第25話 閑話Ⅰ 966の追憶 前編


 ――――絶対零度。


 それが、一番初めに抱いた感想。


 こちらを見下ろす冷たい目。

 何の感情も浮かんでいない、無機質な目。

 あまりにも美しい容姿。

 しかしそれ故に、その異様さがより際立つ。


 これが、仮にも自らの子供に向ける目なのか、と思った。

 隣にいる母親は、自分の背を軽く押して支えている。

 念の為、粗相が無いよう手を添えてくれているのだろうが、正直余計なお世話だ。

 薄らと、頭の片隅でそんな事を考える。


 こちらを見る紫電の瞳を、初めて見る父親の姿を、目を逸らす事も出来ずに凝視していると、やがて興味を失ったのか、父はふいっと視線を外して、回廊の先へ宰相と共に歩いて行った。

 息子じぶんに対して、一切の言葉をかける事もなく、腰まである長い漆黒の髪と夜色のマントをひるがえして去って行く後ろ姿を見送った。


 その背に描かれている、魔皇国の国章。

 中央にある球体を囲む様に広がる、蝙蝠こうもりに似た黒い左翼と鳥類の白い右翼。

 それが付け根の部分――――下部で交差している、質素と言えば質素な紋章を、自分はただ黙って眺めていた。

 いや、実際の所は、何も口に出来なかったが正しい。


 我知らず息を止めていたらしく、父の姿が見えなくなった途端、肺から一気に空気が押し出され、ついでに腰が抜けて尻もちを着いてしまう。

 そんな自分を、母が呆れつつ抱き起したのをよく覚えている。


 ――――それは、自分クロムが百回目の誕生日を迎えた日、初めて自らの父と出会った日の話。


-------------------


「分かる!分かるわぁ~!その気持ち!!」


 うんうん!と、首を大きく縦に振って同意するのは、目の前に座る黒瞳の美しい兄。

 魔王810番目の子、ヤト・ツェペリオンその人である。

 竜種焔竜族の血を引く兄は、本来の姿だとあまりにも大きすぎる為、今は半人化中だ。

 実年齢はすでに千を超えているが、外見は人間に換算すると二十代半ば程。

 艶やかな黒髪の中、両サイドにひと房だけある深紅の髪がひと際特徴的で、肩近くまで伸びた緩いくせっ毛を、首筋辺りで一つに纏めている。

 上下共に黒いピッチリとしたライダー服を着ており、ピンヒールの黒いロングブーツを履いていた。

 半人化と言った通り、背中からは蝙蝠こうもりの様な黒い翼が生え、昼と夜とで色が変わる一対のピアスが着けられた耳はピンと尖っている。

 内面故か、とても中性的な容姿のこの兄は、数多あまたいる兄妹達の中でも、自分が最も尊敬している人物だ。


 蒼く澄んだ昼下がり。

 今、自分達がいるのは、魔都カロンにある城。

 天空に浮かぶ魔王城。

 その中に造られた庭園の一画。

 茶会等が楽しめるように、目の前にいる兄が手ずから造り上げた、白い東屋ガゼボである。

 八角形の屋根の下、八本の白い柱に囲まれた中には、鉄製の丸いガーデンテーブルと椅子が四脚。

 テーブルの上には、紅茶の入った透明なティーポットとカップが二つ、三段式のケーキスタンドが置かれ、四角く小さいサンドイッチやスコーン等、軽食が品良く乗せられている。

 ポットとカップには保温魔法が込められており、半日だろうが丸一日だろうが、適温を保持してくれる便利グッズだ。


 自分の真向かいには兄であるヤト、そして右の椅子には、ようやく物心のついた妹、イオナがいた。

 イオナは、こっちの会話など何処吹く風と、頭にある白銀色の獣耳みみをピコピコと動かしながら、円筒形のコップに入ったジュースを一心不乱に飲んでいる。

 よほどご満悦なのか、腰下から生えた同色の尻尾が、ふさふさと勢いよく揺れていた。

 橙色の液体に突っ込まれた、白いストローを口に咥えて吸っている様は、さながら虫みたいだな……と考えていると、兄は言葉を続けた。

「パパって、第一印象すっごく怖いのよねぇ~。養子実子問わず、子共に興味無いから仕方ないんだけど」


 この、女性の言葉遣いをする兄に出会った時の衝撃も、中々のものだった。

 性別は確かに男なのに、話し方は女。

 精神が女性なのかと思いきや、そこら辺は微妙らしく、明言はされなかった。

 ただ、恋、愛に性別は関係ないと、老若男女、血縁、非血縁関係なく手を出す……悪く言えば見境が無い、性関連についてはかなり奔放な人物だ。

 気が付いたら友人知人、兄、姉、果ては要職に就いている政府の重鎮と、身近にいる人物のほとんどが、目の前の兄のお手つきで、知った時は父と出会った時とは別の意味で腰を抜かした。

 だが、それよりなお恐ろしかったのは、関係を持った者達から、一切恨み言や未練節、被害報告等が出て来ない事である。

 むしろ、皆満足気と言うべきか、諸々超越した表情を浮かべていたのが印象的で、控えめに言って背筋が凍った。

 さすがに父や、その妃達とは関係を持ったことはないらしく、その事に関しては心底安堵したのを覚えている。

 まあ、父の事は未だに狙っていて、諦めるつもりは毛頭ないようだが。


「それで?クロムちゃんは何を悩んでいるの?お兄ちゃんに話してごらんなさいな」

 両手で頬杖をついて、兄は朗らかに微笑んでいる。

「あ、はっ。その……こんな自分でも、父の役に立てるのだろうか……と。一応、基礎鍛錬は行っているのですが……」

「……クロムちゃん、もう元服したんだっけ?」

「いえ、まだです……」

「そうよね。到底、成熟したとは思えない容姿だもの。だったら、そんなに焦らなくても良いんじゃないかしら?特に大きな争いごとも起こってないんだから」

「焦っている……わけでは……」


 思わず視線を落とす。

 透き通ったカップの中にある、薄らと湯気の立つ香り豊かな赤茶色の液体。

 そこに映った自分の姿は、人間で言う所の十代半ばぐらいの少年で、未だわずかにあどけなさが残っている。

 竜種である兄とは違って、自分は獣人種。

 魔族の国である魔皇国ここでは人化は必要ない為、今自分の頭と腰下からは、イオナと同じ白銀色いろ獣耳みみと尾が生えていたが、今は沈む心境に影響されてか、力なく垂れ下がっていた。

 まだ線も細く、手も足も、肉体全部が未発達で頼りない。


 焦っている……のだろうか。

 父の、王の役に立ちたいと思うのは、臣下、いち臣民として当然の事。

 だが正直、父の事をよく知らないから、捨てられたくない、という思いがあるのかもしれない。


 カップの中の自分が、不安げに視線を揺らした。

 カチャッと音が鳴る。

 顔を上げると、兄がカップに口を付けていた。

 そしてひと口、コクリと飲み、静かに下ろす。


「まあ、でもそうね。備えあれば憂いなし。土台を作るのには賛成よ。でもそれなら、肉体ハード面だけでなく、頭脳ソフトの方も鍛えなさいな」

「頭脳……。知識、という事ですか?」

「知識、知恵、柔軟性、応用力、閃き。呼び方は色々あるわ。パパは無能な単細胞おバカさんが嫌いだから。差し当たっては、第二図書館の歴史書コーナーで読書、なんて良いんじゃないかしら」

 唐突な提案に、いささか面食らってしまう。

「え?ど、読書、ですか?」

「そうよぉ~。歴史を学べて、ついでに先人の知恵も学べる。さらにさらに、読む本が良ければ戦術だって学べちゃう。歴史書コーナーは不人気だから、人気ひとけも無くて集中できること請け合いよ?」

「な、なるほど……」

「戦術や戦略についてもっと知りたかったら、関連書籍として近くに兵法書がまとめてあったはずだし、なんだったら地理書も置かれてたはず」

「ヤト兄上、よくご存じですね」

「そりゃそうよ~。あたしも昔はよく入り浸ってたから!そんな訳で、今日のクロムちゃんの幸運場所ラッキースポットは第二図書館!」

「え?え?ラ、ラッキースポット?」

「そ!さあさあ、思い立ったが吉日!すぐにでも行ってらっしゃいな!イオナちゃんは、あたしが預かってあげるから!」

 矢継ぎ早にそう言う兄。

 なぜこれほどまでに強引に勧めてくるのか、はなはだ疑問ではあるが、それはともかく。

 今日は珍しく母が謁見の間に呼ばれた為、妹の世話は自分に任されている。

 いくら信頼のおける兄とは言え、おいそれとゆだねてしまっていいものでもない。

 だから、それを口にしようとしたのだが、先んじて察したらしい兄が、

「いいからいいから!さ!イオナちゃんも、お兄ちゃんにバイバイしましょうね!」

 上機嫌な笑みと共にそう言って、はやし立てるように手を鳴らした。

「ん。にいに、いってら」


 この自分の心境も知らず、妹までもが舌っ足らずな言葉遣いであっさりと別れを告げる。

 それどころか、口にストローを咥えたまま、片手でブンブンと手まで振っていた。

 ぞんざい過ぎる……。

 妹よ、兄は悲しいぞ。

「あたし、しばらくここにいるから、本を借りてくるのなら、ここに戻ってらっしゃいな。色々レクチャーしてあげるから。じゃ、いってらっしゃい!」


 こうして自分は、追い出されるように東屋ガゼボを後にした。


 広々とした城内を移動する。

 白くて壮麗な回廊は、巨人種や竜種が本来の姿に戻ってもいいように、天井から窓に至るまでこれでもかと大きい。

 縦長のアーチを描いた窓は、紫外線を遮る特殊なガラスを用いている為、薄らと蒼く色付いている。

 その向こう側に、今までいた庭園が広がっていた。

 兄と妹がいる東屋は庭の中央にある故、その姿は見えないが、恐らくは今ものんびりとティータイム中だろう。

 昼を過ぎた今の時刻は、本来なら就業時間中だ。

 それでも、兄が仕事もせずに優雅に茶をたしなんでいるのは、別段王族だからと言うわけではない。


 ここ、フィンヴル魔皇国では、例え王族であろうと元服成人を迎えれば何がしかの職にく必要がある。

 父が不滅の身である為、後継ぎという概念が無い結果、帝王学やら次代の王として政務を学ぶ必要も無いので、それならば見聞を広める意味合いも兼ねて就職しろ、との理由からだ。

 あとは……まあ、母から聞いた話になるが、衣食住を提供してやってるのだから、成人したなら最低限、自分の小遣いと税金分ぐらい自分で稼げ、と父が仰っていたらしい。

 と言うのも、税が免除されているのは、この国を統べるとその妃だけ。

 代わりに給与等は一切無いのだが、ここら辺の話は長くなってしまうので置いておく。

 つまり、例え王の子であっても、元服を迎えたなら一定の税を納める義務があるのだ。

 しかも、その額は一般庶民より高く設定されている。

 ちなみに、心身共に問題無いにもかかわらず働かない者は、問答無用で城から放逐ほうちく。と言う処分が待っているので、働かざるを得ないのが現状だ。

 なかなか厳しいとは思うが、父いわく、ただの無駄飯ぐらいニートなんて誰がやしなうか、との事。

 言っている事は正しいのだが、あのおそろしい父が、この様に砕けた言い方をするとは思えないので、もしかしたら母がいささか誇張したのかもしれない。


 話は逸れたが、そんな訳で自分達は、特権階級王族とは思えない生活を送っている。

 いわんや、当然兄も働いており、その役職は宰相補佐官と言う立派なもの。

 元々、宰相レックスと兄は、叔父、甥の間柄であり、縁故雇用だとよく誤解されるが、普通に兄が実力でもぎ取った職である。

 しかし、宰相補佐官は幾人かいるので、そのおかげか兄は週休三日のローテーションで働いていた。

 今日はちょうどその休みの日。

 せっかくの休日に、自分の相談事に付き合わせてしまって申し訳ないと思うが、それはそれとして、兄と話すと身になる事がたくさんあるので、非常に有り難く思っている。


 そんな事を考えながら、人気ひとけのない長い回廊を歩き、深紅の絨毯が敷かれた階段を上がった。

 二階も一階と同じような造りの回廊となっており、柔らかい陽光が注ぐ中を進んでしばらく。

 ようやく、兄に言われた第二図書館に到着した。


 カラッと木製の引き戸を開けると、目の前には五、六冊ほど本を持った司書がいて、くるっと振り向く。

 背中に、ウスバカゲロウの様な薄いはねを生やした、女性の司書だ。

 翅以外は人間と変わらない為、虫種ではなく妖精種だろう。

 メイド服に似た黒いドレスを着た彼女は、自分を見て僅かに目を見開いている。

 一応、王子である自分が来た事に驚いているのだろうか。

 確かに、第一には何度か足を運んだことがあるが、第二は初めてだ。


 第二図書館は、第一図書館と違い私語厳禁らしく、シンと静まり返っていた。

 幾人か利用者の姿が見えるものの、誰一人として言葉を発している者はなく、皆本を探しているか、もしくは備え付けられた机と椅子を使って本を読んでいる。

 〝図書室″ではなく、あえて〝図書館″と言っているだけあって、天井は高く、室内はかなり広い。

 黒檀こくたんで統一された内装はおもむき深く、自然と心が落ち着くような雰囲気をかもし出していた。

 本の貸出と返却を受け付けるカウンターが、扉近くに作り付けられているが、今そこに係りの者はいない。

 恐らくは目の前にいる司書が、その役目の者なのだろうと推察する。


「クロム様。何かお探しですか?」

 すすっと近づいた司書が、小声で訊ねてきた。

 釣られて、自分も声が小さくなる。

「歴史書コーナーに……」

「え、歴史書?あ、し、失礼いたしました。……歴史書コーナーでしたら、右手奥にございます」

「ありがとう」

「いえ。勿体もったいなきお言葉。何かございましたら、お呼び下さい」

 失礼いたします、と司書は穏やかな笑顔と共に丁寧に挨拶をすると、本来の仕事に戻って行った。

 彼女が少しだけ口篭っていたのが気になったものの、とりあえずそれは呑み込んで、教えられた場所に出来るだけ足音を立てないように歩いて行く。


 大きな本棚を幾つも通り過ぎ、着いたそこは図書館の隅っこだった。

 窓辺の一角には、勉強用にか四人掛けの机が二つあり、椅子も合わせて八脚ある。

 が、今はそこに一人だけしかいない。

 黒いローブを羽織り、フードまでガバッと被って突っ伏している者。

 顔が見えない為、男か女か判別できないが、袖口から僅かに見える手は男特有の硬さがある。多分男性だろう。

 規則正しく肩が上下している事から、睡眠中なのは間違いない。


 ムッと、自分の中で怒りが湧いた。

 図書館は寝る場所じゃない。

 と言うか、今この時間は、普通なら就業中である。

 それをサボってまで、ここに来て寝ているなど、なんて恥知らずだ。

 だったら、机と椅子を占領しないだけ、仮病を使って家で寝てる方がまだマシ。

 なんて、グチグチと内心零すが、無理やり起こして事を荒立ててしまうのは本意ではない。

 何せ、ここは私語厳禁の図書館であるし、他に利用者の姿もあるのだから、自分のつまらない憤りをぶつけるのは迷惑以外他ならないだろう。

 それに、ただ黙って寝ているだけなら、一人分のスペースを潰してしまっているものの実質無害。

 いびきをかいている訳でもなし、放置が適当か。

 そう結論付けると、結局自分は特に何を言うでもなく、近くの本棚へと歩を進めた。


 そびえる様に大きな書架には、所狭しと分厚い本が詰まっている。

 特に読みたい本や、目当ての本があって来た訳ではない。

 どれから読んでいくのが良いか、つーっと視線をスライドさせた。

 図書館特有の古紙の匂いや、紙をめくる音、時計の針の音、窓から柔らかく降り注ぐ陽の光。

 時間の流れは一定のはずなのに、穏やかに、ゆっくりと時が進んでいく。

 そんな不思議な感覚を味わいながら、幾つかの本を見繕う。


 歴史を学ぶならば、やはり時系列順が良いだろうと、まずは建国誌。

 次に、基本的な戦術が記載された、初心者用の兵法書。

 地理に明るければ色々と想像しやすかろうと地図。

 さらに、元々興味のあった魔法学や考古学の本。

 分からない単語が出てきた場合に備えて、辞書を数冊。


 気付けば、手にした本は顎下にまで到達していた。

 両手で抱えているとは言え、なかなかの重量。軽く腕が震えている。

 ひとまず机に置いて、手を休めようとした瞬間。


 バァンッッ!!


 と、爆発音のような、けたたましい音が館内に響いた。

 驚いて、反射的に身体が跳ねる。

 持っていた本が浮き上がるもののそれだけで、落ちなかったのは奇跡に近い。

 ほっと安堵していると、寝ていたローブの人物も、モゾッと僅かに身動みじろぎした。

 そして、うるさいと言わんばかりに、腕で頭を覆った。

 続けて。


「おうおうおうおうっ!!相変わらず辛気臭ぇ場所だなあ!ここはぁっ!!」


 銅鑼どらとシンバルと足した様な大声が聞こえてきた。

 控えめに言って、騒音。

 だが聞き覚えのある声に、思わず書架から顔を覗かせて確認してしまう。

 違っていてくれと言う自分の儚い願いは、残念な事に叶わず、見事に予想は当たっていた。


「……ハインツ兄上……」

 自然と顔が渋くなっていくのが、自分でもよく分かった。

 鈍色の短髪と紫色の眼。

 内面の粗雑さがよく表れた、よく言えばいかめしい、悪く言えば人相の悪い、額からねじれた二つの角が生えた、外見年齢二十代後半の男。

 詰まりに詰まった筋肉に押されて、着ている軍服がはち切れんばかりだ。

 武にひいでた地竜族の血を引いているせいか、無駄にガタイがよく、無駄に背が高く、無駄に声が大きい。

 ついでに、態度も無駄にデカい。

 繊細さや気遣いとは無縁であり、ヤト兄上とは真逆のタイプ。

 それが、〝ハインツ″と言う我が兄だ。

 同じ父を持つ異母兄弟だが、率直に言って苦手であり、正直に言えば嫌い。

 出来れば接点を持ちたくない、そんな人物だった。

「なんでこんな所に……」

 大雑把で粗野で粗暴。

 読書とは無縁なハインツに、この静かな図書館は似合っているとは到底言い難い。

 役職も、確か一個連隊を率いる軍将校だったはず。

 何の目的があってここへ来たのか、はなはだ疑問しか浮かばない。


 そう考えていると、あの司書の女性が、ハインツに駆け寄るのが見えた。

「ハ、ハインツ殿下。申し訳ありませんが、もう少し声を落として……」

「あぁ?」

「ひっ……」

 ビクッと身体を震わせて、司書は服の裾を握り締めて押し黙ってしまった。

 背中の翅までもが、小さく小さく縮こまってしまって、可哀想な事この上ない。

 恫喝――ハインツ本人にそんな気は無くとも、声の質や声量から、そう見えてしまう。

「お前、オレ様が誰か知らねえのか?」

「ぞ、存じ上げております……。殿下……」

「だよなあ?そうだよなあ?!オレ様は、イヴル・ツェペリオン魔王陛下の812番目の子、ハインツだ!!知ってるんだったら、グダグダ細けぇこと言うなよ!」

「ヒッ!も、申し訳、ありません……。で、ですが、ここは、図書館で、本を読む所で、私語は出来るだけ……」

 自分の職務を全うしようと、懸命に言い募る司書が気に障ったのだろう。ハインツは怒気を孕んだ瞳で見下ろし、一層低い声を吐き出した。

「……オイ。しつけぇぞ。羽虫みたいな木っ端魔族が、王族であるオレ様に偉そうに口答えか?」

「そ、そんな……つもりは……」

「いくら心の広いオレ様でも、我慢の限界はあるんだぞ?その、蚊みてぇなはねを千切られたくなかったら黙ってろっ!!」

 怒鳴られた瞬間、司書はあまりの恐怖から腰を抜かして、へたり込んでしまった。

 遠目からでも分かるほどその顔色は悪く、言葉を発するどころか息をするのもやっとの状態で、すぐにでも駆け寄って助けてやりたい気になる。

 が、力の差は歴然。

 今の自分は、体格的にも単純な力でもハインツに敵うはずはなく、むしろ一発殴られただけで戦闘不能になってしまうだろう。

 せめて、ヤト兄上のように頭が良ければ上手く立ち回れたのかもしれないが、それが無理な事は嫌と言うほど自覚している。

 不甲斐ない自分に歯噛みしていると、ハインツは崩れ落ちた司書に目もくれず、こちらに向かって歩き始めた。


 ドクッと心臓が跳ねる。

 何故、どうしてこっちに来るんだ?と焦る。

 逃げ出したい。

 それが出来ないなら、せめて身を隠したい。

 だが、手にしている大量の本のせいで、うまく動けない。


 どうしよう、と右往左往していると、あっという間に辿り着いたハインツが、ぬっと目の前に現れた。

 ヒュッと、思わず息を呑む。

「ああん?てめぇクロム?」

 訝しげに眉根を寄せたハインツが、自分を見下ろす。

「ハ、ハインツ兄上……」

「なんだっててめぇが……。ああ、勉強か。反吐が出るほど真面目だねぇ」

「恐縮です……」

「相変わらず小せぇな、てめぇは。ま、獣人種の血を引いてるから仕方ねぇか。勉強なんかより身体を鍛えた方がいいんじゃねぇの?」

 馬鹿にしたような言いぐさに、自分の中で苛立ちが募り、ふわっと尻尾の毛が逆立つと、ゆらゆらと揺れ始める。

 が、歯向かうのは良くない。

 しかし、このまま黙って言われるがままなのもしゃくに障るので、込み上げる怒りを必死に抑えつつ言い返した。

「……一応、基礎鍛錬はしています。今日は、ヤト兄上の助言を得まして、戦術等を学ぶ為にここで」

「ああ?なんだお前。あのカマ野郎の言う事聞いてんのか。物好きと言うか、付く相手は選んだ方がいいぜ?」

 カッと、頭に血が昇る。

 ついさっきまで考えていた事が、吹き飛ぶほどの怒りが湧き起こった。

 ヤト兄上は、兄弟だからという以上に、一個人として自分が尊敬している方だ。

 それをないがしろにされた挙句、蔑称を使うなど、到底看過できるはずも無い。


 自然と目が据わり、

「ハインツ兄上。お言葉ですが、ヤト兄上は知謀に優れたお方です。その様な言い方は控えて頂きたい」

 声も低くなる。

 が、そんな自分を嘲笑あざわらうかの様に、兄は馬鹿にした笑みを浮かべてふんぞり返った。

「ハッ!力が無いから頭で補ってるだけの話だろ?戦いになれば、前線には出ず、後方の安全地帯から指示を飛ばすだけの腰抜けだ。庇う価値なんてありゃしねえぞ!」

「兄上。戦とは単純な力の駆け引きだけで成り立っているのではありません。戦略や戦術次第で、いくらでも有利に、そして味方の損害を少なくする事が出来ます。ヤト兄上は、それが容易に出来るだけの知恵を修めた聡明な方。侮辱はお止め下さい」

 ひくっと、兄のまなじりが痙攣する。

 自分の言葉の何かが琴線に触れたからか、あるいは、一歩も引かずに口答えを続ける自分が気に食わなかったからか。どちらにせよ、この野蛮な兄の怒りを買ってしまったらしい。

 まずったな……と思うが、一度口から出た言葉は戻らない。

 嫌な気配に首筋がひりつく。

「……てめぇ。このクソガキィ……言うようになったじゃねぇか。ヤトの腰巾着が。少し痛い目を見ないと分からねぇみてぇだな」


 途端、ガッと胸ぐらを掴まれた。

 手にしていた本が、ドサドサと音を立てて床に転がる。

 つま先立ちの状態になったせいで、息がし辛く苦しい。

 自分の軽率な発言が原因とは言え、後悔はしていない。

 あれは、自分にとって見過ごせない事だった。

 自分の敵意の篭った目がよりかんに障ったのだろう。

 ハインツの額に青筋が浮かび、さらに鼻息が荒くなる。


 グワッと持ち上げられた丸太の様な腕が、自分に振り下ろされる。

 狙いは顔面だろう。

 歯を食いしばって、来たる衝撃に身構えた瞬間。


うるさい……」


 ボソッと声が聞こえた。

 低く静かな声だったが、よく通る、思わず聞き入ってしまう声。

 至極、おごそかな声だった。

 自分だけでなく、ハインツも同じ事を思ったらしく、殴る為に下ろされた腕は途中で止まっていた。

 そのまま、胸ぐらを掴んでいた手も外れ、自分は床に着地する。

 軽くたたらを踏んだ後、咳き込んでしまうが、視線は声を発した人物から離れなかった。


「……オイ。てめぇ、今なんつった?」

 ハインツが声の主、つまり机に突っ伏して寝ていた、ローブの人物に近寄りながら聞く。

 地鳴りのような重低音の声からして、明らかに機嫌が悪い。

 半分以上は自分のせいだが、まさか王子である自分に、「煩い」などと暴言を吐く者がいるとは思わなかったからだろう。


 カタッと、フードを目深に被ったローブの人物がゆっくりと立ち上がる。

「……煩い、と言った。ここは私語厳禁だ。喧嘩したいのなら外にでも行け。迷惑だ」

「ああっ?!てめぇっ!どこのどいつだか知らねぇが、オレ様が誰か知らねぇわけじゃねぇだろ!舐めた口きいてるとぶっ殺すぞっ!!」

「……お前が、どこの誰かなどどうでもいい。興味もない。いいから出て行け。昼寝の邪魔だ」

「てんめえぇぇっ!!」


 ハインツの腕が勢いよく伸び、自分の時とは比較にならない速さで、ローブの人物の襟首を掴み上げた。

 その瞬間、反動でバサッとフードが外れる。

 現れた姿に、自分もハインツも、目を剥いて固まってしまった。


 漆黒の闇をそのまま押し込めた様な、腰まである長い黒髪。

 稲妻の様な紫電の瞳。

 この世全ての美を結集しても敵わないほどの、性別を超越した美しい容姿。

 尖った両耳に着けた、シンプルな金色のイヤーカフスには、紫色の宝石がまった細長い棒状の金飾りが下がっている。


 魔王イヴル・ツェペリオン。

 父が、そこにいた。


「な……あ……」

 思わず、喘ぐような声を漏らす兄、ハインツ。

 自分も、絶句して見入ってしまう。

 ハインツの強ばる腕が、父の服から離れた。

 父は退屈そうにハインツを見ると、掴まれていた部分をパッパッと払う。

「なん……で、こんな、所に……」

「ここは私の城だ。私が何処に居てもおかしくはあるまい?」

「あ、い、いや……」

「お前の声は煩くて敵わん。さっさとここから出て行け」

「ち、父上……」

 スッと、父は絶対零度の瞳をハインツに向けた。


「……聞こえないのか?私は、〝失せろ″と言っている」


 途端、ズシンッと空気が重くなった。


 魔法が放たれた気配は無く、だとすればこれは、怒りが込められただけのただの言葉なのだろう。

 だと言うのに、身体が勝手に震え出す。

 平伏しなければ、と強迫めいた感情が頭を支配する。

 直接言葉を向けられた訳でもない自分がこの有様なのだ。

 矛先にいるハインツ如何いかばかりか。

 そう思ってチラッと窺い見ると、血の気が引き、今にも死にそうな色に染まった顔面が目に入った。

 先ほどまでの威勢は何処へやら、いっそ憐れにすら思える。


 一歩、二歩と後退り、追い打ちをかける様な父の無言の圧力に屈したのか、ハインツは急いできびすを返し、ドスドスと足音を鳴らしながら、脱兎の如く図書館から走り去って行った。


 それを、扉近くでポカンと見送る司書と、覗き込んで成り行きを見守っていた数少ない図書館利用者達。

 自分も、呆気なく立ち去ったハインツを呆然と見送っていた。

 父であり、全魔族を統べる王の言葉なのだ。従うのが当然だし、あの圧に逆らえる者などいないと身に染みて分かるが、それにしても拍子抜けしてしまうほど呆気ない。


 すると、重いため息が聞こえてきた。

 振り返れば、再びフードを被った父が、うんざりしたように首をひねっている。

「ったく。折角の昼寝が台無しだ。二度寝する気分にもなれねぇし。別の場所に移動するか……」

 先ほどの威厳たっぷりの態度は何処へやら。

 砕けた口調でぼやき始める父に、思わず混乱してしまう。

「あ、ち、父」

「あ。あの馬鹿、出禁にするんだったな。俺がサボってる時にまた来られたら堪らん」

「ち、父上」

「ったく、声量だけは一丁前だったな。前世は拡声器か何かか?あいつ」

 とめどなく愚痴を零す父は、自分に気付く様子が無い。


「父上っ!!」

 だから、つい声を張り上げてしまった。

 ビクッと父の肩が跳ねる。

 ここでようやく存在を認知してくれたらしい。

 自分を見て、父は目を丸くしていた。

「父上。助けて下さり、ありがとうございました」

「へ?え?父?助け?」

「はい。危うくハインツ兄上に殴られる所でした。あ!父上に置かれましては、ご尊顔に拝し、恐悦至極」

 以前は緊張して出来なかった挨拶を述べていると、突然父は自分に向かって手を伸ばした。

「あ~っ!待った待った!その話、長くなるか?」

「は?」

「長くなるならここから出るぞ。え~っと、何?この転がってる本、全部借りるの?」

「え?は、はい」

 困惑しつつも頷いて肯定すると、父は床に転がったままの本をひょいひょいと拾い上げ、へたり込んだままの司書に近づいて行った。

 自分も、急いで後を追う。


「騒がせたな。これ借りてくぞ。後で目録を寄越すから、処理しておいてくれ」

「あ、へ、陛下!」

「行くぞ」

「は、はい!」


 こうして自分と父は、当惑したままの司書を置いて、第二図書館を後にしたのだ。

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