第26話 閑話Ⅰ 966の追憶 後編


 広々とした回廊を歩きながら、フィンヴル魔皇国の王である父、イヴル・ツェペリオンは、持っている本に目を落とした。

「建国誌に初級兵法、地図に辞書に、魔法学書と考古学書?なんだ?この雑多と言うか、統一性の無い本共は」

「ヤト兄上の助言でして」

「ヤトの?」

「はい。父上の役に立つには、知識もつけた方が良い、と」

「……さっきから気になってたんだが、お前、俺の子供?会った事あったか?」

「あ、はい。一応、先日……空中回廊にて……」

 尻すぼみになって消える言葉。

 なんとなくそんな気はしていたが、父の中で自分が全く覚えられていなかった事に、まあまあのショックを受ける。

 自然と視線も床へと向く中、父の思案げな声色が耳に届いた。

「空中回廊……。そう言えばサラに会った時、そんな話をしたような……」


 サラ、と言うのは母だ。

 〝銀狼妃″と呼ばれており、二千近くいる妃妾ひしょう達の中では若輩なれど、一癖も二癖もある後宮を纏め上げ、その一切を取り仕切っている。

 男顔負けに肝の据わった……もとい物怖じしない女傑ひとである。

 父が、正妃は取らないと大々的に明言しているものの、実質正妃、あるいは正妃に最も近しいともくされている人物でもある。

 本人は、そんなのどうでもいいと一笑に付していたが、そうは問屋が卸さないのが世の常と言うべきか、色々と話題に上る事が多い。

 ともあれ、あの時、父と母は自分の紹介もそこそこに、仕事の話で幾らか会話を交わしていた。

 だが、自分は父と話す事は叶わなかった。

 緊張しすぎて、会話する、と言う行動がすっぽりと抜け落ちてしまっていたせいだ。

 父が自分の事を覚えていないのも、それが原因だろう。


 自分は俯いていた顔を上げると、足を止めて改めて父に向き直った。

「改めまして、自分は貴方様の966番目の子。クロムと申します。どうぞお見知りおきを」

 左手を後ろ腰に、右手を心臓のある胸の上に置いて、深々と腰を折り一礼する。

「ああ。……で、この本、どこに持って行けばいいんだ?」

 少し先で立ち止まっていた父から、そう短く返事が返ってきた瞬間、はたと気が付いた。

 父に、大量の本を持たせたままだった事に。

「あっ!!し、失礼いたしました!陛下に持たせたままで、なんて不敬を……」

 言いながら駆け寄り、父から本を受け取るべく手を伸ばす。

 が、父は自分に本を渡すことなく、そのまま歩き始めた。

「いや、それは別にいいんだが。お前が持つよりも、俺が運んだ方が早く進めるし」

「で、ですが……」

「いいからいいから。まさか、魔王が雑用してるだなんて、思いもよらないだろうからな。良い隠れみのになる」

 後半、ボソッと呟いた言葉に、思わず首を傾げてしまう。

「は?」

「いやいや。で?お前の部屋か?それとも別の落ち着ける所か?どこだ?」

「あ、えっと庭に……」

「庭……。空中庭園か?」


 雲の遥か上に浮かぶ魔王城は、ざっと三つの階層に別れている。

 と言っても、単純なフロアではなく、独立する層として成り立っている不思議な城だ。

 層が、それぞれ亜空間だか別次元だかにあるとか、隔絶空間を挟んでいるとか、色々憶測が飛び交っているが、詳しい事は城主である父以外分からないのが実情である。

 それ故か、一層から見える二層と三層は透けており、蜃気楼の様な様相をていしていた。

 面積だけで言えば、一層が最も広く、三層が一番小さい、所謂いわゆるピラミッド型に似た形状の魔王城だが、正直どの層も縦にしろ横にしろ、あまりにも広大な敷地面積を有している為、〝城″と言うよりは〝ちょっとした大陸″と言った方が適切だろう。

 それでも〝城″と呼んでいるのは、遠目からは巨大な城が浮かんでいるようにしか見えないからだ。


 そんな魔王城である為、各階層に階段等の直接的な繋がりは無く、ただ一つだけ、転移用の円筒形のかごがあるのみ。

 転移籠ケージ以外での層を跨ぐ移動方法は存在せず、例え頭上に見えてはいても、直接行き来する事は叶わない。

 とは言え、各層間の移動以外は転移魔法が使えるので、そこまで不便でもなかったりする。

 唯一、城主であり魔王である父だけが、様々な制限に引っかからずに城内を自由に移動する事が出来る。

 当然、移動の制約も例外ではなく、転移魔法で自在に飛ぶ事が可能。一層から三層へ一気に行く事も朝飯前だ。


 さっきまでいた庭園と第二図書館、そして今いるここは第一階層。

 一層は民衆の声を聞く窓口にもなっていて、いわば役所の様なもの。

 巨大ではあるが、外観は一般的な洋館造りで、基本的に誰にでも解放されているエリアだ。

 職員用に大きな食堂も併設されており、一般市民にも広く開かれている為、官民問わずちょっとした憩いの場になっている。

 料理の質が良いのはもちろんだが、レパートリーが豊富なのと、カフェっぽいお洒落しゃれな内装も人気の秘訣だろう。


 第二階層は、主に政治の中枢区域。

 立ち入れるのは関係者、つまり政府要人と城に住んでいる者に限られる。

 謁見の間や、父の執務室もここだ。

 外観は、有り体に言えば白亜の城。

 全三層の中で最も大きい構造体で、外から見えているのも、この二層の姿だ。

 第一図書館はここの隅っこにある。


 最上位に位置する第三階層は、王や王族、宰相、丞相、各機関の長が住む居住区域であり、数多くのが住まう後宮もここに造られていた。

 居住区と言うだけあって、その外観は館や城と言うよりも、どちらかと言えば住宅地だろうか。

 広く平べったい敷地に、それぞれの住宅がかなりの間隔を開けて建てられてある。

 例外的なのは父の住まう本宮だ。

 〝宮″と銘打っているものの、それはさながら尖塔を集めた様な古城で、見るだけで圧倒されるほどの威容を湛えている。

 中に入れるのは父だけであり、他の者、例え妃や王族、宰相であろうとも、都度つど父から許可を得なければ足を踏み入れる事は出来ない。

 区画の内訳としては、政府要人の住宅地が前、後宮が中ほど、本宮が最奥と言った位置づけになる。


 父が言っている空中庭園は、後宮と本宮の間に造られた庭で、普段は王と王族しか入れないが、かなり風光明媚な場所である為、何か特別な礼典、祭典があると度々使われていた。

 故に、王族である自分が使うとしたら、普通は空中庭園だと、父はそう考えたのだろう。

 だから、自分は首を振った。


「いえ。ヤト兄上が建てた東屋のある、午睡ごすい庭園です」

「午睡庭園……。一層中央にある庭園か」

「はい」


 城にある庭園は合計三つ。

 先に言った、三階層にある〝空中庭園″。

 一階層、北の端にある〝湖上庭園″。

 同じく一層、中央にある〝午睡ごすい庭園″。

 午睡庭園は文字通り、息抜き、昼寝に最適な庭園で、城の中で最も大きく長閑のどかな庭園だ。


「ん。何やら嫌な予感。もしかして、ヤトもそこにいるのか?」

「はい。借りた本を元に、色々と教えて下さるそうで。有難い話です」

「そ、そうか。お前も、襲われないように気をつけろよ」

「?はい。確かに兄は、倫理観が崩壊した性欲の化身ですが、決して無理強いはしない真摯な方ですので、心配はご無用かと」

「……なんか、盛大な矛盾を聞いた気がするが……まあいいか」


 和やかに会話をしつつ、階段を下りて、ヤト兄上の待つ庭園へ向かう。

 正直、父上には畏怖の念しか覚えておらず、こうして雑談交じりの会話が出来るとは夢にも思っていなかった。

 まして、意図してなのか、それともこちらが素なのか、砕けた口調のおかげで親しみすら覚える。

 全魔族を統べる王に対して、これは不敬で無礼な考えなのだろうが、少なくとも自分はとても嬉しかった。

 一言、言葉を交わすだけで、自分の中にある父の印象が、とんでもない速さで上昇していく。

 もちろん、良い方へだ。

 真性のカリスマ、とはこういう事なのかも知れない。

 我ながら単純だとは思うが、それでも思わず笑みが零れ、浮足立つ。

 尻尾もパタパタと軽快に揺れる。


 そこで、ふと気が付いた。

「あの、父上?」

「ん?」

僭越せんえつながら今の時刻、父上は謁見の間にてご公務の真っ最中では?」

「んぐふっ!」

「ち、父上!?」

 立ち止まり、突然ゴッホゴッホと咳き込み始めた父に驚いて、直前まで抱いていた疑問が吹っ飛んで行く。

 ひとしきりせた後、父は取り繕うように、一度大きく咳払いした。

「だ、大丈夫ですか?父上」

「問題ない。ちょっと気管に異物が入っただけだ。で、えーっと、公務な。公務……。うん」

 目を閉じ、少しだけ沈黙。

 数秒後、ふっと目を開けた父は、おもむろに頷いた。

 そして短く答える。

「問題ない」

「え、平気、なのですか?」

「ああ。今日のは大した事じゃない。ただの面接だ」

「面接……ですか?」

「そ。ったく……。これ以上嫁なんていらんってのに、サラまで呼びやがって……」

 ブツブツ呟きながら、再び歩き出した父について、庭園までの回廊を進む。


 雰囲気的に、あまり深く突っ込んで聞くのははばかられた為、とりあえず一番大事な事を訊ねてみる。

 答えてくれるかは分からないが、ダメ元でも聞いてみるべきだろう。

「えっと……父上。レックス宰相は、父上が一階層こちらにいらっしゃる事をご存知で?」

 ひくっと、父の顔が引き攣った気がした。

 が、どうやらそれは気のせいでも見間違いでもなかったらしく、父の顔が渋く歪んでいく。

 そして、そのままゆっくりと口を開いた。

「レ……レックスの名前は出すな。蕁麻疹じんましんが出る……」

「蕁麻疹って……。父上、本当に大丈夫なんですか?」

 この〝大丈夫″には、二通りの意味を含ませてある。

 一つは、父の体調をおもんぱかる意味。

 もう一つは、本当にここにいて大丈夫なのか、という意味。

 父は、その両方の意味に気付いているだろうに、

「大丈夫だって!」

 と打ち切る様に答えた。


 思わず、父の顔をじっと見つめてしまう。

 その視線が耐え難かったのか、つーっと目線が明後日の方向に向いていく父。

 心なしか、冷や汗をかいているようにも見える。

 どうしよう……。一応、宰相に知らせるべきだろうか……。

 そんな事を考えていると、やがて午睡庭園入口に到着した。

「ほれほれ!到着到着!あー、本が重いなあー!さっさと降ろしてえなあー!」


 殊更ことさら声を大にして言う父に、思わない所がなかった訳ではないが、それ以上突っ込む事は出来ず、自分はただ黙って庭園へと足を踏み入れた。


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 父と共に庭園の中心に向かって進む事しばらく。

 遠くに、目的の白い東屋ガゼボが見えてきた。

 人影が二つ見える。

 遠目からでも、ヤト兄上とイオナだと分かった。

 父も気付いたらしく、視線は兄達に向けたまま、隣を行く自分に訊ねてきた。

「あの小っこいのは?」

「妹のイオナです。幼すぎる為、父上にはまだお目通りが叶っていません」

「イオナ……。1007番目か?」

「ご推察の通りです」

 そう返事をすると、近づいて来る自分達を察知したのか、兄が椅子に腰かけたまま、こちらに向かって大きく手を振った。


 辿り着いた東屋で、兄はニコニコと微笑みながら自分達を出迎えた。

「おかえりなさい。クロムちゃん!」

「はっ。ただいま戻りました」

「パパも。ようこそ、あたしの東屋ガゼボへ」

 兄の発言に、思わず驚く。

 今の父は、フードをかなり目深に被っているので、顔の造形などさっぱり分からない。

 よく気付けたものだ。

 いや、もしかしたら兄は始めから、この状況になる事を予期していたのかもしれない。

 いささか強引に、第二図書館へ行く事を勧めたのも、父がそこで息抜きしているのを知っていたからだとすれば合点がいく。

 まあ、そんな自分の予想はともかくとして。

 父は持っていた本の山をテーブルの上に置くと、悠然とフードを外した。

 さらりと黒髪が零れる。

「さすがに、お前にはバレるか」

「んふふっ。当たり前よ!パパはあたしの大事な愛しい人なんだから!」

「う~ん。背筋が凍る」

「あ~ら!失礼しちゃう!性的な意味も込めてるけど、絶大な親愛を込めた言葉なのに!」

「その性的な意味が怖いんだよ」


 そんな二人の軽口を聞いていると、不意に服の裾が引っ張られた。

 見れば、引いたのはイオナで、自分に対してコソッと囁く。

「……にいに。だれ?」

 言葉足らずだが、父の事を聞いているのは間違いない。

「父上だよ」

「ちち?」

「お父様だ」

「とうさ……」

 じーっと、穴が空きそうなほどの熱視線を父に送る妹。

 イオナの視線に気が付いたのか、父が兄から妹へ目を向ける。


 と、イオナは椅子からピョンッと飛び降りた。

 そして、止める間もなく突然猛スピードで走り出し、そのまま父の足に激突して抱き着いた。

 あらまあ!と兄が驚いている。

 無論、自分も。

 いわんや父もである。

 唯一イオナだけが、キラキラした瞳で父を見上げた。

「とうさ?」

「ん?ま、まあな……」

「とうさ、きれい」

「お、おう……。ストレートな誉め言葉、どうも……」

 おもむろにスンスンと父の匂いを嗅ぐ妹。

「いいにおい」

「それは……返答に困る……」

 若干引き気味の父。

「おいしそう」

「え。捕食対象としてなの?」

「イオナちゃん。クロムちゃんもだけど、半分は銀狼族の血だからね~。イオナちゃんは幼い分、本能が色濃く現れてるのかも」

 苦笑交じりに説明してくる兄に、思わずと言った様子で、父は嘆息した。

「勘弁してくれ……」


「さあさあ!立ち話もなんだし、とりあえず二人とも座りなさいな!」

「あ、はい」

 兄に促され、先ほどまで座っていた席に着く。

 父も、開いている手近な席に座ったのだが、問題は足に張り付いていたイオナ。

 離れる、という事は無く、なんとそのままよじ登って、父の上に座ってしまった。

 いくら親子とは言え、無礼極まりない行為。

 軽く目眩めまいに襲われる。


「イ、イオナ。そこは駄目だ。降りなさい」

 ブンブンと首を振る妹。

「自分の上になら座ってもいいから」

 イヤイヤと首を振る妹。

「聞き分けの無い事をやってないで、いいから降りなさい」

「やっ!」

 ぷいっと顔を背ける妹。

 自分の顔が、どんどん引き攣っていってるのが分かる。

「……兄の言う事が聞けないのか?」

 イラつく内心を反映してか、自然と声も重く低くなる。

 そんな自分の変化を察して、妹は父の身体にしがみついた。

「やあっ!」

 絶対離れない、とばかりに強く服を握り締めている。


 自分と妹のやり取りを見て、兄はニコニコと微笑ましげに眺めているだけで、手助けや口出しはしてこない。

 逆に父は、うんざりした様子で妹を見下ろしているが、無理に引き剥がす気配は無く、むしろ成り行きに任せて放置している状況だ。


「イオナ。頼むから、父上から降りなさい」

「やあだっ!」

 妹へなだめるように伸ばした手は、パシンッと軽い音を立てて払われた。

 瞬間、プツンと、自分の中にある理性の糸が切れる音が聞こえた。

「イオナッ!」

「あっ!クロムちゃん駄目!」

 制止する兄の声を無視して、妹の両脇に手を突っ込み、引き剥がすべく力を込めると、イオナも感情の糸が切れたのだろう。

「やああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁあっ!!」

 思いっきり泣き喚かれた。

 正に怪獣。


 耳をつんざく、あまりにも大きい声量に、たまらず顔をしかめて手を離す。

 父も兄も、耳に手を当てて渋い顔をしている。

「やだやだやだやだやだやだ!やあだあぁっ!!ぶまあぁぁぁぁああんっっ!!」

 そして、妹は盛大に泣きじゃくりながら、より一層、力強く父に抱き着いた。

 泣きたいのはこっちだと、思わず自分も涙ぐんでしまう。

 そんな自分と妹を見て、父は重いため息を吐いた。

「もういい。このままで」

「ですが……」

「これ以上ギャン泣きされたら堪らん。満足したら降りるだろうから放っとけ」

「……はい」

 不承不承頷く。


 と、妹がパッと父をあおいだ。

「ここ、いい?」

「満足したら降りろよ」

 仏頂面で返す父。

 その言葉を聞いた瞬間、妹の表情は弾けるように晴れ渡った。

 さっきの絶叫が嘘のようである。

 むうっと、口をへの字にして不満をおもてに出していると、場の空気を入れ替える様に、パンパンッと兄が手を鳴らした。


「はいはい!喧嘩はお終い!さ、何を借りてきたのかしら~?」

 言いながら、テーブルに積まれた本を指でなぞりつつ眺める兄。

「ん~……結構持ってきたのね。クロムちゃんは何から始めたい?」

 そう言われて、つい考え込んでしまう。

 必要と思った物を選んだのは確かだが、特にどれから読むかは決めていなかったからだ。


 今、この場には父上と兄上がいる。

 父上は……分からないが、兄上ならば質問をすれば大概の事は教えてくれるはず。

 であるならば、より身になる本を選択した方がいいだろう。

 兵法書、魔法学、考古学。

 この中から選ぶとしたら……。


「……では、魔法学から」


 こうして、兄上を講師に据えた、ちょっとした勉強会がスタートした。


 魔法の仕組みは大体理解している。

 それでも魔法学を選んだのは、使う魔法の幅を持たせたかったのと、色々と確認したい事があったから。

 魔法学の本を開き、ペラペラと読み進めながら、都度つど兄に質問をしていく。


「魔法を使うには、魔力、想像力、音の三大要素が必須とありますが、優先順位等はあるんですか?」

「まんま。その順番通りよ。そもそも魔力が無くっちゃ魔法なんて使えないし、想像力が上手く働かなければ魔法は形にならない。音は、その想像力をより強固にする為の要素と共に、自らの魔力を外に伝える手段。ただ……」

 途中、口篭った兄は、頬杖を突きながら隣で暇そうに建国誌をめくり、眺めていた父に目を向けた。

「……この建国誌、何刷り目だ?なんか新解釈があるんだが……。改訂するなら俺を通せと何度言ったら分かるんだ……」

 渋い顔で呟く父。

 どうやら、自分の中の記憶と記載されている内容に、齟齬そごがあるらしい。

 そんな父に、兄は声をかける。

「ねえ、パパ」

「ん?」

 建国誌に目を落としたまま短く返す。

 本来なら、その雑な対応に気を悪くしてもおかしくないが、慣れているのか、兄は微塵も気にした風もなく続けた。

「魔法を使う際の〝音″って、自分から発せられるものならいいのよね?」

「ん。そうだな」

「じゃあ例えば、その〝音″が魔法名じゃなくても問題ないのかしら?」

想像力イメージがしっかり固まっていれば問題ない」

「え、そうなのですか?」

 予想外の答えに、思わず口を挟んでしまう。

 すると、父は建国誌から視線を上げ、自分を見た。


「ヤトの言った通り、〝音″は、あくまで想像力イメージの補助と、自らに内包する魔力を外部に伝える手段だ。イメージが揺るがないなら、いちいち魔法名を言う必要はない。故に、極論を言えば、指を鳴らす音でも足を鳴らす音でも、舌打ちでも構わん。〝自身から″、魔力の篭った音を出す事が重要なんだ」


 言い終わると、父は再び建国誌を捲り、確認する作業に戻っていった。

 膝の上にいるイオナは、構ってくれない事がつまらないのか、父上の顔を見上げて凝視したり、それに飽きると建国誌を覗き込んで手で叩いたりしている。

 明らかに本を読むのに邪魔だろうに、父は特に怒る事もせずされるがままだ。

 いや、微かに顔をしかめているから、邪魔だとは思っているのだろう。


 やはりイオナを引き剥がすべきか、と考えていると、

「それでも、あたし達が魔法名を言うのは、味方への周知も込めての事。敵はともかく、同士討ちフレンドリーファイアなんてご免でしょ?」

 そうヤト兄上が捕捉の説明を付け足した。

「なるほど、確かに。では、一対一の状況であれば、むしろ魔法名を言わない方が有利になりうる事もある、と考えても?」

「ええ。まあ、言っても言わなくても、せいぜい数秒の差しか無いから、そう難しく考えなくても……。……いえ、実力が拮抗していれば、その数秒が生死を分ける場合もある……。であれば、単独戦闘の時は言わない方が生存率が上がると考えるべきかしら……」

 途中から、兄の言葉は自分ではなく、自身の内側へと向けられた。

 自問自答と言うべきか、視線は自分に向いているが、見ていないのが分かる。

「魔法抵抗は来ると分かっているものに対して強く働くから、異常系統の魔法ならばより宣言しない方が……ああ、でも想像力イメージ補強の観点から見れば、やっぱり言った方が威力が上がるか……。……ううん。練度を上げれば或いは。となれば、もしかすると……」

 そして、自分を置いたまま、兄は自らの思考の渦に呑まれていった。

 俯き、視線を落とし、片手で自らの口を覆っている。

 真剣な面持ちの兄を邪魔するのは、気が引けてしまって声をかける事が出来ない。

 どうしよう、となすすべもなく黙りこくっていると、父から嘆息が漏れた。


「ヤト。自分から教師役を買って出ておいて、生徒クロムを放置するのは褒められた事じゃないぞ」

 気だるげな上に呆れた口調だが、そういさめてくれる。

 途端我に返ったのか、パッと顔を上げる兄上。

「あらヤダ!あたしったら!ごめんなさいね?クロムちゃん」

「あ、い、いえ!」

 ブンブンと首を振る。

「じゃあ、続きといきましょうか。他に何か分からない事、ある?」

「では、自己付与型の属性魔法について……」

 そうして、改めて授業は再開した。


 それからしばらくして。

 魔法学の本を半分近くまで消化した辺りで、不意に静かな寝息が耳に届いた。


 音のする方向へ目を向ければ、父にコアラの様に抱き着いたまま、よだれを垂らして寝ているイオナの姿が映る。

「あらあら。イオナちゃん寝ちゃったのね」

 兄が表情をほころばせて零す。

 それとは反対に、父は渋い顔をしていた。

「涎が服に染み込んで気持ち悪い……」

「あ、申し訳ございません!預かります!」

 ボソッと呟かれた言葉に、慌ててそう言って手を伸ばしたが、父はゆるやかに首を振って拒否した。

「いや、お前は勉強中だろ?コイツがいては邪魔だろう」

「で、ですが……」

「と言うわけで、ヤトにパス」

 言う否や、父はイオナの脇に手を突っ込んで持ち上げ、そのまま隣にいた兄へと手渡した。

「はいはい!お兄ちゃんにお任せあれ~!」

 兄も父のその行動を予測していたのか、ニコニコと笑ったまましっかりと受け取る。

 ぐてっとして起きる気配のないイオナ。

 よほど深く寝入っているらしい。

「あ、兄う」

「いいからいいから!さ、クロムちゃんは勉強を続けなさいな」

 申し訳なさから、やはりこちらで預かりますと言おうとしたのだが、それは途中で兄に遮られた。

「イオナちゃん軽いし、気にしないでいいから、ね?」

 そこまで言われては、それ以上言葉を続ける事が出来ず、結局イオナは兄に預けたまま、自分は再び勉強へと戻った。


 それから少しして。

「ところで、パパ?」

 不意に兄が口を開いた。

「ん~?」

 訂正が必要と思ったページに、小さく折り目を付けていた父が、兄に目を向ける。

「ちょ~っと聞き忘れてたんだけど~……パパ、ちゃんとレックス叔父上に許可を貰って息抜きしているのよね?」

 思わず意識が二人に向く。

 兄がした問いは、東屋ここへ戻る途中、自分もした質問だ。

 父は大丈夫と言っていたが、どうにも気になる。

 視線は本へ落としつつも、自然と聞き耳が立ってしまう。

 兄は、そんな自分の様子に気が付いているらしく、薄く苦笑しながらも父に問いを重ねた。

「どうなの?後であたしの方に飛び火しても困るのだけど。叔父上、キレると怖いわよ~?」

 父は、パタンッと建国誌を閉じると、テーブルの上に置かれていた本の山の頂上を更新してから、顔を兄に向ける。

「問題ない。今のところは」

 自分の時と同じ答え。


 兄はそっと目をすがめて父を見返した。

「パパ。質問には正確に答えて。あたし、宰相レックスの許可は取ってあるのか、って聞いたのよ?」

 低く沈んだ声。詰問と言っても過言ではない。

 すると、父の雰囲気が一変した。

 それまでの、親しみやすい砕けたものから、魔族を統べるに相応しい〝王″としてのソレへ。

 不快そうに目を細め、

「……私が、〝問題ない″と言っている。それでは不服か?」

 冷たく凍った声色で、兄へ問い返す。

 重い重い、圧の篭った視線と声に、それでも兄はひるむ事なく、たじろぐ事も無く真っ向から受け止め、毅然きぜんと口を開いた。

「当然でございます。今現在、休暇中の我が身なれど、我が役職は宰相補佐官。如何に我らが主とは言え、見過ごすには些か無理がございましょう。お答え願います。宰相レックス・サラマンディーズの許可は得ておいでか?」

 普段の女性らしい言葉遣いは鳴りを潜め、宰相補佐官としてのかしこまった口調で訊ねる兄に、父は沈黙を持って答えた。


 紫電と宵闇の瞳がぶつかる。


 ビリビリと空気が震え、張り詰める緊張感に、思わず本を捲る手が止まり、畏縮いしゅくしてしまう。

 息をするのも躊躇ためらわれる中、じわりと冷や汗が頬を滑り落ち、手にもじっとりと滲む。

 に、ここまではっきりと意見をぶつける事が出来るのは、魔族多しと言えども、宰相レックスと母、そしてこの兄ぐらいなものだ。

 逆鱗に触れないか、はたからすると気が気でない。

 一方、その神経の図太さは一体誰に似たのか、こんな一触即発な雰囲気の中で、妹は起きる気配も無く兄の腕の中でスヤスヤと寝ていた。


 そうして、父と兄は暫く睨み合っていたのだが、意外にも先に折れたのは父の方だった。

 大きく深いため息を吐いた後、しんどそうに口を開く。

「許可は……取っていない」

「まあ、やっぱり!」

 途端、元の口調に戻る兄。

 一気に弛緩した空気に、つい自分も安堵の息を吐き出していると、父は重ねて続けた。

「が、言った通り今は問題ない」

「その心は?」

「新しく考案した魔法の試作中でな。それが切れない限りは平気、と言う意味だ。切れそうになったら戻る」

 兄がキョトンと目を丸くする。


「新しく考案……パパが?」

「ああ。暇潰しがてら作ってみたら、ことの外出来が良くてな。ちょっと試してるんだ」

「へ~?どんな魔法なの?」

「名称は〝鏡影レイシー″。文字通り、鏡に映した様にそっくりな自分を作り出す魔法だ。気配から魔力の質までほぼ正確に写し取る上に、記憶の共有も可能。鏡影が倒されたとしても、使用者本体に一切ダメージは無い。所詮は複製かげだからな。持続時間に若干の難があるが、これをクリアすれば諜報や撹乱かくらん、伝令用としても使えるはずだ」

 それを聞いた兄の顔が、見るからに輝く。

 戦術家、戦略家としても名高い兄の頭に幾通りかの新しいプランが浮かんだからだろう。

 そういう方面にうとい自分であっても、この魔法がどれだけ選択肢の幅を広げるかは、想像にかたくない。

「凄いわ!もしも実用化されれば、諜報員とか斥候せっこうも必要なくなるんじゃないかしら!」

 弾んだ声で言う兄に、それでも父は曇った顔でゆっくりと頭を振った。

「そう簡単な話じゃない。これは言った通り、自らを精緻せいちに写し取った分身だ。当然、作り上げるにはかなり複雑で細かいイメージが要求される。消費する魔力量も多いから、高位魔法以上に準ずる予定だ。使える者は特殊な訓練を積んだ一握り、或いはそういう方面に秀でた才能ある者に限られるだろうな。ついでに、この魔法の有効範囲は一都市程度。頑張ればもう少し伸ばせなくもないが、どのみち遠距離は無理だ」

「それでも、戦術の幅が広がるのは確かじゃない!ねえパパ、ここでその新魔法、見せてくれないかしら!」


 兄の唐突な提案に、父はいまいち乗り気じゃないらしく、困惑と煩わしさを足して割った様な表情を浮かべた。

「は?何故?」

 もちろん、口調にもそれがしっかりと出ていたのだが、ここで引き下がる兄ではないのを、自分はよく知っている。

 多分、後々の為にどの程度のものか把握しておきたいのだろう。

 それに応じて、組み込める戦術も変わってくるのだから。

 ……いや、ただの好奇心という可能性もないでもないが……まあとにかく。その様な思惑があるに違いないのだ。

 すると、まるで自分の考えを読んだかのように、兄は続けた。

「いいじゃない!どれほどのものか確かめておきたいのよ!それとも、その魔法は一体が限界なのかしら?だったら無理強いはしないけれど……」

「いや……。記憶の共有化を付与しない、外見と気配のみの簡素なものでいいなら、同時に五、六体は作れるが……」

「じゃあじゃあ!お願いっ!」

 パンッと手を合わせて、拝む様に頼み込む兄。

 どうしてここまで?解せない、と父の顔面が語っていたが、兄に引き下がる様子が見受けられなかった事から、最終的に、

「……分かった」

 そう渋々ながらも頷いて了承した。

 もはや勉強どころでない自分も、自然と食い入るように父を見てしまう。

 完成はしていないものの、新しい魔法と言うのは、それだけで強い興味の対象になる。

 まして、今はちょうど魔法学を学んでいる最中。

 気を取られるな、と言う方が無理な話である。


 父は椅子に座ったまま、身体を僅かにずらして兄との境に目を向ける。

 暫し、集中する様に目を閉じた父だったが、やがてふっと開けると、

鏡影レイシー

 おもむろにその名を唱えた。


 瞬間、父の強烈な魔力の波動が広がるが、すぐに集束を始めると、父と兄の狭間に一体の鏡影分身を作り上げる。

 足元から始まり、頭頂部に至るまでにかかった時間は三秒かかるかかからないか。

 父は高位魔法に属すると言っていたが、あまりにもあっさりと出来上がっていく光景は、そのような難易度を微塵にも抱かせないので、本当に高位魔法か少し疑ってしまう。

 まあ、何はともあれ、あっという間に仕上がった鏡影だが、これが、自分も兄も予想だにしていない姿なりをしていた。


 昏い夜色の髪と紫の瞳は同じでも、その外見年齢が現在の父よりも十歳ほど下だったのだ。

 髪は短く、着ている服も濃灰色のシャツと黒い短パン、黒いショートブーツだけの簡素なもの。

 父の面影が確かにある事から、恐らくは少年時代の姿なのだろう。

 まごう事なき少年の姿でありながら、それでも今と同じく、異常な美しさを湛えていた。


 絶句して少年を凝視する兄。

 故に、先に口を開いたのは自分である。

「ち、父上。これが……その鏡影、ですか?」

 思わず確認せずにはいられない。

 聞いていた話では、自分と瓜二つのものが出来上がるはず。

 なのに、目の前にあるのは少年。

 訊ねるな、と言う方が無理と言うもの。

 自分の問いに、父は軽く首肯を返して、何故少年姿なのかを説明してくれた。

「そ。これが鏡影。少年期なのは、この方が消費魔力が少なくて済むから。見せるだけならこれで充分だろ?」

「ふふ。よろしくね~!」

 ニコッと笑って、鏡影少年の父が手を振る。

「え!?しゃ、喋っ!?」

「そりゃ喋るだろ。口も声帯もあるんだから」

「伝令役としても使えるって言ったでしょ~?」

 交互に語りかけてくる父達に、少しばかり目眩めまいがする。

「今こいつには、現時点での俺の記憶が引き継がれている。共有化はしていないから、ここから先こいつが経験した事はこちらには伝わらない。逆もまたしかりだ」

「いえ~い!とは言っても、記憶や自我は変わらないから、僕はイヴル・ツェペリオンに違いないよ!ちなみに、現在の設定だと魔法は使えません!」

「持続時間は現段階で三時間程度。それを過ぎると自動的に霧散する」

「あとは~、殺されたり、本体そっちで魔法を解除したら当然消えるね!時間限定の超レアなイヴルをお楽しみ下さ~い!」

 淡々と説明する父と、いやにハイテンションでブンブンと手を振りながら言葉を続ける少年父。

 何故こんなにも性格が違うのか、聞いてみたいと思ったのはまあ当然の事で。

「あ、あの、父上。何故、少年そちらの父上はこんなにテンションが高いのですか?口調も……ずいぶん違うようですが……」

「あ~……。人格パーソナル設定を適当にしたからだな。気にするな」

「長~く生きてると、暇潰しに新しい人格なんかも作っちゃうのさ。別に、幼少時こんな明るかった訳じゃないよ?」

 やれやれと首を振る少年父に、続く適切な言葉が出て来ず、結果……

「さ、左様ですか……」

 と返すのがやっとだった。

 なんにせよ、確かにこのレベルで分身を生み出すことが出来るなら、伝令、撹乱かくらんだけとっても充分すぎる。

 暇潰しで、これだけのクオリティの魔法を新しく作ってしまうとは、やはり父上は凄い。


 そうしみじみと思っていると、不意に兄が、抱いていた妹を隣にある元の席へ、起こさないようにゆっくりと置いた。

 俯いている為、兄の表情をうかがう事は叶わないが、それでもただならぬ気配がピリピリと周囲に漂い始める。

「あ、兄上?」

 困惑して訊ねる自分の声が、ひどく小さく感じられた。

 気圧されている……のだろうと思う。

 父も少年父も、何事かと瞠目どうもくしている。


 そして次の瞬間。

 唐突に、本当に突然、椅子を蹴倒しそうな勢いで、兄は少年父へとガバッと抱き着いた。


「ふぇあ!?え!?何何!?」

 慌てて身を離そうとする少年父だが、がっちりと掴まれているらしく、身動みじろぎ一つ取れていない。

「ど、どうした?ヤト……」

 混乱したまま、どうにか訊ねる事の出来た父に、兄は勢いよくその顔を向けた。

「ひっ……」

 風を切り、残像すら残る速さで振り向く兄に、父の喉からか細い悲鳴が漏れる。

 正直、自分も悲鳴を漏らしそうになった。

 勢いもる事ながら、その眼光の鋭さと、瞳にギラギラと渦巻く欲情を見たからである。


「……ね、パパ。この子、あたしにちょうだい」

「は……は?いや、ちょうだいってお前……。そいつ、っても三時間の代物だぞ?」

「三時間でも構わない……いえ。三時間もあれば充分よ。ね、お願い」

「お願いって……。ね、念の為に聞くが、そいつ、どうするつもりなんだ?」

「決まってるじゃない。あんな事やこんな事。パパには出来ない色んな事をするのよ。大丈夫……あたし経験豊富なテクニシャンだから、初めてでも絶対に痛くしないわ。むしろ天国を見せてあげる。ああ、ネコが嫌って言うならタチでも構わないわよ。あたし、どっちでもイケる口だから。うふふ……三時間もあれば……うふふ……」

 妖艶に嗤う兄に、ガタガタと傍から見ても分かるほどに震え、カチカチと歯の音を鳴らす少年父。

 父も、顔面蒼白で言葉を失っている。

 況や自分など、蛇に睨まれたカエルの如く、息をするのもやっとな状況だ。

 兄が、男女どころか血縁の有無さえ関係ない色情狂……もとい恋多き方であるのは周知の事実だし、父もその対象であるのは知っていたが、それにしてもまさかここまでとは思わなかった。

 普段の温厚な雰囲気とは真逆の、滲み出る狂気を前に、固まるなと言う方が無理だろう。

「ぼ、ぼぼぼ、ぼぼぼぼぼぼぼ僕、お、おおお、美味し、美味しくないから、は、は、はな、離して……」

 必死に首を振って拒否し、助けを乞う少年父の願いは、どこまでも頼りなく儚い。

「大丈夫。怖がらなくても平気よ。痛い事も辛い事もしないから。最後の瞬間まで、最高の快感を味わわせてあげるわ」

 粘着質な音が立ちそうな、歪な笑みを浮かべる兄。

「ひいぃ――――っ」

 引き攣った悲鳴が少年父から絞り出される。


 代わりに答えたのは、製作者でもあるドン引き状態の父だ。

「だ、だだだ、駄目に決まってるだろ!そんな用途で作り出したんじゃ……あっ!お前!最初からそれが目的だったな!?」

 ニヤリとした笑みが父に向けられる。

 どうやら正解らしい。

 改めて、兄の性欲の強さ……いや計算高さには肝が冷える。

「んふふ……。いいじゃない減るもんじゃ無し。記憶は共有されないんでしょ?」

「そういう問題じゃない!お前の趣味嗜好にとやかく言うつもりはないが、性的欲求を満たしたいだけなら他の奴に頼め!お前なら引く手数多あまただろ!?」

「まあ!失礼しちゃう!!それじゃ、まるであたしがパパをそういう目でしか見ていないみたいじゃない!」

「その通りだろうが!」

「違うわよ!あたしにとってパパは、本気も本気の大本命なんだから!」

「なおタチ悪いわっ!!とにかく!それが目的なら鏡影こいつは消させてもらう!」

 叫ぶようにそう言うと、少年父はガクガクと大きく頷きながら、早く消してとばかりに父へ哀願の視線を向ける。


 そして、父が鏡影分身を消す為に指を鳴らそうとした時、

「ふぇ……ふわぁぁぁぁああんっ!!」

 二人の言い合いで目を覚ましたらしい妹が、何が気に食わないのか唐突に泣き出した。

「っ!?」

 ギョッとして妹を見る父と兄。

 自分はもう慣れっこだが、互いに少年父の処遇に集中していたせいか、思わず気を取られてしまったようだ。

 恐らくはそのせいだろう。


 パチンッと父が指を鳴らした瞬間、兄の腕の中にいた少年父の姿が、黒いもやとなって霧散した。

 同時に、

「あ゛…………」

 と言う父の硬い声も響く。

「どうされました?」

 ふえふえと泣きじゃくる妹を自分の膝の上に乗せ、あやしながら訊ねると、父は動揺した様に視線をあちらこちらへ彷徨さまよわせていた。

「パパ?」

 同様に兄も疑問に思ったらしく、先ほどまで湛えていた狂気を消して、椅子に腰かけつつ首を傾げる。

「あ……」

 挙動不審になりつつも口を開いた父だったが、結局父はゴクリと生唾を呑むと、

「じ、じゃ、俺はこの辺で……」

 急にそう言って、そそくさと立ち上がった。

「え、ち、父上?」

 そして、困惑する自分達を置いて、父は瞬く間に転移してその姿を消した。


 取り残された自分達の中で、真っ先に我に返ったのは兄だ。

 苦い表情と共に、

「パパ……。もしかして、こっちの鏡影と一緒に、レックスの方向こうの鏡影も消しちゃったのかしら……」

 そんな推測をボソッと漏らした。

「そ……れは、不味いですね……」

 自分がそう零した瞬間、唐突に館内放送を告げる鐘の音が鳴り響き、

『業務連絡。業務連絡』

 と、感情を押し殺した様な冷たい男の声が降ってきた。

「あら、噂をすれば」

 空を見上げて呟く兄。

 釣られて、自分も兄と同じ方向を見上げる。


『ご自分が一番よく分かっておいででしょうから、単刀直入に申し上げます。後十秒以内に謁見の間までお戻り下さい。それを過ぎた場合は……お分かりですね?』


 宰相レックスは最後、妙に迫力の篭った台詞を言うと、再び鐘の音を鳴らして館内放送を終えた。


「レックス叔父上、怒ってるわね~。まだガチギレじゃないみたいだけど」

「とおさ、しぬ?」

 キョトンと自分を見上げ、縁起でもない事を口走る妹。

「だ、大丈夫……だと思う」

 願望を込めてそうフォローはするが、自信は全く無かった。


 宰相レックスは、普段は冷静沈着な人物なのだが、一旦怒りの導火線に火が付くと、爆発するまでが極端に短いのだ。

 元々、爆発物の様に気性の激しい焔竜族である為、仕方がないと言えば仕方ないのだが、レックスの場合、常日頃から自分を律しているせいか、爆発した時の規模が通常の竜種よりも強いのである。

 下手したら、城の一区画が消し飛ぶかもしれない。

 いくら怒髪天していたとしても、宰相が王を殺すとは思えないが、万が一という事もある。

 絶対に大丈夫だとは、到底口に出来なかった。


 すると、兄がにっこりと微笑んで妹を見た。

「平気よ。パパは不滅の身だから、死んでもすぐに生き返るわ」

 ……そういう問題なのだろうか。

 絶対に違うと思う。

 内心呆れていると、何やら納得したらしい妹が、

「よかった」

 と頷いて、テーブルの上にあった紅茶が注がれたカップを手に取り、ひと口飲んだ。

 全然良くないし、そもそもその紅茶は妹のではなく、自分の物であるからして。

「そっちはミルクも砂糖も入ってないぞ」

 自分の忠告はひと足遅く、

「……べ」

 妹は、渋い顔でカップを戻した。


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 後日、母から聞いた話によると、サボっているのがバレた父は、謁見の間での公務を終えた後、自室にて正座の状態でレックスからこってりと説教され、以降一週間、何処へ行くにもレックスが張り付く事態になったと言う。

 そこはかとなく、同情めいた気持ちが湧き起こらないでもないが、許可なくサボった代償と思えば当然の事だろう。


 戦のかげりもない、そんな平和な一日。

 これは、966自分が父と親睦を深めた、優しく、穏やかな日の追憶はなしである。

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