第2話 ロマンチック
私は彼を好きになってしまった。実は、もっとずっと前から好きだったのかもしれない。
私、
そう、きっと私はとっくに恋に落ちていたのだろう。でも、決定的にそれに気がついたのはごく最近のこと、彼が死んでしまった、あの日のことだった。
私は畑田沙良という小さな女の子を殺した。幼い少女の命を奪うのは胸が痛んだが、私は後悔していなかった。むしろ最高の結果になったと思っている。
彼は、宇津木やしろは、私の罪を被ったまま死んだ。
私は彼のために少女を殺し、彼は私のために罪をかぶって死んだ。
あまりにも、美しい。だから私は彼を愛している。きっと、一生この思いが変わることはないだろう。
彼は、小学校、中学校の時からの同級生だった。その当時は、私は彼に見向きもしなかった。というか、男子には興味がなかった。その時すでに、私の心の中は一人の男の人で埋め尽くされていたから。
しかし、ある事件をきっかけに、私はやしろに興味を持つようになった。それは、火事で死にかけた幼い少女を、偶然通りかかったやしろが救い出したという事件だった。それは、私の過去に起きた出来事とそっくりな事件だった。違うのは、やしろは生き残ったということ。
私は小学生の時、命を落とすところだった。簡単な、実によくある話だが、飲酒運転、信号無視の車にはねられそうになったのだ。そこを、偶然通りかかった男子高校生の
恩人を慕う気持ち、それ以上だったと思う。私は結城浩介を愛するようになった。
昔から、変化が怖かった。変わってしまうもの、時の流れが怖かった。進化が、価値観が変化していくことが怖かった。大人になるに連れて、自分は今と全く別の考えを持った人間になるらしい。自分が自分でなくなるのが怖かった。
そんなふうに考えるようになったきっかけはなんだろう。
印象的なのは政治家が横領したという、そこまで珍しくもないニュースを見ていた時のことだ。
母親は政治に対する関心が強く、問題の政治家の支持者でもあった。しかし当然のことながら、横領したというニュースを見ると、『裏切られた』『騙された』と呟いていた。
当然と言えば当然だ。しかし幼かった私には、それがとても怖いことに思えた。いい人は、時間の流れとともに悪人にすぐ変わってしまう。昨日はお手伝いをしていい子だと褒められたのに、今日はお皿を落として割ってしまい叱られた。
私は、永遠にいい子のままでいたかった、変わりたくなかった。
しかし、時間の流れというものは容赦がない。どんなにいいことをしても、その後一生ミスをしないで生きていける人間が、どれだけいるだろうか。
もっと単純な話でもいい。なぜ去年まで流行っていたものが、今年になると古いと言い捨てられてしまうのだろうか。
そんな小さな変化でさえ、私には怖かった。何も変わって欲しくない、何も変えたくない。それが私の願いだった。
だからこそ私は、結城浩介だけを愛すると決めた。だからこそ私は、結城浩介に惹かれたのだ。いや、私が本当に魅かれていたのは“死”なのかもしれない。
私は、結城浩介の友人たちのことなど知らない。もしかしたら彼の周りの人たちの中には、彼を嫌いだった人もいるかもしれない。だけど、それは私には関係がない。
死は絶対だ。私の命を守って彼が死んだ以上、私にとって彼は絶対的な正義、圧倒的なまでの善人として、記憶に残り続ける。
それは私にとっては変わることのない価値観で、それだけで、変化がないというそれ自体で、美しい。
「君の気持ちはよくわかる。変化というものは恐ろしい。だけどね、僕にとっては死というものがもっと恐ろしいんだよ。死は絶対的に不変のものであると同時に、生命のスイッチを切るという、圧倒的な変化でもあるんだ。僕はそれが恐ろしい」
火事の一件以来、私はやしろとよく話すようになり、いつの間にか親友とさえ呼べるような仲になっていた。私は救われた側、彼は救った側だが、似たようなことを経験しているということ、そして根本的にどこか似ているということ、それが仲良くなった理由だろう。
私たちは、変わっているのだろう。
一方で、やしろが命を救った女の子、畑田沙良ちゃんはごく普通の女の子だった。やしろのことをとても慕っていたが、それは私が結城浩介に対して抱いている感情とは質が違うようだった。不変のものを愛す、そんなひねくれた感情ではない、命の恩人でしかも優しいお兄ちゃんが大好き、そんな当たり前の、ごく普通のことだ。
そんなごく普通がいかに尊いことか、やしろは実の妹のように沙良ちゃんを可愛がっていたし、私にとっても彼女は親友の妹だ、とても可愛かった。
そんな二人の関係が羨ましかったし、何よりも尊いものに思えた。
だからこそ、私は沙良ちゃんを殺したのだ。
私には、変化は受け入れがたいものだった。二人の関係は、尊いものだ、しかし二人が大人になるにつれて、その関係は変わっていってしまうに違いない。もしかしたら恋愛に発展するかもしれない、うまく行くかもしれないし、うまくいかないかもしれない、それはどっちにしても現在の二人の美しい関係が損なわれてしまうことには変わりない。もしかしたらそれは恋愛に発展することもなく、壊れてしまうかもしれない、二人はなんとなく疎遠になるかもしれない、結局のところ、二人にはなんの血の繋がりもない上に、10歳もの歳の差があるのだ。何も起こらなくとも、二人がいつの間にか合わなくなっているというのは十分にありうる。
それこそが、私にとっては受け入れがたい変化、そして、その兆しは見えていた。
沙良ちゃんと一緒にいるときにやしろが時折見せる苦痛にも似た表情に、私は気づいていた。それは私と同じように、関係が変化して行くことを予見しての苦悶だったのかもしれないし、全く別のものだったかもしれない。
「綾瀬、君の恩人だという結城浩介は死んでしまったよね。不謹慎だけど、僕はそれが羨ましいんだよ。きっと彼も僕と同じ、同じではないとしても、近いものだったはずだ。命の恩人という肩書きは、重いよ。あの子を僕は愛してる、それは重いことだよ。あの子は僕を愛してる、それは本当に、重いことだ」
彼は確かにそう言っていた。何を言わんとするか、それはわからなかったけれど、完璧なはずのやしろのなかに確かに存在する歪み《ひずみ》、それは美しいものが変化してしまう前触れに、私には思えた。
だからこそ、私は沙良ちゃんを殺したのだ。
本当は殺すのはやしろでもよかったのだ。いや、その方が良かったとすら言える。だけど、やはり私はそのときすでに彼を愛してしまっていたのだろう。幼い沙良ちゃんの方が殺しやすいとか、やしろの中で沙良ちゃんを愛する妹のまま変わらない存在にしてあげるためとか、色々言ってみても、結局私がやしろではなく沙良ちゃんの方を殺した理由はただ一つ。私はやしろが好きだったからだ。
やしろのことが好きな私には、彼は殺せない。やしろが死んで彼が不変の存在となっても、私が殺したという事実も不変のものとして残ってしまえば、私は彼を愛することができない。
そういうことだ。
沙良ちゃんを殺すのは簡単だった。
沙良ちゃんはいつも、学校が終わると友達ややしろと一緒に、小高い丘の上にある公園で遊んでいた。決行はもちろんやしろがいない日、遊び疲れて帰ろうとしているところに、偶然通りかかったような顔をして沙良ちゃんに声をかける。沙良ちゃんは私のことを、お兄ちゃんとときどき一緒にいるお姉ちゃんとしてよく知っているのだから、警戒はない。むしろ、『暗くなってきて危ないから、お家まで送ってあげる』と、そう言うのは非常に自然なことだ。
そして、帰ろうとする沙良ちゃんに、彼女がいつも食いつく話を振る。
やしろの話だ。
話し始めてしまえば、沙良ちゃんは時間など気にせずに、周りが暗くなっていることなど気付かずに話続ける。そういう子なのだ。そういうところがとても愛らしい。
「今日はやしろは来てないの?」
やしろという名前を聞くだけで、沙良ちゃんは少し嬉しそうになった。本当に優しいお兄ちゃんなのだろう。
「やしろお兄ちゃんはね、今日はこれないんだって。“ぶかつどう”っていうのでいそがしいから、今日は来れないよ、って言ってた」
きっと部活動が何かも知らないのに一生懸命説明するその様子は本当にいじらしくて、可愛かった。
そのあとは特にこちらから話を振らなくても、沙良ちゃんは勝手に話し続けた。やしろが鬼ごっこで転んで怪我をしたから絆創膏を貼ってあげたとか、小学校の図工の授業で描いた絵をやしろにプレゼントしたとか、とても誇らしげに話していた。
私は本心から笑顔を浮かべてその話を聞きながらも、周囲を観察して、ほとんど人通りがなくなったことを確認した。
「沙良ちゃん」
私はそう呼びかけて、お母さんと一緒にやしろにお弁当を作ってあげた時の話をしている沙良ちゃんを遮った。
沙良ちゃんの汚れのない瞳が、不思議そうに見上げてくる。
「なあに?」
私はその時、なぜか嫌悪に似たものを感じていた。それまで沙良ちゃんに対して、可愛らしいと思うことはあっても、何か悪感情を抱くことは決してなかったのに。
殺意の副作用なのかもしれない。
私はこの時にはもちろんとっくに沙良ちゃんを殺すことを決めていたのだから、殺意を心に抱いていた。可愛いとか。大事だとか、そういう感情しか持っていない相手に殺意を抱くのは難しい。だからこそ逆に、殺意を抱いてしまった相手に対して、副産物的に嫌悪感を抱くこともまた、ありうるかもしれない。心が正気を保つための、防御機能なのかもしれない。
純粋な瞳で見上げてくる沙良ちゃんの顔を、私は冷たい無表情で見つめた。
「・・・沙良ちゃんは、やしろのこと好き?」
一瞬きょとんとした沙良ちゃんは、次の瞬間にはにっこりと笑っていた。
屈託のない、微塵も迷いなどない、そんな笑顔。
「大好き!」
最後のブレーキが外れた。私の心からは全てのためらいや戸惑いが消え去っていた。
帰ろっか、と私がつぶやくと、その時ようやく沙良ちゃんは周りが暗くなっていることに気付いたようだった。少し怖くなったらしく、恐る恐るあたりを見渡すと、うん、帰ろうと頷いて私の右腕をギュッと掴み、そのまま沙良ちゃんの家がある方向に続く階段の方へと引っ張った。
丘の上にある公園で、四方向に階段が伸びているのだ。
階段の上までつくと、私は素早く沙良ちゃんの腕を振りほどいて、隠し持っていた金槌を取り出した。
聞き取れなかったが、『なにそれ、お姉ちゃん』と、沙良ちゃんはそのとき言ったのかもしれない。だが、沙良ちゃんがそういい終わる前に、私の警棒が沙良ちゃんの背中を強く殴打していた。
まるで誰かが取り落としたボールのように、沙良ちゃんは勢いよく階段を転がり落ちた。結構急で、結構長い階段だ。一瞬、落ちていく沙良ちゃんと目があったような気がした。
恐怖。
それしかわからなかった。いや、きっとそれしかなかったのだろう。
私は、笑っていた。声を押し殺して、体を揺らして笑っていた。
私はどこか、おかしくなってしまったのかもしれない。たぶん元から。
沙良ちゃんが一番下までたどり着くと、私は彼女の様子を確かめに行った。
まだ生きていた。
死にかけ、気を失っていたが、まだ生きていた。
とどめを刺そうかとも考えたが、それはやめた。このまま放置すれば死ぬだろうし、それより先に見つかってしまい、命をとりとめたのなら、そのときは潔く捕まってやろうと、そんな気分になっていた。むしろ、それこそがその時の私の望みだったのかもしれない。沙良ちゃんが一命を取り留め、私に殴られたと証言し、私は悪魔として捕まってしまう。
それが望みだった、というのはあまりに偽善がすぎるだろうか。
しかし結局、沙良ちゃんは死んでしまった。思ったよりも沙良ちゃんの母親の通報は遅かった。あまり警察沙汰にはしたくなかったのかもしれない。
私は前々から計画していた通りに自分の痕跡を抹消していたので、すぐに捕まることはなかった。だから次の日、やしろに学校で会うこともできた。
だがこれは実は少し意外だった。私はやしろがショックで学校に出てこないかと思っていたのだから。
その日のやしろは、学校にきてはいたが、上の空で、寝込んでも良さそうなくらいにはショックを受けているようだった。
彼は、善人なのだ。私などとは違って、ごく普通の人間なのだ。
その時そう感じたのを覚えている。
そして、私は彼に伝えた。
私が、沙良ちゃんを殺した。
それは、図書館の最も奥の本棚の隣の読書スペース。私とやしろのお気に入りの場所だった。
首を、絞められた。
殺される。私はそう思った。それもいいかもしれない。やしろは沙良ちゃんを愛していた。沙良ちゃんは私が殺したから、やしろの中で永遠に愛しい存在として残る。そしてその復讐にやしろは私を殺す。私はやしろにとっては憎悪の対象として永遠に残る。そして、私は、やしろに憎まれながらも、やしろと沙良ちゃんの関係を変わらぬものへと昇華できたことに満足しながら死んでいく。
なかなか美しいではないか。
しかしやしろは、すぐに私のことをはなした。
そして、もっと美しい結末を迎えることとなった。
やしろは、沙良ちゃんを殺した時の状況を詳しく話すようにいった。私の代わりに、自分が自首するからと、そう言って。
きっと、やしろは私をこれ以上ないくらいに憎悪していたに違いない。しかしそれと同時に、やはり親友でもあったのだろう。私の罪をかぶるくらいには、私のことを好きでいてくれた。
それが私にはたまらなく嬉しかった。
「どうして、沙良を殺してしまったんだ。僕が、僕を固定してしまうはずだったのに」
やしろはそう呟いていた。やはり私たちは似ている、やしろは沙良ちゃんを殺す代わりに自殺するつもりだったのかもしれない。
そうして、自首をしたやしろは、炎に巻かれて死んだ。
誰が火を放ったのか、それはわからない。やしろが死んだのは、悲しかったが、それと同時に、彼の死そのものが美しいものに思えた。
私は彼のために少女を殺し、彼が愛した少女は彼の中で永遠のものとなった。彼は私を憎み、しかし私のために罪をかぶって死んだ、そして私は彼を永遠に愛し続ける。
あまりにも、美しい。
私は沙良ちゃんのことが好きだったと思う、自分ではそう思う。だけど私がさらちゃんをわざわざ金槌なんて物騒なもので殴りつけたのはなぜだろう。どうせ転落死させるのなら、素手で突き落とすだけでよかったはずだけど。
結局私は、気に食わなかったのかもしれない、あの女の子が。私よりもずっと、社と親しいから。結局その程度なのだ、私は。
今回の事件は、私の一人勝ちなのかもしれない。
私のこの気持ちは、永遠に変わらないだろう。
そして私自身もまた、永遠に変わることはない。やしろの言葉を借りるなら、固定されてしまったのだ。そしてそれは、案外悪くないことだった。
私は自分が悪魔であることを永遠に自覚しながら生き続ける。
それでもいいのだ。
私は変化が怖かった。変わってしまうことが怖かった。昔から、ずっと。
私は変わらない。永遠に。
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