第14話 聖女の一日② 後編


 少女は走る。

 逃げるように、追い立てられるように。

 神殿と言う名の孤児院から。

 正論と言う名の鋭い刃から。


 分かっていた。

 恨む事は前に進む事じゃない。

 前に進んだ気になって、ただその場で足踏みをしているだけだと。

 それでも、恨まずにはいられなかった。

 憎まずには生きられなかった。


 少女の目から涙があふれる。

 ポロポロ、ポロポロ。

 悲しいからなのか、怒っているからなのか、もはや自分でも分からない。

 ただ、感情に振り回されるまま、涙だけが次々と落ちていく。


 荒い息をあげて、ようやく少女が立ち止まったのは、町を出て少しした所にある雑木林。

 大して深くもないが、森一歩手前にまで迫った林だ。

 木に手を当てて、ぜいぜいと熱い息を吐く。

 相変わらず、目からはとめどなく涙が零れている。


 今は、昼をとうに過ぎた時間帯で、一日の内でもっとも暑くなる時刻。

 季節も真夏と言う事もあって、木陰に入っていても額や身体から噴き出すように汗が滲む。

 汗なのか、涙なのか、ポツポツと地面に濃い染みを作っていく。

 そして、ふと気が付いた。

 ここは、両親を失った場所だと。


 ひと月前のその日、町で薬屋を営んでいた一家は、この林へと足を運んだ。

 林は出来て長く、約百年ほど。

 その為か、ここには多種多様な薬草が至る所に生えていた。

 入り口から真っ直ぐ進んだ先には、解熱によく効く薬草の群生地があり、一家はそれを摘む為に訪れた訳である。

 町から近い事、薬草を採る為によく通う慣れた場所であった事から、護衛は誰もつけていなかった。


 空は快晴。

 いつも通り、背中に大きな籠を背負って、いつも通り父親と母親を先頭に進んで、いつも通り薬草を採る。

 何の変哲もない、至っていつも通りの日。

 そのはずだった。


 群生地はとても日当たりが良く、上から見ると、ちょうど木々が楕円形にくり抜かれたような場所にある。

 暑い夏の光が燦々さんさんと降り注ぐ中、薬草を摘み始めて約一時間。

 籠の半分まで埋まった頃。

 フッと、不意に空が陰った。

 次いで、ザアッと木々がざわめき、突風が三人へ吹き降ろす。


 疑問に思い、空を仰いだ一家が見たのは、黒くて大きい蝙蝠こうもりの様な翼と、蜥蜴とかげに似た胴体の生き物。

 竜種の魔族。

 遠目ではあるが、目測でざっと大人の二倍はある。

 まだまだ幼体子供だが、それでも人間から見れば巨大に違いないし、敵う相手ではない。

 特に竜種は、魔族の中でもとびきり上等で、規格外の強さを誇っている。

 幼体だとしても、町にいる憲兵団総出でなければ、倒すのは難しいだろう。

 竜が飛んで行ったのは、町のある方角。

 早く知らせなければ壊滅してしまう。


 瞬時にそう判断した父親が叫んだ。


〝町へ″


 母親が、少女の手を引いて駆け出す。

 せっかく摘んだ、薬草の入った籠を置いて。

 若干、勿体もったいないと思ってしまうが、そんな事を言っている場合ではないと、少女も理解している。

 だから、未練を断ち切るように、後ろを振り返らず走った。


 少女は、母親に引きられるようにして駆ける。

 てのひらから伝わる、じっとりとした冷たい汗に、母親の焦りを色濃く感じながら。

 背後からは、父親の荒い息遣いが伝わる。

 それらに触発されたのだろう。

 早く、早く。

 もっと早くと、焦燥感に急き立てられるあまり、少女の足がもつれて転倒した。

 林の出口はすぐそこ。

 もう二、三歩行けば出られる。

 急いで立ち上がろうとするが、転んだ際にくじいてしまったらしく、足首から刺すような激痛が走って、立ち上がれない。

 こんな時に、と不甲斐なさから目に涙を浮かべた少女に、父親が手を差し伸べる。


 その手を取り、ゆっくりと立ち上がろうとした瞬間。


 少女の見ている前で、父親は縦二つに別れた。


 そこから先の少女の記憶は酷く曖昧だ。

 断片的に思い出せるのは、地面に転がる二つの父親とゴロゴロとした肉の塊、地に広がり染み込んでいく液体。

 その向こう側にある、大きな漆黒の影。

 自分を庇い、逃げるよう叫ぶ母親。

 そして、母親は上と下に別れた。

 耳に響く絶叫は、恐らく少女本人のもの。


 ここで記憶が途切れる。


 意識を取り戻したのは、町にある医院のベッドの上だった。

 真っ白い部屋、真っ白いカーテン、真っ白いベッドの上で横たわっていた。

 少女を心配そうに見下ろす医者と看護師。

 中には、少女一家と親交のあった近所の人や常連客まであった。

 聞けば、七日もの間意識が無かったらしい。


 直前の事を思い出し、父と母の事を訊ねる少女に、周りの大人達は苦い顔をするだけで答える者はいない。

 だが、少女にはそれだけで充分だった。

 つまり、自分が見たあの光景は、夢でもなんでもなかった、実際に起きた現実なのだと。


 少女に身寄りはない。

 父方の親類縁者も、母方の親類縁者も、皆すでに亡くなっている。

 幾ら親交があったとはいえ、それだけで他人の子供を引き取るような、裕福で物好きな人はいない。


 少女は、父と母が死んだことを悲しんで泣いた。

 少女は、父と母を殺したであろう魔族を恨んで泣いた。

 少女は、これから先、すぐに訪れる自分の境遇を嘆いて泣いた。


 そうして、少女は神殿と言う名の教会。

 教会と言う名の孤児院へと入る事になったのだ。


 少女は、激情のおもむくまま、目の前の木を殴りつける。

 ガツッと鈍い音が鳴り、殴りつけたこぶしが痛む。


 忘れたくても忘れられない光景。

 いや、忘れてはいけない光景だ。

 後ろ向きだとか、過去に囚われているとか、そんな他人の意見はどうでもいい。

 恨み続けなければ、少女は孤児院に預けられる段階で自害していただろうから。

 何を生きる柱とするのか、指針とするのか、それは当人の自由。

 他者が気安く口出しして良い事ではない。


 だから、少女はノエルの言葉に、あれほどまでに反応したのだ。

 恨みは良くない事。

 赦すのは尊い事。

 そう言われ、少女は自分の存在意義生きる意味を否定された気分になったからだ。


 木に八つ当たりをし、全力疾走したおかげか、少女の頭がようやく冷えてくる。

 勢い余って孤児院から飛び出し、こんな所まで来てしまったが、すぐに戻るのは少しバツが悪い。

 さりとて、少女が戻れる場所はあそこ以外にない。

 さてどうしよう、と考えていると、町から飛び出し、少女に向かって走ってくる人影が二つ目に入った。


「げっ……」


 思わず下品な呻き声を上げる少女。

 その人影二つが、ノエルと、孤児院仲間の少年であると分かったからだ。


 あの黒髪紅眼の少年は、実は少女と同じ頃に入った経緯がある。

 町のすぐ近くで、ボロボロになって倒れていた所を憲兵に発見され、助けられたのだと。

 酷い怪我のせいか、名前以外この町に来る前の事は覚えていないらしく、そのまま孤児院神殿に預けられたという。

 少女とは、入った時期もそうだが、わりかし年齢も近い為、よく会話する間柄だった。

 とは言え、友人という訳ではなく、せいぜい知人が良い所だろう。

 実際、話しかけるのは大体少年からで、少女の方から少年に話しかけるのは滅多に無い。

 それこそ、何か用事でもない限りは、近寄りもしなかった。

 素っ気ない態度で、ともすれば邪険に扱った事もあるというのに、少年は何故か、それでも少女によくなついていた。


 真っ直ぐに、こちらに向かって駆けて来る二人を見て、少女は反射的にきびすを返してしまう。

 鬱陶うっとうしさと、気まずさからだ。


 刺すような陽光が降り注ぐ、良く晴れたこの日。

 少女は再び、因縁のある林へと足を踏み入れた。


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 神殿を、そして町を飛び出した少女を追って、ノエルと少年はひた走る。

 豆粒ほどの小さな姿を見失わないよう、必死に。


 ノエルの服装からして、走るのには余り適していないと思うが、ノエルはそんな事お構いなしに、バッサバッサとスカートを豪快に蹴散らして駆ける。

 その少し後ろを、黒い半袖シャツとズボンの少年が続く。


 門番をしている兵士達の困惑した声を置き去りに、町の門を抜けた所でノエルが声を上げる。

「いました!」

 その視線の先には、青々とした木々が育つ雑木林があった。

「っ!あそこはっ!ダメだ!そこには入らないでっ!!」

 咄嗟に少年が叫ぶが、少女の耳には届いていないらしく、ふいっと反転して林の奥へと消えて行った。


「あ……」

 少年の顔が、苦く渋いものに変わっていく。

 それを見て、ノエルは走りながら少年に訊ねた。

「何か知っているんですか?!」

「あの林には、凶悪な魔族が住み着いているんだ!あの子の両親も、ソレに殺された!」

「殺されたって……」

「ひと月前の話だよ。擬態する上にずる賢い奴だから、討伐する為に派遣された憲兵団をやり過ごして、今も身を隠してるんだ!」

「え、じゃあもしかして、あの林にはまだ?!」

「うん!十中八九いると思う!人肉を好んで食べる奴だから、早くしないと襲われちゃう!」


 そう叫ぶと、少年の速さが一段階上がり、ノエルと並んで走った。


 やがて、間を置かずに林へと到着する。

 一度立ち止まり、林の奥へと視線を送る二人。

 ここで、ノエルは気が付いた。

 林だと言うのに、虫の声が一切聞こえない事に。

 季節柄、今の時分はどこにいても、虫の声がやかましいぐらいに聞こえてくるのが普通だ。

 それが、森のなりそこないとは言え、木の密集する場所であるなら尚更。

 だと言うのに、何も聞こえない。

 しん……と、張り詰めた様な静けさが漂っている。


 ノエルには戦う為の手段がない。

 治癒魔法や障壁魔法等、補助系回復系の魔法は得意だが、攻撃魔法はからっきしだ。

 万が一襲われたら、この子達を守り切れるのだろうか。

 その不安から、ノエルは林の前で僅かに逡巡してしまう。

 すると少年は、気遣わしげな視線をノエルに向けて言った。


「ノエル様。怖いなら、ここで待っていてもいいんだよ?なんなら、憲兵の人達を呼びに行っても……」

 だが、ノエルは首を振って拒否した。

「いいえ、行きます。あなたもあの子も、まだ子供。私が、必ず守り切ってみせます」

 ノエルの決意に満ちたセリフを聞いた少年は、一瞬心配そうな色を瞳に覗かせたが、すぐに頷いて答えた。

 問答をしている暇はないと、思い至ったのだろう。

「うん。じゃあ、急ごう」


 そうして少年は、片手をズボンのポケットに突っ込んで何かを確認した後、ノエルと共に林へと入って行った。


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 林の中は、ひんやりと冷たく、静けさに包まれていた。

 少女の姿はどこにも見えない。

 右を見ても木、左を見ても木。

 乱立する木々は方向感覚を狂わせる。

 一応、獣道に近い、薄らとした通り道はあるものの、よく確かめないとすぐに見失ってしまいそうなほど危うい。

 濃く青い木々の匂いと土の匂い。

 それらを胸に取り込みながら、ノエルは地面を注意深く見つめる。


 膝丈まで伸び、一面に生い茂る雑草。

 その中で、見つけた。

 今しがた踏まれたばかりの草を。

 足跡の大きさからして、あの少女の物に違いない。

 どうやら、奥へと向かって行ったようだ。


「奥へ向かって行ったみたいですね。私が先頭を行きますから、ついて来て下さい」

「うん」

 しっかりと頷く少年を確認すると、ノエルも首肯を返してから、進み始めた。


 じっと、視線を下に固定したまま、なるべく早く足を進める。

 ガサガサと音が鳴る中、動物はおろか虫の一匹さえ見当たらない林内部に、ノエルはそこはかとなく薄ら寒いものを感じる。

 枝葉や木々の隙間から太陽の光が降り注ぎ、実に幻想的な光景が広がっているが、それが余計に、忌避感にも似た感情を沸き上がらせているのだろう。

 正直、何か理由がなければ、誰かと一緒でなければ、入りたいと思わない場所だ。


 そんな事を考えながら、ノエルは背後にある少年の気配を確かめつつ、黙々と足を運ばせた。


 それから少しして、ノエルと少年の耳に、人の話し声のようなものが届く。

 一つは少女の声、もう一つは男の声。

 距離がある為、会話の内容までは聞き取れないが、どこか緊張感を孕んだ声色だ。

 ノエルは、自分の斜め後ろにいる少年を見ると、片手の人差し指を口に当て、もう片方の手で声のする方を指し示した。

 静かに進もう、という事らしい。

 少年は、神妙な表情で頷いた。


 音を立てないように、慎重に足を運んでいると、やがて会話の内容が聞き取れるまでの距離になる。


 ノエルと少年は、出来るだけ大きい手近な木の影に、ピッタリと張り付いて隠れた。

 少女の姿が視認できる位置だ。

 そして、息を殺して、こそっと窺い見る。


 そこは、白く小さな花が絨毯の様に咲き乱れる場所だった。

 周囲に木々はなく、ぽっかりと楕円形に空いた場所に出来た花畑。

 頭上には青く澄み渡った空が広がり、焼かれるぐらいにキツイ陽光が降り注ぐ中、中央で大小二つの人影が立っていた。


 少女と対しているのは、少女とよく似た紅茶色の髪と眼の、三十代半ばほどの男性。

 温厚で優しそうな顔立ちをしており、今浮かべている表情も、穏やかの一言に尽きる。

 それとは反対に、少女の顔は驚愕と緊張と警戒にいろどられ、ピリピリとした気配を纏っていた。


 この光景を見て、ノエルの胸下近くから覗いていた少年が、僅かに息を呑んだ。

 そんな少年を置いて、男と少女は会話を再開した。


「ずっと心配していたんだよ。元気にしていたかい?」

「だ、誰?アンタ、一体何者なの?」

 じりっと、少女が一歩後退あとずさる。

 その様子を眺めながら、男は軽く首を傾げて答えた。

「何を言っているんだ。私は君の父親だよ。たったひと月だって言うのに、もうお父さんの顔を忘れてしまったのかい?」

「ウソだ!と、父さんと母さんは、あの時、わたしの目の前で魔族に殺されたんだ!お前は父さんなんかじゃない!」

「酷いなあ。じゃあ、ここにいる私は一体誰なんだい?」

 男が一歩前に進み出る。

 反比例して、少女が一歩後ろに下がる。

「大体、私が魔族に殺されたって言っていたけれど、その時の記憶ははっきりしているのかな?」

「そ、それは……」

 また一歩、男が少女に近づく。

「もしかしたら、おぼろげで曖昧な記憶を、そうだと決め付けているだけなんじゃないかな?」

「あ、ち、違う」

 少女は困惑したように視線を彷徨わせて、半歩だけ後ろへ移動する。

「私と母さんの死体を、ちゃんと確認したのかい?」

「そ、れは……。酷すぎるからって、見せてもらえなかったけど……。でも……」

 視線を落とし、足の止まった少女へ、男はゆっくりと近寄っていく。

 陽炎かげろうのように、ゆらりとした足取りのせいか、少女は徐々に近づいて来る男に気が付かない。

「それは、町の人達の嘘なんだよ」

「ウ、ソ?」

「そう。嘘。だって、私はこうして生きて、君の前に立っているじゃないか」

「で、でも、町の人達がそんな事する意味なんて」

 当惑して零す少女の肩に、間近にまで迫った男が、ポンッと手を乗せた。

 捕まえたと言うように、逃がさないと言うように。

 ビクッと跳ねる少女。

「っ!!あ……」

 息が浅くなり、冷や汗を流し始める少女を見て、男は目を細めて微笑んだ。


「ああ……。ようやく捕まえた。ずっとずうっと、こうして君に触れたかったんだ」


 言葉を失う少女に、男は口の端を吊り上げてわらう。


 そこにあったのは、先ほどまでの優しい微笑ではなく、不気味さと邪悪さを混ぜて、さらに恍惚こうこつを加えた様な、背筋が凍る笑顔だった。

 自分のよく知っている顔が、全然知らない表情を浮かべる。

 それだけで、人とは簡単に恐怖を抱くものだ。

 それが親と言う、最も身近な存在であるなら、より一層。

 少女の中で、不安や恐怖が瞬く間に膨れ上がり、やがて心を埋め尽くした。


「ひっ……」

 少女は、咄嗟に男の手を振り払おうとするが、ピッタリと張り付いていて離れない。

 それほど強く掴まれている訳でもないのに、なぜ?

 そう少女が思っていると、男は笑みを深くして口を開いた。

 そこに、人では有り得ない、爬虫類に似た細長い舌が見えた。

「ダメダメ。前はあとちょっとの所で邪魔が入ったけど、今度は逃がさないよ」

「やっ!離してっ!!」

 男の様子に、少女はただならぬものを感じたのか、必死でもがいて振りほどこうとするが、びくともしない。

 そんな少女をたのしそうに見つめながら、男はペロリと舌なめずりした。

「ああ……なんて美味しそうなんだ……」


 緊迫感が一気に増した光景に、少年が切羽詰まった表情でノエルを見上げる。

「ノエ――――」

「待って下さいっ!!」

 しかし、少年が言い終わる前に、ノエルは木陰から飛び出して花畑に踏み込んだ。


 ザッと、白い花弁が散る。


 突然の乱入者に、少女と男は驚いて、半ば反射的に顔をそちらに向けた。

「え……ノ、ノエル様……?」

 喘ぐように少女が漏らす。

 この暑いのに、恐怖で顔面は蒼白になっていた。

「ん~?誰だい?」

 男はと言うと、胡乱うろんげに目をすがめてノエルを睨みつける。

 その視線を、ノエルは正面から受け止めると、相手を刺激しないように、努めて冷静に話しかけた。


「私はノエルと申します。どうか、その子を離して下さい」

「え?何故?嫌だよ」

 にべもなく却下する男。

 ノエルは、一瞬だけ表情を暗くするが、すぐに戻して男を見据えた。

「……見たところ、貴方は魔族の方とお見受けします。その子を食べるのですか?」

 この言葉に、男は軽く驚いたのか、僅かに目を見開いてノエルを見返した。


「……おや。よく分かったね。私、そんなに分かりやすいかな?」

 男の身体に力が篭り、少女の肩に置かれた手がギリッと食い込んだ。

 痛みを感じて、少女の顔が歪む。

 それを見たノエルの表情もまたしかり。

「先ほどからの言動、そしてここに住み着いているという魔族の方の話。これらから自然と導き出された結論です」

「ほうほう。なるほどなるほど。つまり君は、さっきから私達の会話を盗み聞きしていた訳だね?なんて悪い子なんだ」

「……それについては謝罪します。ですが」


 そうして、緊張感を含みつつ淡々と会話を始めた二人を、少年は木の影からこっそりと窺い見る。

 次いで、微かな音も立てないよう、しかし素早い動きで迂回を始めた。

 目指すのは、少女に最も近い位置。

 あの男を殺せるとは思わない。

 だが、少女を引き剥がすぐらいは出来るはずだと、そう意気込んで少年は移動する。


 彼のポケットの中には、切り札とも言える物が四つ入っていた。

 それは約十日前、町に立ち寄り、孤児院、ひいては少年と多少の縁を持った旅人から貰った物だ。


 一つが、真空系の攻撃魔法。

 一つが、視界を変換する補助魔法。

 一つが、負傷を癒す回復魔法。

 そして最後の一つが、純粋な魔力を込めた物。


 旅人からは、最後の一つそれを使えば、一時的に大人と同等の能力を得ることが出来る。

 が、制限時間は五分だけ。

 さらに効果が切れると、反動として丸一日動けなくなるから、使い所はよく見極めろ、と言われている。

 要は諸刃もろはの剣のような物だった。


 少年はまだ幼いが故に、魔法を使う事が出来ない。

 使うのに必要な器官が未熟と言うのもあるが、それ以上に少年の心が問題だった。

 克服する為の助言も貰ったが、そうすぐに持ち直せるものでもないのが、心の厄介な所で、つまり、少年はまだ魔法が使えないのである。


 滑るように移動しながら、少年はポケットの中に入っている物を改めて確認するように触った。

 大きさは小指ほどと、それほど大きくない。

 ただ、区別がつきやすいようにと、形はそれぞれ違った。

 棒状、雫型、六角形、真球。


(確か、棒が攻撃、六角形が補助、雫が回復、真球が魔力だったはず……)


 使い方は簡単。

 ただ壊せばいいだけである。

 強度的にも硬い物では無いので、折るなり叩き付けるなりすれば、軽く壊せるとの事。


 それらを、貰った時から常時ポケットに忍ばせていたのは、ある意味不幸中の幸いだろうか。

 心の準備は出来ていなかったが、いずれ訪れるものだという事は分かっていた。

 だから少年は、この移動というごく短い間に心を決める。

 必要であれば全て使うという覚悟を。


 ノエルと男の問答は続いている。

 視線も、お互いを見たままで、少年には向けられない。

 気付かれていないのか、それとも察知はされているものの、大したものではないと放置されているのか。

 どちらにせよ、少年にしてみれば、邪魔をされないだけマシである。


 ノエルの声が少年の耳に届く。

「なぜ、人を食べるのですか?」

 表情は見えないものの、声色からいきどおっているのはよく分かった。

 反対に、男の声はひどくあっけらかんとしている。

「なぜ?美味しいからに決まっているよ。当然さ」

「美味しいって……」

君達人間だって、牛や豚を食べるだろう?それは美味しいからだよね?それと同じだよ」

 小首を傾げる男に、思わずノエルが声を荒げる。

「違いますっ!確かに私達もお肉は頂きますが、それは」

「生きる為に仕方のない事って言うんだろう?なら、私達と何が違うって言うんだい?君達人間は食べてもいいけど、私達魔族は食べちゃダメとでも言うつもりかい?」

「違います!肉を食べるな、と言っているのではありません!人はこうして、貴方達と同じ言葉を交わす事の出来る、意思疎通の出来る生き物です!どうしても食べたいと仰るのなら他の物を……」

「ほうほう。つまり君の言い分を聞くに、牛や豚、鳥や魚等の、意思疎通出来ないものなら食べてもいいんだね?同じ言葉を話せないから、食用に飼って、好きに殺して食べても良いって言うんだね?実に人間らしい、手前勝手な理屈だね」

「ちっ違いますっ!違いますっ!!」

 ブンブンと、勢いよくノエルが頭を振って、必死に否定する。

「違わないよ。肉はただの肉だ。畜生でも人間でも変わらない」

「――――っ!……私達〝人″と、貴方達〝魔族″の言葉が同じなのは、女神様が互いを理解し、受け入れ、共に歩んでいく為に統一したのだと言われています。実際、人と魔族が結ばれる異類婚姻譚も、長い歴史の中ではままある事です。そんな、ある意味同種族だと言うのに、なぜ殺し、あまつさえ食べてしまうのかを聞いているんです」

「ははっ。上手くはぐらかしたね。まあいいけど。そうだねぇ~、えて言わせてもらうなら、そんな他者の事なんて知らないし、どうでもいい、かな。たかが言葉が通じるから何だって言うんだ。最初から言っているだろう?私はただ、〝美味しい″から食べているだけだと」

 平行線のまま、二人の会話が途切れる。


 ノエルは、自分の気持ちが相手に伝わらない事が悔しいのか、ギュッと唇を引き結んでいた。

 そんな姿を見て、男は失笑しながら、少女をグイッと自分に近づける。

「さ、もうこの子の事は諦めて、さっさと町に帰りなよ。今なら見逃してあげなくもないからさ」

 少女が息を呑んで、必死に身をよじる。

「ひっ――!や、やだっ!助けて!ノエル様っ!!」

「私は強いよ?なんせ、魔族の中では別格と言われる竜種を倒したぐらいだ。ただの人間である君に勝ち目はない」

「やだっ!やだっ!!死にたくない!食べられたくないっ!助けて、助けてっ!!助けムグッ」

 真っ青になりながら、死に物狂いで助けを求める少女の口を、男はおもむろに手で抑えた。

「しぃー……。今は私が彼女と話しているんだ、エサは少し静かに、ね?」

 優しそうな表情を顔に張り付けているものの、その眼はどこまでも冷たく無機質だ。

「やめて下さい!彼女を離して!私が!私が身代わりになりますからっ!!」

 悲鳴のように叫ぶノエルへ、男は面白そうな目線を向けるが、すぐにフルフルと首を振った。

「ダメダメ。まずはこの子からだよ」


 言うや否や、男は口を大きく開けた。


 顎が外れたかのような大口。

 そこにあったのは、ノコギリの刃によく似た、細かくギザギザした無数の歯と、丸くくるまった細長い舌。

「ひぃ――――」

 笛の音の如く、細く小さい悲鳴が少女の喉から漏れた。


 その時、どこからか、パキンッと何かが割れる音が響く。


 瞬間、男に向かって突風が吹き荒れ、剣閃にも似た真空の刃が襲いかかった。

 咄嗟に身を引いた男だったが、一歩遅かったらしい。

 少女を掴んでいた左腕の肘から先が、あっさりと切断された。


「ギイィィィィッ!!」


 男の口から、苦悶の絶叫が上がる。

 同時に、肘から勢いよく赤い血が噴き出た。

 壊れた蛇口から漏れる水の如く、夥しい量の鮮血が重力に引かれて地へと落ち、青々とした緑の葉と真っ白い花を、次々と赤黒く染め上げていった。

 ポカンとする少女の顔に、まだ熱い返り血がパタパタと着く。

 すると突然、グイッと力強く後ろへ引っ張られた。

 我に返って、そちらをみた少女の目に映ったのは、決死の表情を浮かべる少年の姿。


「こっち!急いでっ!」

「え?え??」


 混乱が強いせいで、事態が理解出来ないのだろう。

 少女は未だ当惑したままで、足が動かない。

「早くっ!!

「――っ!」

 厳しく叱咤しったすれば、漸く足が動き出す。

「ノエル様も!早くこっちへ!」

 その言葉に押されて、ノエルも少年と少女に向かって走り出す。


 それを血走った目で、脂汗と赤い血液をダラダラと垂れ流した男が、食い入るように見ていた。

 そして、呻き声と共に叫んだ。


「こ、の……クソガキィィィィィッ!!」


 男の身体が変化する。

 ボコボコと、沸騰する水の様に皮膚が粟立ち、魔族本来の姿へと変わっていく。

 ツブツブした緑色の表皮が特徴的な、四肢が細い蜥蜴トカゲに似た生き物。

 ギョロッとした眼球は大きな円錐形で、左右バラバラに視点を動かす事が出来る。

 後頭部から冠の様な隆起がある爬虫類。


 要は、カメレオンの魔族だった。


 ただし、身の丈だけは規格外で、おおよそ人と同程度。

 起き上がれば大人の倍はある。

 人に化けていた時の姿も、全て擬態の一種だったらしく、元の姿に戻っても、魔族の周囲に服の残骸等は落ちていない。

 切断されたはずの左腕は、再生こそ出来なかったものの、変化に伴い止血だけはされていた。

 魔族の目に、地に落ちた自分の腕が映る。


 正直、油断していた。

 相手はただの人間と子供。

 まさか、伏兵がいるとは思わなかった。

 オマケにそれが、前回殺し損ねた相手だったとは。

 たったひと月で、自分の腕を持っていくほどの力を得たなどと、夢にも思っていなかった。

 許し難い。

 許し難い。

 弱者は弱者らしく、地に這いつくばって、強者自分に恐れおののいていれば良いのだ。


 魔族は、少年に対する怒りから、転がっていた自らの腕をその長い舌で絡めとり、バクッと口に放り込んだ。

 バキバキと骨を噛み砕き、肉を咀嚼そしゃくして飲み込む。

 すると途端、脱皮でもするかのように、左肘からズルリと新しい腕が生えた。

 最初、半透明だった新しい腕は、徐々に色付き、一秒にも満たない時間で、違和感なく元からあった腕と同化した。


 魔族は、腕の調子を確かめるように、腕を軽く動かす。

 そして問題ない事を確認すると、ベタベタと動き、ノエル達が去って行った方向へ身体を動かした。


「……逃がさない。今度こそ」


 低く低く、昏い声で魔族は呟く。

 その体表を、周りに溶け込むような保護色へと変えて。


 一方、林の出口へ向かって走るノエル達三人は、まず間違いなく追いかけて来るであろう魔族を気にしながら移動していた。


 ノエル、少女、少年の順に、草葉を蹴散らして走る。


「……あれで諦めてくれないでしょうか?」

 誰に向けるでもなく、ノエルが零した。

 あれで、と言うのは、片腕を落とされた事を指している。

「無理だと思うよ。あの魔族は、執着心が並外れて強いから」

 答えたのは最後尾を行く少年だ。

「……ずいぶんと、あの魔族について詳しいんだね」

 ボソッと少女が漏らすと、一瞬少年は口篭った後、

「……色々と、聞いたから……」

 そう、どこか言い難そうに返した。

「聞いた?聞いたって誰から?」

 棘のある口調で少女が問いただそうとする。

「その話は、無事町まで逃げ切れたらで良くありませんか?今は詳しく聞いているだけの余裕もありませんし」

 が、それを止めたのは、先頭を行くノエルだった。

 ノエルの諫める言葉に、少女は渋々といった様子で頷く。

「…………わかった」

 明らかに納得がいっていないものの、今の状況から、確かにノエルの言う通りだと理性の部分で判断したのだろう。


 ザワッと空気が揺れた。


 突き刺すような殺気が、三人の背後から迫って来る。

 出口はまだ遠い。

 少年は、チラッと背後を見ると、ポケットに手を突っ込んで、一つの結晶を取り出した。

 六角形をした紫色の結晶だ。


「それは……?」

「ちょっと前にへ……旅人さんから貰ったんだ」

 訊ねるノエルに、少年は手短に返すと、おもむろに結晶を思い切り握り締めた。

 パキュッと、卵を握り潰した時のような音が鳴る。

 すると、瞬く間に結晶に込められていた魔法が発動し、少年の視界が様変わりした。


 世界が半透明の白黒モノクロへと変じ、体温のある生き物だけが淡く光る。

 少年の目の前にいる大きな人型がノエル、その手前にいるやや小さな人型が少女のものだ。

 そして、背後から来る魔族は、巨大な爬虫類の姿で、乱立する木々を長い舌を使って縦横に飛びながら迫っていた。

 距離はまだ開いているが、こっちは木々を避けて走っている上に人の足だ。

 遠からず追い付かれてしまうだろう。


(なんとか、時間稼ぎだけでもしないと……)

 内心の焦りを押し殺して、少年は道々に落ちている石や、出来るだけ硬い枝を見繕って折っていく。

「何やってんの?こんな時に……」

 怪訝そうな少女の声が少年の耳に届く。

「ごめん。ボクには武器が無いから、せめてこれで時間稼ぎぐらい出来ないかなって思って……」

「はあ?たかが石や枝で何が出来るって言うの?バッカじゃない?」

 あんまりと言えば、あんまりなセリフ。

 仮にも自分を助けてくれた者に対して言う言葉じゃない。

 普通なら不機嫌になってしまってもおかしくない言葉に、それでも少年は気分を害した雰囲気も無く、ふっと苦笑を返した。

「うん。ボクもそう思う。でも、こんな時だからこそ、出来る事は全て試してみないと。何が効果あるか分からないからね」

 真っ当な正論にぐうの音も出ないのか、少女はフンッと鼻息荒く前を向いてしまった。

 それを、困った様な微笑を浮かべて見るノエルと少年。


 ザワザワと木々が鳴った瞬間。

 少年は持っていた枝を、鋭く頭上目掛けて放った。

 弓矢もかくやと言わんばかりの勢いだったが、それはすぐに二つにへし折られ、残骸が降り注ぐ。


 ノエルと少女の目には何も映っていない。

 ただ、茶色と緑の枝葉が広がっているだけだ。

 だが、それでも、少年の放った枝のおかげで、そこに例の魔族がいる事だけは分かった。

 立て続けに、少年が枝と石を投擲とうてきするも、それらは即座に叩き落され、粉砕され、ダメージに繋がるものにはならない。

 魔族の現在地を測るには一役買うが、結局はそこ止まりで、攻撃手段を持たないノエルと少女にはどうする事も出来なかった。

 むしろ、お返しとばかりに、少年に向かって幾つもの衝撃波が落ちてくる。

 実際の所、それは衝撃波などではなく、魔族の長い舌が猛烈な速さで少年に繰り出されているだけなのだが、姿を視認する事の出来ないノエルと少女からは、ただの衝撃波にしか見えなかった。


 全てをかわすのは、今の少年の力量的に無理な為、致命傷になりそうなものだけをギリギリの所で回避する。

 が、それは言い換えれば、致命傷以外は全て食らう事を意味していた。


 弾ける土と葉、抉れる木の幹。

 その中に混じって、少年の腕や足、頬から赤い血が舞う。

 苦痛に顔を歪めるが、意地でも声は漏らさず、頭上を見据える。

 と、少年の視線が唐突にグルッと動いた。


「っ!!ノエル様!止まってっ!!」

「っ!?」

 少年の叫びに反応して、ノエルの足が急停止する。

「わっぷっ!」

 必然的に、後ろを走っていた少女は、ノエルの背中に激突する形で止まった。


 全力疾走からの急停止で、足元の土が抉れるが、それ以上の土が波飛沫なみしぶきの様にノエルの前方から巻き起こる。

 咄嗟に少女を背に庇ったノエルは、そのまま反射的に魔法を唱えた。

障壁レモラ!」

 刹那の速さで、透明な障壁がドーム状に展開され、ノエルと少女、そして少年を覆う。

 それとほぼ同時に、障壁の前方からバチンッ!と鞭でも鳴らした様な音が響いた。

 魔族の攻撃が、障壁に阻まれたのだろう。

 続けてそれは、電流でも走っているかの如く、バチバチと連続で鳴り続ける。

 ノエルの得意な魔法だけあって、障壁の強度はなかなかのものらしく、かなりの勢いで打ち付けられているのに、破れる気配は一向にない。


「なになに?!なんなの!?」

 少女は、混乱と怒りがない交ぜになった口調で叫ぶ。

 「二障壁レモラツヴァイ!」

 ノエルが念の為にか、さらに障壁魔法を重ね掛けする。

 それを眺めながら、少年は歯噛みしていた。

 少年の手元にある結晶は、あと回復と魔力補給のみ。

 魔力の結晶を使えば、状況の打開を出来るかもしれないが、少年にはそれを躊躇ちゅうちょしてしまう理由があった。


 一つが制限時間の件。

 たった五分で、目の前の魔族を倒せるのか不明だったから。

 もう一つは、単に自信が無かった故。

 他の同年代の子と比べると、少年は小さく、また気が優しかった。

 気が優しいと言えば聞こえは良いが、要は気が弱いのである。

 こと、このような戦闘等の荒事になってしまうと、自分なんかと後ろ向きに考えてしまいがちだった。


 そして最後の一つ。

 これが一番大きな理由だろう。

 有り体に言えば、それは恐怖。

 魔力の結晶を使った結果、ノエルと少女にどう思われるのか怖かったからだ。

 本当の自分を受け入れて貰えるか、それが分からないから怖い。

 怒りをぶつけられるだけならまだ良い。

 でも、恐怖し拒絶されてしまうのは、辛くて、痛くて、耐えられない。


 だから、少年は魔力の結晶を使えずにいた。


 攻撃の結晶は初っ端で使ってしまった為、反撃する手段がない。

 少女が食べられてしまうと思い、焦って使ってしまった結果が、ここで響いてくるなんて。

 そう少年が忸怩じくじたる思いを抱いていると、ふと魔族による攻撃の手が止まった。

 次いで、空間から滲み出る様に魔族の姿が眼前に現れる。


 巨大なカメレオン。


 その巨体を見て、少女が引き攣った悲鳴を上げた。

 ノエルは表情を変えず、目も逸らさずに魔族を見据えている。


「……硬いねぇ~。凄く硬い。私が知っている障壁魔法とは思えないぐらい硬いよ。ねぇ、それ解いてくれないかな?」

 姿形はカメレオンなのに、口から発せられる言葉と声は、先ほどと変わらない。

 そのアンバランスさに、少女が生理的な嫌悪感を抱いていると、ノエルが間髪入れずにキッパリと答えた。

「お断りします」

「でも、君達に攻撃の手段は無いよね?さっきの、ちゃちい枝や石を投擲するぐらいしか手がないでしょ?このまま障壁を張り続けても、やがて魔力が尽きて解けてしまう。その子を渡してくれれば、君達は見逃してあげる。私に働いた暴挙も許してあげる。ね、悪い取引じゃないと思うんだけど?」

 ニタッと、魔族の顔が醜く歪む。

 どうやら笑ったらしい。


「お断りします」

 だが、ノエルの返事は変わらない。

 迷いなく、淀みなく、真っ直ぐに魔族を見つめてはっきりと返した。

 魔族の眼が、すうっと細くなる。

 不快なのか、それともノエルを見定めているのかは分からないが、少なくとも好意的な意味ではなかった。

「私が嘘を言っている可能性を考えているのかな?大丈夫。嘘は言わない。君達に手は出さないと誓うよ」


 ぎゅっと、少女がノエルの服を掴む。

 見捨てないでくれ、とこわばり震える手が告げている。

 ノエルはその手をそっと握り返す。

 決して見捨てない、安心して、と言わんばかりの、優しい暖かい手だった。


「お断りします。この子は渡しません」


 魔族の眼に剣呑けんのんな色が浮かぶ。

 何度も拒否するノエルに苛立ったんだろう。

 付け加えるなら、魔族である自分にまったく恐怖を抱いていない様子も気に食わなかった。

 どうにかして、この妙にしゃくに障る女の顔を歪めたい。

 驚愕に、恐怖に慄く顔を見たい。

 そうして、魔族はふと思いついた。

 最も効果的な一言がある。

 ノエルだけでなく、この三人を仲違なかたがいさせるに充分な言葉だ。

 その時の情景を思い浮かべて、魔族の口の端に、目の奥に、いやらしい色が溢れる。


「……なんて頑固な人なんだろうね。じゃあ、そんな真面目な君に、一つ良い事を教えてあげるよ。お綺麗な君へのご褒美だ」

 ノエルが怪訝そうに首を傾げる。

 ノエルだけでなく、少年も少女も、胡乱げに魔族を見返した。


「君の、いや君達の後ろにいるそこの少年ね。彼は――だよ」 


 一瞬の静寂。

 時が止まったかのような無音。


「……え?」

 まず、そう零したのは少女だ。

 怖々と後ろを振り返り、少年を見る。

「あ……」

 少年の紅い瞳が揺れた。

 少女の目に浮かんだ疑心と不安と恐怖を見て、少年が一歩後退あとずさる。

「……うそ……」

 その様子に、否定しない少年に、少女は愕然とした様子で、ノエルの服をより強く握り締めた。

「魔、族……なの?」

「あ……ボ、ボク、は……」

 少女の問いに、少年は喘ぐように、陸に打ち上げられた魚の様に、口をパクパクと開閉するが、意味のある言葉は出て来なかった。

 こんな形で、と混乱パニックで頭が真っ白になってしまったせいだ。


「そうだよ!その少年は魔族だ!しかも〝竜種″!魔族の中でもトップクラスの力を持つ凶暴な奴さ!君の両親を殺したのも彼だよ!見ただろう?あの日、空を悠々と飛ぶ彼の姿を!」

「ちっ違うっ!!殺したのはアイツだ!ボクは、君達にアイツの事を知らせる為に」

「いやいや、騙されちゃいけないよ!どうして彼が、人の姿になって町に入ったと思う?どうして、ずっと君のそばにいたと思う?それはね、機を窺っていたのさ!君が一人になる瞬間を、君を食べる隙を」


「いい加減にして下さいっ!!」


 怒声が響く。

 発したのは、怒りで顔を真っ赤にしたノエルだ。

 ポカンと、魔族が固まる。

 少年と少女も、怒りに震えるノエルの剣幕に、混乱もどこかにすっ飛んで行ったらしく、唖然とその背中を見つめた。


「嘘を言っているのは貴方の方です!彼が、この子の両親を殺した?この子を食べる為に、町へ行き人に紛れて機を窺っていた?そもそも食べるつもりなら、その機会はひと月の間に幾らでもあったはず!なのに、彼はこの子を食べなかった!それが、貴方の言葉が嘘である証拠です!不当に彼をおとしめる讒言ざんげんはその辺になさいっ!!」

「い、いや……でも、その少年が竜種の魔族なのは本当で」

 しどろもどろな魔族に、ノエルはさらに声を荒げる。


「だから何です!そんな事、私は最初から知っていました!!」


「――――へ?」

 間抜けな声を発したのは、やはり魔族。

 少年と少女は、口を挟むことが出来ずに、ただ成り行きを見守っていた。

 もちろん、その目には魔族と同じ疑問、と言うか困惑をたたえている。


「私は〝神眼者″です。この眼は、人と魔族を見分ける事が出来るんです。だから、彼が魔族である事は、一目見た時から知っていました」

「な…………」

 呻く魔族をよそに、ノエルは芯のある言葉を続ける。

「その上で、私は彼の事を信頼に値すると判断しました。彼の目には嘘が無かった。彼の目には優しさがあった。魔族であろうと魔族でなかろうと、そんな事どうでも良い。私は彼を信じる。そう決めたんです」

「な……ぁ……」

 思わず絶句する魔族。


「ノエル様……」

 少年は、堂々と、一瞬の迷いもなく言いきったノエルを感慨深げに見つめると、すっと視線を少女に移した。


「……ずっと騙しててゴメン……。魔族と人が仲良くないのは分かってたから、例え本当の事を話したとしても、信じてもらえないと思ったんだ……」

 少年の実直な言葉を聞いても、少女の表情は晴れないまま、少年を食い入るように見つめる。

 その視線に耐えかねたのか、少年が再び口を開きかけた時、それを遮って少女が声を発した。

「……正直、わたしはまだアンタの事を信じられない。ノエル様の言葉は素晴らしいと思うけど、わたしはノエル様じゃない。魔族に両親を殺された事は変わらないし、魔族を恨む気持ちは今もある。そして、アンタは魔族だ」

 少女の、憎しみの篭った低く重い言葉に、少年は黙って視線を落とす。

 だが、「でも」と、少女は厳しい目と口調は変えずに続けた。

「あの日、本当な何があったのか知りたい気持ちもある。……だから、それを後で教えて欲しい……とも思ってる」


「……え?」

 パッと、少年の顔が上がる。

 瞳には驚きが色濃くあった。

 少女が、ふいっと顔を背ける。

「勘違いしないでよ。アンタを信じたわけじゃないから」

 典型的なツンデレの反応だが、それはさておき。

 少年は嬉しそうに勢いよく頷いた。

「うん!」


 背後にいる二人の会話を聞いて、ノエルが内心微笑ましく思っていると、眼前の魔族から低く引き攣った声が漏れ聞こえた。

 怪訝そうに三人が目をやると、やがてそれは、場を満たすほどの哄笑こうしょうへと変わった。


 魔族の大きな口から、真っ黒い感情と共に、心底相手を馬鹿にしたような嗤い声が飛び出る。

「はははっ!なんて、なんて茶番だ!こんな所で、こんな下らない仲良しごっこを見せられるとは!あっはははっ!!あぁ~……本っ当に、苛つく」

 吐き捨てるや否や、魔族の姿が溶ける様に消え始めた。

 擬態、と少年は言っていたが、実際の所、それは擬態の枠を超えて、透明化の域に達している。

「もういいや。出来れば君達の悲鳴を聞きながら食べたかったけど、なんかムカつくし、遠慮なくグチャグチャに殺してあげるよ」


 瞠目どうもくする三人を置いて、魔族の姿が完全に消えた時、耳をつんざく衝撃音が障壁内に響いた。

「きゃあっ!」

 あまりのけたたましい音に、少女から短い悲鳴が出る。

 そして、何かを勢いよく叩き付ける音が連続して響き、やがて障壁の天井部分にひびが入り始めた。

 細かい蜘蛛の巣状に広がる割れ目。


「ノ、ノエル様っ!」

「大丈夫です。割られる前に、また障壁を張りますから」

 怯える少女を安心させるように、そう返したノエルだったが、内心はかなり焦っていた。

 魔族が言った通り、こちらに反撃の手段は無い。

 ノエルの魔力は、まだまだ余裕があるものの、それもいつかは尽きてしまう。

 いかに聖女候補とは言え、無尽蔵の魔力なんて持ち合わせていない。

 ジリ貧なのは目に見えている。

 隙をついて障壁を解き、出口に向かって走る。

 その際、全員に強化魔法をかければ、もしかしたら出し抜ける可能性もあるが、いかんせん相手の姿が見えないのが致命的だ。

 これでは相手の隙をつく事も、障壁を解くタイミングも、走る方向でさえ決める事が出来ない。


 ノエルが、背中に冷たい汗を流していると、おもむろに少年が前に進み出た。


「っ!どうしました?」

 内心の焦りを悟られないよう冷静にそう訊ねると、少年は至極落ち着いた声で、ノエルに向かって話しかけた。

 いや、半分は独り言に近い。

「旅人さんが言っていたんだ。ボクがなかなか成長しないのは、心の芯が定まっていないからだって。フラフラと迷ったまま、どっちつかずだから、無意識に成長を阻害してしまっているんだって」

「あの?」

「反対にその芯が、確固たる覚悟が決まってしまえば、成長が再開するはずだと。でも、それは一気に成長するんじゃない。だから、あの方の魔力が込められたこの結晶を使えば、今この時だけでも成体になれる。そうすれば、その間だけでも魔法が使えるようになるはずだと、そう仰ったんだ」

 言いながら、少年はポケットから真球の紫水晶を取り出す。


「それは?」

 訊ねるノエルに、少年はフッと不敵な笑みを浮かべた。

「切り札……かな。ノエル様、ボクの合図に合わせて障壁を解いてくれる?」

「え、でも……」

「大丈夫。ノエル様とこの子のおかげで、ボクの心は決まった。もう迷わない。今度は負けない」

 すると、障壁の外から、挑発するような魔族の声が届いた。

「おやおや。ずいぶんと自信満々だねぇ!竜種の基本攻撃である〝吐息ブレス″すら出せないガキが、どうやって私に勝つって言うんだい?」

 この言葉に、少年はすうっと目を細めた。


 同時に、その気配が冷たいものへと変わっていく。

 魔族特有の、冷酷なものへと。


「ガキ……か。ボクから見れば、そっちの方が子供ガキなんだけどね」

「何?」

 その問いには答えず、少年はさらに続ける。

「爬虫種の魔族。君はボクと同じで、とても臆病だ。攻撃されるのが怖いから身を隠す。否定されるのが怖いから嘘を吐く。誰かを信じるのが怖いから、誰も信じないし拒絶する」

「は?何を言って……」

「怖くて怖くて、仕方ないんだよね?魔族で言う所の負けとは、つまり死だ。死にたくないから、なるべく安全な形態で、安全な策をろうして、こっそりと背後から襲うんだよね?」

「……黙れ」

「それは魔族であるボクに限った話じゃない。例え、自分より遥かに弱い人間であっても恐怖を拭えない。死ぬのが怖い。さげすまれるのが怖い。攻撃されるのが怖い。だから、隠れて隠れて隠れて、逃げ続ける。なんて生き汚い。なんて意気地が無いんだ。魔族の風上にも置けないよ」

「黙れ。黙れ黙れ黙れ黙れ、黙れぇぇっ!!」


 響き渡る魔族の絶叫。

 図星を突かれた故の激昂だ。

 そして、激昂とはつまり、絶好の隙でもある。


「ノエル様!」

「はい!」

 瞬時に、張られていた障壁が全て消え失せる。

 それと同時に、少年は手に握っていた球を握り潰した。


 刹那、砕けた結晶から膨大な魔力が溢れ、少年を包み込んだ。

 金の粒子が舞う、漆黒の魔力。

 そこに時折、稲妻の様に紫の光がほとばしる。

 この色に、ノエルは覚えがあった。

 旅の途中、ほんの僅かな間、時間を共にした二人の旅人。

 その内の一人、魔族である黒紫の旅人、イヴルが纏っているのと同じ色だった。

 一度見たら決して忘れない、鮮烈な色。

 それと同じ、特徴的な色をした魔力が、渦を描いて少年を取り囲んでいる。


 唐突に起こった現象に、少女もノエルも呆然としてしまい、動く事も声を発する事も出来ない。

 恐らく、魔族も同様の状態なのだろう。

 障壁が解かれたと言うのに、二人に対して攻撃が飛んでくる気配は無かった。


 そうこうしていると、渦の勢いが次第に加速していき、少年へと吸い込まれていく。

 最後、吸収しきれずに残った僅かな魔力は、ふわっと霧が晴れるように散っていった。


 先ほどまで少年がいた場所に、少年の姿は無かった。

 代わりにいたのは、十七歳ほどの青年。

 どこか儚げな雰囲気を纏う、線の細い黒髪紅眼の美しい青年だ。

 人と違うのは三点だけ。

 背中に蝙蝠こうもりの様な黒い翼が一対ある所と、ピンと尖った耳、その上から黒いつのが生えている点だ。

 天に向かって真っ直ぐに伸びる角は、彼の心根を表しているかのように潔い。


「誰だ……?」

 魔族の呻くような声が降ってくる。

 少年、いや青年は、視線をついっとそちらへ向けた。

 そして、落ち着いた低い声で魔法を唱える。

「……看破コグニス

 隠蔽いんぺいしているものを強制的に暴く、この無粋極まりない魔法は、蒼碧の光が放射状に広がり、それが対象に当たる事で効果を現すものである。

 それは魔法の類いであろうと、当人が身に付けている特技や性質であろうと関係ない。

 当然、透明化している魔族に向かって放たれたものであり、あの巨体からして避ける事は不可能だ。


 光の粒子が魔族にぶつかった瞬間、その姿は弾けるように現れた。


 位置は、ノエル達の斜め向かいにある太い木と木の間。

 そこには、生存本能を刺激されたせいか、今まさに逃げようとしている魔族の姿があった。


「逃げるつもり?」

 青年が氷の様な声色で、淡々と訊ねる。

 対し、訳の分からない魔力の放出、少年の唐突な成体化、からの透明化の強制解除と、目まぐるしく変わる状況についていけないのか、魔族は攻撃をするでもなく、ただ狼狽うろたえて反転した。

 成体大人の竜種が相手では、逆立ちしても勝てないと悟ったのもあったのだろう。

「ク、クソッ!」

 長い舌を鞭の様に伸ばし、手近な木の枝へと絡ませる。

 絡み付いた舌を支点にして、大きなカメレオンの身体が上方に向かって引っ張り上げられるが、

「ダメ。逃がさない」

 そう、無情な宣告が飛んできた。


 青年は素早く腕を高く上げ、魔族に向かって勢いよく振り下ろした。

 強烈な速度と圧力によって、腕から発生した衝撃波は、木々を薙ぎ倒し魔族の舌を切り飛ばす。

 宙に舞う木の葉と、切断された長い舌。

 そして、長い長い魔族の絶叫。

 舌を切られた激痛、それに加えて、切り倒された木がその身を押し潰したからである。

 ウゴウゴと、ピンで刺された虫の様に蠢く魔族。

「だ、だ、助、助げで……」


 青年は、ゆっくりとした足取りで魔族へと歩き出した。

 だが、その行く手を、ノエルが通せんぼする形で止めた。


 青年は、先ほどとは反対に、ノエルを見下ろしながら首を傾げた。

「どうしたの?ノエル様」

「……あの方を、どうするつもりですか?」

「どうって……もちろん殺すんだよ」

 至って普通に、あっけらかんと言い放つ青年。

 その言葉に、絶句してしまいそうになるのを必死に抑えつつ、ノエルはさらに問いを重ねる。

「殺すって、そんな簡単に……。思い留まっていただけませんか?」

「え?なんで?ソイツは人を殺すし人を食べるんだよ?生かしておく意味、無いと思うけど?」

 純粋に分からないと、青年は顔をしかめる。

「……わたしもそう思う。わたしの家族を殺して、わたしを食べようとしたくせに、自分だけ助かろうだなんて許せない。ソイツは生きていたらまた人を食べる。今、殺しておくべきだと思う」

 青年に続けて、少女がありったけの憎しみを込めた目で、魔族を見下ろしながら言う。

 射殺すような視線を受けて、魔族がか細い悲鳴を上げ、目を逸らした。


 ノエルは、ぐっと息を詰めると、振り返って魔族に向かって歩き出す。

「ノエル様!危ないよ!」

 咄嗟に制止の言葉をかける青年。

 だが、ノエルは止まることなく、魔族の一歩手前まで近寄ると、膝を折って魔族と視線を合わせた。


「今後、人を襲わない、人を殺さない、人を食べないと、約束していただけますか?」

 唐突なノエルの問いに、困惑したのは魔族だけではない。

 青年も少女も、間を丸くして驚いている。

「約束、していただけますか?」

 もう一度、念を押すように強く訊ねるノエル。

 それに圧されたのか、魔族は戸惑いながらも、首をカクカクと縦に振った。

「わ、わ、分かった。約束する。だ、だから助けて……」

 魔族の返答に、ノエルは頷いて立ち上がり、二人に目を戻す。


「これで許して下さいませんか?人に手を出さないと約束していただきましたし」

 そう、落ち着いた口調で言うノエルに、少女は激情の赴くまま声を荒げた。

「そ、そんなのウソに決まってる!そうやって今だけ都合のいいことを言って、わたし達が油断した瞬間、襲うに決まってる!」

 少女の否定の言葉を聞きながら、青年は思案げに沈黙を保っていた。

 そんな青年の様子を視界に収めつつ、ノエルは少女に向かって、さとすように言葉を続ける。

「相手が憎いから、信じられないからと言って、発言の全てを嘘と決めつけてしまうのは、悲しい事だと思いませんか?私達が信じれば、きっと相手からも信頼が返ってきます」

「なんで?なんでそんな無条件に相手を信じられるの?なんでこの状況で、しかもわたし達を襲ってきた魔族を信じられるの?」

「それが女神様の教えです。言ったでしょう?〝赦す事で、人は真に前へ進める″と。貴女にとって、今がまさに、それを為せる時だと思いませんか?」

「女神様の教えって……」


 言いたい事は分かる。

 その教えが、とても清く正しく美しいものである事も。

 でも、そうは言っても、心はそんな簡単に出来ていない。

 赦せないものは赦せない。

 まして、相手は今さっきまで自分達を殺して喰らおうとしていた魔族だ。

 いかに女神の教えを第一とする神官とは言え、簡単に、それこそ一欠片ひとかけらの疑いも持つことなく、心の底から相手を信じきる事が出来るだろうか。


 そう考えながら、少女は探るようにノエルを覗き込む。

 銀の虹彩が散る浅葱色の眼。

 同じ人とは思えないほど、不可思議な色をした瞳は、一切のかげりなく、真っ直ぐに少女を見返している。

 つまりは、心底から言っているのだろう。

 ゾワッと、得体の知れない不気味さを感じる少女。

 この寒気は、到底自分には理解出来ない、と言う拒否感から来るものだ。


 ひるみ、言葉を続けることが出来ない少女に変わってか、不意に青年が声を上げた。


「ノエル様の言いたい事は分かる。でも、ボクとしては彼女の言い分の方が共感出来るし、そっちの望みを叶えたいと思う」

「……つまり、何がなんでもこの方を殺す、と?」

「そうしたいけど、そうするとノエル様は、全力でソイツを守るんでしょう?」

「もちろんです」

 淀みなく言い切るノエルに、青年は困ったように深いため息を吐いた。

「それは、ボクとしても望むところじゃない。だから、ノエル様の言う通り見逃してあげる」

「ちょっと!」

 思わず、青年に対して抗議する少女。

 だが、それに対して青年はすぐに手で制すると、「ただし」と言葉を続けた。

「こちらの出す案を呑んでくれるなら、と言う条件付きだよ」

「案……ですか?理不尽なものは認められませんよ?」

 険しい表情のままのノエルに、青年は冷静に淡々と続ける。

「そんなに無茶な要求じゃないよ。ただ単に、ソイツを見逃すのは一度だけって事」

「一度だけ……」

「そう。一度裏切った奴は二度三度と、何度でも裏切る。不貞と一緒さ。だから、一度だけ。次ボク達に危害を加えようとしたら、容赦なく殺す。ボクに出来る譲歩はここまで。どうする?ノエル様」


 強くは無い、むしろ穏やかな口調。

 しかし、確固たる芯の篭った青年の言葉に、ノエルはいささか迷い、背後にいる魔族をチラリと見た。

 そこに先ほどの威勢は無く、まるで別人の様にこちらを怖々と見上げ、怯えて震える姿があった。

 到底演技とは思えないし、ここまでされて、後で約束を反故ほごにするとは考えられない。

 そう思ったのか、ノエルは頷いて青年へと視線を戻した。


「分かりました。その条件を呑みます」


 ノエルの承諾を得て、青年は一度頷いた後、少女に目を向けた。

「と、そういう訳なんだけど、どう?」

 今回の件、実際にどうするか決定権があるのは少女だ。

 親を殺されたのも、狙われたのも少女であって、青年でもノエルでもない。

 どうしても引かないノエルに、妥協案を示しはしたが、少女が受け入れられない、殺してくれと頼むのなら、青年としてはそれに従うのもやぶさかでなかった。

 所詮は部外者のノエル。

 知り合って間もない人間と、生活を共にした少女、どちらに重きを置くかなど、火を見るよりも明らかだ。


 少女は青年の問いかけに、しばし俯いて考える。

 正直、成体大人の姿でいるのに時間制限がある為、なるべく早く結論を出して欲しいが、さりとて急かすような事は言いたくない青年。

 魔族、特に竜種である自分とは命の長さが桁違いに短い故に、出来るだけ後悔の少ない選択をして欲しい、との思いからだ。


 やがて顔を上げた少女は、未だに迷っている様子を見せつつも、ゆっくりと頷いて了承した。

「……分かった。それでいい」

 か細い声だったが、ノエルにはしっかりと届いたらしく、パアッと晴れ渡る様な笑顔を浮かべた。

「ありがとうがざいます!」

 全力で感謝の篭ったノエルの言葉にも、少女の表情は晴れる事なく、むしろ複雑そうな面持ちで視線を地面に落とす。

 心中では、まったく納得していないのが丸わかりの態度に、青年は気遣わし気に再度少女へ確認する。

「……本当にいいの?」

 コクリと、力を失ったように首を落とす少女。

「……うん」

 その姿に、これ以上訊ねるのはこくか、と判断した青年は、難しい表情を保ったまま、頷いて返した。


「分かった」

 そう言うと、青年はおもむろに歩き出し、ノエルへ近寄る。

 より詳細に言うなら、ノエルに、ではなくその後ろにいる魔族に向けて足を踏み出したのだ。

 微かに警戒したノエルを、青年は目で大丈夫と告げる。

 それを読んでか、ノエルは身体を半身にして道を譲った。

 そしてそのまま成り行きを見守る。


 青年は、魔族を押し潰している木に足を乗せると、下敷きになっている魔族に向かって低く、威圧を込めた声色で言葉を発した。

「良かったね。心優しいノエル様がここにいてくれて。さてと、言った通り、君を見逃すのは一度きりだ。約束を反故にした瞬間、問答無用で殺すからそのつもりでいてね」

 ガクガクと、壊れたように頷く魔族。

 その姿を見て、青年はニッコリと微笑んだ。

 顔は笑っているものの、目の奥はまったく笑っていない、凄絶せいぜつな微笑。

「じゃあ、今から木を退かすね。退かしたら、さっさとこの林から出て行って、二度とここら辺一帯には近づかないでね。約束出来るかな?坊や」

「ひっ!は、はい!はいっ!」

「良い子だ」

 欠片も感情の乗らないセリフを言いながら、青年は足に力を込め、木を軽く蹴飛ばした。


 途端、まるで重さを感じさせない勢いで、木が奥へと吹っ飛んで行き、別の太く大きい樹木にぶつかって停止する。

 爆発音に似た轟音と共に、バサバサと大量の葉が舞い散った。

 青年が蹴飛ばした木は、人の何倍もある背丈に、幹は大人三人が腕を広げて輪になったぐらいの大きさがある。

 普通に考えれば有り得ない光景だが、それを可能にするのが魔族であり、魔族の中でも別格と言われる竜種の力だ。


 木が退けられた瞬間、自由になった魔族は脱兎の如く駆け出し、林の奥へと逃げて行った。

 あれだけ執着していた少女に見向きもせず、一心不乱に全力で逃げて行く姿は、いっそ清々しいものを感じる。


 その後ろ姿を見送った後、ノエルは青年に向かって頭を下げた。

「思い留まっていただき、ありがとうございました」

 ノエルの旋毛つむじを見つつ、青年は動揺したように一歩後退る。

「え、あ、いや。お礼ならボクじゃなくて彼女に。彼女が許さなかったら確実に殺してたし」

「そ、うですか……」

 頭を上げ、一瞬だけ悲しそうに言葉に詰まったノエルだが、すぐに少女へ駆け寄ると、彼女の手を握って改めて礼を言う。

「ありがとうございました。あの方を赦していただいて」

 ノエルの純粋な礼に、少女は居心地悪そうに視線を逸らした。

「……別に、赦した訳じゃない。わたしは今でも、あの魔族を恨んで、憎んでる。出来る事なら、苦しんで苦しんで苦しんで、後悔に呑まれながら死んで欲しいって思ってる」

 少女の正直な胸の内を聞いて、ノエルの表情が曇る。

「……でも、アイツへの憎しみが無かったら、わたしはここまで生きていなかった。だから……決して赦せはしないんだけど、その……」

 自分の気持ちを上手く表現出来ないのか、少女の言葉は途切れ途切れで要領を得ない。

 だが、言いたい事はなんとなく伝わったようで、ノエルの表情に明るさが戻った。

「それで良いのです。今はまだ赦せなくても、いつか赦せるかもしれない。決して赦せない憎むべき相手でも、貴女は逃がす事を了承してくれた。それが、ひいては〝赦す″事への一歩になるのです」

「……ノエル様の言う事はよく分かんないけど……まあいいや。じゃあ、町へ帰ろう。憲兵団の人にも、魔族を撃退したことを報告しないと」


 少女がそう言った瞬間、青年の姿が黒いもやに包まれた。

 驚くノエルと少女に、青年は靄の中から「大丈夫、大丈夫」と声をかける。

 数秒後、掻き消えるように靄が散ると、現れたのは二人がよく知る少年の姿だった。

 やはり、驚いて言葉を失っている二人に対して、少年は照れたように笑いかける。


「良かった~。なんとかギリギリ間に合ったよ」

「え、い、一体なんなの?急に大人になったかと思えば、今度はまた子供に戻るなんて……」

「そ、そうです!あの紫色の結晶と言い、魔力の色と言い、分からない事だらけです!説明して下さい!」

「と言うか、ひと月前、わたしとわたしの家族が襲われた時の話も聞きたいんだけど?」

「あっ!そう言えば旅人さんがどうのと言っていましたよね!是非、その話も詳しく聞かせていただきたいのですが!」

 一切の事情を知らない少女とノエルが、混乱したまま食い気味に連続で訊ねる。


「お、落ち着いて、落ち着いて……って、アレ?」

 その圧に押されるように、後ろへ仰け反った少年は、突然カクンッと膝から崩れ落ちた。

 そのままドサッと、放り出された人形の如く地面に転がってしまう。

「えっ!?ど、どうしたの!?」

「大丈夫ですか!?どこか怪我でも!?」

 慌てて、倒れた少年を抱き起すノエル。

「痛っ!こ、これは、多分、無理やり大人になった、反動、だから、大丈夫……。ボ、ボクのズボン、右ポケットに、最後の結晶、がある、から、それ、壊してくれる?イテテ……」

 冷や汗を流し、息も絶え絶えになりつつ、必死にノエルへ言葉を紡ぐ少年。

 今、少年を襲っているのは、貫く様な痛みが伴う全身の筋肉痛である。

 一時的とは言え、成体への急激な成長による負荷が、反動として現れた結果だ。


 ノエルは言われた通り、少年のポケットに手を突っ込み、雫型をした紫色の結晶を取り出し、一気に壊そうとしたのだが、いかんせん硬くてひびすら入らない。

 少年が結晶を簡単に壊せたのは、ひとえに魔族、竜種の力を持っていたからこそである。

 かと言って、少年は今、息をするのもやっとな状態である為、彼に自分で結晶を壊してもらうのは無理な話。

 すると、突然少女が辺りを見回す。

 そしてすぐに、該当するものを発見したのか、急に駆け出した。


 早々に戻ってきた少女の腕の中にあったのは、大きくてゴツゴツした岩と、平べったい岩の二種類。

 少女は平べったい岩を地面に置くと、ノエルを見た。

「これで叩き壊そう!」

 ノエルは即座に頷き、手にしていた結晶を岩の上に置く。

 間髪入れずに、少女は持っていた岩を振り上げ、思い切り叩き落した。


 岩と岩がぶつかる鈍い音に混じって、結晶が砕ける澄んだ音が響くと、蒼く透明な光の粒子が放出され少年を包み込む。

 そして、あっという間に少年の身体へ吸い込まれるように消えるや否や、途端に少年の呼吸が落ち着き始め、普段と変わらない様子へと戻った。

 魔族との戦闘の際に負った無数の傷も、跡形もなく消え去っている。


「回復、最後まで残しておいて良かった」

 呟き、ゆっくりと身を起こす少年。

「まったく、驚かさないでよ」

「ごめんごめん」

「大丈夫ですか?」

「うん。ありがと」

 その背を支えながら、ノエルが少年と共に立ち上がると、ちょうど少女が、砕けた結晶の一部を手に取っているのが目に入った。


「……これ、紫水晶アメジストだよね。ただの。なんでこれに魔法とか魔力が込められてたの?そんな特性あったっけ?」

 まじまじと水晶の欠片を眺めつつ訊ねる少女に、少年は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「ごめん。ボクもよく分からないんだ。それは旅人さん……イヴルさんから貰った物だから……」

「イヴルさんって……十日ぐらい前に来た、あの?」

「うん。そう」

 頷いて肯定する少年。

「超絶ウルトラハイパーミラクルアルティメット美貌の持ち主で、ひと目見た瞬間子供達は動きを止め、女を忘れていたシスター達は恋する乙女になって、あまりの衝撃にマイクがお漏らしをした……あの?」

「う、うん……。そう……」

 凄まじい形容詞の羅列も然ることながら。その時の惨憺さんたんたる有様を思い出したのか、少年は顔が引きるのを自覚しながらも、もう一度頷いた。


「そ、その〝イヴル″さんってもしかして!黒い長髪を後頭部で結んだ、紫色の瞳を持つ方ですか!?〝ルーク″さんと言う、金髪紅眼の男性と共に旅をしている!?」

 ガッシと少年の手を握り締めて、襲いかかりそうな勢いでノエルが割り込む。

「え、そ、そう……だけど……。ノエル様、知ってるの?」

 戸惑っている少年を見て、僅かに頭が冷えたのか、ノエルは少しだけ身を引く。

 が、相変わらず握った手はそのままだ。

「あ、ええ。以前、ちょっと……」

「神官であるノエル様までとりこにするなんて……なんて罪深い旅人なの……。まあ、あの容姿なら納得だけど……」

 ドン引きしながら呟く少女。

 それが耳に入ったのか、ノエルは全力で首を横に振った。

「ち、違います!そんなのじゃありません!」

「必死に否定する辺り、余計に怪しい……」

 ふむ、と、少女はなにやら探偵然とした思案顔でノエルを見つめる。

「だから違いますってば!とにかく、その方達のお話、詳しく聞かせて下さい!」

「誤魔化した……。美形……なんて恐ろしい生き物……」

 しみじみ呟く少女に、ノエルは射貫くような視線を向けた。

 これ以上その事には触れるな。

 そう目と顔にありありと書かれている。

 それを読んでか、少女はピタリと口をつぐんだ。


 口を挟む隙が無く、今まで黙って二人のやり取りを見ていた少年だったが、ここでようやく口を開いた。

「じゃあ、町へ帰る道すがら話すよ。ひと月前のあの日何があったのか、何故ボクがここにいるのか。それも踏まえて話すから結構長くなるよ。いい?」

 少年が確認の為に訊ねると、少女もノエルも、さっきとは打って変わって真剣な表情で頷く。


 そうして三人は歩き出し、林の出口、そして町への帰路につきながら、少年の話に耳を傾けた。





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