終章
其の一
境内の騒がしさに目を覚ますと、襖の隙間からは薄い光が差し込んでいた。
昨日帰ってきてから、どうしてもそうすると彼が言って聞かなかったから、枕を並べて床に入ったはずのその姿はなく、枕元には昨日の祭衣装が適当に脱ぎ散らかして放り出されている。気疲れなのかただの身体の疲れなのか、布団をしまうことさえ
「おはようございます」
声を掛けると僕に気付き、悪戯っぽい顔で振り返って手招きをするから、足音を忍ばせてそちらに近付いてみると、力いっぱいにしがみつかれた。
「痛いです」
「嘘ばっかり。それよりね、大変ですよ」
「何がですか?」
いいから聞いてみろ、と顎で集会所を示されるから、背中におぶさって来た彼を背負ったまま耳をそばだててみると、いつも通りらしい寄り合いの面々がそろって何か騒いでいる様子だ。よくよく聞けば変わらない祭の相談事で、別段何かが変わった様子はない。訳が分からなくて肩越しに彼の顔を見上げると、それはそれは嬉しそうに、にやにやと顔面に笑顔を貼り付けている。
「一体何なんですか?」
「君が買ってきてくれた飴ね、役に立ったみたいですよ」
まったくもって埒が明かない。
どうにか
その後目を覚まして家が恋しい親が恋しいと泣く子供に、僕が買ったあの飴細工を与えて、ぐずる子供と一緒に家を探し、どうやらここらしいと玄関先に置いて帰った後で彼は僕を探しに来たのだが、村の人たちの間ではその後また別にひと騒動があったと言う。
子供の親からしてみれば、祭ではぐれた迷子の子供が祭が終わる頃になっても戻らないというのだから、生きた心地はしなかっただろう。僕が子供だった頃とは違ってかどわかしの言い伝えなんて知っている人もほとんどいないだろうし、そう考えればその心中は察して余りある。半狂乱になりあちこちを探し回り、くたくたになって諦め半分で帰宅したところ、いなくなったはずの子供が玄関先に座り込んでいたのだから、それはもう腰が抜けるほどに驚いたらしい。まだ小遣いも渡していないほど幼い子が、買い与えた覚えのない狐の飴細工を持って、しかも
村の年寄りから話を聞き、そうして今朝の集会に至ったのだという。そこまで話を聞き終えた頃には、陽はすっかり高く昇っていた。
「どうやら祟り、ということになるらしいです」
さも心外だと言いたげな彼の表情は、それでも楽しそうである。
来年からの祭はなしにしようと取り決めた矢先の出来事との奇妙な符号に、村人たちの間に得体の知れない不安と恐怖が広がったのだろう。あの飴細工は来年の祭できっとよく売れるだろうな、とふとどうでもいいことを考える。
不安げな表情の村人たちがぞろぞろと石段を下りて行くのを見送った後、
「まったく人間と言うものは、実に分かりやすいですね」
「そうですか?」
果物や生ものは早めに片付けてしまわないと、腐らせてしまうかもしれない。そんな算段をつけていた僕に、相変わらず僕の背中にしがみつきながらまるで甘えた犬のように鼻を鳴らす彼の頭を、手を伸ばして撫でてやる。
「でも良かった」
「重いです、離れて。何がですか?」
「まだしばらくはここにいられるじゃないですか」
終わりよければ全てよし、ということだろうか。
思惑とはやや異なる経緯にはなってしまったけれど、結果的にはこういうことでよかったのかもしれない。せっかくの覚悟の鼻っ柱を予期せぬ力で叩き折られた気がして脱力はしたけれど、彼の言うとおり当面の心配事はなくなったのだ。
「だからもう、心配しなくていいですよ」
「何なんですか。ほら、離れてください。お昼の支度をしましょう」
「君のこと、置いていったりしないですから」
これじゃ歩くこともできやしないと文句を言えばようやく離れてはくれたものの、今度は僕のすぐ後ろを付いて歩く。境内で見掛ける慣れた犬のような仕草に、今まで彼に感じていた素っ気無さや近寄りがたさみたいなものは、少しも感じられなくなっていた。
起きたら片付けようと思っていた参道も境内も石段も、いつの間にかすっかり綺麗に掃き清められている。昨夜の出来事によほど恐れをなしたんだろうけれど、祟りをなすものとして畏怖の対象になった土地神様は、相変わらず縄を付けられはしゃぎまわる犬のように僕の傍に付いて回っている。
「ああ、ところで昨日の話なんですが」
忘れてしまっていた、と切り出した話題にびくりと彼が肩を震わせて立ち止まる。何をそんなに怯えることがあるんだろうか、と笑ってしまった。
「僕の名前。もう忘れちゃったんです」
「え?」
「分からないんですよ。もうずっと前のことだから」
「あ……」
「そんな顔をしないでください」
しょげ返った彼の鼻を、背伸びをして摘みあげると間抜けな声を上げるものだから、ますます笑いがこみ上げてくる。神様なんかじゃない、と言い続けていた彼は、本当に神様なんかには見えなかった。
「だから、貴方が僕にください」
「いいんですか?」
「勿論です。死ぬまで大事にしてみせます」
「死なないくせに、何を言ってるんですか」
「お互い様ですよ」
ここでの暮らしや、それ以上に彼との暮らしをなくしたくないと願ったのは僕だけではなかったのかもしれない。泣きそうに口をへの字に曲げたくせに、そんな憎まれ口を叩くからもう一度鼻を摘んでやる。僕の気が済むまで鼻を捻ってから手を離し、改めて積み上げられた供物の山を確認していると、まだ懲りない彼が背中にがばりとしがみ付いてきた。
「邪魔だって言っているでしょう」
「とっておきを考えますから、俺にもちょうだい」
「名前、ですか?」
冬の訪れを感じさせる風が吹き抜けて、さらさらと彼の髪が揺れる音がする。今ではすっかり減ってしまった稲穂の海を風が抜ける音だ。頷いた彼の後頭部に手を伸ばし、うなじの辺りを撫でてやる。今まで二人で過ごした長い長い時間の中で、初めて彼を可愛らしいと思った。
しばらくして、がやがやと騒がしく村人が石段を上がってくるのが見える。
「ここも当分は賑やかになりそうですね」
「それは少しも嬉しくないなあ」
彼が面倒臭そうにうなり声を上げる。
「それでも、君がいなくなるよりはずっといい」
「同感です」
お昼に柿を剥いてあげましょうと言うと途端に機嫌を直すのだから、まるで子供みたいだ。拝殿の供物から二、三個くすねて僕たちの部屋へ戻る途中、彼がふと足を止めた。その視線を追うと、昨日の子がその小さな手をひらひらとこちらに向けて振っている。その手には透明な袋を被せられた白い狐の飴細工がしっかりと握られていた。
狐狸の類 なたね由 @natane_oil200
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