第34話 聖女と少女と泡沫⑥ 禁忌指定魔法 前編


 何故。

 何故。

 何故。

 どうして自分が。自分だけが……。


 そんな思いが、とぐろの様に胸中に渦巻く。

 確かに、ぼくは善人ではなかった。

 しかし、ここまでの目に見舞われるほどの悪人でもなかったはずだ。

 この町で、妻と子と、平穏に暮らせると思った。

 なのに、二週間前のあの日。

 唐突にぼくの幸せは奪われた。


 どうして。

 どうして。

 どうして。


 行き場のない憤りが胸を支配する。


 いや。まだだ。まだ諦めない。まだ手はある。

 アレを。アレを使えば。

 今度こそ。今度こそ。

 娘も手伝ってくれている。

 きっとやれるはずだ。


 ぼくは、檻の中で横たわり、身動みじろぎ一つしない高貴な人物を見た。

 普通に生きていれば、一生涯交わる事のなかった人物。

 ……ぼくは運が良い。

 今まで神なんて存在、欠片も信じていなかったが、今なら断言出来る。

 幸運の女神は、ぼくに微笑んでいる。と。


 必ず、成し遂げてみせる。

 どんな犠牲を払っても、絶対に。


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 三人が直線となった暗渠を走り始めて、さらに十数分。

 距離的に、そろそろ出口が見え始めてもいい頃だが、生憎とまだ見えない。


 魔獣の気配が無いからか、走りながらも女性二人は、ファイの後ろで雑談に花を咲かせていた。

 少々気を抜きすぎと思わないでもないが、「ずっと張り詰めていても疲れてしまい、ここぞという時に力を発揮できませんよ」と、ノエルが半ば無理やり話に引きずり込んだ結果だ。

 アウラとホープの馴れ初めや将来の話等、ファイからしてみれば心底どうでもいい話である為、会話に参加する事はせず淡々と進んで行く。

 魔獣の姿が無くなったのは、単にファイ達が駆除したからだけではなく、昏く、重く、非常に濃い魔力密度のせいで近寄れないだけだ。

アウラとノエルは感じ取れないらしいが、ファイには澱みとはまた違った魔力密度それを全身で感じていた。

 常に針で突き刺されている様な、ピリピリとした痛みが肌を駆け巡る。控えめに言って不快な感覚に、軽く眉をひそめてしまう。

 パシャッと、駆ける足が小さな水溜まりを蹴散らした。


(ヘル)

 自らの内に話しかけるように、ファイは静かに思った。

 すぐに返事が返ってくる。

(はい。我が主)

別案サブについてですが、いざという時は彼女達を使います)

(リソースとして変換し、消費するという事ですか?)

 そら怖ろしい事をサラリとのたまうヘルに、しかしファイは驚いたり憤ったりすること無く、今までと同じく鏡面のような心持ちで答えた。

(いいえ。彼女達では変換しても焼け石に水でしょう。むしろ、変換する消費量の方が大きい。そうではなく、私の代わりに詰めをして頂くのです)

 僅かな沈黙。だがすぐに、一段低いトーンの声が返ってきた。

(同意いたしかねます。彼女達は未知数です。こちらの事情、思惑を知った上で、行動してくれる可能性は低いと思われます。特に片方は……)

(ヘル。貴女も分かっているでしょう?先ほどから漂ってくるこの濃密な死の気配と、ことわりが崩壊しかけている感覚を。アレが悪用されているのは明らかです。当初の予定通りに行けば良いですが、それはほぼ無理な領域に入りつつある。もはや、贅沢は言っていられない状況なのです)

(ですが……)

 言い募るヘルに、ファイはさとすように淡々と答える。

(ヘル。どうあれ、目的が達成されればそれで良いのです。結果さえ同じであれば過程は問わない。私達がここにいる理由、理解していますね?)

(……はい。我が主……)

(では、よろしくお願いしますよ)

(御意……)

 やや不満げな声が、ファイの中で響いた。

 明らかに納得がいっていない様子のヘルに、ファイはため息を零したい気持ちでいっぱいになる。


 ヘルを今回の仕事に抜擢したのは、彼女のサポート能力も然る事ながら、その合理的な思考と冷静さを評価しての事だ。

 不測の事態でも慌てる事なく、かつファイこちらの命令を即座に呑んで実行に移してくれる。

 とは言え、感情が無いわけではない。

 波立つ事は少ないが、ちゃんと喜怒哀楽はある。

 それが悪い方へ傾かなければいいが……。

 一抹の不安が過ぎる。


 そんな事をつらつらと考えていると、不意に背後から声をかけられた。

「――――で、どう思います?ファイさん」

「……え、はい?」

 ヘルとの会話に集中していたせいで、ノエル達の話を聞いていなかったファイは、思わず素っ頓狂な声を上げて振り返った。

 二人の会話の内容に、全く興味を持てなかったのも、聞き逃していた原因だろう。

 後ろを走るノエルは、呆れたような、或いはむくれたような表情を浮かべていた。

 ノエルの隣を走るアウラも、苦笑いを零している。

 それなりに長く走り続けているのに、三人とも息は上がっていない。どころか、一つも乱れていない。

 その理由は実に簡単で、全員が強化魔法を施しているからである。


「もう。聞いてなかったんですか?」

 ノエルが若干責めるような声色でファイに聞いた。

「申し訳ございません。少し考え事をしておりまして……」

「え、ごめんなさい。邪魔……してしまいましたか?」

 アウラが慌ててそう言うと、ファイは緩やかに首を振った。そして改めて訊ねた。

「いえ。大した事ではございませんので。それで、何のお話だったんですか?」

「ああ、いえ。こちらも大した事じゃないんですけど……」

「何を言っているんですか!大した事ですよ!アウラさんの将来に関わる事なんですから!!」

 拳を作って、力強く言い切るノエルに、困惑を色濃く浮かべるファイ。

「は……し、将来?」

 困ったように、アウラは眉を八の字に歪める。

「大袈裟ですよ」

「そんな事ありません!」

 結構な剣幕で断言するノエルの瞳は、烈火の如くメラメラと燃え盛っていた。

 その雰囲気に呑まれたアウラの喉が、ゴクリと鳴る。


「ええと……で?肝心の内容は何なんですか?」

 ファイが引き気味に話しかけると、ノエルの視線が勢いよく向いた。さながら鞭である。

「アウラさんの結婚について!です!」

「けっ……こん……?」

 想定外の話に、つんのめって転びそうになる。

 ファイはそれを、無理矢理足を前に出す事で踏ん張って耐えた。

 そして、そのまま走り続ける。


 ポリポリと頬を掻きながら口を開く。

「えー……っと。なんです?結婚式に呼ぶ友人がいませんか?それとも参列する親類がいないとか?あー、着るドレスに迷っているとか、お色直しの回数を決めかねているとか、引き出物に悩んでいるとか?あとは……」

 妙に具体的な候補を上げて指折り数えるファイに、女性二人から呆れた視線が返ってきた。

「違います」

「その前の段階ですよ。ファイさん、気が早すぎます」

 アウラからは短く即答され、ノエルからはため息混じりの返答が戻ってくる。

「前段階……。身体の相性が悪かった、とかですか?」

 ぶわっと、途端に二人の顔が真っ赤になる。

「か――――っ!?」

「違いますっ!!」

(セクハラですよ。我が主)

 絶句するノエルと、絶叫して否定するアウラ。そして冷え冷えと諫めるヘル。

 ヘルの声は二人に聞こえないとはいえ、責めるような三者三様の反応に、発した側のファイはますます分からないと首を捻った。

 いや、セクハラの意味が分からないのではなく、ノエルが言う肝心の主題が見えてこないからだ。


 ノエルは盛大に咳払いすると、下世話な話に突っ込んだファイを、軽蔑の篭った冷ややかな目で見据えた。

「……アウラさんの現状についてです。血筋や身分を重んじる貴族の方々に、どうやったらアウラさんを認めていただくか。その事を話していたんです」

「ああ……なんだ。それなら話は簡単でございますよ」

 あっけらかんと、至極軽い口調でそう言ったファイに、アウラとノエルの目が丸くなる。

 二人が二の句を継ぐ前に、ファイは再び口を開いた。

「貴族の養子になるのです。それで、身分の件は解決いたしましょう」

 実に単純明快な答え。これ以上ないほどの解決策。

 だが、それを聞いても、アウラとノエルの表情は晴れなかった。


 聖教国では、貴族の者が孤児や貧民の子を養子に迎える事は珍しくない。

 それは、三神教の教えが他国より深く根付いているのもあるが、貧しい者を養子に迎えるという慈善行為によって、家名にはくを付けたいとの理由が大きい。

 だが、誰も彼もという訳では勿論ない。

 年齢、素行、才能、外見、推薦人の有無等、幾つもの選定基準がある。

 まあ、養子とは言え貴族の枠組みに入るのだ。当然と言えば当然の話。

 では、当のアウラはどうなのかと言えば、なかなか難しい所だった。

 年齢で言えばすでに成人を迎えて久しいし、素行の点で言えば、致し方ないとはいえ少し前まで身を売っていた事実がある。

 ずば抜けた才能がある訳でもなく、外見も花のように可愛らしいが、それでも一般人の枠からは出ていない。

 推薦人の有無など、言わずもがなだろう。

 これらを総合して考えた結果、二人は曇った顔を晒しているのである。


「それは……難しいかと……」

 難しい表情のまま、アウラがポツリと落とす。

「難しい、ですか?」

「はい。私の身の上を知った上で受け入れてくれる貴族の方など、恐らく一人もいないでしょう……」

 そう言われファイは、ふむ……と考え込んだ。

「衛士長殿は如何です?衛士長のお役目に就かれておいでなら、それなりの爵位をお持ちのはず。貴女の事情もご存知でしょうし、殿下の覚えもめでたい。無下にはされないのでは?」

 ノエルの顔がパッと華やぐ。

「衛士長様!そうですよ!衛士長様がいらっしゃいました!」

 確かに。とアウラも思う。だが同時に、逡巡する気持ちも浮かんだ。

 迷惑にならないだろうか、と言う気遣いと、断られたらどうしよう、と言う恐怖が綯い交ぜになり、言葉に詰まってしまう。


 アウラの内心を表したかのように、通路にぶら下がっていた照明カンテラが、チカチカと明滅して消えた。

 一瞬生まれた暗闇を振り切るように走り抜けると、振り返っていたはずのファイは、視線を前に戻していた。

 葛藤するように、アウラは視線を落とし、眉を寄せて唇を噛む。

 そんなアウラに、「大丈夫です!」とノエルは殊更に明るい声色で続けた。

「衛士長様は厳しいお方ですが、無慈悲ではありません!きっと力になって下さいますよ!」

 おもんぱかる表情を浮かべて言うノエルを見て、アウラはどこか諦念を抱いたように、儚げに微笑んだ。

「そう、ですね。ダメ元で聞いてみます」

 自信の欠落した言葉に、ノエルは悲しげに眉を下げ、ファイはふっと嘆息を漏らした。

 そして、振り返ることなく、アウラへ向けておもむろに語りかける。


「アウラさん。貴女のその謙虚さ、もとい自信の無さは、根底にある自らへの卑下から来るものですね?」

「え……」

「貴女の境遇からして、それは然もありなんと言った所ですが、以前と今とでは状況が違いましょう。数は少なくとも、信じられ、頼っても良い相手が周りにいるはずです。貴女が、貴女に心を寄せ、信頼する者に報いたいと思うのならば、まずはその方々に甘えなさい。貴女には、それが許されている。さとい貴女なら、相手に〝寄りかかる″のではなく、正しく〝頼る″事が出来るはずです」

「ですが……」

「出来ない理由を探すより、出来る理由を求めなさい。自らを卑下して満足しているようでは、これから先も何も変わりませんよ」

 ハッと、驚愕に見開かれたアウラの目が、一瞬の後、探るものへと変わり、ファイへ向けられた。

 ジリジリとした視線を背中に感じながら、

「そもそも、貴女を養子に迎え入れれば、皇族との姻戚関係が得られるという利益メリットがございます。客観的に見ても、衛士長殿がこの話を断る可能性は低いと思いますよ」

 そう言って、ファイは言葉を締めた。


 すると不意に、

(我が主が他者に心を砕くなど、お珍しい……)

「優しいんですね、ファイさん……」

 ファイの頭の中で声が響いた。同時に、何やら感激した風のノエルの声も背中に届く。

 ファイは前を向いたまま、実に渋い表情を浮かべた。

「後ろで、キノコでも生えそうな雰囲気を漂わせられているのが鬱陶しかっただけですよ。これから先を考えれば、他の事に気を取られて、足手まといになられては困りますから」

 二人に向けて、吐き捨てるように内心をそのまま吐露する。

 だが、それでもノエルとヘルは、綻んだ声色をファイに返した。

(そう言う事にしておきましょう。我が主)

「恥ずかしがらなくてもいいんですよ?ファイさん」

 ファイは苦み走った渋面をさらに険しくして、その言葉に反応することなく前方を見据える。

 早く出口よ見えろ、と念じながら。


 そこから進む事さらに暫し。

 明かりの点いたカンテラが、点いていない方を上回り、所々壁も剥き出しの土になる頃。

 ようやく暗渠の終わりが見えたのだった。


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 辿り着いた行き止まりの通路。

 そこには、上へと向かう錆びた梯子が掛かっていた。

 途中途中、老人の歯のように足掛け棒が外れて抜け落ちている。

 無事残っている棒も、体重をかけた瞬間に壊れてしまいそうな危うさだ。

 暗渠の天井から先は、煙突の様な造りをしており、そこには照明カンテラも無い為、黒々とした闇を湛えていた。


 ファイは頭上を見上げる。

 身体強化の魔法を付与してあるおかげで、本来なら何も見えないはずの暗闇でも、薄らと空間内部が見て取れた。

 じっと、目を凝らす。

 見え難いが、遠くに小さな四角い鉄の蓋があった。

 ざっとその距離を測ると、ファイは手の中にあった透明な糸を二人に見せつつ、上を見たまま口を開く。


「私が先に行きます。上からこれを垂らすので、お二人とも掴まって下さい。引き上げます」

「え、私達いっぺんに、ですか?大丈夫ですか?」

 酷く繊細な糸を見た後、ファイを眺めながらアウラは訊ねた。

「手、落ちちゃったりしませんよね?」

 この糸で魔獣をバラバラにしてきた現場を見てきたノエルは、恐る恐る訊ねる。

「この糸は、私の意思を反映して強度や尖鋭、長さが変わりますから、貴女方が負傷する事はございません。ご心配なく。掴まったら、二度引いて下さい。それを合図に上げます。では」

 言うや否や、ファイは勢いよく跳躍すると、残っている数少ない棒の一本を思い切り踏み、暗闇の中へと突入して行った。


 背後で、足場にした棒が外れて落ちる音が、ファイの耳に届いた。

 煙突に似た内部に、カランカランと転がる鉄の音が反響してうるさい。

 限界まで上がった所で、今度は壁を蹴って上がる。

 左右に二度、三度と蹴った所で、出入り口を塞いでいる鉄の蓋が、糸の射程内に入った。

 ファイは鋭く腕を振って、手にしていた糸を頭上目掛けて放つ。

 ビッ!と空気を裂く音を鳴らして蓋に迫った糸は、豆腐に針を刺すが如く、そのまま容易く蓋の中心を貫通した。

 そうして一瞬、糸が連続して閃く。

 時間にすれば一秒にも満たない刹那。

 黒い鉄の蓋は、見事なまでにバラバラに切り裂かれた。

 無惨にバラされた蓋が、重力に従って落下を始める直前。

 ファイは、それを押し上げるようにして飛び出した。


 跳ね除けられた蓋の残骸が、ガシャンガシャンと喧しく騒ぎ立てて周囲に転がる。

 頭の奥にガンガンと響く音の中、軽く小さな音を鳴らして着地したファイは、素早く周囲を確認した。


 そこはどうやら地下倉庫のようだった。

 天井からぶら下がる、魔力自動補給式の丸いランプが、それなりに広い空間をぼんやりと照らしている。

 無数の棚が連なる倉庫は、使われなくなって久しいのか、非常に埃っぽくて薄汚い。

 タイル張りの床は、所々が割れたり砕けたりしている上に、棚に置かれていた年代物の壺やら置物やらは厚く埃を被っていた。

 格子状に組まれた棚の中には、未開封の酒瓶ワインボトルが幾本か残っているのも見て取れた為、ワインセラーとしても使っていたのだろう。

 横向きに並べられた大きな樽も幾つか並んであった。中身は見えないが、この手の物に詰まっているのは葡萄酒と相場が決まっている。

 立ち並ぶ棚を掻い潜った遠くには、上階へ向かう為の階段が寂しげに佇んでいた。

 ファイはそれを確認すると、ふと頭上を見上げた。

 何かがあった訳ではない。

 ただ、上から降ってくる重低音が気になっただけだ。


(我が主……この感じは……)

 ヘルの苦い声がファイの中で響く。

 対するファイは、落胆した面持ちで嘆息を吐き出した。

「……禁忌指定魔法。その中でも、一番つまらない使い方をしようとしているみたいですね」

(愚かな……)

「まあ、ある意味最も〝人間らしい″行動と言えるでしょう。責められはしませんよ。後は行ってみてのお楽しみですね」

 苦渋を滲ませた声に、軽く肩をすくめながら答えた後、ファイは今上がってきた四角い穴に近付く。

 ここに上がったのと同時に強化魔法が切れてしまった為、覗き込んだ穴は奈落のように暗く深く見通せない。

 とは言え、今しがた通って来たばかりなので、その距離については正確に把握している。


 糸はファイの意思に応じて伸縮自在だが、当然ながら無限ではない。

 このままだと、最大に伸ばしたとしても、ノエル達の元へ届くには少しばかり足りない。

 だからこそ訊ねた。

「ヘル。リソースの残量は?」

(道中、魔法の使用は無かったので、魔力は13%まで回復いたしました。しかし、例の魔獣相手に権能を行使いたしましたので、差し引きはゼロです)

「そうですか。では、魔力の方を使うとしましょうか」

 そう言うと、ファイは手の中にあった糸へ意識を集中させた。

 蛍が明滅する様に蒼碧色に輝いた糸は、つい先ほどまでよりも僅かに、しかし確かに長くなっていた。


 最大射程を伸ばした糸を穴の中へと垂らす。

 すぐに二度引かれる感触が、ファイの手へと伝わってきた。

 すると、一本釣りよろしく、ファイは勢いよく一気に引き上げた。

 あまりにもな速さで引き上げられたせいか、穴からは二人分の高い悲鳴が噴出し、それはスポーンッと飛び出た後も続いた。


 床に手を着いて、土下座一歩手前で這いつくばるノエルと、顔面蒼白でへたり込むアウラ。

 そんな二人を見下ろしながら、パンパンッと二度手を鳴らすファイ。

 そして、やれやれといった様子で口を開く。

「さあさあ。休んでいる暇はございませんよ。早速参りましょう」

 〝誰のせいでこんな事になっていると!?″と、凄まじい形相でファイを凝視する二人だったが、それを特に口にすることは無く、ただムスッとした顔のまま立ち上がった。


 革靴が床を鳴らす。

 連続した硬い音が、長い間静寂に支配されてきた地下倉庫に響く。

 まるで歓迎するかのように舞う埃に、三人して迷惑そうな顔で手を振って払った。

 そうして左右に立ち並ぶ棚を眺めながら、足早に歩く事少し。

 この地下倉庫に唯一ある階段は、目前にまで迫っていた。

 赤いレンガ造りのガッシリとした階段は、端が朽ちて崩れているものの、他に大きな損傷は見受けられず、上がっていくのに特段問題はないようだった。

 上階から降ってくる重い音に疑問を抱きつつも、ノエルとアウラは逸る気持ちを抑えてファイに続く。


 下地になっているレンガの上に、厚い木を乗せた踏み板は、腐りもせず見た目通りのしっかりとした感触をファイに伝えてくる。

 途中あった踊り場を経て、さらに上へ進んで行くと、やがて出入り口を塞ぐアーチ状の扉が見えた。

 鉄枠に囲まれた頑丈な木製の扉は、人一人が通れる程度の大きさしかない。

 到着したファイがノブを回すが、ガチッと硬い音がしてビクともしなかった。

 ファイは顎に手を当てて、軽く悩んだ。


 扉を破壊するのは容易い。

 現状の体躯では蹴破るのは難しいものの、糸を使えば、先の蓋同様、切り裂いてバラバラに出来るだろう。

 とは言え、それをすれば結構な音が鳴り響いてしまう。

 別に隠密行動ではないし、なんならすでに重低音が鳴り響いているので、そこまで気にする必要もないのかもしれないが……。


 結局、ファイが出した結論はシンプルなものだった。

 ファイの手元が小さく煌めく。

 途端、ノブとその周りが、抉られたように丸くくり抜かれて落ちた。

 床を鳴らす残骸は、先に響き渡っていた音に呑み込まれて消える。

 そっと扉を押すと、神経を逆撫でする、草臥くたびれた音が耳を刺した。

 そして飛び込んできた光景に、思わず目をすがめる。


 どうやらそこは、元は美術品を飾るギャラリーだったらしい場所。

 〝らしい″と言うのには当然理由がある。

 窓のない、回廊のように長い部屋。

 その壁に掛かった大小の絵画や、美しい壺、精巧な彫像等が、ここがギャラリーだった事を証明しているのだが、そんな美術品を台無しにしてしまうモノが、床に無数に転がっていた。


 死体、である。


 ワイングラスを逆さにした様なランプに照らされた、紅い絨毯ビロードの上。

 男、女、子供。

 温度を失くした肉の塊が、乱雑に横たわっていた。

 それが、視界を埋め尽くすほどにある。

 奇怪なのは、その死体の尽くが干からびていた事。

 眼窩は黒く落ち窪み、歯は剥き出し。骨に張り付いた皮と筋だけのミイラの様なモノ。

 服だけが綺麗である事が、より一層不気味さに拍車をかけていた。

 なんだったら、中身ミイラよりも服の方が瑞々しいぐらいだ。

 まあ、この夏という季節。死体が腐乱していないだけマシか、とも思う。


「どうされたんです?」

 外を覗いたまま動かないファイを不審に思ったのだろう。背後からノエルが声をかけた。

 ファイは発する言葉を選んでから、振り向いて二人を見た。

 胡乱げな視線がファイに突き刺さる。

「いえ、なんでもございません」

 感情の篭らない声色でそう言うと、ゆっくりと扉を押し開いた。


 扉が半分まで開いた所で、不意にガツッと何かに突っかかって止まる。

 面倒そうな表情でため息を吐きながら、ファイは身体を滑り込ませて先に向こう側へ出ると、ストッパーになってしまっていた死体を、ぞんざいに蹴って退かした。

 ガサッと渇いた軽い音が鳴る。

 ちょうど壁の役割を果たしていたファイがいなくなった事で、ギャラリーの様子が垣間見えたのだろう。

 ノエルとアウラの口から、引き攣った吐息が漏れた。


 やがて全開になった扉の向こうにある光景に、二人は足から根っこが生えたように動けなくなる。

「どうなさいました?」

 今度はファイが、胡乱げな目を二人に向ける。

 溺れたように口をパクパクと開閉させたノエルは、半ば無理やり声を絞り出した。

「ど……なさいました、じゃないですよ……。その、足元に……床にあるのは……」

「死体、ですね」

「そんなアッサリと……」

「事実ですから」

 何のこと無しと、淡々と返すファイ。

 二人を慌てさせない為か、はたまたこれが素の反応なのか。冷徹とも取れる態度に、先に我に返ったのはアウラだった。

 意を決したようにゴクリと息を呑み、ゆっくりと一歩を踏み出す。


 凄惨な光景。

 視界に広がる遺骸の山。

 量からして、それが昨日今日の話でない事は容易に想像がついた。

 手足を折り曲げ、うずくまるようにして転がっている子供の死体は、その衣服や髪色の特徴からして、行方不明になっている者と一致する。

 他にも数体、アウラが記憶している失踪者の情報と特徴が合致した。

 だが、あまりにもその数が多い。

 察するに、クロニカだけでなく、近隣の村人や旅人なんかも犠牲になっているのだろう。


 アウラは痛ましげに顔を歪めると、短く黙祷を捧げ、死体を跨いでファイの元へ移動する。

 続いてノエル。

 躊躇ためらいがちに扉を潜ると、改めて目に映った光景に、悲憤を露わにして唇を噛んだ。

「……酷い」

 ポツリと漏らした言葉は怒りに満ちている。

 そんなノエルを急かすように、ファイは足を鳴らした。

「行きますよ」

「あ、はい!」

 慌ててそう返しつつ、ノエルは簡略化した鎮魂の言葉を唱えた。


 再び歩き始めた三人だが、状況からして進み辛いことこの上ない。

 無論、横たわる死体が障害物になっているせいだ。

 当初、死体をガツガツ蹴って退かす、或いは糸で分解バラしながら進もうと思っていたファイだったが、それは当然のことながら二人に止められた。

 なので仕方なく、辛うじて空いているスペースを縫う形で進んでいた。

 それはさながら、飛び石をするかの如くであり、非常に面倒である。

 どうしても退かさなければいけないモノは、ファイが抱き起して横に移動させるのだが、極限まで水分が抜けていたせいか、途中で首がもげたり上半身と下半身に別れたりと、なかなかな有り様だった。

 唯一の救いは、完全に乾燥していたおかげで異臭悪臭が発生しておらず、内臓がドロリと流れ出なかった事ぐらいか。


 心底面倒くさい。と、でかでかと顔に書きながらも、ファイは黙々と死体を退かして進む。

 死体置き場……いや、死体の投棄場所と化した、美しい美術品が並ぶ豪華なギャラリー。

 その常軌を逸した空間に軽く吐き気を催しながら、アウラは考えていた。


 〝人が忽然と消えた″

 そんな話が臨時行政所天幕に寄せられ始めたのは、十日ほど前から。

 十日かそこらで、人がここまで涸れ果てるものだろうか。

 いや、魔法を使えばそれも可能だと思うが、身代金を要求するでもなく、売るでもなく、こんな風に殺す理由が分からない。

 ならば怨恨か、とも考えるが、これだけの数。それが理由とも思えない。

 貧富の差や男女差、共通する事項も特にない。

 せいぜい、訴えられた被害者の中に老人がいなかったのが、気になると言えば気になる所。

 犯人像も目的も方法も不明。

 だからこそ、巡回に力を入れるという、基本的で在り来たりで、ともすればやる気がないとも取れる対処しか出来なかったのだ。

 もし、バルト男爵が首謀者であったとしても、やはり分からない。

 筆頭貴族から外されたとしても没落する訳じゃない。ただの貴族になるだけ。

 資金繰りに困っているという噂はついぞ聞かない。

 矜持プライドが高いからと言って、人を攫って殺す事にはならないだろう。

 王国では、鬱憤晴らしに領民を虐殺する貴族領主もいると聞いた事があるが、そもそもそのような人物であれば、男爵が筆頭貴族に名を連ねる事もなかったはず。

 一体誰が、何故、どうやって……。


 そうやって、悶々と考え込んでいたせいだろう。

「――――っ!?」

 何かにつまずいて、突然アウラが倒れた。

 死体はファイが退けているものの、それはどうしても邪魔なものに限られる。

 だから、死体の腕か足にでも引っかかったのだろうと思った。

 アウラの目に振り返るファイが映り、耳にノエルの「大丈夫ですか?」と案じる声が届く。

 その二つに、アウラは恥ずかしげな苦笑を浮かべて「すいません。大丈夫です」と答えた。

 すぐに立ち上がろうとした。

 だが、足首に走る違和感に動きを止めてしまう。

 ひねったのか?

 考えたそれを、アウラはすぐに取り消した。

 痛みはない。床に打ち付けた膝は確かに痛むが、足首から来るのは違う感覚だ。

 疑問と共に垂れ下がったスカートを軽くめくり、違和感を感じる場所を見る。


 ――――息を呑んだ。


 アウラの足首にあったもの。

 それは、水分を吸い尽くされた手。

 劣化したゴムの様な、ボソボソとした感触の手。

 死体が、アウラの足首をがっしりと握っていた。

 虚ろな闇を湛えた眼窩が持ち上がり、じっとアウラを見据えた。


 混乱と恐怖と嫌悪感で、ブワッとアウラの身の毛がよだつ。冷たい汗が滲み出る。

 そんなアウラの変化に気が付いたのか、急いでファイが駆け寄り、腕を掴んで引き上げた。

 スカートに隠れて見えなかった手が、ノエルの目にも映る。

 二回目の息を呑む音。

 ファイの手元で糸が閃く。


 途端、手は手首で切断され、アウラの足首から離れて落ちた。

 ガサッと渇いた音が響くが、それは手が落ちた音だけではない。

 片手を切断された死体――――だけでなく、そこかしこで転がっていた死体が、起き上がり人形のように身を起こした音も含んでいた。


 アウラを自身の背に庇い、慎重に、しかし素早く周りを見回すファイ。

 一、二、三、四……。

 把握出来るだけで、優に十体は超える。だけでなく、まだまだ起き上がり続けている。

 三人の現在地はギャラリーのちょうど真ん中。

 つまり、出口である扉まで、あと半分はあると言う事だ。

 全力で駆け抜ければ数分とかからず到達できるだろうが、この起き上がった死体を掻い潜りながらとなると、少々骨が折れる。

(破壊……が一番楽な方法ですが、さて……)

 血相を変えて走り寄り、身を寄せてきたノエルを見下ろすと、ファイは手の中にある糸の感触を確かめつつ口を開いた。

「……ノエルさん。死体アレらは魔獣と化しました。破壊しても構いませんね?」


 魔獣は生物のむくろに負の要素が蓄積する事で発生するモノ。

 そこには当然、人間の死体も入る。

 腐乱していようが骨であろうが、欠損していようがミイラであろうが関係ない。

 だから、どの国でも埋葬する際には、そうならないよう特別な儀式を経る、ないし特別な加工まじないを施してある物品を、遺体と共に墓へ納める。

 が、ギャラリーここに放置されている大量の死体には、当然の事ながらそんなものは無いわけで。

 付け加えて、〝場″が最悪である。

 発生してしかるべき土壌があるのだから、まあ死体ひとが魔獣になってしまうのも極々自然な事と言えた。


 死体とは言え、人の形をした魔獣モノ

 つい数日前まで生きていて、今なお帰りを待つ家族や知り合いがいるのかも知れない死体モノ

 苦渋の浮かんだ表情で、さぞや逡巡する事だろうと思われたノエルは、だが即答で答えた。


「はい。もちろんです」


 なんの感情も浮かんでいないノエルに、ファイの背後から見ていたアウラは唖然とし、先ほどの手とは別の意味でゾッとした。

 そこに、死体とは言え丁重に扱うよう言っていた、〝聖女″の名に恥じない慈悲深さを湛えていた彼女ノエルが見えなかったからだ。

「……よろしいのですか?」

 アウラの位置からファイの表情は見えない。

 だが、その声色は酷くつまらなそうだった。

「はい。もちろんです」

 同じ言葉を吐くノエル。

「魔獣はこの世の理から外れた存在です。三神教の教えでも、魔獣は一刻も早く処理して、この世から消すべしとあります。そうする事で世界の安寧、秩序は保たれ、魔に囚われた亡骸を解放する事にもなる。そのように教わりました」

「……つまり貴女は、〝三神教の教え″でそうあるから、魔獣を処分する事に肯定する。と言う事ですか?」

「?はい。私は神官ですから。当然です」

「……そうですか」

 疑問符を浮かべながらも、屈託なく言うノエルに、完全に興味を失ったような、投げやりなファイの声がアウラの耳朶じだを叩いた。


 盲信。狂信。

 ふと、アウラの頭に、この二つの単語が過ぎった。


 そんな事はないと、浮かんだ思いを必死に振り払う。

 自己を形作る上で、誰かから、何かから、周囲の環境から影響を受ける事は、多かれ少なかれ誰にだってある。

 第一、彼女ノエルと知り合ってまだ一日も経っていない。自分の知らない一面があったとしても不思議じゃないし、むしろあって当然だ。

 彼女ノエルが、生あるものを尊び重んじているのは、嘘偽らざる本心だと確信を持って言える。

 死体であろうと、極力傷付けたくないと言った言葉にも嘘は感じなかった。

 あの怒りに、表面上の薄っぺらさは無かったと断言出来る。

 でも……と、振り払った思いものが、耳元でとろりと蜜のように囁く。


〝それら全てが、三神教の教えに従っているだけなのだとしたら?″

〝その慈愛も、善性も正義も。意思も意志ですらも。彼女を形作る全てが、三神教の教えに縋ったものであったとしたら?″


 家を支える太く立派な大黒柱が、実はシロアリに喰い尽くされてスカスカになっていた……それと似たような恐怖が、アウラの中に湧き上がる。

 ノエルの特徴的で美しい、銀糸が散っているような浅葱色の瞳。その奥に眠る、微かな狂気を見たような気がして、背筋が凍った。

 慄然りつぜんとする感情に引き摺られるまま、アウラは一歩後ろへ下がろうとした。

 すると。

 アウラの思考を打ち切るように、


「では、私が先頭を行きますので、ノエルさんは真ん中、アウラさんは最後尾でついて来て下さい」


 ファイは、近寄って来ていた死体を両断しながら、そう言った。

 上半身と下半身に別れた死体は、内容物をドサドサと撒き散らした後、哀しげに床を転がり、黒い粒子となって空中に消えていく。

 理から外れた存在である〝魔獣″は、そう成ってしまった時点で、死体を残す事も許されていない。

 文字通りの〝消滅″が、魔獣の末路である。


「アウラさんが最後尾、ですか?」

 消えていった元人には目もくれず、ノエルはキョトンとした顔でファイに訊ねた。

「はい。近付いてくるものは粗方私が処理していくつもりですが、打ち漏らしや新しく成って背後から迫る魔獣もいるでしょう。攻撃魔法の使えるアウラさんには、それらの対処をお願いしたいのです。ノエルさんは補助魔法と、場合によっては回復魔法を私とアウラさんにかけて頂きたい。よろしいですか?」

「もちろんです!身強化ブースト!」

 ハキハキと答えながら、早速身体強化の魔法を、自分を含めて全員にかけたノエルと、神妙な面持ちで頷くアウラ。

「どうぞ、よしなに」

 そう返すと、ファイは一度だけ糸を振り抜き、三人を取り囲み始めていた魔獣の群れを両断して一掃する。

 崩れ落ちていく死体の中、ファイは即座にきびすを返すと、出口に向かって走り始めた。


 横たわる死体を飛び越え、真っ直ぐ、脇目も振らずに三人は駆ける。

 前方から、左右から、時には跳躍して上から襲い来る魔獣元死体

 そんな、目に映る魔獣を鋭い視線で一瞥し、手元の糸を操って次々と機械的に屠っていくファイは、ある意味僥倖だったと、内心胸を撫で下ろしていた。


 クロニカの暗渠は、構造上広大に造られている。

 故に、澱みは常に拡散し、流れていて溜まり辛い。

 だが、ここは違う。

 貯水池のように、澱みがとどまり溜まっていっている。

 せ返ってしまうほど濃密な澱みに満ちている今、これが一体に集約してしまっていたら、恐らくあのヤマアラシ以上の魔獣ものが生まれていただろう。

 自身の今の状況。そしてこのメンバーからして、それに対処するのはかなり厳しい。

 だからこそ、この大量の死体によって、宿る澱みが分散している事に安堵していた。

 見た目が薄気味悪いだけで、どれを見ても下級の範囲から出ない。

 これならば、数が多くても処理可能だ。


 バラバラと、玩具おもちゃの如く乱れ飛ぶ腕や足、首や胴体、干物じみた内臓を見送りながら、ファイはそんな事を考えていた。

 外見はミイラのくせに、異様な速度で走る魔獣。その姿は、さながら飢えた猿のようにも見える。

 先の発言通り、向かって来る魔獣はファイが軒並み倒していってるのだが、発生スピードがそれを上回っているせいか、ノエルやアウラに手が届きそうな場面が幾度かあった。

 アウラは攻撃魔法が使える為、言われた通り、近寄るものは遠慮なく貫いていくが、ノエルはと言うと攻撃魔法は使えないので、仕方なしに障壁魔法を展開して跳ね飛ばしていた。

 さながら、衝突実験に使われるダミー人形の如き有り様である。

 正直、炎系の魔法で焼き払ってしまえば手っ取り早いと思うのだが、それだとこの別荘自体が火災になってしまう可能性がある為、誰も案を出さないし実践もしない状況だ。


 一心不乱に走り続ける。

 出口である扉は目前に迫っていた。

 今や、床に転がっている死体より動いている魔獣の方が多く、津波とまではいかないが、それと似た様相で、魔獣達はファイ達を追い続けていた。

 密度の薄くなった前方を見据え、ファイは扉の形状を把握する。

 入ってきた時と同じ扉。

 鉄枠に囲まれた木製の硬そうな扉。

 先ほどと同じだとするなら、恐らくこの扉にも鍵が掛かっているはず。

 ……と言うか、掛かっていて然るべきだろう。

 何せ、ここはギャラリー。貴重な美術品が無数に所蔵されているのだから。


 ファイは一度、自分達を囲むようにドーム状に糸を張り巡らせると、一気にそれを解放する形で、近くにいた魔獣を一掃する。

 挽き肉よろしく、細切れのバラバラになって肉の山を築く魔獣。

 しかし、魔獣の姿はまだなくならない。後から後から、補充される形で新たに迫ってくる。

 が、一瞬僅かに出来た空白。

 ファイはそれを見逃さず、回収した糸を間髪入れず扉のドアノブ付近に走らせた。

 微かに閃いた糸は、先ほどと同様にノブ付近をくり抜いて破壊する。

 そして、半ば体当たりする形で、扉にぶつかった。


 扉が派手に開かれる。

 勢いがあまりにも良かったせいで、蝶番ちょうつがいの一部が弾け飛んだ。

 元凶を作りだしたファイは一回転し、続く形でノエル、アウラの両者も飛び出す。

 当然、魔獣達も追ってくるだろうと思われたのだが、予想に反して、魔獣達は扉の一歩手前で立ち止まった。

 まるで、見えない壁に阻まれているように。

 空虚な眼窩を、恨めしそうに三人に向けて。


 何故、と思う疑問はすぐに解明された。


 身の丈以上の大きな窓が並ぶ廊下。

 右手に並ぶ、間隔を広くとった扉達は絵画の如く静かで、開く気配は微塵もない。

 照明の無い廊下は暗く、窓の外は嵐。

 相変わらず響いている低い音は大きさを増し、さらに窓を打ち付けている雨音まで加わって、喧しい事この上ない。

 遠くで、空が紫色に煌めき、少しして重い音が降ってきた。雷だ。

 暗闇に沈んだ廊下の果てで、蒼碧の光が淡く漏れていた。


 そこに漂う、常軌を逸した重く濃い魔力の圧。

 この先に進めば、暴走し狂乱し死ぬ。

 澱みによって発生した命とは言え、生命には変わりない。魔獣達はこの圧に臆したのだろう。

 これまで特に何も感じていなかったアウラとノエルですら、尋常でない濃度の魔力に冷や汗を流している。

いわんや、暗渠にいた時から魔力濃度を敏感に感じ取っていたファイなど、顔を顰めて思わず咳き込んでしまったほどだ。


「なん……です?これは……一体……」

 混乱のあまり、主語を欠いた呟きを漏らすノエル。アウラも、口にはしないが思いは同じ。

「……追ってこないのであれば好都合です。急ぎましょう」

 大方の状況を把握しているであろうファイは、確実に聞こえていたはずのその問いに答えることはなく、ただ静かに二人を急かした。

「でも……」

「行けば分かります」

 言い募るノエルに、それでもファイはピシャリと言い捨てた。

 そして、当惑する二人を置いて走り出す。

 一瞬困ったように顔を見合わせたノエルとアウラだが、結局はファイの言を呑み込むと、後を追って駆け出した。


 この別荘はどうやらコの字型の建物らしく、窓の向こう側には、ここと同じ長い建造物があった。

 反対側の建物にも光は灯っておらず、死んだようにひたすら暗闇が落ちている。

 そこから目を移して峠を見れば、黒い塊となって生い茂る木々の合間から、点々と揺れる暖かく小さな光が幾つも見えた。

 それが、衛士長の率いる騎士団である事は明白だ。

 まだまだ距離があるが、数十分もすればここへ辿り着くだろう。

 余計な邪魔要素が入るのは好ましくない。

 ファイはそう考え、走るスピードを上げた。

 追随する二人も、尽きない疑問を抱きつつ自然と足を速める。


 白いタイルの床を鳴らして、生きている音を奏でる三人。

 蒼碧の色は近付くにつれて、大きく強くなる。

 音も同様。胃の底に響いていた重低音おとは、頭をガンガンと打ち鳴らすほどのものに成長していた。

 重低音によって発生した微振動で、床に積もった埃やゴミが小さく踊っている。


 ほどなくして到着した扉。

 それほど厚みのない、しかし装飾だけは立派な扉を、ファイは思い切り蹴破った。

 破砕音と共に蝶番が上下共に外れ、扉は押し倒されるように反対側へ落ちていく。

 焼け付くような光が、暗闇に慣れた目を刺激するのと、乱暴に倒された扉が床にぶち当たって、埃と一緒に苦情の音を訴えたのは同時だった。


 そこは玄関ホールだった場所。

 吹き抜けの高い天井には豪華なシャンデリア。

 四方の壁には、幾つも取り付けられた、これまた豪華な燭台。

 所々ひび割れているが、立派な大理石の床。

 真上にある大きな天窓。

 現在は嵐である為、黒々とした闇が広がっているが、本来なら綺麗な星々や月が眺められるのだろう。

 貴族の別荘に相応しい、品と威厳を保った場所である。


 だが、その玄関ホールには、似つかわしくない物が数々並んでいた。

 巨大な蒸留機に似た器具はホールの中央に陣取り、それを囲むようにして、大人の背丈ほどはある無数のビーカーに似た容器があった。

 ビーカーの上部にはくだが伸びていて、蒸留機に繋がっている。

 ビーカー内には、元は人間だった干物が横たわっていた。

 蒸留機の精製したものが溜まる場所では、吸い上げられたと思しき液体が、妖しげに蒼く発光して揺蕩たゆたっている。

 これが、扉から漏れていた光であり、今現在このホールを照らしている光だ。

 壁の燭台にも火は灯っているが、液体の光に呑まれてしまい、その存在感は憐れなほど薄い。

 正直、点けている意味はあるのかと思うが、まあ消すのも面倒だったのだろう。


「――――え」


 落とすように声を零したのはアウラだ。

 何も、この空間ホールの惨状に驚いて声を上げたわけではない。

 こちらを見て驚愕する藍色の少女を見たからでも、その隣に立つバルト男爵を見たからでもない。

 まして、ホールの隅に作り付けられた、この場に不相応で無骨な檻を見たからでも、もちろんない。

 檻の中で横たわったまま動かない大勢の人。

 その中に埋もれる様にしていたホープを見て、心胆凍えるものが走ったのは確かだが、決定打ではない。

 では何が、と問われれば、器具類の前に立つ人物に見覚えがあったのだ。

 突然現れた自分達を、目を丸くして見ている、藍色の髪と赤い瞳を持つ、三十代後半ぐらいの男。

 何日もまともに食べていないのか、酷く痩せた身体に、土色の薄いジャケットと少しサイズの大きい服を着ている。


 アウラ一家に借金を押し付けて蒸発した、アウラの叔父が、そこに立っていた。










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