第19話 歴史都市クロニカ➂ 禁書庫と説得


 クロニカ大図書院は北街区にあるが、位置的には北と言うよりも、中央区にほど近い。

 眼前に、十五階建てに相当する高さを誇るクロニカ城が堂々と建っており、その外観は大きな修道院と形容した方がピッタリくるだろう。

 実際、元々は修道院だった物を改築して、図書院になった経緯がある。

 その為、建物上部に造りつけられた巨大な鐘楼が名残としてあった。


 イオナを取り逃がしたルークは、イヴルの気配を辿って、飾り付けられた街を縫う様に歩いて行く。

 水道橋を流れる水音が、耳朶じだに優しく響いた。


 今は太陽が天頂に輝く昼時。

 ギラギラと降り注ぐ陽光が、無遠慮に肌を突き刺して痛い。

 ついでに、纏わりつく様な熱気のせいで、息をするのも億劫おっくうなほどだ。

 中央区に近づくにつれ、飾り付けは派手さを増し、さらに人は増えていく。

 大通り、繁華街を避けているはずなのに、なかなか進むことが出来なくてもどかしい。

 と、ルークは思っているが、実の所ここは大通りで、しかも繁華街に向かっていたりする。


 もみくちゃにされつつ、やっとのことで大図書院に辿り着いた時には、解放感から思わずため息を漏らしてしまったほどだ。


 クロニカ城ほどではないにせよ、見上げるほどに大きくそびえる大図書院。

 その大扉は開け放たれている。

 短い石階段を上がり、そろっと中へ踏み入ると、途端、本特有の香ばしい匂いがルークを取り巻いた。

 大図書院という場所柄、尋常でない量の本が収められている為、その香りはかなり濃密で、慣れていない者なら軽く頭痛が起こってしまうだろう。

 が、ルーク的にこの独特の匂いは嫌いではなく、むしろ好ましい部類に入る。

 だから、思わず深呼吸をして、その香りを肺いっぱいに取り込んだ。

 そうして視線を巡らすと、少し進んだ先にカウンターがあるのが見て取れた。

 そこに四人の女性が受付として働いている。

 大図書院を利用している客は、今は昼時の為かとても少なく、パラパラとまばらだ。

 受付内の女性達も、本の修復作業や貸し出し帳の整理など、接客以外の仕事に精を出している。

 若干、声をかけるのがはばかられるが、それでもルークは受付に歩を進めると、その内の一人に声をかけた。


「すいません」

「はい?」

「ここに、黒い服装で黒髪紫眼の男が来ませんでしたか?禁書庫への立ち入りを希望したかと思うのですが……」

「……あの、あなたは?」


 禁書庫、という単語を出した瞬間、女性の気配がピリッと張り詰めた。

 警戒感をあらわにした女性に、ルークは顔を近づけると、他の人には見えないように、そっと前髪を上げた。

 怪訝そうな女性だったが、ルークの顔を見た途端、驚いて息を呑んだ。

「で、殿っ!?」

「シッ!ここに僕がいるのは他言無用で頼む。衛士長にバレたら、また大変な事になるから」


 女性に嘘を吐くのはとても良心が痛んだが、背に腹は代えられない、と必死に自分を納得させるルーク。

 コクコクと壊れた人形の様に頷く女性に、再度同じ質問をすると、今度は快く教えてくれた。

 どうやら、イヴルは首尾よく禁書庫へ入れたらしい。


 ルークが声をかけた女性は、運の良い事に責任者だったようで、そのまま彼女に案内されて、ルークも禁書庫の入口へ向かう。

 受付の後ろにある扉をくぐり、枝分かれした通路を右へ左へ曲がり、書斎の様な部屋へ通された。

 天井以外びっしりと並んだ本を、女性は何冊か押したり抜いたりする。

 抜いた本を入れ替えて収めると、カチッと音がして、本棚の一部が開いた。

 中には、人ひとりがやっと通れるほどの狭い階段があった。

 これが、禁書庫への入口。


 禁書庫は広大な地下空間に造られている。

 貴重な文献が多い為、温度、湿度が一年を通して常に一定の地下が、保存するのに適当だと判断されたからだ。

 下へ向かうほど、古く希少な書物が収蔵されているが、地下五階にある特殊な材質の扉の向こう側は、皇族と言えども立ち入る事が出来ない。

 無論、ルークも入った事は無い。

 女神の話では、とある神造遺跡に通じているらしいのだが、大戦時もそこに入る事は許可されなかった為、その話が本当か嘘かは不明。

 今もって、何があるのかさっぱり分からない領域である。


 入口で女性と別れ、ルークは階段に足を踏み入れる。

 その際、女性から火の灯った燭台を渡された。

 間違っても書物に燃え移らないよう、上部に空いた小さな空気孔以外、ガラスで覆われている。


 螺旋状の階段を降りて行くにつれ、ひんやりとした空気がルークに纏わり付く。

 明かりは、手に持った燭台だけ。

 頼りない小さな火と共に、かなりの急階段を慎重に降りる。

 足を踏み外したら、滑り台の様に落ちていく事け合いだ。

 カツンカツンと音を響かせながら、一階、二階、三階と降りて行き、それでもまだ下へ向かっているイヴルの気配の残滓ざんしに、ルークは首を捻る。

 四階。まだ下だ。

 実質最下層である五階に到着。

 ここで階段は終わっていた。


 階段内とは違い、室内は薄らと明るい。

 床や壁に、周囲の魔力を取り込んで働く、照明用の魔動機が埋め込まれているからだ。

 縦に並んだ人の背丈よりも高い本棚には、本以外にも巻物なども収められ、果ては石板まで見受けられた。

 高い天井と広い空間に足音を響かせて、ルークはイヴルの気配を追い、奥へ奥へと進む。

 この先には閉じられた扉しかない。

 ルークが何をやっても開くことが叶わなかった扉だ。


 しかしその扉が視界に入るや否や、ルークは驚いて、思わず駆け寄った。

 ポッカリと、四角く黒い口を開けていたからである。

 扉の先は、さらに下へ向かう階段があった。

 鉄とも石とも違う、ツルリとした扉に、傷跡の類いは無い。

 奥に続く扉と同じ材質の壁、階段は、不思議な事に全体が仄かに発光している。

 魔動機、とも違う。

 神造遺跡を構成する物質によく見られる物だ。

 となれば、ここからは神代から続く遺跡の一端

 どうやって開けたんだ、と尽きない疑問を抱きながら、ルークは気を引き締めて、ゆっくりと階段を降りて行った。


 コツコツ、コツコツ。 


 辿り着いた地下六階は、心なしか上階よりも狭く感じられる。

 陰鬱な空気が漂う中、その奥でイヴルの気配はあった。

 歩き始めてすぐに、カリカリと、何かを書く様な音が耳に届いた。

 疑問に思いつつも、ルークは静かに歩を進める。

 徐々に大きくなる筆記音。

 やがて、四つほど本棚を通り過ぎた辺りで、イヴルの姿を発見した。

 本棚と本棚の間で、壁の窪みをイス代わりに腰かけ、何処から持ち込んだのか、あるいは最初からあったのか、楽譜版の様な板に紙を置いて、ペンを走らせていた。

 足元や脇には、多数の本が無造作に積み上げられている。

 元々、容姿がずば抜けて整っているイヴル。

 淡い光に照らされた姿は、一種の美術品さながらだ。

 よほど集中しているのか、近づいてくるルークに気が付いた様子は無い。


「おい」

「わっ!?いっ――!!」


 ドスッドサドサッバァンッ!と派手な音が鳴る。

 ルークの声に驚いたイヴルが、脇の本を落とし、足元の本を蹴散らし、楽譜版を倒した音だ。

 本の一冊が脛に当たったのだろう、イヴルはうずくまって足を抱えていた。

 そして涙目でルークを見上げた。


「お前なぁ……。もっと静かに声をかけてくれよ」

「気付かないお前が悪い」

 言いながら、ルークは足元にあった紙を拾い上げる。

 そこには古代文字で、よく分からない数式と記号がたくさん書かれていた。

「……これは?」

「あー、それ。理論も方程式もダメな失敗作。試しに計算してみたが、そもそも前提となるお前の遺伝子情報と不老不死の基盤が分からないから、机上の空論と成り果ててる。ちり紙にもならんただのゴミだ」

 イヴルはルークの手から紙をバッと奪い取ると、ぐしゃぐしゃに丸めた挙句、魔法で消してしまった。

「……試さないのか?」

 訊ねたルークに、イヴルは呆れた様な視線を投げる。

「……試してもいいが、半身不随になったり、急激に老いて一時間後に寿命が尽きたりと、リスクの方がバカでかいぞ?」

「忘れてくれ」

「賢明だ」


 イヴルが、足元に転がった本を拾い上げ、腕に積み上げていく。

「で?イオナには逃げられたのか?」

「……ああ。相変わらず逃げるのが上手い」

 ルークもそれにならって本を拾って行くが、そこに書かれた文字は、やはり読めなかった。

「ふっ。だろうな。だから遊撃部隊のおさに任命したんだ」

 楽譜版を壁に沿う様に立て掛け、溝にペンを置く。

 後は、持っている本を片付けるだけだ。


「……なあイヴル。お前は、僕が憎くないのか?」

 イオナに言われた事を思い出したのか、ルークは本を片手に俯きながら、ポツリと零すように訊ねた。

 その表情は暗い。


 ルークにとっては、すでに千年も昔の出来事はなしであり、その時に抱いていた濃い恨みも深い憎しみも、大戦中幾度となく魔王イヴルを殺した事でほぼ昇華されている。

 いきどおりが無い訳では無いが、それでも憎悪が湧き上がる事はなくなっていた。

 しかし、それはルークが、この千年を着実に積み重ねて生きてきたからだ。

 つい一年前、封印から解放されたばかりのイヴルにとってみれば、まだ昨日の事のように感じられるはず。

 正直、恨まれていても不思議じゃないし、むしろ当然だろう。

 今のところは大きないさかいもなく旅を続けられているが、そんなしこりを抱えられていては、こちらが落ち着かない。

 そう考えた末の問いだった。


 目をパチパチと瞬かせるイヴル。

 唐突過ぎる質問に、頭がついていかないようだ。

「戦争とは言え、僕はお前自身を、仲間を、同胞を、家族を殺したんだぞ?恨まれていても当然、と言うか……」

 そう懺悔するように続けたルークの態度に、イヴルは思わず笑ってしまう。

「ははは。何を言うかと思えば、くだらん」

「くだらなくないだろ!」

「いや、くだらない。アレは戦争だぞ?殺し殺されは当たり前。命なんぞ羽毛の如く軽い物に成り果てる。何より、私は魔王だ。自身の命は元より、血縁の有無、敵味方関係なく、使えるコマはいくらでも使ったし、使い捨てた。むしろ、無能なゴミを処理できる良い機会だったよ」

 ルークに背を向け、タイトルを確認しながらトントンと本を棚に戻していく。

「ゴミを処理って、お前……」

 足を止め、絶句するルークに、イヴルは至極軽い口調で、

「だから、お前を憎んでも、恨んでもいない。ったく、とんだ愚問だな」

 そう言うと、それっきり本を戻す事に集中していった。

「…………そう、か」

 ルークは、複雑そうな表情で呟き、手にしていた本へジッと視線を落とした。


 その後、持っていた燭台を窪みに置き、イヴルの指示でルークも本を棚に戻しながら、ふと肝心な事を思い出した。

「そうだ。お前、アウラさんの血統図を探していたんじゃなかったか?」

「ああ、それな。バッチリ見つけたよ」

「あったのか!?」

「まあな。だから暇潰しに計算なんてしてたんだ。えーっと、今俺が持っている下から二番目の本がそうだな。ちょっと待ってろ」

 言うや否や、イヴルは少なくなったルークの本を奪い取り、スピードを上げてストストと戻していく。


 やがて辞書の様に分厚い一冊だけを残して、全ての本を棚に戻したイヴルは、壁に寄りかかってその本を開いた。

「ん~っと~……。お、ここだ」

 パラパラとページをめくり、真ん中より少し後ろ辺りで手を止めた。

 頁の半分まで何か書かれているが、それ以降は白紙だ。

「読める……わけないか」

「過程はいい。結果は?」

「せっかちな奴。結果、あの小娘はお前の血統だ」

「何?」

 ルークが眉根を寄せる。

 半信半疑、と言った所か。

「何代も前に別れた血筋だな。お前が本家ならアレは分家。お前が生まれるよりもずっと以前の話だから、知らなくても不思議じゃない」

「……ここは開かずの間のはず。なぜ……」

 そんな事が記された物がここに、と続けようとしたルークを遮って、イヴルは続ける。

「この本は自動筆記なんだよ。管理する人間がいなくとも、見るものが無くとも勝手に記入されていく。そういうモノなんだ。さ、目当ての物も見つかった。そろそろ戻るぞ。今日の宿も探さなけりゃ」

 アウラの血統図が載った本を片手に、イヴルは元来た道を戻って行く。


 が。

「ちょっと待て」

 それにルークは待ったをかけた。

「あ?」

「それを持ち出すのか?」

「当然。証拠は必要だろ?」

「読めないのにか?」

「読める読めないは問題じゃない。大事なのは〝ある″と言う事だ。用が済めばちゃんと元に戻す。一度立ち入ったんだ、もう転移は使えるはずだから、返す時の方が楽なはず。何より、万が一コレが無くなっても、困る奴は誰もいない。何か問題でも?」

 ルークは、分かっていないと首を振った。

「大ありだ。それの出処をどうやって説明するんだ?禁書庫への立ち入りは、まだ正式に認められていないだろう?」


「……あ」


 すっかり忘れていたのか、イヴルは少しの間の後にそう漏らした。

 心底呆れた様なため息を吐くルークに、イヴルは目を泳がせながら提案する。

「なんとか誤魔化して……」

「無理だな」

「じゃあ、でっち上げて」

「ダメに決まってる」

「なら翻訳して新たに本を作るとか」

「三日で出来るのか?」

 辞書の様に分厚く重そうな、イヴルの手にある本を見る。

「……か、完徹すれば……出来なくもなくもなくもない……」

「どちらだそれは。ちなみに僕は手伝えないぞ。言葉が分からないんだからな」

「うぅ……」

 渋い顔で呻くイヴル。

「そもそも翻訳して書き写したとして、それをどこで発見したと言うつもりだ?」

「……古書店で見つけた、とゴリ押しする……」

「お前は、二言目にはゴリ押しゴリ押しと……」


「でぇぇいっ!!お前は俺の親か!それとも小姑か!!小言ばっかり言うくせに、自分からは打開案を提示しないお局か!!そんなに言うならお前も何か考えろ!!考えられないなら口出しするなっ!!」

 突如キレだしたイヴルに、ルークは思わず呆気に取られてしまうが、すぐに我に返ると反論する為に口を開いた。

「なっ!僕は現実的に考えて言っているんだ!何も間違った事は言ってないだろう!!」

「あー、はいはい。勇者様はいつでも正しいですよー。そんなに言うなら、俺は俺で勝手にやらせてもらう。お前はお前で好きにやれ!バーカバーカ!!」

 到底魔王とは思えない、子供じみた罵倒をルークに浴びせると、イヴルは手に本を持ったまま、転移して消えてしまった。

 急いで気配を追おうとして、それが酷く朧気なものになっている事に気付く。

 クロニカから出てはいないが、場所を特定するのは難しい、と言った具合だ。


「――っ!!バカはお前だ!バーカッ!!」

 などと、イヴルに釣られて、知能の低い罵倒を、ルークは誰もいなくなった空間に響かせた。


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 イヴルが転移をしたのは、先ほどまでいた禁書庫のさらに下層。

 具体的に言えば、地下十階である。

 ここも、壁から発している淡い光が部屋を照らしていた。


 そこは、もはや書庫でも何でもなく、ただ四角い機械が置かれているだけの殺風景な部屋で、それ以外は部屋の外に出る為の扉と、ここへ降りてくる為の階段しかない。


「さて、邪魔者も排除したし、これで少しは動きやすくなる」

 独り言を呟くイヴルの顔は、悪そうにほくそ笑んでいた。

 実の所、アウラの血統図、その翻訳と書き写し、本を製作する事など半日あれば出来る作業だ。

 逆ギレする子供の様に喚いて、気配をぼやかして逃げたのも、別にやりたい事があったから。

 端的に言って、ルークの存在が邪魔だったのである。


「まったく、鬱陶しいったらない……」

 そうぼやきながら、イヴルは四角い機械に近づく。

 大きさは一抱えほどだろうか。

 機械の上部をパカッと開け、中に持っていた本を放り込んで閉めると、天板部分に指を滑らした。

 すると、緑色に光る文字が浮かび上がった。

「えーっと、今の言語は……」

 そうして、スルスルトントンと文字設定を始める。


 イヴルが今操作している機械、これは言わば製本機だ。

 が、その機能は製本機を大きく上回っており、翻訳、コピー、印刷、製本、断裁を自動でやってくれる便利機器である。

 本の製作が半日で出来るのも、コレのおかげだ。

 とは言え、非常に旧式の機械である為、思念波は使えず、こうして手動アナログの方法でしか設定出来ないのが、不便と言えば不便だった。


 あっという間に設定を終え、次にページ設定、サイズ設定を完了させると、すぐに製作を開始させる。

 ヴヴン……と電子音を響かせて、問題なく稼働を始めた機械を一瞥いちべつすると、イヴルはさっさと部屋から出て行った。

 明日の朝には終わっているだろう。


「まさか、潰さずに残しておいたのが、こんな形で役に立つとはな」

 イヴルは腰に巻いた黒い外套をひるがえしながら、部屋と同じく淡く光る廊下を、確かな足取りで進んで行った。


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 一方ルークは、いなくなったイヴルの捜索を早々に打ち切って、元来た道を辿っていた。


 憤慨しつつ燭台を持って階段を上がり、あの開かずの扉を潜った所で、そう言えばこの扉どうするんだ?と思っていると、扉は自動的に閉まっていき、元の状態へと戻った。

 継ぎ目すら、よく見ないと分からないほどにピッチリと閉ざされた扉。

 試しに開けようとしてみたが、ピクリとも動く気配は無く、ペチペチと冷たい音を返すだけだった。


 ふっと嘆息した後、これからどうするか、と考えながら進む。

 自然と俯いて歩いている為、自分が同じ所をグルグル回っている事に気が付かない。

 そして、不意にピタッと足を止めた。


「……やはり、血統云々うんぬんよりも本人の意思が大事だろうな」

 アウラはホープの事を諦めているようだったが、その言動からは本当に彼を想っているのがうかがえた。

 であるならば、身分や血統よりもそちらを優先すべきだろう。

 幸い、彼女は優しく頭が良い。

 次の教皇を支える、という点でも見劣りはしない。

(もう一度、彼女と会って説得するしかない)

 そうルークは決心すると、顔を上げて通路を迷いなく歩いて行った。

 その方向は明後日の方角だったが。


 それからも散々道に迷うこと数十分。

 ようやく受付に戻って来れたルークは、そこにいた女性に礼を告げると大図書院を後にした。


 外は夕暮れに染まっていた。

 青かった空は濃さを増し、途中から薄い黄色、橙色とグラデーションになっている。

 そんなに長い時間、大図書院にいたのかと、軽く驚きながら、ルークは街並みを見渡した。

 目の前には巨大なクロニカ城と、そこから伸びる長い影が町の一部を覆っている。

 街路には家路を急ぐ人や、夕食の買い出しをする人々が多く行き交っていた。

 ここを再び通って、貧民街まで行くのは骨が折れそうだ。

 何より、複雑な道をどう通ったのか、ルークはほぼ覚えていない。

 まあ、イヴルの後ろを小鴨こがもの様に追いかけていただけなのだから、当然と言えば当然である。

 という訳で、ルークが選択したのは一番安直かつ間違いのない方法。

 つまりは転移だった。


 一瞬で視界が変わり、アウラの家が目の前に出現する。

 いや、反対か。

 アウラの家の前に、ルークが出現した。

 家の中から明かりと共に話し声が聞こえてくる。

 客人か?と疑問に思いつつ、ルークがドアをノックしようとした瞬間、中から人相の悪い男が出てきた。

「――っと!すまない」

 あわやぶつかりそうになったルークは、咄嗟に身を引いて反射的に謝るが、当の男はフンッと鼻を鳴らしただけだった。

「それじゃあな。また頼むぜ」

 男は中にいるアウラに向けてそう言うと、ルークには見向きもせず足早に立ち去って行った。


 いぶかしげに男を見送るルーク。

 戸口に立つその姿に気付いたのか、ベッドに腰かけたアウラが声をかける。

「え?ルークさん、ですか?」

 振り向いたルークが見たのは、頬が上気し、服も乱れたアウラと、テーブルの上に無造作に置かれた革袋だった。

 口からは少なくない数のDデア硬貨が覗いている。

 室内には、僅かに汗と独特の青臭い匂いが漂っており、ベッドは今まで行われていたコトの名残なごりか、ぐしゃぐしゃに荒れていた。


 アウラに中に入るよう促され、イスに座った所で、ルークは口を開く。

「……いつも、この様な事を?」

 そこに責める色合いは無く、むしろ彼女の身を案じる気配が濃く表れていた。

 パタンと戸を閉める音が静かに鳴り、振り返ったアウラは苦笑する。

「いいえ。いつもではないですよ?普段は、亡くなられた方に化粧を施したり、埋葬の為の穴を掘ったり、古本の選別を手伝ったりして生計を立てています」

「では何故?」

 その問いに、アウラはふっと暗い表情を浮かべて俯いた後、また痛々しい笑みを張り付けた。

「よくありますでしょう?急に物入りになる時が。そう言う時は、身体を売るのが一番実入りが良いんです。浄化ピュリフ

 一瞬だけ、アウラの身体が淡く光った。


 浄化ピュリフは、簡単に言えば体内外の不純物を除去する為の魔法だ。

 つまり、体内にあった異物を消し去ったのだろう。

 身売りをする上で、ある意味この魔法は必須とも言える。

 その事を理解しているルークは、薄らと苦い表情を浮かべた。

 嫌悪、ではなく、身を売らなければ日々の糧を得る事も出来ない、彼女の身の上を憐れんでの事だ。


「……皇子は知っているのですか?」

浄化ピュリフ。いいえ。ご存じでしたら、私を妻になどと考えないでしょう。ホープ様に伝えますか?」

 再度、浄化の魔法を唱えてベッドを綺麗にすると、アウラはそう問い返した。

「それは……」

 言葉に詰まったルークに、アウラは困ったように微笑んだ後、ゆっくりと首を振った。

「それで、何のご用でしょうか?」


 ルークは居住まいを正すと、アウラを見つめる。

「やはり、皇子と婚姻して頂けませんか?」

 一瞬の間。

「……え、あの、私の話聞いていましたか?私は貧民街の女で、娼婦の真似事をする汚らわしい人間なんですよ?」

「関係ありません。何より、貴女のそれは生きる為に仕方なくでしょう?であれば、決して汚らわしくなんてありませんよ。皇子には貴女のような芯の強い人が必要です」

「え、ええ?」

 困惑するアウラに構わず、ルークは先を続ける。

「このような状況下でも腐る事なく、逆境にめげる事もなく、真っ直ぐに生きている貴女こそ、皇子の伴侶に相応しいと思います。彼は少し……気の弱い所がおありのようですから……。それと調べた所、貴女は遠い所で皇家に連なっている事が分かりました。血筋に関しては問題ありません」

「え!?」

「後は皇家のしきたりや教養を学ぶ必要がありますね。ああ、服装も整えなければ」

「え、あの!?」

「付け焼刃でどこまで通用するか不安ですが、やらないよりは良いでしょう」

「っ!あの!!」

「はい?」


 混乱した様子で視線を泳がすアウラは、言いたい事が多すぎてなかなか考えをまとめられないでいたが、なんとか一番伝えたい事を絞り出すと、勢いよく口にした。

「朝にも言いましたが、血筋の問題ではないんです!私は身売りをしていますし、何よりお互いの価値観が」

「身売りの件を受け入れるかどうかは皇子が決める事ですが、その価値観を埋める為に学ぶのですよ。貴女は皇子の隣に立ちたくはないのですか?」

「そ、それは……」

「皇子の隣に見知らぬ誰かが立ち、今まで貴女が受けていた愛情を誰かが受ける。それに耐えられますか?」

「そ、れは……」

 苦渋の表情で、アウラは服を握り締める。

「もしも、わずかでも嫌だと思うならば、迷っているならば、今からでも動くべきです。あの時ああしていれば、なんて後悔は最も愚かな部類の考えです」

「でも……」

「努力は裏切らない、とは言いません。いくら努力しようとも埋まらない差は存在する。それでも、その努力をしたからこそ、悔いと折り合いをつけ、前を向くことが出来ると僕は思います。愛で万事上手くいくとは思いませんが、きっと悪いようにはならないでしょう」

「…………」

「ですが、もしかしたら貴女には危険な目にあって頂くことになるやも知れません」

「危険な目?」

「頑固な王侯貴族を説得するには、少々強引な手を使わざるを得ない、という事です。端的に言って、意図的に重傷を負ってもらう可能性があります」

「重傷……」

「そこまでしても、状況は五分五分と言った所です。それでも、貴女が望むのならば、我々は全力で力を貸します。さあ、どうしますか?」


 しばし、静寂が部屋を支配する。

 俯き、服を握り締めて、アウラは目を閉じる。

 閉じて、自問自答した。


 今日会ったばかりの目の前の男は、自分の事を何も知らない。

 腐らない、めげない、真っ直ぐだと言うが、それはそうせざるを得なかったからだ。

 大きく道を踏み外せば、途端憲兵が飛んできて捕まってしまうだろう。

 ならば、苦しくとも身を売って、自由に動ける方がいい。

 冷たく窮屈な牢獄の中と、辛いが暖かい陽の下の自由。

 どちらがマシかなど、問うまでもない。

 そんな打算が働いているが故だ。

 賢くあろうとするのは、誰にも騙されない為。

 優しくあろうとするのは、他人に良く思われ、余計なトラブルに巻き込まれない為。

 全ては自分の身を守る為の、利己的な判断の上で取り繕った、偽善者の皮を着ているに過ぎない。

 ルークやホープの望むような立派な人なんかじゃない。

 むしろ、小狡く小賢しい、醜悪な人間と言えるだろう。

 でも、それを二人に伝えるのははばかられた。

 理由は単純。

 ホープに嫌われたくなかったからである。

 必然的に、彼に全てを伝えるだろうルークにも、本当の内心ことを話すのは難しかった。

 こんな、身も心も汚い人間は、次期教皇ホープの隣に相応しくない。

 いつかバレて幻滅し、見限られるぐらいなら、最初から諦めて手放した方が、精神的ダメージが少なくて済む。

 だから、頑なに固辞し続けているのだ。


 鬱々とそんな事を考えていた時、ふとアウラは、イヴルに言われたひと言を思い出した。


『自分を卑下して満足している』


 あの言葉は、思いの外グサリと心に刺さった。

 多分、図星だったから。

 ホープの事は、自分でも驚くぐらいに好きだ。

 愛している、と言っても過言ではない。

 このような恋は、恐らくもう経験しないだろう。

 それ故に、保守的になってしまっているんだと理解している。

 傷つく事を恐れて、予防線を張って逃げているのだ。

 本当は、ホープと添い遂げたい。

 いくら自分より見目麗しく、心の清廉な良家の子女であろうと、彼に愛されるのは自分だけでありたいと思う。

 あの優しい笑みも、声も、向けられるのは自分だけでありたいとも思う。

 浅ましい、と思うだろうか。

 軽蔑されるだろうか。


「最初から諦めていては、怖がっていては、その手は何処にも届きませんよ」


 自分の内心を見透かしたかの様なひと言に、アウラは驚いて、パッと目を開き顔を上げた。

 眼前には、深緋こきひ色の外套を身に纏い、フードを目深に被ったボサボサ頭のルークがいる。

 前髪までボサボサで、その目をうかがい見る事は叶わないが、それでも、自分に対して真摯しんしに言葉を投げかけてくれているのは分かった。


 どこか、ホープと似た雰囲気を持つ男。

 一瞬だけだが、その姿がホープとダブって見えた。

 だからこそ、だろうか。

 アウラの心は、先ほどまでの迷いなど嘘の様に消え失せ、あっさりと答えが決まった。


 迷うなんて贅沢。

 答えはすでに決まっている。

 願い、僅かでも届く可能性があるのならば、全力をして手を伸ばす。

 危険な目なんて、今まで幾らでもあってきた。

 今さら物怖じなんてするものか。

 行ける所まで行ってみよう。

 そして、自分の本当を伝える。伝えてみせる。

 受け入れられるにしろ、拒否されるにしろ、話はそれからだ。


 そうして、ようやくアウラは握り締めていた手を解き、意を決した表情で頷いた。

「……分かりました。私にどこまで出来るのか分かりませんが、やれる所までやってみます。どうか、ご指導よろしくお願いします」

 そう決意を込めた瞳で、アウラは言い切った。

 その言葉を聞いて、ルークは嬉しそうに微笑んだ。

「ええ。頑張りましょう」


「はい!それにしても……」

 アウラはジッとルークを見つめる。

「?」

「ルークさんって、ホープ様に似ていますね」

 ギクッとルークは、急いで前髪を確認する。

(きちんと目は隠しているし、いつも以上にボサボサにしてあるはず……)

「ああ、容姿がって事ではなく、雰囲気でしょうか?柔和そうに見えて頑固と言うか、一本芯が通っている感じが……。あら?でも、どことなく容姿も……」

「そ、そうですか?それは恐縮です。まあ何はともあれ、今日はもう日が落ちてしまったので、明日から動きましょう!」

 顔を覗き込もうとするアウラに、ルークは立ち上がってかわすと、これ以上突っ込まれる前に急いでそう言った。

 ルークの不自然な動きに気付きつつも、アウラはそれ以上追及せず、

「はい!」


 そう、輝く笑顔で返事をした。

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