第12話 異界廃墟 後編


 空を掴んだ手が虚しく落ちる。


 目の前には何も無い。

 誰もいない。

 灰色の薄ら寒い廊下が、真っ直ぐに広がっているだけ。


 だけれど、僕は知っている。

 見た。

 昏い昏い闇が、のっぺりとこびり付くように廊下を覆っていたのを。

 そこから生えるように伸びていた、黒い手の群れを。

 そして、絡み付くソレに引きずられて、イヴルは呑み込まれるように闇へと落ちていった。


 知っていたはずだ。

 聞いていたはずだ。

 イヴルが、どこか焦っていた事を。

 この空間から、干渉を受けているような事を言っていた事を。

 途中、不快そうな態度を示し、その後から不自然なほどに、こちらの声に反応しなくなった事を。


 なのに、僕はそこまで深刻に考えていなかった。

 イヴルが、いつも飄々として、不敵な態度を崩す事が無かったからだろう。

 〝魔王″として、その実力を身をもって嫌と言うほど知っていたからだろう。

 さらに言うなら、魔王イヴルは不老不死で不死身で、決して死なない事を知っていたからだ。

 死ぬことが無いなら、何が起こったとしても、そこまで重く考えずとも大丈夫だろうと。


 だからこれは、僕の油断であり、イヴルに対して過信していた故の結果。

 悔やんでも悔やみきれない。

 自分の間抜けさに吐き気がする。


 ギリッと拳を握り締めて、誰もいない空間を睨みつけながら、僕は最後にイヴルが言っていた言葉を思い出していた。


『――――ルーク。地下室を探せ。そこに核がある』


 確かにそう言っていた。

 イヴルが一体何を見たのか、何を聞いたのかは分からないが、その言葉に確信が篭っていたのは確かだ。

 ならば、今僕に出来るのは、それを信じて動く事だけ。

 核を壊せば、異界ここから出られるのはもちろん、イヴルを助け出す事にも繋がる……はず。


「ねえ」


 決意を新たに、地下室を探そうと思い定めた時、不意に声をかけられた。


 耳元で囁くような、かすみに似た声。

 驚いて振り返った僕の目に映ったのは、あの白い少年だった。


 白に限りなく近い薄灰色の髪と、水の様な薄青い眼。

 肌は血の気を失ったように蒼白で、唇ですら真っ白だ。

 着ている服も上下共に白く、半袖のシャツと短パン。

 靴は履いていない。


 その少年は相変わらず、浮かび上がる様にぼんやりと光っている風に見えた。


 いつの間にこんな近くまで来ていたのか。

 全く気が付かなかった。

 軽く動揺していると、脳裏にイヴルの言葉がよみがえる。

 この子供は魂の状態で、所謂いわゆる〝霊″だと。

 なら、足音も気配も無くて当然か。

 そう自分を納得させていると、少年が口を開いた。


「あそぼ」

 ガラス玉の様な薄青い目をパッチリと開いて、感情の篭っていない淡々とした声で言う。

 あまりにも抑揚が無さ過ぎて、いっそ棒読みの方が感情篭っているんじゃないか?と錯覚してしまいそうなほどだ。

 まばたきすらせず、じっとこちらを見る姿に不気味さを感じてしまうが、それはそれとして、ひとまずは会話を試みる事にする。

 何事も、まずは対話して相互理解に努めるのが肝要だ。


 僕は一度立ち上がってから屈み、少年と目線を合わせた。

「こんにちは」

「あそぼ」

 先ほどと同じ言葉。

「僕はルーク。君の名前を教えてくれるかな?」

「あそぼ」

 教えるつもりは無いのか、それとも理解出来ないのか、少年は一つの言葉を繰り返す。

「……君は、いつからここにいるのかな?」

「あそぼ」

「実は僕、地下室を探しているんだけど、何か知らないかい?」

「あそぼ」

「繋がっていそうな場所を教えてくれるだけでいいんだけど……」

「あそぼ」

「……ねえ、僕の話」

「あそぼ」


 全く会話にならない。

 どうしよう、もういっそのことこの少年は無視して探索を始めようか、でもこのまま置いて行くのもな……。

 なんてことを考えながら途方に暮れていると、不意に少年が目を細めて笑った。


「あそぼ。あそぼ。あそぼ。あそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼあそぼ」


 壊れた蓄音機の様に、同じ単語を笑顔で延々と繰り返す。

 口だけが異常な速さで動く少年に、思わず背筋が凍る。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」


 やがて、その口から単語ではなくただの音を発するようになった時、ようやく僕は彼を制止する為に動いた。

「落ち着いて!落ち着いてっ!!」


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――あ」


 前触れなく止まる。

 少年の顔は、ずっと笑顔のままだ。

 突然訪れた静寂に、先ほどとは違う種類の気味の悪さが襲ってくる。


「じゃあ、おにごっこしよう」


 何が〝じゃあ″なのか、さっぱり分からない。

 何より僕は落ち着くように言っただけで、他には何も言っていない。

 会話が噛み合わない所の話じゃない事態に、薄ら寒いものを感じていると、ふと耳に鋭利な刃物の音が聞こえた。

 鉄と鉄を擦り合わせた様な音だ。


 シャキン……


 もう一度聞こえる。

 音の聞こえた方に目を向ける。

 そちらはイヴルが呑み込まれた方向で、つまりは今来たばかりの廊下。


 シャキン……


 ハサミを鳴らした様な音。

 バツンッ!と、突然塗り潰されたように、廊下の奥が漆黒に落ちた。


 シャキン……


 冷たい鉄の音は、その暗闇から聞こえてくる。

 バツンッと、また一区画が闇に呑まれた。

 徐々にこちらへと近づいて来る黒い闇と刃物の音に、思わずゴクリと生唾を飲み込む。

 背中に冷たい嫌な汗が一筋、流れ落ちた。

 目を逸らす事が出来ない。

 自然と心臓の鼓動が速くなる。


「……一体、何が……。君は何か知ってるのかい?」

 おのずと呼吸も荒くなり始める中、僕は近くにいる少年に呼びかけたが、返事は無かった。

「……君?」

 目を無理やり動かして、少年がいたであろう場所へ向ける。


 しかし、そこには誰もいなかった。

 何処へ、と思い視線を巡らせれば、遥か彼方。

 あの出口とおぼしき場所に向かって、全力で走っていた。

 振り向き、僕を見るなりケタケタとわらう少年。


 瞬間、バツバツバツッと途轍もない速さで、廊下がこちらに向かって闇に消えていく。

 同時に鉄音が進む速度も上がる。


 僕は、考える前に駆け出していた。


 あの闇に呑まれてはいけない。

 あの刃音に追い付かれてはいけない。

 振り返ってはいけない。

 ソレを見てはいけない。

 逃げなければ。

 逃げなければ。

 早く。

 早く!

 早くっ!


 何か、明確な理由があった訳じゃない。

 ただの直感だ。

 それでも、今この時はそれに従うのが正しいと、本能が告げていた。

 だから、僕は走る。

 急いで、急いで。

 もつれそうになる足を必死に動かして。

 万が一にも転ばないように、細心の注意を払って、ひた走る。


 心臓が耳に移動してきたのかと思うほど、鼓動の音がうるさい。

 呼吸が荒くなる。

 疲労ではなく、魂の奥底から来る恐怖の為だ。


 と、先に出口に辿り着いた少年が、ニンマリと嗤って僕を見る。

 確実に、目が合った。

 嫌な予感が駆け登る。


「待っ――――」


 バタンッと、無情にも扉は勢いよく閉められた。

 すると、扉は消しゴムで消すかのように跡形もなく消えてしまう。


 走りながら絶望に襲われる。

 目指していた出口が消えてしまったのだ。

 前は行き止まり。

 後ろからは暗黒と刃物を鳴らす何かが迫って来ている。

 脇に無数に並ぶ扉、その内の一つを手に取り、急いでノブを回すが、ガチッと硬い感触が返ってくるだけで、微動だにしない。

 なんで、と怒りが込み上がってくるが、即座に無駄な感情を押し込め、諦めて再び駆ける。

 全力で走っているはずなのに、刃音の主との距離は開く所か、どんどんと縮まっている気がする。

 このままだと、あと十数秒もしない内に追い付かれてしまう。

 焦りと暗澹あんたんたる思いがとめどなく湧くせいで、まともに頭が働かない。


 そんな時、四つ先の扉が、キィ……と独りでに僅かに開く。

 そしてそこから、陶器の様な細くてすべらかな手が、扇ぐように手招きをした。


 行き止まりはもうすぐそこ。

 迷っている暇は無かった。


 スピードをさらに増して走り、扉を打ち破る様に室内へ転がり込む。


 そこは、今までの子供部屋とは違い、言うなら書斎に似た部屋だった。

 壁一面に本棚が埋め込まれ、年代のよく分からない本が詰め込まれるように並んでいる事から、資料室や図書室と言っていいかも知れない。

 焦げ茶色の室内を、呆気に取られて見ていると、すぐ近くでジャキンッと凶悪な音が鳴った。


 それで、自分の置かれている状況を思い出した。

 丁寧に閉めている余裕は無い。

 少し行儀は悪いが、振り向きざまの回し蹴りを扉に放った。


 扉が閉まる寸前。

 僅かな隙間から見えたのは、赤黒く彩られた大きな刈込鋏かりこみばさみ

 まるで、たった今生き物を断ち切ったばかりだと言わんばかりの、ぬらぬらと血に濡れた刃だった。


 バァンッ!と、けたたましい音を立てて扉が閉まる。

 静寂に包まれる室内。

 しばし息を詰め、そのままの状態で扉を凝視するが、再び開く気配は無く、背中に張り付くようにしてあった殺意と言う名の嫌な気配も、消えていた。


 ふう……と、安堵から息が漏れる。

 途端、なりを潜めていた汗が、ぶわっとせきを切ったように、額や背中を流れ落ちた。

 バクバクと早鐘を打つ心臓も、全力疾走した馬並みに荒くなる息も、頭に響いてうるさい。

 改めて、〝生きている″と言うのを実感する。


 膝が砕け、へたり込みそうになるのを堪えて、ゆっくりと室内を見回す。

 先ほどの手の主を探す為だ。

 だが、誰もいない。

 机もイスも置かれていない為、隠れられそうな場所は皆無だ。


「……あの、ありがとうございました。おかげで助かりました」

 それでも、とりあえず礼を言う。

 僕には見えないだけで、もしかしたら近くにいるかもしれないからだ。


 すると突然、本棚から一冊の本が落下した。

 重厚な装丁の、歴史ある本のようだ。

 パラパラとページめくれ、ピタッとある場所で止まった。


 近寄り、慎重に拾い上げる。

 そこには、セピア色に色付いた幾つもの顔写真と名前があった。

 が、生憎と酷い虫食いで、見るも無残に顔が食い尽くされている者がいたり、目や口だけを残して穴だらけになっている者がいたり、名前がぽっかりと抜け落ちている者がいたりと、本としてはなかなかに悲惨な有様だ。

 映っているのは子供ではなく大人で、皆一様に無表情。

 日々を切り取ったアルバム、と言うよりは、何かの名鑑と言った方がしっくりくる。


 そこで、ふと目に留まる人物がいた。

 顔の半分と名前全てが無くなっており、かつ年齢も、僕の知っている彼とはずいぶんと離れているが、面影はしっかり残っている。


 淡い灰色の髪と、薄青い眼をした二十代半ばから後半ほどの青年。

 恐らくは、あの少年が大人になった姿。

 いや、逆か。

 大人だった彼が、魂だけの状態になった事で、少年の姿にったのだろう。


 思わず、本の背表紙を確認する。

 〝神父名簿″

 堅苦しい文字体で書かれていたのは、そんな淡白な言葉だった。


「神父……」

 顎に手を当てて考える。

 神父、という事は、やはりこの建物は教会。

 ステンドグラスに描かれていた絵からして、三神教に違いないはず。

 だが、それだとあの大量の子供部屋は……。


 そう考えていると、再びドサッと本が落ちた。

 少し逡巡した末、僕は名簿を手に持ったまま、新たな本の元へ行く。

 表紙に書かれていた文字は、〝フギンムニン第六支部、教会院歴史編纂へんさん″。

「……フギンムニン。あの邪教として名高い教団か……」

 確認するように呟きながら、僕はフギンムニンに関する情報を、記憶の片隅から引っ張り出す。


 フギンムニン教団。

 詳細な情報はあまり残されていない為、その教団が設立された時期は定かでない。

 ただいつの間にか存在し、歴史の陰で蠢いている、よく分からない集団だ。

 特に各国の要人暗殺や、暗躍をする訳ではなく、単に歴史を記録、収集しているだけで表面上は無害。

 なのに、〝邪教″として認定されているのには理由がある。

 彼らが唯一信奉する神が原因だ。


 流行りすたりはあるものの、この世界ノルンで古来から信じられているのは三神教。

 つまり、聖神スクルド、時神ヴェルザンディ、星神ウルズの三柱を奉ずる宗教だ。

 対して、フギンムニン彼らが信じているのは、存在しない四柱目の神。

 全てを支配し、全てを滅ぼし無に帰す神である、と言うこと以外は謎に包まれた一柱だ。

 男神なのか女神なのか、それすら分からない。

 僕的には、ただ信じているだけなら、そこまで口うるさく言う必要はないと思っているのだが、三神教を取りまとめる総本山、マグニフィカ大神院的にはそうもいかないらしく、フギンムニンを邪教認定したのだ。


 本の表紙に書かれた題名からして、この教会はフギンムニン彼らが身を隠す場所の一つだったようだ。

 〝歴史編纂″の文言から、ここで何があったのか記載されているかもしれない。


 名簿を床に置き、新たな本を手に取り開く。

 が、やはり虫食いが酷い。

 半分以上は読めず、辛うじて判別出来た文を元に予測するが、合っているのか分からない。

 何より、じっくり読んでいる暇も無いので、無事な箇所をざっくりと読んでいく。


 いわく、元々この小山には、それなりに大きな集落があったのだが、地滑りにより半ば壊滅した事を理由に、廃村となったらしい。

 唯一無傷だったこの教会は、壊すのが惜しいぐらい立派な造りであったと言うのもあるが、何より村人の心のよすがであった為、そのまま残して行ったようだ。

 教団がここを見つけたのは約五十年も昔。

 以前使っていた支部は、発見されてしまい使えなくなってしまった為、新しくここを支部にしたとの事。

 近くに村も町もなく、山奥で人目につかない、という事も都合が良かったのだろう。


 そこから、新たな教団信者を養成すべく、孤児や親に捨てられた子供を拾っては、ここで育てていた。

 本部や、比較的近郊にある支部から教団の神父を送り込み、まだ物の分別すらつかない子供に、刷り込むようにして教義を教えていたらしい。

 そして、一定の年齢に達すると本部へ送られ、神父になるべくさらに養成されるのが、ここでの一連の流れだった。


 だが、本の後半。

 ある章に、僕は目を留めた。


 ――神、再臨計画。


 肝心の神の名が食われてしまい分からないが、教団の記す神とはつまり、四柱目の神で間違いないだろう。

 その再臨、要は神の再来。

 儀式か何かが記載されているのか?と思い読み進める。


 が、沸き上がったのは不快感の一語。


「……正気か?」

 そこに書かれていたものを読んで、僕は思わず吐き気を催した。

 再臨計画などと、よくもそんな綺麗な言葉でまとめられたものだ。


 要約すると、人間の身体をぎにして造り上げ、そこに神を降ろすという、常軌を逸した計画。

 美しい髪、美しい眼、美しい顔、美しい胴、美しい手、美しい足、美しい内臓等々。

 剥いで、抉って、切断して、解体して、そしてまた造り上げるのだと言う。

 頭がおかしいにも程がある。


 神の身体に選ばれた子供は、大変な名誉であり、畏れ多くも誉れ高い事なのだと、延々と書かれている。

 率直に言って、気持ち悪い。

 人を、それも子供を、神の再臨などと言う馬鹿げた事の為に殺しておいて、よくそんな事が言えたものだ。

 そんなに褒め称えられる事ならば、率先してこの神父達が犠牲になるべきだ。

 自分達の都合で神を降ろしたいのだから、まずは発案者が、文字通り身を切るべきだろう。


 頭の血管が切れる、なんて言葉では収まらないほどの怒りが身に走った。

 顔をしかめ、歯を食いしばり、手に力が篭る。

 ガリッと、表紙を削ってしまう。

 次にめくったページには、犠牲となった子供の顔写真と名前が記されており、そこからさらに先の頁では、元の身体から部位が外される様子が延々と描写され、続いて魔法による臓器の保存方法、肉体の接合方法が書かれ、最後の頁に神を降ろす為の文言と方陣が描かれていた。

 最後の一文に、神の御加護を。

 なんて、ふざけたことまで書いて。


 読み終わった瞬間、僕は感情のままに本を床に叩きつけた。

 バンッ!と激しい音がして、本が二、三度跳ねた後、床に転がる。

 頭に昇った血を落ち着かせようと、必死に深呼吸するが、なかなか降りてくれない。

「っ――クソッ!!」

 激情のまま、つい口汚くののしってしまう。

 こんなにいきどおるのは久々だ。

 すでに終わってしまった出来事、過去の話だとしても腹に据えかねる。


 ギリッと噛み締めていると、またもや本が落ちた。

 僕が今いる位置から二つ先の本棚だ。

 イライラしながら、また何かの手がかりか?と思った瞬間、その本棚に詰まっていた本が、吐いたようにドサドサと、次々に落下を始める。

「え?!ちょ、ちょちょちょっ?!」

 呆気に取られる中、怒涛の勢いで床に散乱する本の山。


 最終的に、ドターンッと爆音を立てて本棚自体が倒れた。


 思わず口を半開きにしたまま、呆然と倒れた本棚を見る。

「な……にが……」

 呻くように独り言ちた時、それは唐突に起こった。


 ドガッと、何か硬いものが硬いものにぶつかった様な、刺さった様な音。


 勢いよく心臓が跳ね、身体がビクリと震える。

 音の発生源は僕の背後。

 ここへ入って来た扉から聞こえた。

 振り返って、真っ先に目に飛び込んできたのは、扉の中心で小さく光る銀色の突起。

 ズルリと抜けたソレは、再び勢いをつけて突き立てられた。

 木屑が飛び散り、穴が広がる。

 また抜け、また刺さる。

 抜けて刺さる。

 抜けて刺さる。


 蛇に睨まれたカエルの様に、息をするのも忘れて、身動きできずにその様子を見ていると、穴の大きさはちょうど、人の手が入れるぐらいにまで広がっていた。


 刃物が、大きな鋏が抜ける。

 穴から、何かがこちらを――僕を見た。

 ヒュッと息を呑む。


 穴から見えたもの、それは、見開き、ギョロリとした紫色の瞳。

 本来白目であるはずの場所は、真っ赤に血走っていた。

 瞬きをせず、じーっと僕を見つめる。

 やがて、眼はふいっと消え、代わりに石灰の様な真っ白い手が穴から出てきた。

 ノブを探しているのか、わさわさと動いている。


 僕は急いで、目の前の扉じゃない出口を探すが、そんな物は見当たらない。

 目に付くのは大量の本と本棚だけ。

 その時ふと、倒れた本棚が映った。

 この部屋に招き寄せた手といい、名簿や先ほどの本といい、何かが僕を助けてくれているのは確かだ。

 であるなら、あの本棚にも何かあるのか?


 倒れた本棚のある場所まで駆け寄り、見たのは、その本棚に隠されるようにしてあった、小さな鉄製の扉だった。


 カチッと鉄の扉が薄ら開く。

 同時に、背後からガチャリとノブを回す、冷たい音が響いた。

(ええい!毒を食らわば皿まで!)


 僕は目の前の扉を思い切って開くと、滑り込むように潜り抜けた。


 扉の向こうは〝礼拝堂″だった。


 パタリと、背後で独りでに扉が閉まる。


 鉄の扉にしてはずいぶんと軽い音を聞きながら、僕は目の前にある光景をただ眺めた。


 この廃教会に入って、初めて見た景色、初めて足を踏み入れた空間。

 その、礼拝堂だ。

 違うのは見る向きぐらいだろうか。

 隣に視線を向ければ、脚を失い、地に落ちたパイプオルガンが目に入る。

 眼前には大きな扉、その左右には上に向かう階段があった。


 右の階段を上がって、廊下を真っ直ぐに進み、内一つの部屋に入ったのだから、本来なら一階のここに繋がっているはずはない。

 なのに、目に映るのはどこまで行っても薄ら寒い朽ちた礼拝堂。

 イヴルの言う通り、空間の接点が捻じれているのだろう。


 ここからどうしよう、と考える。

 この廃教会の由来、そこで行われていた事を知っても、地下室に繋がる場所は明記されていなかった。

 唯一、地下室は石造りの小さな部屋、という事だけは書かれていたが、それだけではどう探したら良いものかサッパリだ。

 まあ、あえて言うなら、例えここの見取り図があったとしても、必ずそこに繋がっているとは言えないんだが。


 仕方ない、と僕は足を踏み出す。


 とりあえず、まだ確認していない左の階段へ。

 例え広がっているのが、右と同じ廊下だったとしても、確認だけはしなければ。

 焼け付くような焦燥感が僕を襲う。

 あの追いかけてくる〝何か″の存在が気になって仕方ない。

 追いつかれてしまったら?捕まってしまったら?ここから永遠に出られない?あの大きくて、血に濡れた刈込鋏でバラバラにされてしまうのか?

 じわじわとした恐怖が背中に張り付く。

 無理やりにでも足を動かして、何かしていないと、焦りで頭がおかしくなってしまいそうだ。

 僕を駆り立てているのは、そんな得体の知れない恐怖心だった。


 決して出られない空間。

 何かに追われている感覚。

 焦りと恐怖。

 それは、不老不死のソレとよく似ている。

 永遠に終わらない生。

 永遠に抜け出せない世界。

 気付かない、気付けないままだったのなら良かった。


 例えば、博物館や美術館になぞらえようか。

 多くの人が、数多あまたある絵画や美術品を見ている。

 人が、どのように生まれて死ぬのか、その道行き等が絵や物となって飾られてある。

 美しい絵、楽しい絵、悲哀が刻まれた彫刻、情愛が切り取られた一幕、執着心を煽る様な物、恨み、憎しみ、怒り、嫉妬、その他様々なドロドロとした負がそのまま叩きつけられ、無残にもひしゃげた何かの残骸。

 だが、それらは通り過ぎるものだ。

 引きっていても、やがては終わる。

 終わりと言う、一方向にしか進まない出口に向かって、皆進む。

 長い、短いはあれど、必ず最後は出口を潜って終わるのだ。

 不老不死者とはつまり、出口が無い、あるいは取り上げられた者。

 延々と同じ空間に留まり、どこに行く事も戻る事も叶わない。

 同じ景色、同じ物を、ずっと見続けるだけ。


 家族、友人、知人、親しんだ人達が、出口へと進んで行く。

 でも、僕の目の前に広がっているのは、分厚く冷たい壁で、壊す事もままならない。

 そうしている内に、どんどんと知っている人達は壁の向こうに消える。

 焦る。

 焦る。

 僕も向こうに行きたいのに。

 追いかけたいのに。

 皆と同じ風景を見て、皆と同じように進みたいのに。

 いつまで生き続ければいいんだろう。


 千年前、魔王と戦うにあたって、不老不死になるこの選択をした事に後悔はない。

 それは断言出来る。

 不老不死の加護を得なければ、魔王と対等に戦う事も、倒す事も、封印する事も出来なかったと確かに言えるからだ。

 だが、大戦が終わって、年月としつきを経るにつれて、僕の中にふと湧いたこの思いは、無視出来ないほどの大きさになっていたのも確かだ。


 僕と同じように、出口の無い者はいる。

 僕を不老不死にし、同じように不老不死の三女神。

 不老不死どころか、何をしても絶対に死ねない不死身の魔王。

 だが、この四者は人とかけ離れ過ぎているが故に、僕の心情は到底理解出来ないだろう。

 少なくとも、僕の伴侶でもある三女神は確実だ。

 定命の人に戻りたいと言ったら、何故?どうして?何が不満?と、心底わからないとまくし立てられた。

 死にたいわけじゃない、ただ他の人と同じように時間を進んで行きたいんだ、と訴えたが、何が違うの?と言われてしまった。

 散々説得して、なんとか受け入れて貰えたが、定命にもどる方法は無い、と言われた時の僕の絶望感は筆舌に尽くし難い。

 結局、心配する彼女らを振り切って、こうして定命に戻る方法を探す、あてのない旅をしている訳だが。

 もしも、方々に手を尽くしても何も無かったら?

 手がかりの一つも見つからなかったら?


 焦る。

 焦る。

 怖い。

 怖い。


 熱いような寒いような、痛いようなむず痒いような、叫び出したくなるような泣き喚きたくなるような。

 追っているはずなのに、追われている。

 そんな焦燥感に襲われる。

 諦めた方が楽なんだろうか、誰かにこの首を断って貰った方が、楽になれるんだろうか。

 だが、どうしても諦めきれない。

 普通の人として、ゆっくりと老いて逝きたい。

 この〝願い″は、贅沢なんだろうか……。


 鬱々と、そんな事を考えて進んでいると、左の階段へ辿り着く。


 トントンと木製の階段を上がり、扉を開く。

 しかしそこにあったのは、やはりと言うべきか、先の見えない長い長い廊下があった。

 右手に無数の扉、左手に黒々とした窓。


 重く、長いため息が口から漏れる。

 閉めて、もう一度開く。

 今度は左に扉、右に窓。

 さっきの廊下だ。


 ……ん?さっきの廊下?


 そう考えた瞬間、僕の耳にシャシャシャシャシャッと、連続する刃物の音が聞こえた。

 遠く、廊下の先から闇を引き連れて、猛スピードでこっちに向かって来る〝何か″が見えた。


「わあぁぁぁぁぁぁぁああああっ!!」


 思わず叫んで、思い切り扉を閉める。


 バァンッ!!


 蝶番ちょうつがいが吹き飛びそうな勢いで閉まった扉。

 自分の顔が引き攣っているのがよく分かる。

 そろっと扉から離れ、なるべく足音を立てないようにして階段を下りた。


 ……どうしよう……。


 思わず途方に暮れてしまう。

 またあの手が助けてくれないかな。

 なんて、いかにもダメ人間が考えそうな事を思い浮かべていると、不意にミシッと何かがし折れるような音が耳に届いた。

 ビクリと肩が跳ねる。

 音のした方へ視線を向けると、そこにあったのはあの大きなパイプオルガン。


 この礼拝堂で、窓ガラスや扉を除けば、唯一形の残っている物である。

 ふむ、と興味半分、期待半分で近寄る。


 焦げ茶色のシックなパイプオルガンだ。

 元々の大きさは人の三倍ぐらいあったらしいが、脚が無い今、その大きさは半分にまで減っている。

 それでも、僕から見れば見上げるほどに大きいのだが。

 鍵盤は地に落ち、中に収められた大半の機構も朽ちて壊れてしまっている為、鍵盤を叩いても音は鳴らないようだ。


 もはや、がわだけのオルガン。

 のはずだったのだが。


 フォーンと、一音が鳴った。


 パイプオルガンは、ピアノと違って風、つまり空気圧で音が鳴る仕組みだ。

 となると、どこからか吹く風が、パイプを鳴らしているのだろう。


 オルガンを触り、覗き込み、脇に回ってみるが、何も無い。

 となれば、可能性はオルガンの裏、もしくは下という事になる。

 本棚の裏に扉があった事もある。

 可能性が無い訳ではない。


 ちょっと申し訳ないけど、と内心で呟きつつ、僕はオルガンに手をかけた。


 ガオォォォォンッ!!


 オルガンが、盛大な爆音を立てて倒壊する。

 大量の木片と一緒に、ガランガランッと真鍮しんちゅう製のパイプが床に散乱した。

 もうもうと立ち昇る粉塵。


 唖然と、立派なパイプオルガンが、ただの瓦礫に変わる瞬間を眺める。

 横に退かすつもりで、壊すつもりは無かったんだ。

 いや本当に、本当に。

 すいません、すいません。

 完全に壊れたオルガンに向かって、必死に謝罪の念を繰り返す。


 が、すぐにその謝罪も止まった。

 巻き起こっていた粉塵が落ち着くのとほぼ同時。

 オルガンが鎮座していた床に、四角い穴があったからだ。

 穴には、下へと続く石階段がある。

 間違えようもなく、地下室へ通じる階段。

 冷たい空気、濁り、よどんだ風が、僕の頬をひやりと一撫ひとなでした。


 行かない、という選択肢はない。

 僕は生唾を飲み込み、緊張から流れた冷たい汗を頬に感じつつ、階段を慎重に下りて行った。


 階段には、やはり明かりになるような物は一つも無い。

 燭台用にと作られた窪みには、溶けきり、ただの平べったい物と化した蝋燭があるだけ。

 それでも、視界が悪いと言う事は無く、むしろハッキリとしている。

 ここだけは、異界の良い所だな、と思う。

 魔法も、明かりとなる火が無くとも、物が見えるのだから。


 やがて、頭上の穴が見えなくなる。

 代わりに下方に見えてきたのは、飾り気のない木製の扉。

 鉄枠に覆われた頑丈そうな扉だ。

 コツコツと硬い音が通路に響く。

 ドクドクと心臓の音が耳に響く。


 そして、時を置かずして扉に辿り着いた。


 多分、いや間違いなく、ここが地下室。

 つまりは核のある部屋。

 もしかしたら、イヴルもここに囚われているのかもしれない。


 僕は、緊張に震える手をノブにかけ、一気に回し開けた。


 窓が一切ない、乱雑に石が組まれた狭い部屋。

 壁四面と、天井に取り付けられたカンテラには橙色の炎が灯っており、よく室内を照らしている。

 中央に、ちょうど子供が乗るぐらいの木の台、部屋の隅には筆記が出来るよう簡易な机があるだけの、質素と言えば聞こえが良い、そんなつまらない部屋。


 念の為、一度扉を閉め、もう一度開けるが、視界に入る景色は変わらない。

 やはり、ここ。


 唐突に、ドンッと背中を押された。


 つんのめるようにして前へ。

 室内へと足を踏み入れる。

 僕が後ろを振り向くのと並行して、地下室の扉が重苦しい音を鳴らして閉まった。

 ただ、独りでに閉まったのではない。

 その扉の前には、白い少年が、張り付けた様なニンマリ顔で立っていた。


「おめでとう」

 何が〝おめでとう″なのか、意味が分からないが、少年はニコニコと微笑みながら言う。

「君は……」

「おめでとう」

 少年は同じ言葉を繰り返す。


「……本を、読んだよ」

「?」

 笑顔で首を傾ける少年に、僕は言葉を続ける。

 出来るだけ静かに、出来るだけ落ち着いて。

「ここが出来た経緯いきさつ、ここで行われていた事。それらが克明こくめいに記された本だ」

「…………」

「フギンムニン教団、第六支部。君は、ここで活動していた神父の一人だね?」

「……そうだよ」

「……なら、〝神の器″とやらを作る為に、何の罪もない子供を犠牲にしていた事も、知っているんだね?」

「そうだよ!」

 少年は、弾ける様な笑みを浮かべる。

 これは、本心からの笑みだろう。

 吐き気がする。

「何故……」

 だから、僕はその言葉を吐いた。

 答えが返ってくるとは到底思っていないが、それでも、聞かずにはいられなかった。


「なぜ?そんなの決まってるよ!神様に、この世界を救ってもらう為さ!」


 あっけらかんと、少年は言う。

「……は?」

「この世界にいる三柱の女神は役立たずだ!いつもいつも、空の高い所でぼく達を見下ろして、疫病に襲われている時、魔族に襲われている時、ならず者に襲われている時、ぼく達がどんなに乞い願い泣き叫んでも、声どころか姿も現さない。そんな使えない神さまなんていらないでしょ?だからぼくは、四柱目、真の神さまをこの世界に降ろそうと思い立ったのさ!」

 突如として流暢りゅうちょうに話し始めた少年に、僕は絶句してしまう。


 彼女達は万能ではあるが、全能ではない。

 それは、僕を元の身体に戻す事が出来ない事からも明らかだ。

 人類全体の危機、千年前の大戦ぐらい大きなものになれば手を貸してくれるが、個々人の危機程度では耳にも入らない。

 それは仕方がない。

 この星は広く、また人の願いに果ては無い。

 何より、助けを求める人全てを救い上げていては、当人のタメにもならない。

 良い事も悪い事も、全て神のせいにしてしまう。

 全て、神をに使ってしまうからだ。


 なんて事を、長々と話しても仕方がないので、省略して訴える。

「……全てを神が助けてくれると思っているのなら、あなたはどれだけ他力本願なんですか。自分の力で立とう、生きようとは思わないのですか?」

「?自分の力で立ってるよ?生きてるよ?」

「そうじゃありません。わからないと言うなら、あえて言わせていただきます。あなたは、自分の人生の指針を他人にゆだねているも同然なんですよ。困った事や辛い事があったら何でも神さま神さまと。あなたは、いつまでも親離れできない子供ですか?神とは、ちょっとした世界の彩りであれば良い。人々の、ちょっとした心の支えであれば良いんです。それを、助けてくれないから役に立たないなどと。子供の癇癪かんしゃくと何ら変わりありませんよ」

 と、ここまで言って、ふと気が付いた。


 ああ、だからこの少年は、〝少年″なのだと。


 写真で見たのは、とっくに成人した姿だった。

 あれから何があったのか、目の前にいる人物が、いったい幾つで亡くなったのかは分からないが、少なくとも彼は、死後も〝少年″として形作られてしまうほど、魂は未熟なまま死んだのだろう。

 その事に対して、多少同情の念を抱かないでもないが、それとこれとは話が別。

 ここで行われていた事を赦す材料にはならない。


 少年が、ぎゅっと唇を噛んで俯いている。

 やがて顔を上げた少年の目は、薄らと紫色に色付いていた。

「……君も、本部の連中と同じ事を言うんだね」

 ボソッと、地を這うような声。

 先ほどの、無邪気な子供の雰囲気は消え失せている。


彼奴きゃつらも同じ事を言った。我々が四柱目の神に与えられた役目は、歴史を余さず記す事。独断も偏見も捨てて、ただ起こった事、真実を書き留める事だと。神を、この世界に降ろす事ではなく、また神もそれを望んでいない。それは、この世の理、摂理に反する事だと。第六支部ここを取り潰す時、そうのたまった。分かっていない。分かっていないっ!この世には、神でなければ救えない事がある!!天変地異に流行り病に不運!それらを神に救ってもらおうとする事の何が悪い!!そして、全てを救う神がいないのならば、造ってしまうのが何より一番の近道だっ!!だから!私はその為の努力をした!!私の、この考えの、この行動の、何が悪いっ!!」


 早口で捲し立て、後半は叩きつけるように怒鳴り散らす少年。

 興奮のあまり、口の端には泡が溜まり、時折飛んでいる。

 紫色の瞳は、より色を濃くしていた。


 今までの言動からして、神の器を作り、降ろすという事を発案したのは彼だろう。

 もしかしたら、子供達をも手にかけたのかも知れない。


 行き過ぎた正義感。

 行き過ぎた救世の願い。

 一歩間違えれば、僕もそちら側に落ちてしまっていたのだろうか。

 そう、思わずうれいてしまう。

 考え自体、一部は共感できる部分もある。

 苦しんでいる人がいれば助けたい。

 助けを求めている人がいれば、出来る限りなんとかしてあげたい。

 世界から、悲しみや苦しみなど、あまねく消えてしまえばいい。

 でも、だからと言って、それは人道にもとる行為をしていい理由にはならない。

 どんなに立派で美しい言葉を並べ立てても、どんなに崇高な理念を掲げようとも、そこを誤ってしまえば、全て台無しになってしまうのだから。


 彼は、道を誤った。


 僕は首を振る。

 決して、彼とは相いれないし、そちら側に行くつもりはないと心に定めて。

「……ですが、その為に無垢な子供を犠牲にするのを、僕は正しい事とは思いません」

「大義の為には多少の犠牲も仕方ないだろうっ!!救世の神さえ降りてしまえば、この世界からあらゆる艱難辛苦かんなんしんくは取り除かれるんだ!!」

「とんだ詭弁きべんですね。お題目はご立派ですが、どれだけ言い繕った所で、あなたが、あなたを慕う子供達を裏切った事には違いない。あまつさえその身体を解体して、継ぎ接ぎにするという蛮行まで犯したのです。端的に言って、度し難い愚か者と言わざるを得ません。それに、良くも悪くも、世界は今もって何も変わりない。結局、あなたは神を降ろす事に失敗したのでしょう?」


 僕のこの言葉に、少年は熱に浮かされたような、潤みを帯びた紫の瞳で笑った。

 ニヤリと。


「誰が失敗したなんて言った?」


 そのセリフを言い終わるや否や、少年の影。

 いや闇から、ズルリと黒い何かが姿を現した。

 這い出るように、湧き出るように、全身黒ずくめのソレ。

 一切の光沢さえない漆黒のローブを着て、深く深くフードを被って、紙の様に白い手には赤黒い血の滴る大きな刈込鋏。


 あの追跡者だった。


「ここに!神はあるっ!!私は成功したんだっ!!」


 少年は高らかに叫ぶ。

 手を大きく広げて、大仰に。


 次の瞬間、追跡者は鋏を大きく開いて、僕に向かって突っ込んできた。


「――――っ!」

 息を詰めて、一気に横へ跳ぶ。

 目の前で、鋏に切り裂かれた台が二つに割れる。

 パラパラと舞う木屑の向こうで、少年が恍惚の表情を浮かべていた。

「さあ、神さま!私をこのならず者から助けて下さいっ!!」

 少年の叫びに応えるように、追跡者は攻勢を強める。

 鋏を開き、閉じ、振りかぶって下ろす。


 一か八か、腰の剣を抜いて構え、迫り来る鋏を迎え打つ。

 振り下ろされた鋏と、振り上げた剣が硬質な音を立てて止まった。

 防げた!?と驚いた刹那、弾いた反動からか、追跡者のフードが外れる。

 そこにあった顔を見て、僕は息を呑んだ。


 黒い長髪。

 紫色の眼。

 真っ白い肌。

 美しく整った顔。


 パーツパーツを見れば、イヴルを彷彿ほうふつとさせる容姿だが、全く違う点が一つだけ。

 顔や首に走る無数の継ぎ目、縫い目だ。

 痛々しいなんてものじゃない。

 こんなものが神だなんて、こんなものの為に、幾人もの子供が犠牲になったなんて。


 僕の怒りをよそに、鋏は繰り出される。

 大きく開かれた刃が勢いよく迫り、剣で弾き返せるだけの余裕がない。

 尻もちを着きそうな勢いでしゃがみ込むと、僕の頭上で、ジャキンッと冷酷な音が鳴った。

 あと少し判断が遅ければ、腹が断たれていただろう。

 氷の様な冷たい汗が、首筋を流れ落ちた。

 避けれた事に安堵している時間は無い。

 鋏を弾けたのなら、こちらの攻撃も効くはず。

 まずは相手の攻撃を無力化する為、僕は真上にある腕に向かって剣を振るった。


 銀色の刃が、血の気の失せた白い腕に吸い込まれる。

 そしてそこから、黒い血を撒き散らして腕が落ちる。

 ガシャンッと硬い音を立てて鋏も落ちた。

 片腕の肘から先が無くなったにも関わらず、追跡者、もとい〝神さま″とやらの表情は無、そのものだ。

 目だけが爛々と輝き、真っ赤に充血している。


 一旦転がり、距離を取って様子を見ていると、神さまは落ちた腕を拾い、切断面にグイグイと押し当てた。

 粘着質な音が響く。

 グチグチと、胸の悪くなる音だ。

 神さまが、押し付けていた手を離すと、腕は落下することなくくっついていた。

 そのまま続けて、床に転がっていた鋏を手に取る。


「……冗談だろ」

 思わず、舌打ちしそうになりながら顔を顰めてこぼすと、クスクスと少年の嗤う声が耳に入った。

「ああ……。素晴らしい。さすが神さま……」

 僕はその声を無視して、剣閃を放つ。

 幾筋も、幾筋も。

 舞うように閃く剣が、神さまの腕を、足を、胴を、首を、顔を、落として裂いて断ち切るが、それらはすぐに黒い液体が繋ぎ止めて再生してしまう。


「クソッ。これじゃキリがない……」

 鬱陶しさといきどおりで、歯を噛み砕いてしまいそうになっていると、不意にトントンッと肩を叩かれた。

 疑問を抱く前に、反射的にそちらへ目をやると、肩にあったのは、白い透明感のある右手首。


 ブワッと、身の毛がよだつ。

 そんな僕に構わず、手首はついっと一方向を指した。

 示す先にあったのは、素朴な机。

「あれは……?」

 呟き、手首があった肩を見るが、そこにはもう何も無かった。


 瞬間、ビッと鋏が顔面に向かって突き出される。

 咄嗟に首を傾けて避けるが、一瞬間に合わず、頬が切り裂かれた。

 焼ける様な痛みが走り、次いで、熱い液体が垂れる感触が伝わってくる。

 が、それに構っている暇はない。

 僕は、一縷いちるの望みをかけて反転し、その机へと走った。

 今までも僕を助けてくれた手だ。

 きっと何かあるに違いない。

 そう考えた末の行動。


 僕の行く先を悟ったのだろう。

 少年が焦った声で、僕に止まるように、そして神さまに止めるよう叫んでいた。

 神さまが動く。

 だが、こちらの方がひと呼吸分早い。


 僕は、全力で思い切り剣を振り下ろした。


 両断された机。

 その残骸が宙を舞う。

 木片と木屑。

 その中で、一冊の古ぼけたノートが断ち斬られ、バラバラと頁を撒き散らしていた。


 瞬間。


 目もくらむほどの黄金の光が、部屋を、廃教会異界を、そして僕の視界を埋め尽くした。


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 光が治まる。


 机があった場所。

 より正確に言うなら、ノートのあった場所で、一人の青年がルークに背を向けて立っていた。

 艶やかな黒い長髪を後頭部で一つにまとめ、首に黒いチョーカーを巻き、黒い外套を身に纏った人物。

 その足元には影、ではなく、黒々とした水溜まりの様なモノが、渦を巻いて広がっていた。


「……イヴル」


 呆然としたルークの声が響く。

 イヴルは、一、二度首を左右に倒してゴキゴキと鳴らした後、細く長く息を吐いて頭を振った。

 そして、ルークではなく白い少年へと目を向ける。


「やあやあ。君が〝せんせい″か。なるほどなるほど。大方おおかたの話は聞いているよ」

「何?」

 少年が不快げに顔を歪めるが、イヴルはそれを意に介さず、飄々と肩をすくめた。

「色々と、追体験もさせてもらった。まあ、よくもここまで、と言っておこうか」

「……君も、私の考えを否定するのか?私の〝世界を救いたい″と言う願いを」

 キョトンと、イヴルは一瞬間を開ける。

 しかしすぐに、フッと微笑んだ。

「フフ。まさか。否定などしないよ。素晴らしいじゃないか」


 この言葉に、少年はもちろん、ルークでさえも、二の句を継げずにポカンとしてしまう。


「イヴル、お前まさか肯定するのか?」

「ああ。実に〝らしい″だろう?他者の意見などかえりみず、己の考えが全てで押し付ける、その独善性。その傲慢、強欲。その傲岸不遜さは実に人間らしい。私はソレを否定すまいよ」

「私が、驕っていると、そう言うのか?」

「違うのか?あるべきものをあるがままに受け入れられず、貪欲にあらがうのが〝人間″だと思ったが?」

 実に不思議そうに聞き返すイヴル。

「わ、私の、この思いは、気高く、高潔で」

 言葉をつっかえさせ、段々と顔色が悪くなっていく少年。

 元より真っ白な肌をしていたが、それを通り越して土気色に迫っている。

 合わせるように〝神さま″も、身体をガタガタと震わせていた。

 手にした鋏がガチャガチャとうるさい。


 イヴルは、そんな少年にゆっくりと、穏やかに口撃を続ける。

「人間。人間。言い訳をするな。体裁を取り繕うな。お前の言う〝世界″とは、お前が見ているお前の〝世界″。お前が救いたいと言っているのは、要はお前自身だ。他者の事なんて、本当はどうだって良いのだろう?いつ、どこで、誰が何人死のうと、お前の心は痛まない。話を聞いても、光景を見ても、一瞬、ああ可哀想にな、と思うだけで、一晩寝て起きればすっかり忘れている。そんなたぐいのモノだ」

「そ、そんな事は無い!私はっ!」

「いいや。違わない。その証拠に、お前はここで養っていた子供達ガキ共を何人も殺して、そこの〝神さま″とやらの材料にしたじゃないか」

 和やかに、しかしジリジリと、蛇が這い寄るように、イヴルは少年を言葉で囲っていく。


 ルークが、相手と真正面からぶつかって口論、討論を交わすタイプなら、イヴルは相手の足元を崩すように、裏側から精神を削るタイプだ。

 言い分や意見を言わせず、議論、論戦にまで至らせない。

 相手のもろい部分を徹底的に攻めて責めて落とす、嫌なやり口。

 大体この手法で相手を追い詰める時は、イヴル自身がまあまあ苛立っている時に他ならない。

 言葉を交わした所で意味が無い、と割り切り、相手を見限っているからである。

 つまり、今もってイヴルは、この少年に対して何の希望も関心も抱かず、言わば見捨てている状況なのだ。


「わ、わ、わ、私、は」

「詰まるところ、お前は教団の中でのし上がりたかったのだろう?上の連中に認められて、褒められて、誰かの上に立ちたかったのだろう?」

 じわりと巻き付き、ギリギリと締め上げる。

 ルーク的には、見ているだけで嫌悪感をもよおす光景だ。

 だが、それでも口は挟まない。

 少年は、そのように責められるだけの事をしたのだから。


「ち、ち、違う。違うっ!!」

「違わない。お前は、自尊心と虚栄心と承認欲求の塊だ。正義感と言う、綺麗で薄っぺらい皮を被って満足しているだけの、つまらない人間だ。だってお前、たのしんでいただろう?」

「え?」

「解体している時、お前の目には確かな愉悦の色があった。愉しかったんだろう?腑分けするのが。愉しかったんだろう?自分の夢が叶っていく様を見るのは」

「ち、が」

「あ、そうそう。お前が造り上げ、成功したと思っている、神さまアレな。普通に失敗しているぞ」

「…………は?」

「アレはただの屍肉の塊。その中に詰まっているのは神なんかじゃない。お前の欲望、妄念だよ。それが、異界の力を借りて動いているに過ぎない」

「は?」

「だから、お前の命令を聞くし、お前の身を護ろうとする。本当の神ってのは、もっと残酷で、無情で身勝手で気まぐれ。なんなら山の天気より気が変わりやすい。そして、超高次元の存在だ。そんなな身体はおろか、こんな小さな異界なんかに収まるものかよ」

「……は?ち、違う……違うっ!!神様だ!あれは神様だっ!!」

「……そうだな。神であろうよ。お前にとって都合の良い、お前だけの〝神″だ。だが、それももう終わる。異界でなくなった今、ソレが動かなくなるのは時間の問題だ」

「か、神さまだ。神さまだ。私は失敗なんてしていない。私は成し遂げた。わ、私は、私は間違っていない。神さま……神さま……」


 言葉が聞こえていないのか、後半、少年は爪を噛みながらブツブツと呟く。

 それを見て、イヴルはふうっとひと息吐いた後、さらに言葉を続けた。


「ま、何でもいいがな。さて。これで私の言いたい事は言った。この後の事は、コイツらに任せようか」

 言いながら、トントンッとイヴルはつま先で足元の闇を叩いた。

「さあ、お前達。大好きな〝せんせい″が目の前にいるぞ」

 ゴポリ……と闇が波打つ。


 嫌な気配が、ルークの肌をゾワリと駆け上る。

 イヴルに呼びかけようとした刹那、闇から声が聞こえた。

 子供特有の、男とも女とも取れる高い声。


〝せんせい?″

〝せんせい?″

〝せんせい?″

〝せんせい?″


 一人、また一人と声が増えていく。

 そう時間を置かずして、その声はザワザワとしたさざなみに似た音になる。


「イヴルッ!」

 真っ青な顔になっているのはルークだけではない。

 白い少年もである。


「そうだ。〝せんせい″だ。会いたかったんだろう?手を伸ばせば届くところにいるぞ。この世界異界の核はすでに失せた。何に縛られる事も無く、好きに動く事が出来る。聞きたかった事、言いたかった事、やりたかった事。何でも好きにして良い」

〝ほんとう?″

〝ほんとうに?″

〝なんでも?″

〝なにしても?″

〝いいの?″

〝いいの?″

「ああ。この私が許そう」


 瞬間。


〝〝わああぁぁぁぁああぁぁい!!″″


 盛大な歓声と共に、闇から無数の黒い腕が伸びた。

 伸びて、少年に絡み付いた。


「うわあぁぁぁぁぁあああぁっ!!」

 少年の絶叫が轟く。

 イヴルはそれをニヤニヤしながら眺め、ルークは絶句して見ていた。


 足に、胴に、腕に纏わり付く黒い腕。

〝せんせい、せんせい″

「は、はな、離れろっ!!触るなぁっ!!――っ!」

 足を引っ張られ、倒れる少年に、さらに腕が殺到する。

〝せんせい、せんせい″

 身をよじり、必死に振りほどこうとするが、一向に離れる気配は無く、むしろ、ズルズルと引き摺られ、闇の溜まり池に向かい始めた。

 それの意味するところと言えば一つだけ。

 呑む、あるいは落とすのである。

 少年が、ひっと引き攣った声を出す。

「た、たす、助け!助けて!」

 ガリガリと石の床を引っ掻き、どもりながら助けを乞い始める少年に、イヴルはするっと近づき、笑顔で口を開いた。


「安心しろ。ざっと百二回。それだけ殺されれば終われる。もしかしたら多少増えるかもしれないが、まあ問題ないさ」

〝せんせい、せんせい″

「い、嫌だ。嫌だ!助けて!助けてっ!!」

「大丈夫大丈夫。文字通り死ぬほど痛いが、きちんと終わりはある。そこまで我慢すればいいだけの話だ」

〝せんせい。ふふ。せんせい″

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だぁぁっ!!助けて、神さま、神さまぁぁぁ!!」


 その絶叫に応えるように、神さまが鋏を振りかぶって、猛スピードでイヴルに突っ込む。

 ガキンッと、鉄と鉄がぶつかる音が響いた。

 寸での所で、ルークが剣を盾にして鋏を防いだ音だ。

 ギャリギャリと、赤い火花を散らして、神さまとルークが睨み合う。

 その後ろで、イヴルは冷たい微笑を浮かべたまま、ルークに声をかけた。


「核はさっきお前が壊したから、もう魔法は使えるぞ。とっとと火葬してやれ」

「僕に命令するな」

「どうかお願いします勇者様。早くその憐れな肉人形を天に召し上げて下さい。……これでいいか?」

「そういう問題じゃないし、むしろ余計しゃくに障るからやめろ!」


 言い返しつつ、ルークは剣を押し上げて鋏を弾くと、一気に魔力を練り上げ、神さまに照準を定めた。


聖灼燼ホーリーフレア!」


 白金の焔が神さまの身を灼く。

 ガシャンッと鋏が床に落ちる。

 クルクルと、踊るように身悶えする神さま。


「あ、あ、あ。ああぁぁぁぁぁああああぁぁぁああああぁぁぁぁっ!!」


 悲痛な叫びは少年のものだ。

 神さまは、ただただ無言で、滑稽こっけいな踊りを披露している。


「神さま、神さま、神さま神さま神さま神さま神さまっ!!神さまあぁぁぁっ!!」

 叫びながら、少年は漆黒の闇に向かって行く。

 ズルズルと、ズルズルと。

 無情に、無慈悲に。

 きゃっきゃっと楽しそうに嗤う子供の声だけが、場違いなほど室内に響き渡る。

〝せんせい″

〝せんせい″

〝せんせい″

 と。


「助けて、助けて助けて助けてっ!!やだやだやだやだやだっ!!お願いです、許して下さい!赦して下さいっ!!ああ、ああ、神さま、神さま、神さま神さま神さま、か」


 トプン……


 少年が闇に呑まれた。


 燃えていた神さまが、ガサッと崩れ落ちる。

 次第に、その焔も小さくなり、パチッと弾けるように消えた。

 床には、すすの一つすら残されていない。


 訪れた静寂。


 耳に痛いほどの無音の中で、不意に水が跳ねる音が聞こえた。

 音のした方へルークが視線を向けると、そこにいたのは、闇から顔を覗かせる両目の無くなった子供。

 思わずルークが息を呑んでいると、子供はニコッとルークに笑顔を向け、次にイヴルへと顔を向けた。


〝ありがとう″

「どういたしまして。終わったら、ちゃんと還るんだぞ。奥へ奥へと逝けば辿り着ける」

〝うん″

「で、約束のものだが……」

〝おるがん。ぱいぷのなかにあるよ″

「よしよし。これで依頼は達成だな」

 満足そうにイヴルが頷いていると、子供が再度礼を言う。

〝ありがとう。……ね、いっしょにいく?″

 イヴルは、ゆっくりと首を横に振った。

「……いいや。私は、向こうから呼ばれない限り行けない身でな。ま、根源神深淵にはよろしく言っておいてくれ」

〝……わかった。ばいばい、まおーさま″


 そう言うと、子供は闇に沈んでいった。

 そして、あっという間にコールタールの様な闇は小さくなっていき、干上がるように消え失せた。


 ルークは剣を鞘に納めつつ、イヴルに視線を向ける。

「……あの子供、お前が魔王だと知っていたのか?」

「ん?まあな。魂同士だと、ある程度相手の素性が分かってしまうのさ。とは言っても、所詮は表層部分だけだし、読まれないようにしようと思えば出来るんだが……。んな事より、さっさとこの辛気臭い部屋から出るぞ。報酬が待ってるんだから」

 言いつつ、きびすを返し扉へ向かうイヴル。

 それを追って、ルークも歩き出した。

「報酬……。そう言えば、約束のものがどうとか言ってたな」

「そ。アイツらのお宝と引き換えに、〝せんせい″を渡す約束。つまり依頼を受けたわけ」

「……いつの間に……」

「えーっと、呑まれてすぐ後」


 扉を開けると、そこには暗闇が立ち込めていた。

 異界化が解かれた為、視界も通常の法則が適用されたようだ。

灯火グロウ

 イヴルが照明の魔法を唱えると、すぐにこぶし大の白い明かりが形成され、フワッと宙に浮かんだ。

 カンテラの光を打ち消すほどの光源。

 室内はおろか、階段のかなり先の方まではっきりと照らし出される。

 二人は、その明かりを先頭に、階段を上り始めた。

 階段の幅は一人分しか無い為、イヴルが前で、後ろをルークが行く形だ。


「この異界は、お前がぶった斬ったノートが核になっていた。そのノートを書いていたのが、あの〝せんせい″さ。ノートの所有者がアイツである以上、当然の帰結として、この異界はほぼ全て、アイツの意にそぐうようになっている」

「……おい、その話は初耳だぞ?」

「そりゃ、話してなかったからな。呑まれたあの時、そんな余裕も無かったし。んで、異界が形成されている限り、魂は根源に還る事が出来ない。例え、本人達がどれほど望んでいてもな。だが、異界はアイツに牛耳られていて、核を壊す事はおろか、〝せんせい″に逆らう事も止める事も出来ない。せいぜい出来るのは、外から人を招くぐらい」

「……そんな中に来たのが、僕達か」

「そ。この山に足を踏み入れた時から狙っていたらしいぞ」

「という事はつまり、僕達を追いかけていたあの魔獣はもしや……」

「ご明察。あのガキ共の仕業だ。特に俺は今星幽アストラル体。魂が物質化している状態だから、すぐに魔王だと判明してしまった故、お前より俺に狙いを定めたんだと。で、〝せんせい″に従うふりをしながら、タイミングを見計らって俺を引き込み、協力を取り付けたって訳だ。どのみち、核を破壊しないと外には出られないからな。まったく、ガキのくせに小賢しいったらない」


 そこまで話した所で、ようやく一階に戻ってくる。

 上部に空いた穴を抜けると、そこはある意味見慣れた礼拝堂。

 ここもやはり薄暗かった為、照明魔法は解除せず、天井近くまで昇らせて辺りを照らし出させた。

 イヴルは、床に転がっている幾つものパイプを一本一本確認していく。

 叩いて、振って、覗いて確かめる。

 音や重さ、穴から入る光の加減で、異物が無いか調べる方法だ。

 一人でやるには多すぎる数のパイプ。

 途中から、仕方なしにルークも手伝い始めた。


 一本、二本、三本と見て、半数にも届こうかという時、ルークはため息混じりにパイプを手に取りながら、イヴルに訊ねる。

「それで?お宝っていうのは、どんな物なんだ?」

「宝石だ。この山で遊んでいた時に偶然見つけたんだってさ。〝せんせい″に日頃の感謝を込めて渡すつもりで、隠していたらしい。ま、渡す前に殺されちまったんだが。パイプの中に素のまま入れるはずないから、恐らく布か何かに包まれてると思うんだ、け、ど……」

 長いパイプを、手にトントンと叩きつけながら答えるイヴル。

 ルークは、視線を落として苦い表情をした。

「〝せんせい″……か。それほど慕われていながら、あの子達を殺す事に、彼は躊躇ちゅうちょしなかったんだろうか。罪悪感を抱く事は無かったんだろうか……」

「人間は、根本的に利己的な生き物だから、自分が〝正しい″と思った事に関しては、どこまでも残酷に、残虐に、そして盲目的になれる。目に映ってはいても見えていない。耳に届いてはいても聞こえていない。どんなものでもな」

「そんな事はっ!……ない、とは言い切れないが……」

 今まで生きてきた中で、幾つか思い当たる事があったのだろう。

 ルークの語尾が尻すぼみになって消え、持っていたパイプが落ちて、カツンと床で寂しく鳴る。

 それを横目で見ながら、イヴルは次のパイプを手に取った。

「まあ、そう気を落とすなって。こんなの道端に生えてる雑草並みにありふれた話……ん?」

「どうした?あったのか?」

「おう。それっぽい物はっけーん」


 言うや否や、立ち上がり剣を抜くイヴル。

 そのまま、持っていたパイプをぽーんと放り上げると、目にも止まらぬ速さでスパパッと切断した。

 人間の背丈ほどもあったパイプが、一瞬にして肘ぐらいの長さになる。

 カランカランと、落ちた余分な部分が、高く音を響かせた。

 目的の部分を手に取ったイヴルは、剣を鞘に戻し、改めてパイプを強くもう片手に叩きつける。


 二度、三度と繰り返していると、やがてポンッと、茶色いボロボロの布が飛び出てきた。

 大きさは拳二つ分と、なかなかにある。

 風雨をまぬがれてきたとは言え、それでも長い年月を越してきた布だ。

 ちょっとでも力を入れれば、すぐにでも分解してしまいそうなほどもろい。


 イヴルは、手の上にあるそれを慎重に開いていく。

 少しして現れたのは、紫色の結晶が埋め込まれたような石の塊。

 宝石、の原石である。


紫水晶アメジストの原石だな」

 手にしていたパイプを床に置いて近付いたルークが、イヴルの手元を覗き込んで言った。

「アメジストかぁ~。しかもこの大きさの原石……。大した金額にはならないな」

 イヴルはガッカリした面持ちで、アメジストを持ち上げ、光に透かすように見る。

「子供の言う〝宝石″なんて、たかが知れている。そんなの分かっていただろう?」

「そりゃ、そうだが……。いって6、700Dデアかぁ……」

 なんて、そんな事をボヤきつつも、しっかりとふところに収める。

 どれだけ値を吊り上げられるかは、売る人の力量次第だが、どんなに頑張っても、宿代一泊分にも満たないのは確かだ。


「まあいい。じゃ、外出るか。一体どんだけ時間が経ってるのかね~」

「出来れば一ヶ月以内に収まっていてくれ……」

「まるっと一年過ぎて、同じ日だったりしてな」

「やめてくれ……」


 そんな雑談を交わしながら、ルークは出入り口である大扉に向かって歩き始める。

 イヴルはと言うと、おもむろに指をパチンと鳴らして、浮かべていた魔法を解除した。

 途端、薄闇が礼拝堂に満ちる。

 シン……と、物音一つしない空間。

 明かりらしいものと言えば、ステンドグラスを透過して届く、僅かな陽光ぐらい。

 何の気配もしない、空っぽの礼拝堂。

 イヴルは、高い位置に飾られた三女神のステンドグラスをつまらなそうに一瞥いちべつした後、ルークの後を追うように歩き出した。


 ギイィィィィッと、やかましい軋み音を立てて、大扉がゆっくりと開いていく。


 まず最初に二人が感じたのは、目を射貫くような強い光。

 同時に、ジワジワと騒がしい虫の声と、ムワッと津波の様に押し寄せる熱気と湿気。

 控えめに言って、不快の塊が二人に勢いよくぶつかった。


「ああああっっついっ!!」


 唐突にイヴルは叫ぶと、着ていた外套の上半身をガバッと脱ぐ。

 脱いで、袖部分をさっさと腰に巻いた。

「あっついっ!!マジあっついわっ!!」

 派手に噴き出す汗を手で拭い、気休めにもならない手うちわで顔を扇ぐイヴル。

 そんなイヴルを他所よそに、ルークは涼しい顔で手傘を作り、濃く青い空を仰いでいた。

「嵐は過ぎたみたいだな。良かった。後は近くの村か町で日付を聞くだけだ」

「冷静かっ!お前、暑くないの?」

「暑いぞ?暑いけど、我慢できる範囲だ」

かんに障るわ~。お前のそのすました顔」

「理不尽……」


 周囲に魔獣の気配は無く、目の前には、ただただ濃い緑の森が広がっている。

 雨に洗い流されたのか、それとも単に時が過ぎたせいか、二人の足跡は一切の痕跡を残さずに消え去っていた。

 せ返るほど濃密な木々の香りを肺に取り込みつつ、二人は屋内と言う名の日陰から嫌々その一歩を踏み出し、そして最後にもう一度、廃教会を振り返る。


 不意に、風も吹いていないのに、唐突に鐘楼の鐘が一度鳴った。

 カラーンと、澄んだ音が山に響き渡る。


「……今のは、お礼……かな?」

「知らん。行くぞ」


 素っ気なくそう言うと、さっさと山を下り始めるイヴル。

 その後ろ姿を苦笑混じりに眺めた後、ルークも一緒に下りて行った。


 それから、山から少しだけ離れた村で話を聞いたところ、あの嵐の日からすでに七日間が過ぎていたとの事。

 一ヶ月とか、一年単位で過ぎていなかった事に安堵のため息を吐くルークは、ふと、異界で抱いたある疑問を思い出した。


「なあイヴル」

「ん?」

「結局、僕を導いてくれた〝手″と言うのは、お前だったのか?」

「……〝手″?」

「ああ。あの神さまに追われていた時、書斎に招き入れてくれたり、逃がしてくれたり、核の仕舞われている机を指差したりと、助けてくれただろう?」

「……なんの話だ?」

「え?」

「俺は自分の事に手一杯で、お前に回せる気なんて無かったぞ?」

「はは。またそんな。照れなくていいぞ」

「いや照れてねぇし。本当だし」

「…………え、本当に?じゃあ、あの子供達の誰かか?」

「いや、〝せんせい″を除いた魂は、全て俺が抑えていたから、それは無いだろうな」


「…………え?」

「ん?」


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 これはつまり、旅の途中であった、そんなありふれた夏の日の話。






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