第3話 ルナティック
僕は、壊れている。
だが、壊れた宇津木やしろこそが今の僕であり、アイデンティティなのだから、僕は、修復されてしまうことを、拒絶するのだ。
そして願う。
もっと多くの人が、壊れてしまえばいいのに。
それは、殺意ですらなかった。むしろ、生きたいという祈り、願い、切実なる思い。
自分が異常だということなど、ずっと昔からわかっていた。
「またここに、来ちゃったんだね、宇津木くん。そんな子はあなたが初めてだわ。きっと宇津木くんは、変態なんだね」
しおり先生はくすくすと笑いながらそう言っていた。
違う、僕はあなたに壊された。
きっと、厨二病というのだ、こういうのは。
僕は、少し特殊なパターンかもしれないけど、でもやっぱり、多くの人が通る道らしい。そして大人になると、そんな若かった頃のことを思い出して、恥ずかしくなるのだとか。
いわゆる、黒歴史というやつだろう。
「俺も中学生の頃はな、全開だったよ。一部の限られた人間以外は、全て俺の敵なんだって思ってた、本気でな」
中学の生物部の顧問の先生に厨二病について質問すると、先生はそう答えながら、ちょっと頬を染めて頭を掻いていた。
恥ずかしそうにしている先生に曖昧に頷きながら、僕は少し嫌な気分になっていた。
先生の中学生の頃の話は、いまの自分によく似ていた。
いや、僕は他人を敵視しているわけではないのだ。敵視しているわけではない、僕はあまり人を嫌いになるタイプではないのだ。
だけど傷つけたい、精神的でも、肉体的でもいい。そう感じるのだ。
かつて、あの人が僕にそうしたように。
それは、ふと通り過ぎた全く僕には関係のないサラリーマンに対しての時もあれば、僕の家族や友人に対しての時すらあった。
傷つけたい、傷つけなくてはならない、そうしないと生きていけない。それほど切実に。
真剣に悩んでいた。そんなことを考える自分が嫌だった、嫌いだった。だから中学生の時、顧問の先生に相談したのだ、もちろん内容は曖昧にして。一般論について訊くような感じで。
そして、しきりに過去の自分を恥ずかしがる先生を見て、僕はなぜか不快になってしまった。自分が心に抱える“これ”は、時間が解決するものなのだとわかったのだ。本来なら、安心すらしてもいいはずだった。
だけど、不快、いやそれは明確に、恐怖だった。
すなわち、自分も大人になったら、いまの自分を先生のように恥ずかしがってしまうのかという恐怖だった。
それは、“死”だと感じた。
大げさだと思うだろうが、その時の僕には、そう感じられたのだ。まぎれもない、死。
人間を、個人を決定するのは肉体だろうか、僕はそうは思わない。人間を蹴っていずけるのは、人格だろう。
SF映画であるような、肉体が別の人の人格に乗っ取られるようなことが起こったら、それはもうその肉体の前の持ち主と同じ人間とは呼べないということは、多くの人が同意するはずだ。だったら、いまの自分の人格の核となる部分、つまり中二病を自分の黒歴史として完全に否定し恥ずかしがっている、大人になった僕というのは、本当に僕と同じ人間だろうか、僕と同じ人格だろうか、僕はそうは思えない。
では僕の今の人格はどこに行くのだろうか。
消えるのだ。
体は“大人の僕”に占拠され、今の僕の人格は押しつぶされるように消えてしまう。
それは、死ぬってことじゃないのか。
少なくとも、僕にはそう思えるのだ。
それは、生物学的な死のように、スイッチのオンオフのように切り替わるものとは違う。成長という名の人格の死は、徐々に徐々に置き換わるようにして起こるのだ。
気づかないうちにみんな死んでいる。
「変化するっていうのは、恐ろしいことだわ」
大岩綾瀬、僕にとって、友人と呼べる唯一の存在である彼女はそう言っていた。
彼女もまた、特殊な考えを持った人間だった。綾瀬と僕は、共感し合えるような、でもやっぱり根本的には何かが違うような、そんな関係だった。
変化が怖い、それは僕も全面的に同意していた。変化とは僕にとってはすなわち、“現在”の死を指していたから。
綾瀬と僕の大きな違いは、彼女は死を尊び、僕は死を極度に恐れていたということだ。
綾瀬は変化を恐れるあまり、それ以上変化しないために死をもって現在が固定されるという考えに取り憑かれていた。
だけど、僕は違う。人生における最大の変化である、死、そのものを僕は恐れていたのだ。
だから僕は、死を超えてもなお自分が固定される方法を探し続けていた。
そして、決めたのだ。とりあえず、延命してしまおうと。
成長というのはあまりにも速すぎる、きっと僕はこのままでは、他の多くの人々のように気づかないまま死んでいく。
だから僕は、人格を固定することに決めた。
中二病とは、大げさに言えば狂気。
僕は作為的に狂気に取り憑かれることにした。狂気的な犯罪を、実行することにした。
少なくとも、狂気的な行動をすれば、副作用的だったとしても、狂気は後から伴ってくると、そう考えた。
シナリオはこうだ。
ある子供の命を救い、そしてその少女を殺す。
まるで、しおり先生みたいだと思った。僕は先生に救われて、そして先生に壊された。
それは、殺意ですらなかった。むしろ、生きたいという祈り、願い、切実なる思い。
当然、命の危機に瀕している少女など、都合良く眼の前に現れるわけがない。
事故が必要だった。
思ったよりも簡単だった。
僕は、自分の生活圏内にターゲットを探した。自分とは全く関わりのない家、事故ではなく自作自演なのだと誰も疑わないような家だ。
あたりをつけると、あとはその家の住人の行動パターンと家の構造の把握に半年を費やした。
あまりにも御誂え向きだった。その家は若い夫婦と幼い一人娘の三人暮らし、母親は専業主婦で、父親はほぼ一日中仕事。そして僕が着目したのは、ありきたりと言えばありきたりなこと母親は娘が風邪をひくと、必ず夕飯にカレーライスを作ってあげるのだ。娘の大好物だった。
半年の間に、人がいる時ですら目を盗んで忍び込めるまでになった僕は、一人娘が風邪をひくのを待つだけだった。
母親はカレーを作っている途中に気づく、隠し味のハチミツが切れている。
「隠し味はなんだと思う?」
「はちみつ!」
誇らしげに答える娘の顔が目に浮かぶ。何気無いやりとり、しかし幼い娘との大切なひと時であるはずだ。もちろん隠し味を入れなくても娘は気づかないだろう。母親はここで迷う。ここが賭けだった。もちろんハチミツは僕が忍び込んで切らしたのだが、ここで母親がハチミツを使うのを諦めれば計画はそれまでだった。
結局母親は、ハチミツを買いに行くことに決めた。もちろん鍋の火は止めて。しかし細工がしてあった。火は止めたつもりでも止まらない。そして遠いのだ。親子の家からスーパーは。
火事になった。
僕は学校に行っていたが、計画がうまく行くかどうかが気が気ではなくて授業など一つも耳に入っていなかった。
放課後、本屋に本を買いに行くと行って家を出た僕は、自分の計画が完璧なほどにうまく行ったことを知った。
時間の計算も完璧だった。日はあっという間に燃え広がり、家の周りには野次馬がたかっていた。消防隊の姿はまだ見えなかったが、時間の問題だ。
燃え盛る炎に足がすくんだが、救助が来てしまえば、計画は台無しだ。
やるしかない、そう言い聞かせて公園の蛇口で適当に水をかぶり、ハンカチで口を覆った。
少女の母親の姿が目に入った。狂ったように娘の名前を呼びながら、家に向かって飛び込もうとしているのを、二人の野次馬に止められていた。
心が痛んだ。
救ったあとは殺す。そう決めていたはずなのだが、その時の僕の頭には、少女の命を救うことしかなかった。
流石に中学生の少年が燃え盛る家に飛び込むとは誰も予想していなかったのだろう、野次馬たちは唖然として、止めることもできなかった。
僕は家に駆け込むと、最速で子供の寝室に向かった。家の構造も、火事になった時にどこが危ないのかもほぼ完璧に把握していた。
野次馬たちが母親を引き止めてくれてよかった。この火事の犯人である僕じゃなかったら、少女を助けるどころか、飛び込んだ時点で死んでいたかもしれない。
半年かけて準備した甲斐があった、僕は泣き叫ぶ5歳の少女を抱え上げ、無傷で救い出した。
それが、畑田沙良と僕の出会いだった。
僕は誰も知らない殺人未遂事件の犯人、しかし命を救われた沙良は、命の恩人である僕を、実の兄のように慕うようになった。
想定内だったし、都合がよかった、これで僕は、好きな時に沙良を殺せる。
そのはずだった。
想定外だったのは、子供に慕われるというのはとても嬉しいことだ、ということだった。
つまりは、沙良が僕を兄として愛してくれたように、僕は沙良を妹として愛してしまったということだ。
そこからの日々は、僕の人生の中でも一番の幸福でもあり、地獄でもあった。
良心の呵責、それは想像を絶するものだった。沙良と一緒に遊ぶのは本当に妹ができたみたいで楽しかったが、その度に炎が目の奥にチラつくような気がした。沙良は僕を愛してくれたが、自分にはそんな資格はないとわかっていた。僕は沙良を愛していたが、自分にはそんな資格はないとわかっていた。
沙良と遊んでいると、ときどき罪悪感のあまり暗い顔をしてしまいそうになっていることに気づいた。そんな顔を見せないように気をつけてはいたが、子供はそういうのには敏感だ、もしかしたら何か感じていたかもしれない。
しかし、壊れた心が時間とともに修復されるように、罪悪感もまた、少しずつ薄れていくようだった。
沙良の両親は、火災保険に入っていたし、僕が想定していた以上に準備が良かったようだ。一軒家を失い、賃貸で暮らすようにはなったものの、三人はほとんど以前と同じ生活をすぐに取り戻した。
違うのは、命の恩人である“やしろお兄ちゃん”が、沙良とたまに遊んでくれるようになったということだけだ。
「やしろお兄ちゃんはどうして私の本当のお兄ちゃんじゃないの?」
ある日、僕が明日は部活で公園に来れないと嘘をつくと、沙良はそう言って泣いた。
「本当のお兄ちゃんだったら、公園じゃなくて、おうちでも一緒に遊べるのに」
僕が困ってしまうと、後ろで聞いていた沙良の母親が、じゃあお家に来てもらえばいいじゃない、と言った。明日が無理なら、明後日にでも。
「やしろ君さえよければ、一緒にお夕飯を食べましょう」
僕は少し驚いたが、喜んでお邪魔します。とそう答えた。
本心だった。
まるで本当の家族みたいじゃないか、一緒に机を囲んで夕飯を食べるなんて。
こんなものではない、二年だ。僕が沙良と一緒に過ごした日々は。二年間も一緒にいたのだ。思い出は、数えきれない。
僕が遊んでいる最中に足を滑らせて転ぶと、当事者の僕よりも痛そうに顔をしかめながら絆創膏を貼ってくれた、嬉しかった。母親と一緒に作ったという弁当を食べさせてくれた、美味しかった。図工で書いたという絵をプレゼントしてくれた、その“かぞく”という題名の絵には、小さい女の子とその両親、そしてそのお兄ちゃんが描いてあった、泣きそうになった。
本当に、愛していた。
沙良は、殺された。
一緒に夕飯を食べることはできなかった。
本当に、理解できなかった。
自分が沙良を殺そうと思っていたことがあったのも関わらず、沙良が殺されなければならない理由など、一つも思い当たらなかった。
そう、殺そうと思っていたことがあった、そう言った。
僕はもう、沙良を殺そうなんて、ひとかけらも考えてはいなかった。
異常なまでに成長を恐れた僕だったが、いつの間にか、ほかの普通の人たちのよう、攻撃性を、異常性を失おうとしていた。
しおり先生に壊された僕は、沙良のおかげで修復されていた。
他の多くの人と同じように、気づかないうちに、人格が死んでいたのだ。
いや、死にかけていた。
ぎりぎり死んではいなかったそいつは、沙良が殺されると同時に息を吹き返した。
修復されかけていた無数のひびが再び心を砕いた。
それは苦痛だった。堪え難いほどの苦痛だった。
そして、沙良を殺したやつもまた、壊してやると誓った。それ以上に、願った。
もっと多くの人が、壊れてしまえばいいのに。
僕は前の時以上に、完膚なきまでに壊れてしまった。
「沙良がうちに帰って来ていないの、やしろ君、何か知らないかしら?」
沙良の母親から、そう電話がかかって来たのは、夕飯を一緒に食べる約束の日の前日、嘘をついて公園に行かなかった日だった。
嫌な予感がした。
「知りません」
そう呟くように答えた僕は、気づくと走り出していた。
沙良といつも遊んだ、丘の上にある公園。
公園には、誰もいなかった。その公園は小高い丘の上にあって、四方に向かって階段が伸びていた。僕の家と沙良の新しい家は、その公園を挟んで反対側にあった。
だから、僕は階段を登り、公園を横切って、そして沙良の家に向かう階段を降りようとした。
階段を降りる前から“それ”は見えていた。だけど、信じたくなかったのだと思う。階段を駆け下りて、ひっくり返して“それ”を眺めた。脈をとって、生き物でないことはわかった。顔を確認しようと思ったが、視界がぼやけて何も見えなくなった。
救急車と警察を呼び、事情を説明し、家に帰った。
どうして、部活なんて嘘をついたのだろう。ちょっと疲れたから、明日はいいやなんて、そんななんとなくの理由だった。僕が公園に行っていれば、沙良は死なずに済んだかもしれない、もしかしたら一緒に夕飯を食べていたかもしれない、本当の家族みたいに。
僕は家で、泣き叫んだ。
沙良が死んだ。殺された。
「私が、沙良ちゃんを殺した」
大岩綾瀬はそう言った。
親友として名前を挙げた、大岩綾瀬と僕が知り合ったのは、例の火事の直後だった。
正確に言うと、中学校で同級生だったので名前と顔は知っていたが、話したことはなかった。その綾瀬が、例の火事のあとに、話しかけて来たのだ。どうやら、綾瀬も幼い頃に命を救われたことがあり、それで似たものを感じて僕に興味を持ったらしい。
結城浩介、それが幼い綾瀬が車に轢かれそうになっているところを救って死んだ男の名前らしい。
なぜかわからない、そんなはずはないのに、僕は結城浩介が僕と同じ人種のような気がした。
自作自演。僕と違うのは、彼は僕よりも綾瀬に近い考え方の持ち主で、死ぬことによって自分の人格を善人として固定しようとしたと言うことだ。
あくまでも僕の妄想だ。まるで僕と綾瀬を足して二で割ったような人物像だ。
「君は死にたいのかい?死にたいのなら、君の望む形で死なせてあげよう、私の手で」
そういえば、そんなことを言われたことがあった。見たい映画があって、駅から映画館へ歩いている途中だった。そう声をかけられたのだ。
声をかけて来たのは、初老の男性だった。長身に真っ黒なスーツ。そんな見た目はどうあれ、十代の少年に対して、死にたいのかい、なんて声をかける時点で十分に不審人物だったが、僕はなぜか、怖いとも、怪しいとも思わなかった。
「君は、不思議な香りがするな。少し話をしないか?」
思い出はそれだけだ。僕は彼についていかなかった。それは、彼が明らかに不審人物だったからではなく、興味がなかったからだ。死にたいのならば望む形で死なせてあげる、僕の持つ願望とは正反対のものだ。綾瀬ならば食いついたのかもしれない。
「私が沙良ちゃんを殺した」
綾瀬が僕にそう言ったのは、沙良が殺された次の日の学校で、僕と綾瀬がよく二人で静かに本を読むときに使う図書館の端のスペースで、だった。
僕は迷うことなく、綾瀬の首を締め上げた。冗談とか、嘘だとかの選択肢は頭にはなかった。僕も頭のどこかでわかっていたのかもしれない。僕じゃなければ、綾瀬しかいないということが。
しかし気づいた、僕に首を閉められている綾瀬が至福の表情を浮かべていることに。
僕には綾瀬の価値観はわからない。でも、今ここで僕に殺されることこそが、綾瀬の望みなのだ。
叶えてやることはない、そう思った。
構うことはない殺してしまえ、そうとも思った。
階段の下に横たわる沙良を見つけてから、苦しくて苦しくて、何が正しいのか、まともに考えることすらできなかった。
僕は、新しい自分を殺すことに決めた。
沙良が死んだことによって息を吹き返したかつての僕が完全に体を占拠すれば、沙良と出会って変わりつつあった今の僕は死ぬはずだと思った。
苦しくて苦しくて、死んでしまいたかった。
そのために、かつての僕を固定するのだ。
その方法は、もうずっと昔から考えてある。
沙良の命を救った僕が、沙良を殺す。それで今の僕は死に、中二病の僕が戻ってくる。
自分のためなら見ず知らずの少女の家の火を放ち、その命を危険に晒してもいいと思っていた頃の僕だ、きっと愛する少女が死んでしまったくらい、どうってことないに違いない。
僕は綾瀬に、沙良を殺した時の様子を詳しく話すように言った。僕が罪を被るから、と。
綾瀬はそれを聞くと、狂ったように笑い出した。
壊れてしまったのかもしれない。多分、元から。
僕は、自首した。
これで晴れて、少女の命を救い、その少女の命を奪った頭のおかしい少年になれたはずなのに、一向に苦痛は消えそうになかった。
あの日の炎と、沙良の笑顔ばかりが見えた。
僕は死んで、かつての僕になったはずなのに、なぜ苦痛が消えないのかわからなかった。きっと、前よりもひどく壊れてしまったのがいけないんだろう。
苦しかった。
もっと多くの人が、壊れてしまえばいいのに。
「田中しおりです」
僕は驚いて顔を上げた、顔はよく見えない。沙良の顔と、真っ赤な炎しか見えない。
しかし、本当に田中しおり先生なのだろうか、小学校の時の養護教諭だ。自殺したと聞いていたが、実は生きていて、こんなところにいたというのか。
「名前、今、なんて言いました?」
その女性は、僕が質問をしたことに驚いたようだ。そういえば、ここ何日か、いろんな人に会っていたような気がする。口を開いたのは、初めてか。
「田中詩織です。田中は、ごく普通の“田中”で、詩織は、ポエムの“
田中しおり、田中詩織か。漢字ということは、別人だ。顔もよく見えないが違うような気がする。
しおり先生なら、殺そうと思ったのだが。
憎い。
しおり先生も、自分も、綾瀬も、今僕の前に座っている名前しか知らない女も、全世界のすべての人間が憎かった。
苦しいのだ。
誰かを傷つけないと、自分が死んでしまう、そのくらい切実に、苦しいのだ。
全世界の人間を壊してしまいたい。
沙良以外の人間がすべて憎い。
僕は笑った。
田中詩織と名乗った女は怪訝そうに眉をひそめ、何か、と言った。
僕はできるだけ多くの人間を壊してしまうことに決めた。
きっと僕のことはニュースになる、インターネットでも話題になる、少女の命を救い、その命を奪った少年。
きっと、僕と同じように、自分が壊れていると思い込んでいる少年たちの中には、僕の生き様を見て、“やってみる”奴がいるはずだ。自分はサイコパスだと信じ、やってみるだろう。
そして知るのだ、本当に壊れてしまうことが、どんなに苦しいかを。
そいつらが壊れてしまう過程で、どれだけの人が傷つこうが、殺されようが、知ったことではない。
大いに結構、傷つくといい、死ぬといい。
僕は苦しい。だから他の人も苦しめばいい。結局のところ、その程度なのだ、僕は。
そのためには、僕は、『サイコパス』である必要がある、厨二病である必要がある。
その殺人は、厨二病だと、そう思わせなくてはならない。
「いえ、笑ったりして、失礼しました。変わった言い方をするんだなと、そう思っただけですよ。織姫の“
田中詩織は、僕の答えを聞いて、面食らったように考え込んだ。急にまともに話し始めたのだ、だがこれでいい。まともな人間に違和感を与え続ければいい。
「他に、“おり”という読み方をするときを思いつかなかったので」
漢字は音を定義しない、意味も実は定義できない。
肉体は人格を定義しない。
「組織の“
それっぽいことを言っておけばいい。沙良のお兄ちゃんである僕は死んだ。いるのは厨二病のいかれた宇津木やしろだけなのだから。
田中刑事は曖昧に頷いていた。違和感、それでいい。
「どうして君は、沙良ちゃんを殺したの」
殺してない。それだけは、心から叫びたくなってしまった。だけど、沙良を殺さなければ、沙良のお兄ちゃんは死ねない、昔の僕には戻れない。
だから僕は沙良を殺して捕まった、そういうことでなくてはいけないのだ。
僕は精一杯微笑んだ。
「なぜ僕が沙良を殺したのか?動機ですか?・・・それはね、あなたのその質問が動機ですよ。わかりませんか?誰かに尋ねて欲しかったんです、どうしてあの子を殺したの?って」
完璧だ。
気づくと、僕はまた一人になっていた。なにやら周囲が騒々しい。何か、逃げ惑っているような。
僕は周囲を見渡したが、いつもと変わらない、僕を取り囲む罪の業火と、沙良の笑顔と泣き顔、それしか見えない。
逃げ惑う人々の中に、一人の少年が立っていた。僕の方に歩み寄ってくる。
しかし僕にはもう、その少年が本当にそこにいるのかどうかもわからなくなっていた。
「なにをしているんだい?」
その少年は僕よりも年下に見えたが、そんな横柄な口調で話しかけてきた。
「君こそ、こんなところでなにを?」
僕にはその少年の顔はよく見えなかった。どこかで見たことがあるような気がしたが、よく思い出せない。
「火をつけにきたのさ、決まっているだろう?」
少年は何か含みがあるとでも言いたげに薄ら笑いを浮かべていた、
「やめておけ、後悔するぞ」
どうしてだろうか、僕は思わずそう言っていた。しかし少年は聞く耳を持たないようだ。
「いいや、しないよ。僕はこの炎によって、固定されるのさ。そうだろう?」
固定か、どこかで聞いたようなセリフだな、なんて呑気なことを考えた僕は、自分を囲む炎が、幻覚ではないことに気付いた。
我に帰ると、もう少年はどこにもいなかった。
「死ぬのか」
僕はぽつりと、そう呟いた。
もう火は手がつけられないほどに回っている。今から逃げても間に合わないだろう。
しかし、留置所というのはこんなに簡単に燃えるようにはなっていないはずだ、何か大規模な組織の犯行だろうか、さっきのは僕がただ昔の自分の幻を見ていただけだろうなどと、僕はやはり呑気なことを考えていた。
ここ数日で一番というくらい、まともに頭が働いていた。
「死ぬのか」
やることもないので、僕はもう一度そう呟いた。
あんなにも僕は死を恐れていたはずだった。しかし沙良が殺され、世界の他の人も壊してしまうという一時の狂気も自分なりに満足してしまうと、案外この世に未練などはないものだった。
悪いことをしてしまったかな、ちゃんと証言して綾瀬を捕まえさせ、犯罪者予備軍のバカな青少年たちの目を覚まさせるような後悔の発言の一つでもしておいたほうがよかったかも、なんてことを考えても後の祭りだった。
何もかもがこれで終わりだ。僕は死ぬ。一つだけ確かなのは、これで沙良の仇を一つ討てるということだ。
僕に出会わなければ沙良はあんなに早く死ぬ事はなかった、それは間違い無いのだから。
死んだら沙良に会えるなんて都合のいいことは思わない。一つだけ願うのは、最後に皿の夢を見ることだ。死ぬ前に僕は意識を失うはず、その時に、皿と一緒にいる夢を見たい。できることなら一緒に夕食をとっている夢がいい。
舞い踊る業火の赤は鮮烈で、熱は感じてもなぜか体が焼かれる痛みは全く感じなかった。
次の瞬間、僕は死んだ。
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