其の二
「何してるんですか、こんなところで」
「だから、それはこっちのセリフだって言っているでしょう」
白衣に緋色の袴、今宵の祭装束に目尻の紅、それから、頭には菊と彼岸花の
「本当に大変だったんですよ。君は全然戻ってこないし、あの子供の家を探すのだって大変だったし」
「待って。ごめんなさい、話が全然見えません」
「君は嫌だったんでしょう? だから帰ってこなかったんですよね?」
僕に伝えたいことが山ほどあるのだろう。それこそ小さな子供のように急いて、次から次へと話を繋ぐ彼をなんとか宥めてようやく聞き出せたのは、僕がささやかな家出をしてから今までの出来事の
さっきの子供は目を覚ましてから、なんとか探し出して家へと帰したらしい。その後でもう一度社へ戻ったのに僕の姿は無くて、改めて神社を後にし狐の姿になってあちこち走り回っていたところ、そう遠くないこの地蔵の祠の傍で僕を見つけてようやく一息ついた、ということだという。
「家に帰したんですか? どうして?」
「だって、君が」
ふうう、と大きく息を吸って、同じくらい大きく息を吐く。本当に駆けずり回っていたらしい。悪いことをしたな、と耳の間の頭を撫でてやるとくるると喉を鳴らした。
「だって、嫌な顔をしたでしょう。ここに来てから初めて見たんですよ、あんな風に」
あんな風に人間みたいな顔をして。
言われてしまって無意識に頬を擦ると、その仕草がおかしいと、目を吊り上げていたようやく彼が笑った。
「だから、帰りましょう」
差し伸べられた手は暗がりの中でも白く、その爪は長い。あの晩のことを思い出す。あの時は素直に取れた手を、今はこんなにも躊躇してしまう。さっきまでぐるぐると巡らせていた陰鬱で後ろ向きな考えは、ここに至って微笑む彼を目の前にしても簡単には消えてくれそうにない。
今まで絶対だと信じていたものの足元が、大きく歪んで崩れてしまったのだ。いつまでもずっと彼の傍にいられるはずだなんて、壮大な勘違いをしてしまっていた僕の確信が。
「ほら、今だって」
「なんですか?」
「今だって、今まで見たこと無い顔をしてる。そんなに嫌だったんですか」
「何ですかそれ。どういう顔ですか」
「分かりませんよ、俺にだって。泣きそうだけど、怒っているわけじゃないし、怖がってるって風でもないし」
「……怖いですよ、すごく」
彼の手を取ることができないのがその証拠だ。見たこともない顔、と言われて俯いた僕を怪訝そうに覗き込んで、心底訳が分からない、と不満そうな彼が首を傾げた。
「そうやって黙り込まれちゃうと、ひとつも分からないですよ」
「多分、話しても少しも分からないと思います」
「どうしてですか?」
首を振る。どう説明したって子供のわがままみたいになってしまう。たとえ
「分かりました。もう、大丈夫です」
冷たい言葉だと受け取った。こちらから分かりっこないと突き放したくせに拒絶された気がして、慌てて顔を上げるとやっとこっちを見ました、と楽しそうに彼が笑う。やや強引に腕を掴まれそのまま引きずり上げるように立ち上がらせられて、よろめきたたらを踏んだところで軽々と担ぎ上げられる。
まるであの日みたいだ、と思った。僕が神隠しにあったあの日。
「俺の好きなようにさせてもらいますね」
「何するんですか、下ろしてください。ちょっと」
「あんまり騒ぐと気付かれるよ」
「下ろしてくれたら騒ぎませんから」
「そんなことより、ちゃんと教えてくださいよ。君の名前を」
「……は?」
俵のように担がれた所為で彼の表情を伺うことはできない。漏れた声はひどく間抜けに夜の闇に溶けて消えた。
「本当に、ものすごく面倒臭かったんですよ」
じたばたと振り回した脚のふくらはぎをぴしゃりと叩かれ、落としますよ、と物騒なことを言い出すので何とか居心地のいい位置を探して落ち着いた。痛みも何も感じないとは言っても、地面に転がされるなんてあまり気分のいいものではない。
「あの子供ね、親のところに返しにいったんですよ」
「それはさっき聞きましたよ」
「子供の親がね、呼んでるんだよ、ずっと」
「呼んでいる?」
「そう。あの子供のことだと思うんですよ。ずうっとずうっと呼びながら探しているから、子供もそれに気付いて、だからやっと返せたんだけど」
「はあ」
「だからね、教えてください」
「名前、ですか」
「そうしたら、次に君がいなくなっても名前を呼んで探せますから」
無邪気な声が聞こえる。すれ違った人が不思議そうにこちらを見た気がしたけれど、人一人を担いで歩く狐耳の男がいたなんて知られたら一体どんな騒ぎになるだろうか。そんなことお構いなしの彼は、きっと何かとっても素晴らしい思い付きを得たような顔をしているのだろうけれど。
「それより、そもそも、どうして僕を迎えに来たんですか」
「だから、君が今まで見たこともないような顔をしてたから」
やっぱりしんどいです、と唐突に地面に下ろされた。そんなこと感じもしないくせに。担がれている僕の方もバランスが取りづらかったからそれはそれで幸いなのだけれども、つくづく自分勝手な神様だ。暴れた所為でまくれ上がったシャツの裾を直していると、その手を強引に取って歩き始める。
「ごめんね」
「何がですか?」
「あの飴、あの子供にあげてしまったんです」
「別に構いませんよ」
「でも、食べそびれてしまいました」
「……それは、残念ですね」
僕の腕を引く力は強い。
いつからだろうか、担ぎ上げる力にも手を引く力にも、あまり遠慮を感じなくなったのは。
「また今度買って来てくださいよ。僕はどうせ動けませんから」
「でも、……来年は」
口ごもった僕に、足を止めて振り返った彼が不思議そうに首を傾げた。長く生き過ぎて時間の感覚が消え失せた神様の彼には、多分来年と言う言葉の意味がわからないだろう、そう思った。
「だから、また今度です」
「でも、もうお祭は」
「でもでもでもでも、君もいい加減しつこいですね」
一緒にいたらまたそのうち買えますよ。
彼はこのまま僕と一緒に、消えて果てるまでふたりでいるつもりなのだろうか。もし仮にそうなのだとしたら、そうだとしても、僕の願いは叶ったはずなのに、無邪気すぎる彼の気持ちがどういう訳だか今の僕には苦しくてたまらない。
「……どうして泣いてるんですか?」
気付けばぼたぼたと涙をこぼしていたらしい。もう人ではなくなってしまったのにまだ涙が出るのかと、一体いつ振りなのかも分からない感覚に戸惑っていると、僕以上に慌てふためいた彼が怪我でもしたのか、転んだりしたのかとおろおろと問い掛けてくる。
「目に、ゴミが入ったみたいです」
泣くと言えば痛い時辛い時悲しい時と相場が決まっていたはずなのに、何だかよく分からない感情に振り回されて、取り繕うためにやっと搾り出した言い訳が実に情けない。眉根を寄せて困ったようにううん、とうなった彼が僕の頬を両掌で挟み、目を閉じるなと命じた。止まらない涙を必死に堪えようとしながらも言いつけに従った僕の右の眼球を、近付いてきた彼の赤い舌先がぺろりと舐める。
「取れましたか?」
言葉を失う僕に、さも当たり前のような声で彼が問い掛けた。
「何してるんですか」
「反対でしたか? 目、開いていてください」
「違います、大丈夫です。もう大丈夫だから」
僕はこんなにもこの神様と一緒にいたかったのか。
しょっぱいしょっぱいと不平を垂らし、また僕の手を引いて社の方へと歩いていく彼の背中を眺めながら思う。ふさふさと左右に揺れる尻尾は彼が嬉しい時のそれで、それが僕にも何故か嬉しく思えた。
濃紺の空に月はすっかり姿を隠してしまっている。そういえば親から貰った名前などとっくの昔に忘れてしまっていることを、一体彼にどう伝えようか。暗がりの中できらきら光る尻尾を眺めながら、僕はそればかりを考えていた。
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