嫌な夢はすぐ忘れてしまう

園長

第1話 嫌な夢はどうしてすぐ忘れてしまうのか

 部室棟の一番端、錆びてペンキが剥がれかかったドアを、僕は開いた。

 サッカー部独特の汗とボールのニオイがむわりとする。

 カゴに入ったサッカーボールや干してあるユニフォーム、蛍光色の小さな三角コーンなんかが雑然と置かれた部室。みかん色の夕日がすりガラスの小さな窓から入ってきて、あたりを薄暗く照らしていた。

 いつもこの部室を訪ねると必ず先輩達がベンチに座っていて、漫画を読んだりこっそり持ち込んだケータイでゲームをしていた。

 しかし今はいなかった。

 何故か? これは夢だからだ、僕にはわかる。

 自分で夢だとわかる夢、明晰夢ともいうらしいそれを僕は小さな頃からよく見た。

 夢だとわかる理由は、いろんなことに違和感があるからだ。

 例えばグラウンドから聞こえてくる野球部の声も、ブラバンの下手くそな練習の音も、何も聞こえない。不自然すぎる静寂。誰もいない部室棟。どことなく不自然な夕日。

 これは今から3年ぐらい前、僕が中学校に入学した頃の夢だ。

 睡眠中に見る夢はその人の心理状況や経験を表すらしい。僕はよく過去の失敗した出来事を夢に見ては、起きてからよく死にたくなって悶える。

 これはそんな僕がいつもよく見る過去の嫌な経験の夢。

 そう思っていた。

「へーい! 少年、元気かね」

 いきなり背後で大きな声がして僕はびっくりした。

 ふりむくと、クリーム色のだぼっとしたパーカーを着た女の人が立っていた。

 年齢は今の僕と同じぐらいか、あるいは大学生ぐらいにも見える。その表情はにこにことしているが、キツネのように細い目がつり上がっていて、どこか見ているものを不安にさせた。

「あんたは誰?」

 なぜ僕の夢の中に知らない人がいるのか。

「ああ、私かい? 夢の精だよ」「ほんとだよー」

 彼女は左右の手にそれぞれパペットの動物をはめていて、それを使いながら答える。

「こっちはマレーバクくん、こっちはヒツジさんです。私はセイでーす」

 聞いてもいないのにご丁寧にパペットにもおじぎさせつつ、セイは答えてくれた。

「はぁ、それで一体その夢の精が何の用?」

「仕事だよ」「ねー」

 僕の問いにセイは右手のバクを動かしながら応える。

「仕事って何の?」

「そりゃあもう、あなたの夢をバクっとな」「だよねー、バクくん」

 いちいちパペットと会話しながら答える。いまいち要領をえない。

「私の仕事は、この世界を破壊することだから」

 僕が怪訝な顔をしていると、セイはキツネのような顔でニヤニヤと笑っていた。

「破壊されたらどうなるの?」

「そりゃぁもう記憶もろとも吹き飛ぶね、バーンって感じで。私はそれを食べて生きてるの。誰かの消したい記憶を、夢もろとも食べちゃうんだよね、きひひ」

 胡散臭い話だ。まあ夢の中の話に胡散臭いも何もないけれど。

「僕は別にそんなこと頼んでないんだけど」

 そう言い終わる前にセイは「きひひひ」と嘲笑した。

「嘘だね。私は消して欲しいと心の底から思っている記憶でない限り現れないの。そういう仕組みになってるの。だから私、失いたくないと望んでる記憶は食べないもの」

 セイの言うことが本当ならば、僕はこの記憶を消したいと思っているということだけど。

「だってほら」

 彼女の右手のバクが大きくなったかと思うと、部室棟のドアを空間ごとばっくりと食べた。

 途端に、胸の奥がぞくりと冷たくなる感覚があった。

 さっきまでドアがあった場所はその空間ごと抜き取られて暗闇になっていた。

 変だ、さっきまで見ていたドアがどんなだったのかが思い出せない。なんとなく鉄製の扉だったことは覚えているけれど。どんな見た目だったのかの視覚的な情報や触った感覚が思い出せなかった。

 記憶ごともっていかれるってこういうことか。

「おーいし。きひひ」

 セイはニヤニヤ笑うのを止めない。

 今まで夢が夢だと分かったその時から、夢の環境や展開を自分のイメージした通りにある程度変えることができていた。ところがセイは、こいつは違う。僕の意思とは全く違う所で動いている。僕の夢の世界とは全く異質な存在だということに気付いた。

 背筋がぞくりとした。

 僕の記憶が食べられてしまう、なんとかしなくては。

 そうだ、ここは僕の夢の世界なんだから、自分で展開を変えてセイを追い出してしまえばいいんだ。

 試しに大きな消しゴムをイメージしてみると、長さ1メートルぐらいある巨大消しゴムが目の前に表れた。

 僕はそれを手に取ってセイのいる場所を消してみたが、ごつっと音がしてセイの頭に当たっただけだった。

「いたーい」

「あ、ごめんなさい」

 つい謝ってしまった。僕のイメージではセイの存在だけ消えるはずだったのだけれど。

 セイの左手の羊が巨大化して、目の前で僕を飲み込まんばかりに大きな口を開けた。

「夢の精に夢の中で叶うとでも思ってるの?」

 あのパペット、巨大化するのと同時にリアリティが増していて、リアルな羊の目に睨まれるとかなり怖い。

 羊の生暖かい息がぶふぅと僕の顔面に吹きつけられ、僕はすぐさま降参した。

「すみませんでした」

「だいたい、なんでそんなにしてこの夢を守りたいの? 嫌な記憶なんじゃないの?」

「いやーなんというか、確かに嫌な記憶かもしれないけれど、勝手に消されちゃうのは困るというか……」

 セイとバクと羊は僕をじとっとした目で見た。

「どんな記憶なの? この夢は」

「あれは3年前のことだったんだけど、僕は中学校のサッカー部に入りたてで、部室に行くとちょうどそこのベンチに座ってた先輩達に『シュークリーム食べたくなったから買ってこい』って言われたんだよ」

「へぇ~」

 セイは自分で訊いておきながら興味なさそうに手すりにもたれて後ろのグランドの方を見ていた。

「小学生のサッカークラブと違って、やっぱり雰囲気が全然違うというか。陽キャの集まる場所だったところに、僕みたいなひょろいやつが来たから、パシリとかいじられる人間の対象になってしまって。どうしても辛くなっちゃって、サッカー部をやめちゃったんだ」

 セイは伸びをしながら「じゃあいいじゃん。そんなの食べちゃっても」と言った。

 どうやらセイは早いこと僕の夢を食べたくて仕方がないようだ。

「だめだよ。サッカー部を辞めてなきゃ、その後、演劇部に入ろうなんて思わなかったもの」

 そう、この経験が無ければ演劇部の友達や顧問の先生に会うことも無かった。サッカー部での出来事はとても怖くて嫌だったけれど。

「記憶が消えるだけだって、大丈夫だって。あーもう、まどろっこしいなぁ。運悪く明晰夢に飛び込んじゃったし、食べるなって言われるし。めんどくさいなー! こうなったら実力行使しかないよね。私、争いは嫌いなんだけどなー」

 そう言ったセイはバクを巨大化させた。

 とにかく強い何かを出して対抗しなくては。

 僕は手で筒を作って巨大なニシキヘビを想像した。すると、その筒から僕の身長の2倍程もある大蛇が表れ、バクもろともセイを飲み込んだ。

 ところが、大蛇が目を丸くしたかと思うと、お尻からポコンと卵が産まれて、その中からニコニコ顔のセイが出てきた。

 お次はアニメで見たことのある対空ミサイルを出現させて発射した。セイは巨大化させた羊で簡単にばくりとミサイルを食べてしまった。

 ならばとセイの足元に落とし穴をイメージしてみたけれど、セイはその上で何事もなかったように立っていた。

「次から次へと。想像力豊かだねぇ」

 セイは羊にミサイルを食べさせた後の黒い煙を吐き出させて言った。

「イメージ力には自信があるんだよ、中二病をずっと患っているからかな」

 なんて強がったけど、何をしてもセイに勝てるイメージは浮かんでこなかった。

「こんな嫌な記憶、なくしちゃえば楽になるのにさ、おばかさんだなぁ」

 反論しようとした僕の口をセイは人差し指で制した。

 僕の口は次の瞬間、開かなくなっていた。瞬間接着剤でくっつけたみたいに、何をしても動かなかった。

「あーいいよいいよ、もう綺麗ごとはさ」

 悔しくなった僕は、最後の手段を使ってみた。

 中学の時の演劇部の顧問の先生、いわば僕の恩人を召喚してみた。

(どうだ、大切な思い出は食えないんだろ?)

 セイはふんっと鼻を鳴らして羊に食べさせた。セイ自信は食べてないのに「おえぇ、まっずい」と舌を出す。まさか、これも食べられてしまうとは。

「あーっはっは、どうだい夢の精には敵わないだろう?」

 僕は自分の口をチャックを開けるようにイメージして、開いた。

「悔しいけど、叶わない……」

 そう僕が言うと、セイは満足そうな顔をした。

「なーんちゃって」

 僕は右手に目覚まし時計をイメージして出現させた。

「なーにそれ?」

 訝しむセイを無視して僕は目覚まし時計を鳴らす。ジリリリリというやかましい音が僕の夢の世界に鳴り響いた。

 小さいころから愛用しているもので、金属のベルが2つ頭についた、いかにも目覚まし時計な見た目のこいつは、僕が夢から抜け出すときにいつもイメージしている物だ。どんなひどい悪夢をみていても、こいつをイメージすれば起きることができるんだ。

「この勝負、お前の負けだ!」

 夢の世界がシンナーを塗ったらくがきみたくどろどろと溶けていくのが分かった。

「うわああ、なんてことを!!」

 セイは頭を抱えて地団太を踏んだ。が、途端にけろっとした表情をして言う。

「あーあまったく、もったいないことしやがって。ま、いいや。お姉さんに食べて欲しい夢ができたら『夢の精さん夢を食べてください』ってお願いしてから寝たら食べたげる」

 セイはバクと羊のパペットをパクパクさせながら闇に消えていった。

 僕はその機会が無いように願うばかりだった。


 次に目を開けると、自室の壁が見えた。

 大きなため息が出た。なんという変な夢だ。

 机に置いてあるデジタル時計を見ると、土曜日のお昼前だということが分かった。どうも寝すぎるとああいう変な夢を見るんだよな。

 ところが夢というのは起きてすぐは覚えているけれど、30分もしないうちに僕は内容のほとんどのことを忘れてしまっていた。夢なんて、そんなもんだ。

 服を着替えて家を出た。どうしてか、中学校が気になったんだ。

 靴を履いて、近所を散歩がてら昔の通学路を歩く。普段は通ることのなくなった高校の通学路と正反対の道をいくと、だんだんと過去の記憶が呼び覚まされる。なんてことのない電柱や、家の門、ガードレールの汚れでさえも、なんとなく懐かしかった。

 ついに中学校に着くと、僕はグラウンドのフェンスの外から部室棟を眺めた。テニス部や野球部、サッカー部も休日の練習をしていた。

 もし、サッカー部の居心地がよくて、そのまま続けていたら今頃僕は何をしているんだろうか。今の高校には通っていないかもしれないな。そんなことを考えた。

「あれれ、こんにちわ、ご無沙汰ですね、元気してましたか?」

 丸眼鏡をかけた初老の男の人が僕に話しかけてきたけれど、僕にはその人と面識がなかった。

「あ、えと、こんにちは」

 そんな僕の様子を見て、男性は言った。

「あれ? もう忘れちゃったんですか? 私ですよ、演劇部の顧問の、柏木です」

 そう言われて僕は思い出した。この先生らしくない丁寧な話し方、優し気な表情。笑うと目尻にたっぷり皺が寄るところなんかを。

 僕がサッカー部を辞めてから、元サッカー部に無視されたりという嫌がらせを受けていた時に、僕に居場所をくれた先生。

 どうして、どうして忘れてしまっていたんだろう。

 そう考えた瞬間、僕は昨晩の夢の内容を思い出してはっとした。

 そうだ、僕はセイから夢を守るために先生を召喚したんだった。

「あ……はは。いえ、忘れてませんよ、忘れるわけないじゃないですか。やだなぁ先生」

 しかしそんな夢のことを話しても先生は戸惑ってしまうことだろう。僕は夢の話を胸の内にしまっておこうと思った。

「いやね、恥ずかしい話なんですが、昨日、あの部室棟で大きな羊に食べられるという、年甲斐もなく奇々怪々な夢を見てしまいましてね。もう昨年、現役を引退したんですけど、気になって夢の現場を見に来たんです。おかしいでしょ?」

 そう言って先生は明るく笑った。

 僕も、なんというか、笑うしかなかった。

「先生、もしお時間があれば、少し話しませんか」

「いいですよ、君の高校生活の話も聞かせてください」

「はい、もちろん。でもその前に僕の奇妙な夢の話があるんですけど……」

 そう僕が言うと、先生は愉快そうに微笑んだ。

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