三章

其の一

 月の大きな夜だと思った。夜はすっかり更けてしまって、ずいぶんと遅い刻限になっている。ふらふらと当て所ここ歩いた所為か、自分がどこにいるのかすら曖昧になってしまった。

 石段の下には祭の帰りらしい人たちがまだ残っていて、いつもに比べると幾分賑やかしい。足が痛いと連れの男性に泣きつく浴衣姿の女性を見て、履き慣れないだろう下駄であの石段を上がるのにはさぞかし苦労をしたことだろうと、いらぬ心配をした。だから言ったのに、と応える男性はどこかうんざりした表情だ。

 勢いに任せて飛び出してきたのはいいものの、結局彼の真意は知らぬままだ。さまようように歩いて、もうどのくらいの時間が経ってしまったのかも分からない。ぞっとするくらいに大きな月は、相変わらず僕の後ろを付いてくる。

 時々人里に下りる僕には歩き慣れた道だ。それなのに、夜が更けてしまうとすっかり様変わりしてしまったように思える。僕がまだ人だった頃、いくら他の子供に比べて動じない怖がらない子供だったとは言っても怖いものはあって、そのひとつが夜の道だった。


 夜道を一人で歩くと人ではないおぞましい何かに行き合うと散々聞かせてきたのは祖母だった。あれはきっと、身体が弱いくせに怖いもの知らずの僕が、夜中に一人でふらふらと家を抜け出したりしないための作り話だったのだろうけれど、それでもそれは真実だと僕に思い込ませるだけの何かが夜の道にはあった。それは今、僕が人ではない何かになってしまっても変わらずに同じだ。本来なら僕と行き合ってしまった人間の方がよっぽど怖い思いをするだろうに、人の姿を見かけるたび、人とすれ違うたびに何故かびくびくしてしまう。

 道の端に小さな地蔵の祠を見つけて、そこに身を寄せて座り込んだ。疲れたり腹が減ったり喉が渇いたり、そういうことは一切感じなくなってしまったけれど、このまま闇雲に行き先も分からないまま歩き続けたら、本当に一人では帰れなくなってしまうのでは、という不安に潰されそうになってしまった。結局のところ僕は、人ではなくなってしまったというだけで何か特別なことができる訳でも何でもない。庭を掃いたり日用品を買いに行ったり境内の壊れたところを修理したり、そういう人でもできる何でもないことを、人に知られずやっているだけの半端な生き物なのだ。


 そういえば、最初からそうなのだ。

 息を吐いて空を見る。石段の下にはそこそこに大きな林があって、そこに生える木々の葉が見上げた空を半分隠している。不気味だな、と思った。目の前を楽しそうな家族連れが歩いて行って、僕はそれに悟られないようにと膝を抱えて縮こまる。


 この土地を捨てると言った彼は、最初っから僕に付いて来いとも僕を連れて行くとも言っていなかったように思う。彼が行くなら僕も行くしかない、と頭から信じ込んでいたけれど、別にそういう話ではなかったのかもしれない。彼は此処を離れる、僕は好きなようにしたらいい、と。

 彼は僕と比べてもっと身軽で何にも縛られず、何かが嫌になればその身ひとつで何処へでも行けるモノなのだ。気に入ったものはいつまででも手元に置いておくけれど飽きてしまえばすぐに放り出す、そういう気まぐれなモノなのだ。そんなこと、長年傍にいた僕には、嫌と言うほど分かっていたはずなのに。

 村の栄えた場所とは違って、神社の周りの道は舗装されておらず乾いた土の道のまま。その道の途中にぽつりと建つ地蔵の祠。人の記憶の中にあるものはどんどん朽ち果てていくのに、いつまでも変わらずそこに在り続けるもの。

 祭の前に彼に付いて行こう、と決めたはずの覚悟はとうに萎んでしまい、気付けばぐずぐずに崩れて今にも消えてなくなりそうだ。従えないものならいらないとはっきり言われてしまったようで、それなら彼の庇護を離れてここで潔く消えていくただの矮小な物の怪になりたい、と思った。

 さわさわと風が鳴る。ずいぶんぼんやりと過ごしてしまったらしい。あれだけ大きく見えていた月もすっかり傾きかけて、行き交っていた人たちの姿もすっかりまばらになってしまっている。どちらにしてもそろそろ社へ戻らないと、僕のことなんて本当になかったことにされてしまうかもしれない。意を決して顔を挙げ、立ち上がろうと地面に掌を付いたとき、何やらの毛の塊がふわりと足元にまとわり付いてきた。

 それは小さな狐だった。見覚えのある金色の毛並み。あ、と思った瞬間、鈴の音が聞こえ周りの空気がぐにゃりと歪む。


「……びっくりしました」

「こっちのセリフです。いい加減にしてください。一体何なんですか」


 可愛らしい毛の塊は一瞬にしていつも通りの人の姿を取った。目の前には、慣れ親しみすぎた、人の形に大きな金色の尻尾とふさふさの耳を生やした彼が立ちはだかっていた。

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