サポートとしてヘルもいる。

 躊躇さえしなければ何も問題ない。

 長かった。

 漸く終われる。

 本来、もっと簡単で手早く終わる案件だったはずなのに、ここまで長引いてしまったのは本当に想定外だった。

 至極面倒な口調を始め、負わなくていい苦痛や苦労、見たくもない顔を見る不快は筆舌に尽くし難かったが、終わり良ければ全て良し。

 さて、向こうに行った時、何と言って苦情を伝えようか。


 自らの役目を果たし終えた外套が消える。

「ファイ……さん?」

 嫌な予感がしたのだろう。

 ノエルの口から不安の滲んだ声が落ちた。

 ノエルとアウラ、二人の隣をすり抜けざま、ファイは労いの言葉を放つ。

「それでは皆さん、ご苦労様でした」


「待っ――――!」

「ダメッ!!」


 制止した二人の声が虚しく響く。

 咄嗟に伸ばしたノエルの手が、ファイの腕に届く。

 しかし、その手は陽炎を掴むように、するりと通り抜けた。

 驚くノエルへ、ファイは軽く振り返った。

 視線が一瞬だけ交差する。

 黄金色の瞳の奥に、稲妻の如く紫電が走ったような気がした。

 ノエルが口を開く。確かめようとして。

 だが、それが音として成る前に、ファイは障壁をすり抜けて女の前にその身を晒した。


 音でも鳴りそうな勢いで、女が出てきたファイへ顔を向ける。

 人の声を真似、人の姿を真似、人の言葉を吐く、人に似たナニカの顔が、喜色と悦楽に染まった。

「――――待って」

 ノエルの声が障壁の向こうから放たれる。

 女は張り付いていた障壁から身を離して着地し、プロイアを喰らった時と同じように、口を大きく開けた。

「待って」

 ノエルの震えた声が響く。

 女の頭部が異常なまでに膨れ上がった。

「いけません!ノエルさん!男爵様!」

 羽交い締めにされたような衣擦れの音が、ファイの耳に届く。

「離して下さい!離してっ!!」

 藻掻く音と一緒に抗議の声が飛ぶ。

「喰われて死ぬのは久々だな」

 それらを聞きながら、やれやれと言った風のファイの独り言が落ちた。

「待ってっ!!」

 ノエルの悲痛な声に引き止められる事もなく、女はファイを頭から喰らうべく飛びかかった。


「やめてええええぇぇぇぇええぇっ!!」


 ファイが聞いた最後の音は、ノエルの張り裂けそうな絶叫だった。

 ノエルが見たのは、最期の瞬間まで不敵な笑みを崩さず、女を見据えていたファイの姿だった。


 バクリ。

 と、間の抜けた淡白な音が、無情にホールに満ちた。

 床を削り取りながら、ひと口でファイを口内に収めた女は、バキバキと枝を折る様な音を鳴らして咀嚼を始める。

 その味を噛み締める為、丁寧に丁寧に噛んで、潰して、舌の上で転がして、じっくりと味わう。

 さながらワインの様に。

 女の眼球やみが、美味しさと嬉しさを表すようにゴリゴリと動いた。


 ノエルの全身から力が抜け、空気の抜けた風船の如く、膝から崩れ落ちる。

 アウラは沈痛な面持ちでノエルを見た。

 へたり込んだノエルを支える男爵の顔も険しい。

 己の無力感に打ちひしがれ、放心状態のノエルを視界に収めながら、ホープもまた絶句して思考停止していた。


 そんなホープへ、ヘルは幾分低くなった声色で話しかけた。

「剣を構えて下さいませ」

 ホープの手がピクリと反応する。

 軋み音を鳴らしそうな速度で、ホープは剣を自分に差し出すヘルを見た。

「これから、あの蘇生体に七つの光の輪――天輪が発生します。七つ目が出るのと同時に、その剣を振って下さい。遅すぎても早すぎてもいけません」

「君……君は、君の主が、あいつが死んだと言うのに、何を言って……」

「お気になさらず。元々、我が主が死ぬのは確定されていた事です。違うのは、取り込む側と取り込まれる側が逆転した事ぐらいなので」

「は?」

「汚染された魂を、正しく根源神の元へ導く為には道標が必要ですから」

「待て。待て。それは、あいつが自ら望んだ事、なのか?そんな、それじゃ自死みたい……」

「愚問ですね。全て、我が主が考えたプランでございます」

「そん……な……」

「ご安心を。我が主の本体は、問題なくこの世界こちらにおりますので」

「そ、だとしても!あいつは、確かに今までここに存在していただろ!?感情も意志も、痛みだってあったんだろ!?」

「無論でございます。泡沫の存在とは言え、在らねば送る事は出来ませんから。さあ、無駄話はここまでに」

「無駄話って」

 憤りを露わにして続けようとしたホープの目に、黄金の光が迸った。


 ホールを埋め尽くすほどの鮮烈な光。


 そちらへ目を移せば、女の頭上に輝く天輪が現れてた。

 全員の視線が女に向けられる。

 神々しい天輪に、女の身体が崩れる。

 崩れて、下手くそな泥人形の様な、あるいはスライムを無理やり人型にしようとした様な、どろりとした歪な姿へと変じた。

 通常の女性と同じぐらいだった背丈は、その三倍にまで膨れ上がった。

「一つ目が現れましたね。さあ、剣を構えて下さいませ」

 ヘルは手にある剣を、再度ホープに向かって差し出す。

 だが、ホープはそれを受け取らずに、ただただ凝視した。

 躊躇が瞳を揺らしている。

「僕は……」

我が主あの方の死を無駄にしたくないのならば、振るって下さい」

 頭上に二つ目の天輪が現れる。

 一つ目と並ぶ形で配置された。

「だが……」

「何を迷うのです。その剣を振るうだけで、貴女の愛しい人は元より、ここにいる全員を救う事が出来るのですよ?既に死んだ者と、今を生きている者。どちらを優先すべきかは分かるでしょう?」

 三つ目が現れる。

 先二つと並ぶ。頭上から見た時、ちょうど三角形になる配置だ。

「…………」

「我が主も仰っておりましたでしょう?〝使えるモノは使え″と。この状況下で、結論の出ている行動を迷うのは時間の無駄でございます」

 四つ目が現れる。

 頭上で、今まで現れた天輪が菱形に並んだ。

 ふっと、ホープは笑った。

 吹っ切れた様な笑いだ。

「……あいつに似て、君も厳しいな」

「そうでしょうか?合理的なだけでございますよ」

 首を傾げるヘルに、ホープは苦笑を返した。

 現れた五つ目の天輪は、菱形に並んだ四つの天輪の上に浮かんだ。

 残り二つ。

 ホープは、ヘルから剣を受け取った。


 羽根のように軽く、妙に手に馴染む剣を構える。

「我が主も仰っていたように、当てる必要はございません。ただ、あれに向かって振って下さい。横でも縦でも斜めでも、一閃すればよろしいです」

 ホープは静かに頷く。

 六つ目の天輪は背に現れた。

 背負う輪は大きく、身の丈程もある。

 本能的な恐怖を抱いて然るべき姿に、それでもホープには湧き上がらなかった。

 託されたという事実と、傍らにいるヘル。守りたい大切な人アウラに、守るべき民の存在。

 そして、握り締めた剣から伝わってくる、圧倒的な存在感を感じているからだろうか。

 神経を張り詰めていく。

 七つ目。

 六つ目の天輪よりも一回り大きいソレが、背に展開された。


 瞬間。


「今っ!!」


 ヘルの鋭い声が届いた。

 素早く。鋭く。潔く。

 閃光の様に。稲妻の様に。

 振り下ろす。上から下へ。

 袈裟斬りに一閃する。


 剣身から黄金の光が迸った。

 全てを薙ぎ払うかの様に、全てを包み込むかの様に、全てを超越した黄昏の光。

 春の様に柔らかく。

 夏の様に苛烈に。

 秋の様に儚く。

 冬の様に冷徹に。

 距離も空間も、概念も因果も無視して、蘇生体を構成する全てを両断した。


 光は蘇生体を呑み込み、一つの柱となって天へと昇る。

 天窓を突き破り、降りしきる雨雲を突き破って。

 別荘のある峠のみならず、クロニカにまで伸びていた雨雲を全て吹き飛ばして払った様は、まるで広がる天輪の如くであった。

 降るような見事な星空が、全員の瞳に映る。

 月の見えない夜であるからこそ、その煌めきはより印象的に、一生忘れる事の出来ないものとして、ここにいる者全ての脳裏に焼き付いた。


 光が治まる。

 その巨体を誇っていた蘇生体は、輝く身体をボロボロと雪片の様に崩して、宙に解け消えていく。

 断末魔もなく、静かに。

 剣を振るったホープはもちろん、床に転がっていたレイニスも、障壁を張っていたアウラも、ノエルを支えていた男爵も、支えられていたノエルも、花弁の様に美しく舞い上がって消える蘇生体を見送る。

 終わったと、誰の胸にも去来した思いは、安堵と一抹の寂しさ。

 ホープの手にあった透明な剣が、澄んだ音を奏でて砕け散った。


「お疲れ様でございました」

 ヘルの細い声がホープに届く。

 視線を下ろせば、ヘルの姿は薄く、半透明になっていた。

 刻々と色を失い、消えていくさまに、ホープは悲しげに目を細める。

「君も、消えるのか?」

「はい。私の役目も終わりました故」

「そうか……」

「一時はどうなるかと思いましたが、無事達成できて何よりでございました。事の顛末は皆様にお聞き下さいませ。ああ、我が主の正体については、どうぞご内密に。特に、我が主に執着しているあの方には」

 ヘルの目がノエルへと向かう。

 それを追ったホープが、ふっと苦笑した。

「魔王と聖女じゃ、相性が悪いにも程があるからね」

 ふふっと、ヘルも笑う。

「はい。……まあ、惹かれてしまうのも仕方のない事なのですけれどね」

「え?」

「いえ、何でもございません。それでは、どうぞご健勝で。希望の名を冠する皇子様」

 ヘルはホープに向かって丁寧に一礼すると、そのまま溶ける様に消えていった。


 ハッと我に返ったアウラが、振り返ってホープに走り寄る。

「ホープ様!ご無事ですか!?」

 ホープは優しい微笑みを浮かべて、アウラを見つめていた。







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