第22話 歴史都市クロニカ⑥ 終幕


 土砂が止まる。

 天井に空いた大穴から、眩い日の光が差し込んだ。


 そして、その光を遮るように、巨人ヨトゥンが顔を覗かせた。

「っ!?」

 四体目の魔族に、ルークはギリッと歯を食いしばる。

 目の前には自分と互角のクロム。

 ホープ達の所には、イオナとローズ。さらに重傷を負ったアウラがいる。

 ホープが必死にアウラに呼びかけているのが見えるが、どうやら教皇一家は魔法が使えないらしく、為す術もなく狼狽うろたえていた。

 一刻も早くアウラの傷を治したいが、状況が許してくれない。

 ここに来てヨトゥンだ。

 身動きの取れない現況に、ルークが苛立つのも当然である。

 と言うか、イヴルはどうしたんだ?と思っていると、唐突に土砂の一部が吹き飛んだ。


「ぺっぺっ!!あー、口の中に砂利が入った。最悪」

 出てきたのは、真ん中から折れた剣を片手に持つイヴルだ。

 滑り台から下りるが如く、土砂山から床へ降りると、口から砂を吐き、頭を振って土を落とす。

「イヴル!?」

「父上!?」

 同時に驚くルークとクロム。

「お?あー、やっぱりココか。位置的にそうじゃないかと思ったんだよなー」

 イヴルはのんびり言いながら、パンパンッと服の埃を払うと、周りを見回す。


 瀕死の状態で倒れているアウラ。

 顔面蒼白で混乱真っ只中の教皇一家。

 それを挟む様にしているイオナとローズ。

 クロムと戦闘を繰り広げているルーク。

 控えめに言って、危機的状況ピンチだ。


 イヴルはフッと笑った。

「なかなかにヤバいみたいだな」

暢気のんきな事を言ってる場合か!何でもいいから手伝え!!」

 ルークは怒号をイヴルに叩きつけた後、剣を思い切り振ってクロムを吹き飛ばす。

「偉そうに命令すんなっての。じゃ、先に障壁レモラ

 面倒くさそうなイヴルが真っ先にしたのは、ホープ達を障壁で覆う事だ。

 一応は依頼主の身の安全を優先した形である。

 教皇達も範囲に加えたのは、依頼内容を加味した上での判断。

 面倒そうにしながらも手を貸してくれるイヴルに、ルークは安堵の息を吐きつつ、クロムとの戦いに集中し始めた。


「さて、と。次はこのデカブツだな」

 言って、ヨトゥンを見上げるイヴル。

「ズルイ。ズルイ。ウラギリモノ。ユルサナイ。ウラヤマシイ。ウラメシイ。コロス。コロス」

 ボソボソと零し続けながら、ズンッと瓦礫の山へ降りるヨトゥンに、イヴルは馬鹿にした様な笑みを浮かべた。

「羨ましい、ね。俺からすれば、お前達の頭の悪さの方が羨ましいよ。……さて、お遊びもここまでだ。ちょっと立て込んでるんでな。さっさと死んでもらおうか」


 その言葉に反応したヨトゥンが、再度大口を開け、エネルギーを集中させる。

 それに対する様に、イヴルも持っていた剣に魔力を集中させた。

 膨大な魔力に空気がビリビリと震え、同時に剣が眩く光り輝く。

 そして、ヨトゥンがエネルギー砲を放つよりもひと足早く、剣を掬い上げるように放ちながら、イヴルは唱えた。


神槍雷グングニル


 落雷の様な音を残して、剣は稲妻の如く光の軌跡を描きながら、一直線にヨトゥンの口へ吸い込まれる。

 剣は、ヨトゥンの口にある砲門を破壊し、上顎を突き抜け、頭部を灼き溶かして、溜まっていたエネルギーと共に爆発した。


 盛大な爆音を立てて、ヨトゥンの頭だけでなく上半身まで派手に爆散する。

 辺り一面に肉片がぶちまけられた。

 黒く焦げた肉の一部は、天井や壁にベチッと張り付き、それ以外の肉塊はボタボタと落ちて床に転がる。

 残ったのは腹から下だけ。

 その身体は、ゆっくりとかしいだ後、ズズンッと瓦礫の上に倒れ込み、断面から巨大な内臓が零れ落ち、赤い血が川の様に流れ出した。


 肉の焦げる嫌な臭いと、せ返る程の血臭の中、イヴルは飄々とした態度で、

「一丁あがり」

 と言いながら、後ろ腰にある剣を抜く。

 剣に魔力を込めると、中心にある透明な球体に金色の粒子が舞い、次の瞬間、透明で細身の剣身が形成された。


「よっと」

 イヴルはその剣を、イオナ達に向かって振り下ろす。

 すると、発生した剣風がホープ達のいる障壁とイオナ達の間に走り、亀裂を作った。

 ちょうど、一本の線を引かれた様な形だ。

「そっからこっちには来るなよ」


「お父様!!なぜ邪魔をなさるの!?」

 思わず、といった様子で叫ぶイオナ。

「……お父様?」

 ホープが意味を理解出来ないまま、イヴルを見る。

「いやいや、ただの不可抗力だって。……って、なんで俺が弁解みたいな真似しなきゃなんねーんだよ……」

 なんて事をぶつくさ言いつつ、イヴルは足取り軽くホープ達に近寄り、障壁の中に入ると倒れているアウラを見た。

 鋭い爪で貫かれた肩からは、今もとめどなく血が流れているが、辛うじて息はしている様で、身体は浅く上下している。

「おお、この傷はなかなか……。……間に合うか微妙だな……」

 苦い表情をするイヴルに、イオナは再度声を荒げた。

「お父様!!」

 はあ、とため息を吐いて、イヴルは振り返った。


「……少し、黙っていろ」


 皮膚が粟立つほどの殺気に、息を呑むイオナ。

 それを一瞥いちべつした後、イヴルはホープに抱えられているアウラに向かって指先を向けた。


「何をする!?」

 そんな二人を背に庇ったのは教皇だった。

 自分の子であり、次代の教皇であるホープの身を守る為だろうが、自分の命を投げ出してまで助けてくれた、アウラの為でもあったに違いない。

 厳しい視線が、イヴルに突き刺さる。

 教皇の隣には、度重なる精神的な衝撃に耐えきれず、気を失ってしまった弟妹と、それを覆い被さるように抱きしめる妻の姿があった。


 イヴルは面食らったのか、目を丸くしてホープ達を見る。

「は?何って、治すんですけど?」

「お主、あの魔族に父と呼ばれていたが誠か!?」

 教皇が警戒心を露わにしてイヴルへ詰問したのだが、

「まあ、そうだな」

「な――――」

 あっさりと認めた為、思わず言葉を失ってしまう。

 すると、今度はホープが口を開いた。

「あの者達、魔王の子であると抜かしていたぞ!?」

「はあ……」

 気の抜けた返事をするイヴルとは対照的に、どんどんと混乱を強め、同時に語気も荒くなっていくホープ。

「という事は、お前は魔王なのか!?」

「そうだが……今は俺の事なんてどうでもいいだろ?」

「なっ!?」

「さ、理解したら退いてくれるか?そいつ、放っとくと出血多量で死ぬぞ?」

「馬鹿な!魔王と知った上で、僕が彼女に触れる事を許すと思うのか!?」


「いや、別に触らんけど……」

 そう呟いた後、イヴルはうんざりしたように、やや長めのため息を吐く。

 そしてホープに顔を近づけると、やはり、うんざりしたように言った。

「状況を、よく考えろよ。人間」

 低く、低く、闇の底から響く様な、昏く沈んだ声。

「っ!?」

「平時とは違い、今は緊急時。貴様らのつまらない矜持を聞き入れている暇は無い。ああ、お前が依頼を破棄すると言うのなら、別にそれでも良かろう。即刻この障壁を解いて、お前達が殺される様を見届けてやる」

「……僕達を、脅す気か?」

 ホープが絞り出すように問う。

「違う違う。そうじゃない。その無い頭でよく考えろ。使えるモノは使うべき、と言う話をしているんだ」

「……魔王お前を使え、と?」

「仮にも、今は貴様が雇い主だ。報酬を受け取るまでは、言う事を聞いてやるさ」

 ニイッと嗤うイヴルの顔は、どこまでも邪悪だった。


「さあ、どうする?魔王を使ってこの危機を脱するか、はたまた正義を貫いて魔族こいつらに殺されるか。好きな方を選べ。私はどちらでも構わん」

 イヴルは仰々しくそう言って、ホープ達を見下ろした。


 悩んでいる暇は無い。

 こうしている間にも、アウラからは命がこぼれていく。

 考えた時間は、本当にわずかだった。


「……頼む」

 ホープはスッとアウラをイヴルに差し出した。

 満足気に微笑むイヴルとは逆に、

「ホープ!?」

 教皇は信じられないと言った驚愕の表情でホープを凝視する。

「……申し訳ありません。父上。僕は、どうしてもアウラを、彼女を失いたくないのです……」

 苦渋の表情を浮かべ、今にも泣き出しそうなホープに、教皇もそれ以上責める事は出来ないと思ったのか、ただ黙って、ホープの頭へポンッと手を置いた。


 そんな親子を横目に、イヴルはアウラへと再度指先を向ける。

「貫通しているとなると、治癒サナーレでは役不足だな。高治癒ハイサナーレ

 途端、アウラの身体が淡く光ったかと思うと、瞬く間に傷が塞がって行き、数秒もしないうちに綺麗に無くなっていた。

 出血の量が多かった為、まだ顔色は悪く呼吸も浅い。

「後は彼女の生命力に賭けるしかないが……ま、平気だろ。しぶとそうな顔してるし」

「アウラ!!」

 ホープが急いで呼びかけるも、彼女が起きる気配は無い。

 それでも、ホープは気休めと知りつつも、アウラの手をしっかりと握った。

「さて、それじゃあお前達はここから動かないようにな」

 一方的に告げると、イヴルはさっさと身を翻して、障壁の外へ出て行く。


 そこには、黙って成り行きを見守っていたイオナとローズがいた。

 刺々しいイオナの視線が、イヴルの身に突き刺さる。

「……お父様。お父様はいつから、人間の味方をするようになりましたの?」

 予想外の問いかけに、イヴルは一瞬ポカンとしてしまうが、すぐに乾いた笑い声を上げた。

「俺が?人間の味方?ははっ!面白い冗談を言うようになったな」

 イオナのまなじりが吊り上がる。

「冗談なんかではありません!今のお父様の行為と言い、勇者と共にいる事と言い、全魔族を裏切る行いでしてよ!?」

「言っただろう。これは暇潰し――息抜きだ。たまたま気まぐれに手を貸しているだけの事。飽きればすぐにやめる。そういう類いのモノだ。騒ぎ立てるほどの事でもない」

「どうして!?どうして分かって下さいませんの!?私達はお父様の封印を解く為に、こうして日夜働いていますのに!」

 癇癪かんしゃくを起こした子供の様に喚くイオナを、冷たく眺める。


「別に頼んだ覚えは無いんだがな……」

 そしてボソッと呟いた。

 それが聞こえたのか、ピタッとイオナの動きが止まった。

 ついでに目が据わる。

「そう。そうですの。お父様は、私達よりも怨敵である勇者を取るんですのね……」

「おい。人の話をちゃんと聞いてたか?取る取らないの話じゃ」

「問答無用ですわ!!私達を無下にするお父様には、お仕置きが必要でしてよ!!ミストッ!!」


 イオナの声に反応して、ミストと呼ばれたローズがイヴルに飛びかかった。

 鋭い爪を剣の様に突き出し、心臓を貫こうとするが、イヴルはそれを剣で払い、弾き飛ばす。

 到底、爪とは思えない硬質な音を残して、ローズは後方へと飛ばされたものの、無理やり体重を落として床に着地すると、再びイヴルに肉迫した。

 弾き合う二人を尻目に、イオナは後退する。


「後は任せましたわよ、ミスト」

「お任せ下さい」

 無表情でそう返事をするローズ。

 逆にイヴルは唖然とした様子でイオナを見た。

「は?お前は来ないのか?」

「お父様が敵に回った以上、こちらも計画の見直しが必要なんですの。戦略的撤退と言って欲しいですわ」

 言いながら、イオナは兄であるクロムの所へと跳んで行った。


 当のクロムはルークと戦闘の真っ最中だ。

 拳と剣が絶え間なくぶつかり合い、その度にパラパラと赤い火花が散る。

 戦闘能力は互角。

 いや、身のこなしから僅かにルークの方が上か。

 だが、いかんせん持っている武器が悪い。

 何度も打ち合う内に、ルークの剣身は至る所に欠けやひびが発生し、もはやいつ折れてもおかしくない状況にある。

 対してクロムの篭手には傷一つ付いていない。

 氷の様に冷ややかな銀色が鏡の様に反射し、苦い表情をしているルークを映していた。


 今一度、ギィンッと一層かん高い鉄の擦れる音が鳴る。

 飛び退き、距離を取る二人。

 イオナはその最中さなか、クロムへ軽い足取りで近づいた。


「お兄様」

「どうした?」

「お父様が人間側に付きましたの。計画の修正が必要ですわ」

「……分かった。一先ひとまずの目的は達してある。お前は先に撤退していろ」

「はい。それでは、また後ほど。ご機嫌よう勇者サマ」


 了解の返事をした後、イオナは最後の言葉をルークに投げかけると、あっという間に転移して消えてしまった。


「計画だと?お前達、一体何をしようとしている?」

「答えてやる義務はない」

「……魔族共お前達にとって、魔王イヴルの存在は唯一無二のはず。イヴルあいつの封印を解くのが目的じゃないのか?」

「くどいぞ。それより、どうやったらこの状況を乗り切れるか、そちらを考えた方がいいんじゃないか?」

(肯定はしないが、否定もしない……。しかし話は逸らす……か)

「…………」


 思う所はあれど、クロムの言葉にルークは無言で返すと、剣に魔力を込めた。

 これ以上の会話を諦め、クロムの挑発に乗った形だ。

焔剣アグニアス

 途端、ボロボロの剣が赤く輝き、陽炎が出来るほどの高熱が宿る。

 それを目にして、クロムはフッと笑うと、

凍拳アルゲオーマ

 ルークとは正反対の属性を持つ魔法を、篭手に込めた。


 が交差する。


 背後で、先ほどの剣戟とは違う爆発音を聞きながら、イヴルもローズと打ち合っていた。

「……どうした?動きがぎこちないぞ?」

「……裏切り者め」

 鍔迫り合いをしつつ、飄々としたイヴルの態度に、ローズは呻くように言った。

「よく言われる。と言うか、魔王に品行方正なんて求めるなよ」

 そのセリフに、ローズが思わずといった様子で、

「そうではないっ!!お前は、我らが主を裏切った!!」

 そう怒鳴った。

「んん?」

 キョトンとするイヴル。

 一瞬の疑問。

 だが、すぐに該当する件に思い至ったのか、

「ああ~……。はは、そっちか」

 と、ヘラヘラ笑った。

 緊張感に欠ける笑い、それが癇に障ったのだろう。

 ローズは思い切り顔を顰めた後、一度距離を取った。


霧槍ロスモルス!」


 唱えたのは武器生成の魔法。

 数秒にも満たない僅かな間に、半透明の長槍がローズの手を中心に創り出されていく。

 身の丈以上の長さを誇る槍を、ローズは一度振り払って手に馴染ませると、朗々と名乗りを上げた。


「量産兵器司令総体ヴァルキュリアが一人、ミスト!その首、貰い受ける!!」


「やはり、お前がそうだったか。一体誰がサルベージして上書きしたのやら。まあいい。かかって来い、ひよっこ」

 封神剣ロキを構えて、相対するイヴルの顔はひどく楽しそうだ。

「名乗らぬつもりか!?」

「名乗るほどの者じゃない」

 肩をすくめ、おどけたように言うイヴル。

「おのれっ!!小馬鹿にしおって!!」


 激怒して槍を突き出してくるローズ、いやミストに、イヴルは薄笑いを浮かべたまま迎え撃った。

 半透明の槍の柄と、透明な剣身がぶつかり合う。

 舞うのは火花ではなく、魔力の欠片である金の粒子。

 それでも、音は澄んだ鈴の様で、ルーク、クロムの爆発音とは対極にありながらも、涼やかな音色が負けじと辺りに響く。


 ミストが槍を薙げば、それに応えるようにイヴルは剣を一閃する。

 突けば斬り上げる。

 打ち下ろせば剣の腹でいなす。

 重なる連続した音は、それ自体が一つの長い音のようだ。

 息付く暇も無いほどの攻防。

 動きやすい服装をしているイヴルはともかく、豪華なドレスを身に纏っているにもかかわらず、それを一切障害と思っていない動きをするミストは、感嘆に値すると言ってもいい。


 もはや、ただの観客と化したホープ達は、その光景を黙って見ていた。

 舞い散る金の燐光の向こう側で、赤焔の剣と青銀の拳がぶつかり、小規模の爆発を起こす。

 イヴルの張った障壁のおかげで、ホープ達に被害は及ばないが、それでも思わず身構えてしまうほどの激しい戦闘が繰り広げられている。

「……凄い」

 ホープの口から無意識に零れ落ちた言葉に、教皇の生唾を飲み込む音が答えた。


 頭部目掛けて突き出された槍を、イヴルは紙一重で避ける。

「どうした?大口を叩いていた割りに、動きにキレがないぞ?」

 ステップを踏む様にひょいひょいと攻撃を躱すだけでなく、そんな風に煽ってくるイヴルに、ミストは強く歯軋りし、眉根を寄せて憎々しげに見返した。

 それを目に留めて、イヴルは心底愉しげに口の端を歪める。

「ああ、そうか。その身体、元はお前のではないものなあ。いかに同じ名と言えど、たった一年しか慣らす事が出来なかったんだ。動かすのは億劫おっくうだろう?」

「黙れっ!!耳障りな事ばかりのたまうゴミめ!今にその減らず口がきけぬようにしてくれる!!」

 ミストは罵声をイヴルに叩きつけると、大きく槍を薙ぎ払い、盾の様に構えた剣ごとイヴルを弾き飛ばして、一旦距離を取った。


「司令権限を行使する!起きよ!戦士達エインヘリャル!!」

 その言葉に反応して、天井から赤黒い粘体が滲み出る。

 そしてボタボタと、イヴルを囲う様に落ちてきた。

 総数十体。

 成人した人間ほどの大きさがある。

 粘体の中心では白い心臓が形成され、一定の感覚で拍動し始めた。

「神代兵器――量産型対人兵器エインヘリャルか……。こいつらと遊ぶのはつまらんのよなあ……」

 エインヘリャルと呼ばれたそれらを、イヴルは面倒そうに見る。

「かかれ!!」

 ミストが手を振り下ろしながら命令すると、十体のエインヘリャルが同時にイヴルへ飛びかかった。


 エインヘリャルの身体、つまり粘体部分は超強酸性で出来ている。

 触れるだけで、皮膚はおろか鉄や岩石でさえ溶けてしまう為、呑み込まれれば数分と保たずに欠片すら残さず溶けきるだろう。

 活動を止めるには、中心にある心臓を破壊する必要がある。

 が、前述した通りであるが故に、普通の武器では核に届く前に無くなってしまう。

 ならば魔法でと思うだろうが、実は神代の物と魔法は相性が悪い。

 自動的に威力が減衰され、生半可な魔法では傷一つ付かないのである。

 とはいえ、強力な魔法であれば通じるので、対処法が無い訳ではない。

 いわんや、人智を超えた剣ロキを持ち、絶大な魔法を行使できるイヴルであれば、どちらでも対処は可能だ。

 しかし、十体ものエインヘリャルを一つ一つ丁寧に破壊していくのは、いささか面倒に過ぎる。


 そうしてイヴルが出した結論は、至極単純なものだった。


(……あの魔法でいいか……)

 イヴルは、跳び上がったエインヘリャルと床の間に出来た僅かな隙間に、身体を滑り込ませて避ける。

 バチャバチャバチャッと、水風船が割れた様な音を立てて、エインヘリャルは一箇所に集まり、一つの大きな塊になった。

 飛び散った一部が、イヴルの服の裾を溶かす。

 再び襲いかかられる前に、即座に立ち上がって振り返ると、イヴルはイメージと魔力を急速に練り上げて、口を開いた。


「――――夜葬無黒ノクトガル


 パチンとイヴルは指を鳴らす。


 瞬間、夜よりもなお昏い漆黒のドームが発現し、エインヘリャルを呑み込んで膨張していく。

 赤黒い身体をすっぽりと包み込み、チラリとも見えなくなった段階で膨張は止まり、今度は収縮を始めた。


 静かに小さくなっていく、消滅させられていくエインヘリャルを横目に、ミストはイヴルに向かって槍を袈裟斬りに放つ。

 発生した衝撃波を、イヴルは剣風で相殺したが、その途端、衝撃波は濃い霧に変わり、イヴルの視界を奪った。

「チッ。小賢しい」

 思わず舌打ちが漏れる。

 堪らず剣で濃霧を払おうとしたが、それよりも早く、ミストが霧を割って姿を現した。

 至近距離だ。

 ゼロ距離と言い換えてもいいほどに肉迫している。


 剣で軌道を変えるよりも、槍が心臓を貫く方が早い。


 イヴルは瞬時にそう判断すると、あえて右手を突き出した。

 槍がてのひらを貫通する。

 鮮血が花びらの様に散った。

 焼けるような激痛が脳に響くが無視。

 そのまま、無理やり手を横にずらして槍の矛先を変えると、今度は貫かれた手を握り込み、強引に槍の主導権を奪う。

 驚くミストの顔は、なかなかに滑稽だった。


 腕を思い切り振り払うと、ミストの身体は面白い様に吹っ飛んで行き、壁に激突して止まる。

 口から空気と共に血を吐き、崩れ落ちるミスト。

 倒れている暇は無いと、すぐに体勢を立て直そうとした彼女の目に、自分に向かって手を伸ばすイヴルの姿が映った。


重力殺エンドグラビティ


 言いながら、イヴルは勢いよくその手を閉じた。


 イヴルの手に合わせて、グシャッとミストの身体が、握り潰されたようにへしゃげた。

「いぎっ!ぎぎいぃぃぃぃぃぃいいぃ!!」

 歪な声を響かせて、ミストの身体――首から下が中心に向かって折り畳まれていく。

 骨と言う骨が、ゴキゴキ、ボキボキと折れる。

 人間の身体だったものが、ただのミートボールに変わっていく光景は、何かの冗談のようだ。


 あまりにも凄惨極まりない場面に、ホープ達は直視出来ないとばかりに、顔を背け、目をつむっていた。


 一分にも満たない僅かな時間で、ミストは頭部だけ残して、あっという間にただの肉塊へと変貌する。

 ボチャッと、自らが作り出した血の海へ、鈍い音を響かせて落ちるミスト。

 普通であれば確実に絶命しているはずのソレは、未だに目玉だけがギョロギョロと動いていた。


「お前には聞きたい事がある。声帯は残してやったんだ。喋れるだろう?」

 イヴルは、ロキを短剣状態に戻して鞘に納めると、手から槍を引き抜き放り捨てる。

 澄んだ音を鳴らして数度跳ねた後、槍は霧散して消えた。

 イヴルの右手からバタバタと血が落ち、床を汚す。

 そして、〝雪だるま″ならぬ〝肉だるま″になったミストへ向かって、静かに歩いて行くと、その頭を踏み付けて訊ねた。


「お前を起こしたのは誰だ?他の奴もサルベージされたのか?」

「……地獄へ落ちろ」


 怨念を込めて下から睨みつけてくるミストに、イヴルは肩をすくめて嘆息した。

「ま、言うわけないか。ならばいい」

 おもむろにスッと屈むと、ミストの頭を掴んで引き上げ、無理やり自分と目線の高さ合わせるイヴル。

 不意に目を閉じ、再び開くと、その瞳孔は金色に輝いていた。


「なっ……何をする?!」

「ん~?何って、二度と転写復活出来ないように、お前のデータ破壊クラックしてやるんだよ」

 言葉の意味を瞬時に理解したのだろう。

 ミストの瞳に、濃い恐怖の色が浮かんだ。

「や、やめろ……。やめろっ!!」

「さようなら、戦乙女ミスト。使い捨ての玩具にしては、まあまあ楽しめたぞ」

 そう言って、イヴルは誰もが見惚れる笑みを浮かべた。


 ミストの頭を両手で固定し、その目を抉るように覗き込む。


「ひっ!がっ……あっ!あぁ、ぎっ!!ぎぃいいっぎひいっ」

 途端、ミストの自我が、波にさらわれる砂城の様にボロボロと崩れていく。

 虫に喰われる様に記憶が失われていく。

 肉体の脳が溶けていくだけでない、その向こう側にある〝ミスト″という存在を貯蔵プールした場所から、確実に消滅していく。

 侵入ハックされて破壊クラックされて、消去デリートされる。

 正しく、完全な〝死″がミストを侵していった。

 ミストの喉から、蒸気音みたいな鳴き声が出る。

「感謝してくれよ?これでお前は本当に死ねるんだからな」

 イヴルの殊更ことさらに優しい声がミストの耳に届くが、その意味を理解する事は、もうすでに出来なくなっていた。


 やがて、ミストは耳や鼻、口から溶けた脳を零して、完全に死んだ。


 イヴルはボトッとミストを床に落とすと、立ち上がり、その頭部を踏み潰した。

 液体になった脳が、新たに血の海に加わる。

 気が付けば、エインヘリャルを呑み込んでいた漆黒のドームも消え去り、後には粘体の一滴たりとも残っていなかった。

「ま、こんなものか」

 ボソッと呟いたイヴルの瞳は、いつの間にか元の色に戻っていた。


 そうして、おもむろにルークの方へ目を向ける。

 そこには、未だにクロムと打ち合うルークの姿があった。

「あ?アイツら、何時いつまでやり合ってんだ?」

 トントンッと、靴の裏にこびり付いた脳を落としながらボヤくと、ホープ達のいる障壁へ歩いて行く。


 スルッと抵抗なく障壁内へ入ってくるイヴルに、ホープ達は自然と身を縮こませて警戒した。

「……オイオイ。そんな警戒するなって。何にもしねぇよ」

「……いくら敵になったとは言え、同胞にあんなむごい真似をするなんて……」

 教皇の妻が、服の裾をギュッと握り締めて言う。

「あのなぁ……」

 呆れたように零した後、イヴルはドカッと床へ雑に座った。

 そして槍で貫かれた手をプラプラと振る。


「……手、大丈夫なのか?」

 警戒しながらもイヴルの怪我を案ずるホープ。

「はっ。この程度、大戦時なら腐るほどしてきた。それに……」

 イヴルは振っていた手を止めて、ホープに向ける。

 そこには傷一つ無い、陶器の様に滑らかな肌があった。

 目を見開いて驚くホープに、イヴルは薄ら笑いを浮かべて口を開いた。

「これ、このように。すぐ元通りになる。〝魔王は不老不死にして不死身″だと伝わっているだろうが」

「それは、確かにそう聞いているが、まさか本当に……」

「と言うか、仮にも魔王の身を案じるなんて、本当に勇者アイツの血筋はお人好しの平和ボケが多いな」

 吐き捨てる様に言うイヴルに、教皇の顔が不快げに歪む。

「なんと酷い言い様だ……」

「っ!!そうだ、ルークは!?」

 パッと、弾かれた様にホープの視線がルークの方へ向く。


 相変わらず一進一退の攻防を繰り広げる二人に、目立った進展はない。

 服は多少薄汚れ、所々切り裂かれたり血が滲んでいたりするが、それだけだ。

 致命傷や動きに影響が出るほどの傷は、二人とも負っていない。

 もっとも、ルークの場合は不老不死の身体である為、大体の外傷はイヴルと同じく即座に治癒してしまう。

 故に、パッと見ルークは負傷らしい負傷はしておらず、代わりにその痕跡である血が、点々と服に残っている訳である。

 それを加味して、今一度二人を見れば、僅かにクロムの方に軍配が上がるかも知れない。


 赤と青が軌跡を描いてぶつかり合い、その度に小さい爆発が起こる。

 クロムが踏み込めば、ルークは飛び退いて剣を振るい、焔の斬撃を繰り出す。

 逆にルークが懐に飛び込もうとすると、クロムは床を粉砕して視界を悪くし、それを妨害する。

 そして再び、剣と拳が連続で交わされていく。

 そんな様子だった。


 その光景を、ハラハラした面持ちで見守るホープ達。

 イヴルは欠伸をしながら、つまらなそうに眺めている。

「ふわ……――あぁ。なんで何時までも決着がつかないのかと思ったら、聖剣が無いからか。ん~……これが終わったら取りに行くべきかな……。いやでもなぁ~」

「聖剣……と言うと……封印遺跡に納められているという、あの?」

 ホープが訊ねると、暇を持て余していたのだろうイヴルが、気まぐれか説明を始めた。

「そ。〝聖剣バルドル″。阿呆女神スクルドが勇者に与えた剣だな。魔族特攻なんて味な機能を持たせた特別製だよ」

「阿呆女神ってお前……」

 口汚くそう言ったイヴルに、ホープだけでなく教皇夫妻も顔を顰めた。

「……あの剣、魔法でなんとか保たせているが、あと二、三回、まともに打ち合えば折れるな」

 言われてルークの剣を見れば、剣の中ほどに出来たひびが、深く広がっていた。


 ホープがひゅっと息を呑む。

「なんとか、なんとか出来ないのか!?このままではルークは!」

「知らん。年端もいかないガキじゃあるまいし、あれぐらいの危機、自分で何とかするだろ」

 イヴルの無情な一言に、思わず愕然としてしまうホープ。

「そんな……。……確かに、昔は敵対していたのだろうが、今は一緒に旅をする仲間なんじゃないのか!?」


 ホープの悲痛な訴えに、イヴルはすうっと目を細めると、絶対零度の色を込めてホープを見据えた。


「仲間ではないと、以前も言っただろう?何度も同じ事を言わせるなよ。人間」

 氷柱の様に鋭いイヴルの視線に射貫かれて、ホープは息をするのも忘れた。

 冷たい汗が背筋を落ちていく。

 鼓動の音が鼓膜に響いて五月蠅い。

 魂の奥底から湧き出る様な恐怖を感じているのに、視線を外す事が出来ない。

 そんな、蛇に睨まれた蛙状態のホープを見て、イヴルは一度目を閉じる。

 そして、気分を落ち着けるように深呼吸をした後、いつも通り飄々とした態度で続けた。

「俺が、アイツを殺しもせずに一緒に旅をしているのは、ただの暇潰し。それ以上でもそれ以下でもない。ここでクロムに殺られると言うなら、それまでの奴だったんだろ」


 そう言った所で、バギンッと何か硬い物が折れる音が鳴り響いた。

 続いて澄んだ音が響き渡る。

 急いで目を向ければ、ルークの剣が真ん中から折れているのが見えた。

 床には半分になった剣身が転がっている。

「どうやら、ここまでのようだな」

 構えた拳を下ろすことなく、クロムは冷徹に言う。

「…………」

 それを真っ向から睨み返すルーク。

 折れた剣を握り締め、それでも戦意を喪失することの無いルークを見て、クロムは楽しそうに笑った。

「ふっ。さすが勇者。この程度で戦意を折るのは無理か。ならば……」


 ピンポンパンポ~ン


 クロムがスッと腰を落とし、ルークに向かって突貫しようとした所で、唐突にそんな間の抜けた音が空間に響いた。

 一同、一体何事かと辺りを見回す。

 イヴルだけは、この音を聞いて渋い渋い顔になった。


 ザッザザッとノイズ音が続いた後、ややあって可愛らしい声が降る。


『あー、あー。テステス!聞こえますかぁ~?』

 少女の様な高い声だ。

 より詳しく例えるなら、砂糖菓子に蜂蜜とチョコレートをたっぷりかけた様な、胸焼けするほど甘ったるい声である。


「うわっ……。ウソだろ……」

 この声を聞いたイヴルが、思わずそう漏らす。

 それが聞こえたのか、声の主は、

『ん?……え?ウソ……え~~!?魔王!?なんでここにいるのぉ~!?』

 キンキン声で叫んだ。

 ハウリングが発生しているみたいで、ひたすらにやかましい。

「う……っるせぇ……」

 不快感満載で耳を押さえるイヴル。

『うるさいとは何よぉ!!って、あぁ~~!!ルークきゅんもいるぅ~!久しぶりぃ~!元気だったぁ~?!旅順調~??』

 さすがのルークも軽く顔をしかめている。

「スクルド……か?相変わらずと言うかなんと言うか……。元気だな」

 思わず戸惑ってしまうルークに、スクルドはさらに声のトーンを上げる。

『やあぁ~ん!!ルークきゅんも相変わらず可愛いよ~!好き~!!』

 向こう側でクネクネしている姿が見えるようで、イヴルはウンザリした様子で、

「馬鹿っぽい喋り方……」

 と、小さく小さく呟いた。

 それが聞こえていたのかは分からないが、ルークは困ったように苦笑する。

 教皇一家でさえ、なんとも言えない表情を浮かべていた。


 そんな中、

『こら、スクルド。早く要件を言わないか』

 今度は落ち着いた女性の声が降ってきた。

 冷ややかだが清涼な声色だ。

『あん!ウルズお姉様ったらせっかちなんだから!せっかく、久々のルークきゅんを堪能してるのにぃ~』

『気持ちは分かるが、時間が無いだろう?』

『ぶぅ。はぁ~い』

 ウルズにたしなめられて、スクルドはようやく本題を切り出した。


『んんっ!では。〝情報集積機関ラタトスク″への不正行為が確認された為、同施設の焼却処分が決定されました。早急な退避を推奨します』


「は?」

 それを聞いて、そんな間の抜けた声を上げたのはイヴルだった。


 ルークを含めた他の面々は、言葉の意味が理解出来ずにポカンと天井を見上げている。

 言葉の意味、もちろん処分の意味が分からないのではなく、〝情報集積機関ラタトスク″なるものが一体どこを指しているのか、それが分からないのだ。


『猶予は三分。上の町クロニカへの影響は軽微だ。安心するがいい。死にたくなくば、急いで逃げろよ』

 ウルズの水の様な声が容赦なく告げる。

『じゃあねぇ!ルークきゅん!』

 スクルドが、語尾にハートマークでも付いてそうな口調でそう締め括ると、再度ピンポンパンポーンと鳴って、放送は終わった。


 最も早く我に返ったのはイヴルだ。

浮風エアライド!」

 即座に障壁の魔法を解き、ホープ達教皇一家とアウラを風の板に乗せる。

「うわっ!?」

 ホープの驚く声を聞きながら、イヴルはルークを急かす。

「間抜け顔さらしてないで急いで逃げるぞ!」

「おい、一体何が」

「話は後だ!消し炭になりたいのか!!」

 珍しく余裕のないイヴルの声を聞いて、只事でないのを感じたルークは、同じように自ら風の板を創り出し乗った。

「全速で飛ばしても間に合うか分からん。お前と俺で殿しんがりを務めるぞ」

「分かった」

 頷きながら、手に持っていた剣を鞘に納めるルーク。


「やれやれ、水を差されたな。勇者、いずれまたまみえよう。父上もまた」

 クロムは一方的にそう告げると、あっさりと転移して消えてしまった。


 ルークが、クロムのいた場所を複雑な思いで見つめていると、イヴルからせっつきの声がかけられた。


「いくぞ。ラン!」

ラン!」

 草原の時と同じく、ソニックブームを発生させて音速で飛んで行く。

 あまりの速さに、教皇とホープが顔を引き攣らせていたが、今は緊急時ゆえ仕方がない。

 ちなみに、最後まで意識を保っていた教皇の妻だが、移動の際の強すぎるGのせいで、あえなく昏倒していた。


 ビュンビュンと通路をかっ飛ばして行くが、未だ出口は見えない。

 本来であれば、歩いて一時間以上はかかる道程。

 いくら風に乗り、全速力で飛んでいるとは言え、三分で出口まで到達するのはかなり難しい。

 やきもきしながら飛んでいると、一行の背後から途轍もない振動と爆発音が聞こえてきた。


「チッ。間に合わなかったか」

 背後を振り返り、忌々しそうに呟くイヴル。

「あともう少しのはずだが……」

 ルークは変わらず正面を見据えて飛ばす。


 イヴルの目に、遠くから迫る赤色が見えた。

 それが爆発の炎である事は明白である。

 イヴルは僅かに悩んで、おもむろに口を開いた。


「……。勇者、お前はこいつらを連れて先に行け」

「何?」

「俺が時間稼ぎをしてやる」

「どういうつもりだ?お前がそんな殊勝な事を言うなんて……」

「依頼人に死なれたら困るだけだ……って何度言わせる」

 呆れたように言いながら、イヴルが目の前の教皇一家を見ると、ホープが不安そうな目で見返していた。

「行け。浮風エアライドの制御権はお前に移譲する」

「……分かった。無理はするな」

 その言葉を聞くと、イヴルは素早くルークの魔力の質と、自分の魔力の質を同期させて、ホープ達の風の主導権を渡した。

 続けて、自分の浮風エアライドを解除して通路に降り立つ。


「はっ。勇者が魔王の心配など、とんだお笑いぐさだな」

 そして、そう独り言ちた。

 風に乗って飛んで行くルーク達の姿はもう見えない。

 逆に、迫り来る業火の赤が間近に迫っていた。

六障壁レモラゼクス

 六重の障壁が展開される。


 その障壁に炎はぶつかり、無情にも呑み込んでいった。


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 その頃。

 ホープ達は背後から聞こえてきた爆発音に身を縮こませていた。

 ルークは厳しい表情をしていたが、特に何も言うことなく、ただ淡々と前を見据えている。


「ルーク……」

 おずおずと、何か問いたげなホープを見て、軽く気になるルークだったが、今は余裕がない。

 一刻も早くここから脱出するのが最優先。

 その為、

「すみません。集中したいので黙っていて下さい」

 そうピシャリと言い放った。

 しゅんと項垂れるホープ。

 冷たく聞こえるかもしれないが、今ホープ達の風をコントロールしているのはルークだ。

 一本道とは言え、通路は緩やかな上り坂になっている為、一つ加減を間違えればホープ達が床や壁に激突してしまう危険性がある。

 イヴルから任された以上、何が何でも無事にここを脱出する、そう意気込んだ結果の発言だった。


 やがて、継ぎ目のないツルリとした壁から、ゴツゴツとした岩壁へと変わる。

 同時に明かりも消えたのだが、すぐに前方で出口と思しき光が微かに見えた。


 ようやく見えた光に、思わず全員が安堵の息を吐いていると、ルークの背後から、轟音と共に煌々と燃え盛る赤い炎が姿を現した。

 蛇の様にのたうち、通路を呑み込んでいく様に、本能的な恐怖が湧き上がる。

 焼け付く様な熱風がルークの首筋を、ホープの頬を撫で、否応なしに焦燥感を掻き立てた。


 出口まで後五秒。

 通路に熱気が満ちる。

 後四秒。

 教皇が歯を食いしばり、家族を守る様に覆い被さる。

 後三秒。

 ホープが、襲い来る熱から庇う様にアウラを抱き寄せ、身を伏せる。

 後二秒。

 尋常でない熱に、息をするのが難しくなる。

 後一秒。


 その穴は元々防空壕だったのだろう。

 いや、防空壕として偽装されていた、が正しいか。

 作られた当初は立派な物だったようだが、今やごうとしての面影はなく、ただの貧相な洞窟と化している。

 僅かに残るトンネルの様な石積みには、長い年月故か木の根が侵食し、出入り口は草葉が扉の如く垂れ下がっていた。


 ルークは腰の剣を引き抜くと勢いよく一閃し、発生させた剣風で出口を覆っていた蔓草を切り裂く。


 そして、鮮やかな草木の緑と抜ける様な青い空、天頂で光り輝く太陽が、ルーク達を出迎えた。


 バラバラと散り落ちてくる草を被りながら、蒼穹の元へ飛び出た瞬間、間髪入れずにルーク達の後を追って穴から炎の波が噴き出し、上空へと飛び上がったルーク達を諦めきれずに追いかけたが、結局それは叶わず、火の粉になって舞い消えていった。


 間一髪、なんとか危機を脱した一行は深い安堵の息を吐いたが、今度は空から見た町の光景に絶句した。

 町の四分の一が焦土となり、大図書院は消え、クロニカ城も半分が溶け落ちていたからだ。

 それだけでなく、城の裏手に空いた大穴を中心に、そこかしこから火の手も上がっている。

 真っ黒な煙が幾本も空に向かって伸びる様は、まるで冥府への道筋だ。

 端的に言って、戦時中。

 そう言っても過言でないほどの有様だった。

 上空にまで漂ってくる、焦げた嫌な臭いが鼻腔を遠慮なく刺激し、眼前の光景と相まって、三人は自然と顔を顰める。


 しばらく、その悲惨な光景を見ていた一行だが、やがてゆっくりと下へ降りて行った。


 そこは、クロニカからやや離れた森の入口。

 一望する事は出来ないが、町の防壁がよく見える。

 そんな場所。


 僅かにきな臭いが、それでも上と比べたら充分澄んでいる新鮮な空気を取り込み、深呼吸を数度繰り返した後、一先ず教皇が、自分の息子そっくりのルークに礼を言った。


「窮地を助けて頂き、感謝いたします。勇者殿」

「ありがとうございました」

 続いてホープも礼を告げる。

「いえ、大したことは。イヴルがいなければ、全員炎に呑まれていたでしょうし……」

 半分になった剣を鞘に戻しながら、そう言ってルークが首を振ると、教皇とホープは顔を見合わせた。

「その事だが……」

「彼は本当に、あの〝魔王″なのか?」

「?ええ。真実、イヴルは魔王ですよ。本人もそう言っていたでしょう?」

 キョトンとした顔でルークが言うと、さらに二人は複雑そうな表情を浮かべた。


「……と言う事は、魔王の封印が解かれた。そう考えてもよいのだろうか?」

 恐る恐る訊ねる教皇に、ルークは軽く首を振る。

「いえ。アイツが言うには半分だけ、魂だけが解放された状態だと。肉体の方は今も水晶漬けだと、そう言っていました」

「むう。左様ですか……」

「なので、僕は彼が再び悪行を為さない為に、一緒に旅をしてきたのですが……」

 最後、歯切れが悪くなってしまったのは、爆発に呑まれてしまったであろうイヴルの事を考えたからだ。


 あの規模の爆発。

 いくら不死身とは言え、身体が焼失してしまっていても不思議ではない。

 まして、今は魂の状態。

 本当に復活出来るのか、出来たとしてもどのぐらいの期間が必要になるのか、見当もつかない。


 眉間に皺を寄せて考え込むルークに、難しい表情をした教皇が続ける。

「ふむ……。では、此度の魔族による襲撃は、彼の者の指図ではない……と考えてよろしいか?」

 その質問に、ルークは少しだけ過去に想いを馳せると、緩やかに頷いた。

「……恐らく。一時いっとき別行動をしていましたので、違うとはっきり断言出来ないのですが……。もしもアイツが本当に魔族側についたのなら、僕を含めた全員の命は無かったでしょう」

 ただし、何か思惑があったのなら話は別。

 そう言いかけた言葉を、ルークは寸前で呑み込んだ。

 証拠の無い余計な一言で、無闇に不安を煽る必要はない、と判断した為である。

「そう……ですか」

 より険しく、表情の硬くなる教皇に、ホープが口を挟んだ。


「父上は、イヴル……魔王が今回の件の首謀者だと?」

「あ、いや。そこまでは思っていない、いないがただ、魔族相手方の意図が読めないと思ってな……」

「意図、ですか?」

 ルークが訊ねると、教皇は鷹揚おうように頷いた。

「うむ。あ奴ら、私達を殺そうとした割に宣戦布告はしなかっただろう?町を破壊したのも巨人の魔族一体のみ。魔族に取って代わられていたクラリアス公爵嬢を含めても、総数四体だけだ。いくらなんでも少なすぎる」

 言われて気が付いたのか、今度はホープが厳しい面持ちを浮かべる。

「確かに……。ですがローズ然り、魔族は人の皮を被ります。アイツらも言っていたではありませんか。〝教皇一家の外身は、出来る限り傷付けずに″と。僕達を殺して皮を被り、密かに聖教国を乗っ取るつもりだったのでは?後は……何処か別の場所で控えの魔族がいた、とか……」

「そうだな。順当に考えればそうであろう。だが、それならば共に避難した貴族も標的となるべきだ。我々だけでなく、貴族の皮も奪い着て、国の中枢に入り込んだ方がよほど早く国を奪える。密かに、と言うなら尚更な。仲間が多ければ多いほど、不審には思われまいし、乗っ取りは楽に行えるからな。だと言うのに、奴らは貴族達をバラバラにしてしまった。チグハグだと思わんか?」

「あ……」

「……何か、もう一枚裏があるような気がして気持ち悪いのだよ。まるで、この事件そのものがカモフラージュの様な気がして……」


 そう零した教皇の言葉に誘発されたのか、不気味な沈黙が場に満ちた。

 重苦しい空気に、三人の表情が自然と暗くなる。

 そんな中、最初に口を開いたのは教皇だ。

 この鬱々しい雰囲気を作り出してしまった責任を感じての事かも知れない。

「まあ、あくまで私の憶測に過ぎないがな。何せ、判断材料となる情報が致命的に足りないのだ。あまり深刻に受け止めなくても良い」

 微笑を浮かべ、努めて明るく言う教皇。

 だが、ルークは首を振ると、

「……いえ。僕もイヴルと魔族の動向には気を掛けておきます。何か不穏な動きがあれば……止めてみせます」

 そう真剣な面持ちで返した。

 止める=殺す、という意味なのだが、それを理解していない教皇とホープは、安堵したのかほっと胸を撫で下ろす。


 そうして、今度はホープが問いかけた。

「ところでルーク……様は、これからどう、なさるのですか?」

 急に改まったせいか、つっかえつっかえの敬語を使うホープに、ルークは苦笑する。

「敬語じゃなくていいですよ。確かに僕は貴方達の祖先ではあるが、それだけです。血もずいぶんと薄くなった」

「いえ、そう言うわけには……」

 なおも言い募るホープに、フルフルと首を振るルーク。

「本当に、今まで通りで結構ですから。……僕は今まで、この不老不死を解く方法を探して旅をしてきました。それは、これからも変わりません」

「不老不死。女神の加護だと、あの魔族は言っていたが……」

 確かめる様な教皇の問いに、ルークは静かに頷く。

「その通りです。星神ウルズより授けられた、〝何ものにも負けぬ頑強な肉体″と言うのが、不老不死の事です。他にも状態異常にならない等ありますが、大本はそこですね」

「そうだったのか……」

「だが、不老不死と言えば人が憧れて止まない極致でしょうに。なぜそれを捨てる様な真似を?」


 教皇の素朴な疑問に、ルークは視線を下げた。

 その目は暗くかげっている。

「……終わりのない〝生″は、人の身に余る。だから、僕は〝普通の人″に戻りたい。それだけです」


「そ、それなら、貴方を不老不死にした女神様達に解いてもらえば良いのでは?」

 敬語ではなくなったが、元の口調でもない、そんな中途半端なホープが、おずおずとルークに提案する。

「すでに願い出ました。が、今のこの状況が答えです。彼女達からは、解除する方法は無いと言われました」

 苦笑して言うものの、やはりルークの表情は暗い。

「そんな……」

 ホープが泣きそうな顔をする。

 教皇も、いたたまれないと、苦い表情を浮かべていた。

「そんな顔をしないで下さい。大丈夫ですよ。幸いにも時間は無限にありますし、イヴルも協力的だ。必ず解いてみせます」

 揺るぎない決意の篭ったルークの目を見て、ふとホープは思い出した。

「ああ、だからあの報酬を求めたのか……」


 ごくごく小さい声で呟いたのだが、どうやら教皇の耳に微かに届いたらしく、

「ん?報酬?何の話だ?」

 怪訝そうな顔をされた。

「あ、ああいえ!何でもありません!!」

 ブンブンと物凄い勢いで首を振るホープ。

 さすがに依頼の内容が内容なだけに話せないホープは、無理やり笑顔を張り付けて必死に誤魔化した。

 そして、ここぞとばかりに、とある提案を切り出した。


「それよりも父上!これならば、我々も協力出来るのでは?」

「協力、と言うとルーク殿のか?」

「はい!聖教国が管理する神造遺跡の立ち入り許可を出せば、ルーク様の悲願達成のお役に立てるかと!あそこには未知の技術や情報があります!何か手がかりになるやも!」

「むう。確かにそうだが……」

「僕達は彼等に命を救われたのですよ?これぐらいで恩をお返し出来るのなら、お安い御用でしょう?」

「ふむ……」


 教皇は、しばらく難しい顔をして考え込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。

「……分かった。許可しよう。聖都に戻ったらすぐにでも通達を出す」

「父上!!」

 ぱあっと、全身から喜びのオーラを出すホープに、教皇は釘を刺すように続ける。

「但し、許可を出せるのは当然の事ながら聖教国内に限った事。なので、ルーク殿もそれはお忘れなきよう」

「充分です。感謝します」

 ルークも嬉しそうに微笑んだ。


 鏡合わせの様な二人を見て、教皇もふっと表情を緩ませるが、すぐに引き締める。

 一先ずの危機は去ったが、大団円には程遠い。

 楽観視出来る状況でもない。

 やる事も考える事も、ウンザリするほどあるのだ。

「さて、問題はこれからだぞ、ホープ」

「あ、はい!」

 不意に名前を呼ばれたホープが、ピシッと背筋を伸ばして返事をする。

「先ほど上から見たように、クロニカは惨憺さんたんたる有様だ。これから被害状況の把握だけでなく、復興政策の立案、費用の捻出、被害者への補償手当の計算、再び魔族が襲来しないとも限らない故、防壁の拡充や警備の再編等々、やるべき事は山積みになっている」

「はい」

「騎士団や憲兵団だけでは手に負えないだろう。お前には、現場を鼓舞する意味合いも込めて、当面の間クロニカで働いてもらう事になる」

「承知しました」

「うむ。であるので、必然的にお前の結婚話は暫く延期だ。……そもそも、婚約者が魔族に変わっていた時点で話にもならないが……。そして、お前が選んだ娘だが……」

 チラッと、教皇はアウラを見た。


 未だ意識は戻らないが、呼吸はずいぶんと落ち着いている。

 顔色にも赤みが戻ってきており、どうやら峠は越えたようだ。

 安堵の篭った目を、アウラからホープへと戻す教皇。

「以前お前が持ってきた血統図。あれが本物だとしても、今の彼女は貧民に違いない。どれほど素晴らしい精神を持っていようと、それは変えられないのは分かるな?」

「……はい」

 悔しそうに唇を噛んで俯くホープに、教皇はさらに続ける。

「だから、私から彼女の肩を持つような真似はしない。そんな事をすれば、あらぬ噂を立てられ、いらぬ騒動になりかねんからな」

「……父上?」

 ん?と顔を上げ、怪訝そうな視線を父に向けるホープ。

 その横で、何やら察したのか、ルークが小さく微笑んでいた。

「彼女は、自らの力でお前の隣まで這い上がって来なければならぬ。そうでなければ、ただの娘が権謀術数渦巻く皇宮で生きていく事など出来ん。民からの支持も得られないだろう」

「はあ……」

 長々と話を続ける教皇に、ホープは困惑気味に気の抜けた返事をする。


 それを見かねたルークが、遠慮がちに口を挟んだ。

「……教皇様、言い難いのは分かりますが、もっとはっきり言った方がいいですよ。意味が分からなくて、皇子が困っています」

「う、うむ。……つまりだな。私は、あの娘とお前の仲を認めると言っているのだ」

「え!?」

「但し、これは私の意見であるからして、妻やお前の弟妹がどう思うかは知らぬ。それと、宰相や大臣、貴族達の説得はお前が自分でしなさい。それに助言ぐらいの手助けならば許す。先代ちちと母は、まあ平気であろう。のんびりした人であるからな」

「ち、父上!!」

 ホープの目が零れ落ちそうなほど見開かれ、瞬く間に涙が溜まっていく。

「ええい!喜ぶのはまだ早い!!」

 耳まで真っ赤にしながら声を荒げる教皇だったが、それが照れ隠しであるのは、誰の目から見ても明らかだ。


あはは、と朗らかな笑い声が響いた後、不意に思い出したのか、ホープがルークに目を向けた。

「そう言えば、イヴルは大丈夫なのか?」

 〝魔王″と言えども、知り合ったからにはどうしても心配してしまう。

 ルークといい、ある種お人好しなのが、この血筋の特徴なのだろう。

「まあ、曲がりなりにも魔王ですし、不死身ですからね。生きていると思いますよ。むしろ、この程度で死んでいれば、大戦の時もっと早くケリがついたんですが……」

「あ~、はは……」

 やれやれと、辟易したように返答するルークに、どう返したらいいのか分からず、仕方なしに乾いた笑いを零すホープ。

 そんなホープの隣で、教皇は仕切り直すように一つ咳払いしてから訊ねた。

「では、これからどうするのだ?」

「そうですね。……とりあえず、放ってはおけないので見つけ出す予定ですが、向こうから自主的に戻ってくる可能性は高いですね」

「ほう?」

「ああ見えて、イヴルは一度交わした約束は守る男です。……状況によりけりなのはありますが……」

 ルークは、一度ふっと遠い目をした後、すぐに頭を振って続けた。

「ですので、僕の目的に協力すると言った手前、遠からず戻ってくるでしょう」

「そうか……」


 そこまで話した所で、遠くに衛士長の姿が見えた。

 民衆の避難先を求めて、ここまで足を延ばしたらしい。

 衛士長の周りには、数人の騎士の姿も見える。


「――――先ずは、彼と合流しましょうか。いつまでもここにいる訳にもいきませんし」

 ルークがそう提案すると、教皇とホープは同時に頷いた。


 それから、ルークが魔法を使って、気を失ったままのアウラ達を運び、教皇、ホープと連れ立って衛士長と再会を果たした。

 皇子と瓜二つなルークに酷く驚き、魔族の襲撃があったこともあり警戒されたが、教皇から経緯の説明を受けると、一気に態度は軟化し、大いに感謝された。

 とはいえ、教皇一家と共に避難した貴族が全滅した事は、ショックを隠しきれない様子だったが。


 その後、教皇はホープ、衛士長と共に先頭を歩いて、これから事を相談しながら進んで行く。

 アウラ達は衛士長と一緒に付いて来ていた騎士達によって背負われていた。

 そのままルークの魔法で運んでも良かったのだが、疲れているだろうと気遣われた結果である。


 そうして暫く歩き続け、相談が一段落ついた所で、ホープは歩く速度を落として最後尾を行くルークの隣に移動すると、先を行く騎士達を見ながら、会話が聞かれないように小声で話しかけた。

「依頼の件も含めて、今回は色々と助かった。礼を言う」

「いえ。当然の事をしたまでです」

「報酬だが、神造遺跡への立ち入りは父上のおかげでなんとか達成できそうだが、禁書庫は大図書院自体が無くなってしまった為、資料の閲覧は無理そうだ。すまない」

 思わずギクリとする。

 実は、すでに裏技を使って入りました。

 とは言えないルーク。

 その為、明後日の方向を見ながら、

「……お気になさらず……」

 とだけ答えた。

「?あとは金銭だが……」

 訝しげに首を傾げた後ホープが続けると、それを聞いたルークは言葉の途中で手で遮った。

「いえ、町がこんな状況になっているのです。復興にこれからどれだけかかるのか分かりません。ですので、お金の方は結構ですよ。焼け石に水とは思いますが、そちらの方に回して下さい。そもそも、イヴルはいくら要求したんです?」

 そう訊ねると、ホープはあっけらかんと、

「6万Dデアだ」

 そう言い放った。

 それを聞いて驚いたルークは、思わずせてしまう。

 唐突に咳き込み始めたルークを、前を行く騎士が振り返って胡乱うろんげに眺めてくる。

 そんな、ゲホゲホ言いながら必死に息を吸うルークに、困惑顔のホープが背中を擦っていた。


 ようやく息を整えたルークは、避難民の集まる正門前に着くまでの間、ホープに物の相場と言うものを懇切丁寧に教える。

 そして、そんな法外な値段に少しは疑問を抱くようにと、厳しめに忠告したのだった。


 そうして、正門前に到着してからはあっという間である。


 行政所としての役割を兼ねていたクロニカ城は、前半分が残ったとは言え事実上全壊と変わらない様相を呈していた為、まずは正門前広場に、天幕を幾つも立てて臨時の行政所として機能させ、対策本部とした。

 ここで、被害者の情報や、町の被害状況を確認する訳である。

 さらに現状を鑑みて、暫くの間税の徴収をするのは難しいと判断したのか、教皇はクロニカ全住民の税を一年に渡り一時的に全額免除する決断を下した。

 一部の者から、この判断に関して反対の声も上がったが、そこはそれ。

 君主としての強権を遺憾なく発揮した次第だ。

 付け加えて言うなら、これまでの教皇の政治手腕が優れ、民からも慕われていた実績もあったが故の、自信に裏打ちされた為の行動である。

 その他にも、復興するにあたっての優先順位や家や仕事を失った被災者への当面の生活資金配布、聖都からの騎士団派遣等々、差し当たって急務と思われる大体を指示すると、教皇はホープと衛士長を残して、聖都へと帰還して行った。

 もちろん、教皇の妻や、ホープの弟妹、聖都から来たであろう生き残りの貴族、護衛の為の騎士を多数引き連れて、だ。

 兎にも角にも、教皇はこれらの事を、ほぼ一日で成し遂げたのである。

 緊急時において、時は金なりとはよく言うが、それにしても迅速な対応と言えるだろう。


 それから矢の様に時は過ぎ、魔族の襲撃を受けてから四日目になるこの日、ルークはホープに別れを告げに行っていた。


 よく晴れた早朝。

 当初よりは僅かに落ち着きを取り戻したとは言え、臨時対策室となった天幕の中では、ホープが忙しそうに書類に目を通し、頻繁に出入りする役人と思しき人達に指示を飛ばしている。

 その傍らで、アウラもホープの補佐、というよりは雑務の手伝いをしていた。

 採決された書類を、あちらこちらへ。

 新しく来た書類の整理なども引き受けているらしく、ちょこまかとよく働いている。

 これも、アウラの実績積みの一環なのだろう。

 優しいだけでなく、もともと利発な事もあって、この短い間でホープだけでなく、他の役人や騎士からも信頼を集め始めているようだ。


 そんな中で声をかける事は躊躇われるが、旅人である自分がここで出来る事は無い。

 そう改めて確認すると、ルークは思い切って天幕内に踏み入り、二人に声をかけた。


「お忙しい所、すみません」


 沸き立つような喧騒の中、ルークの声が届いたのか、ホープが顔を上げる。

 その顔は、多少やつれて見えた。

 あまり寝ていないのだろう。

 目の下には薄らとくまが出来ている。


「……ああ、ルークか。よく来たな。どうした?」

 ややぼんやりとした、覇気のない声を聞きながら、ルークは苦笑してホープのいる執務机まで歩を進めた。

「そろそろ出発しようかと思いまして。あ、お構いなく。すぐに出ますから」

 後半のセリフはアウラに向けて言ったものだ。

 見れば、書類整理の手を止めてお茶を入れようとしていた。

「もう行くのか?」

 名残惜しそうなホープに、ルークはゆっくりと頷く。

「ええ。ここにいても僕に出来る事はありませんし。何よりイヴルを探さないと」


 そう。

 この三日間、イヴルは戻ってこなかった。

 気配を追おうとしても、酷く朧気で在所が分からないのだ。

 勇者としての役目もあり、探すのは当然と言えた。


「そうか……。名残惜しいな」

「ルーク様には、大変お世話になりました」

 ホープに続いて、アウラが深々と腰を折って礼を言った。

「いえ。結果的に僕達が出来た事は少なかったですし、礼を言われるほどの事はしていません。この町を含めて、お二人はこれからが大変でしょうけど、どうか頑張ってください」

 フッと、ホープが和やかに笑う。

「ありがとう。望む未来に向けて、全力で努力するよ」

「ありがとうございました。ルーク様も、どうかお気をつけて」

「ええ。お二人も、あまり無理はせず、身体を大事になさってくださいね」


 そんなやり取りをした後、ルークは二人に見送られて天幕を後にした。


 振り返れば、忙しい中二人が天幕の入口まで移動して、ルークに向かって手を振っているのが見えた。

 それに手を振り返した後、ルークはクロニカを後にして、北へ向けて歩き出した。

 久しぶりの一人での旅立ち。

 夏にしては珍しい、冷たい風がルークの傍らを通り抜けていく。


 そうして北へ向かう街道を歩く事しばし。

 なだらかな峠を登り、クロニカの町を一望できる丘に差しかかった辺りで、ルークは唐突に後ろから声をかけられた。


 それは、この三日間聞くことの無かった声で、これからルークが探そうと思っていた人物のもの。

 闇の様に深く、夜の様に落ち着いた声色。

 かつては仇敵であり、今は不本意ながら旅の相棒となった者の声であった。


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 それから数年後。

 聖教国では、第一皇子であるホープの結婚が、国を挙げて大々的に祝われた。

 相手は、貧民街の生まれながらも慈愛に満ち、その聡明さで皇子を支えた一人の女性。

 春の花の様な髪が特徴的な人物だった。


 後に、この事件は〝クロニカの惨劇″と名付けられ、事実上半壊となったクロニカの町を立て直した二人の功績に、結婚を反対する者は少なく、教皇と皇族からの後押しもあって、二人はめでたく結ばれた。


 さらに二十数年後、皇子が教皇になると、二人の力も相まって、聖教国はさらなる華の時代を迎える事になる。


 かくして、皇子の依頼は長い年月を経て、見事果たされたのだった。

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