其の三
今にして思えば、あの頃の両親は僕がかどわかしに遭うことを望んでいたようにも思える。
僕が生まれた翌年からしばらく神隠しは起きておらず、それが理由かは分からないけれど、その頃村はずいぶんと貧しい暮らしをしていたらしい。だから村の誰しもが、当然僕の両親も、またかどわかしが起きてくれればいいのに、と考えてしまったのは少しもおかしなことではないと思う。僕だって子供心に、かどわかしが起きたらいいのになあ、なんてのんきに考えていたのだから。
生まれつき身体がそれほど丈夫ではなく、地味で大人しい僕を見て、かどわかしの後には必ず良い子宝に恵まれるという言い伝えに期待を抱いた両親を責めるつもりは少しも無い。ただ、親から求められていないのが少し悲しかったというのが本音だ。
家にこもりがちな大人しい子が
村人の中で、あの頃の祭にはどこか
だから、親とはぐれた僕の前に彼が姿を現したとき、誰よりも驚いたのは僕自身に他ならなかった。今年こそはきっと、間違いなく、誰かが、そんな噂は耳にしていたけれど、そうあればいいと願ったものの、まさか本当に自分が選ばれるのだとは考えてもみなかったから。
「怖いかな」
ちりん、という鈴の音は人の声にもかき消されることなくまっすぐ僕の耳に届いた。祭の喧騒は先ほどまでとひとつも変わっていないのに、人の波は僕と彼を避けて流れていた。その事実だけで彼が常人ではないということはすぐに分かったし、これこそが自分が待ち望んでいたものだという確信を得た。白衣に紅い袴を纏った、近隣ではついぞ見かけない美しい男が差し出したその手は白く、伸びた爪先は充分に恐ろしい。そこに重ねた僕の掌は、みすぼらしくて頼りない。触れた手は秋風にさらされた所為かひいやりと冷たくて、それがなんだか悲しくて、少しでも温まればともう片方の手も添えた。
「こわくない」
幼子らしいたどたどしさだっただろう。強がりに見えたのかもしれない。それでも彼は、村で伝え聞いていた耳まで口の裂けた恐ろしい祟り神とは到底かけ離れた、優しい顔で笑ったのだ。
「今からね、君を、さらって行こうと思います」
優しくてあまやかで、もっと小さかった頃、村が今よりも貧しくなかった頃、父が行商から買って与えてくれた砂糖菓子に似た声だと思った。
ちっともこわくない。
うん、と頷いて添えた手をぎゅうと握ると、往来にしゃがみ僕と目を合わせた彼は優しく、それでいてなんだか寂しそうにまた笑った。
「たべるの?」
「どうしましょうかね」
この人は困っている、そう思った。人ではない。人知を超えた相手に、そんなことを。
村人たちの祈りは本当に本当に、とても強いものだったのだろう。長く続く不作と苦しい生活。それらすべてが小さな子供の命ひとつで賄えるのなら。追い詰められた人間たちの願いは、悠久を生きる彼の目には馬鹿馬鹿しく映ったに違いない。それでも土地神としてこの地に縛り付けられている以上、それを叶えない訳にもいかない。だから困っているのだ、と。
「たべてもいいよ」
どうせ小さな子供の命ひとつ。その時の僕は英雄気取りだったのだろうか。僕がさらわれてしまえばこの村は豊かになる。お父さんもお母さんも、親戚のおじさんも豊かに暮らせる。それらすべてが僕の犠牲のおかげになるのだと。小さかったから死ぬということがまだ理解できていなかった部分もある。ちっとも怖くない、と思った。
人の流れは当たり前のように僕らを避けて通る。そこに大きな水溜りでもあるかのように。遠くで、僕を呼ぶ父の声がした。
「君の、お父さんかな?」
「そうだよ」
「今ならまだ間に合う」
繋いだ手は変わらず冷たい。父はなんと言っていたのだろうか。あの時彼と僕を包み覆い隠していた薄紅い霧の所為だろうか、その記憶はぼんやりと霞んでいて少しも思い出せない。
「君を帰したっていいんです、俺はね」
「だめだよ」
「どうして?」
「ぼくは、おそなえものだから」
視界の隅に飴細工の店が見えていた。お参りをしてくるからこの屋台の前で待っていなさい、と言ったのは、そういえば父だった。両親にあわよくばと言う気持ちがなかったといえば嘘になるだろう。身体が弱くて、畑仕事もろくに手伝えないような子供だったから。例えそれが神隠しでなく、ただの人さらいにさらわれて何処かへ売られてしまうのだとしても、今日この日ならという思いは、少なからず芽生えていたのだと思う。
それが分かっていた。だから、それでもいいと思ったのだ。村人から恐れられ同時に奉られていた神様は、ちっとも怖くない。知らない人に連れて行かれて売り飛ばされてしまうよりは、この優しいかみさまに連れられて優しく食べられた方がずっといい。
飴細工屋の前で僕を探していた父は、すぐに口を噤み首を振り、店のおじさんに頭を下げてそのままとぼとぼと石段の方へと歩いていった。ふうん、と彼が言う。
「なるほど」
「ね。いこう」
「分かりました」
するりと解けた手は僕を抱き上げ、彼は僕を抱えたまま拝殿へと歩いていく。景色はぐにゃぐにゃと歪んで見えた。なるほど予想通りにこのまま連れ去られてしまうんだなと思うと、突然じわじわと恐怖心が湧き出す。彼の肩にしがみつき、見上げたその表情は鋭く厳しくて、さっきまでの柔らかい顔とはずいぶん違ったから、余計にそう思ってしまった。
さらわれてからの生活はと言えば今のそれと大差はなかった。最初は彼と僕、つまり土地神と人間の子供の差異を埋める作業にずいぶん時間を費やしてしまったけれど。
一度だけ、この境内で僕の姿を見かけた村の誰かがそのことを親に知らせてくれたらしいのだけれど、だからといってその生活が変わることは無かった。人間は薄情ですね、と彼は憤慨したように言ったが、あちらはあちらで、生まれてしまった差異をゆっくりと埋めていたのだろう。程なくして両親と、次の年の祭近くに生まれた弟だか妹だかは村を離れてしまったのだと、これも境内の噂話で聞いた。もしそれが僕のかどわかしに原因があるなら、それについては申し訳なかったと今でも思っている。多分、僕の所為なのだろうし。
流れた歳月に悲しみは無い。離れた家族に恨みもない。ただ、誰にも知られないままで人であることをやめて、誰にも知られないままでこの土地に沈んでいく物の怪になったという、その事実だけは少し、本当に少しだけ寂しかった。それでもまだ彼がいて、たった六年と言うそれまでの人生の中で一番僕に優しくしてくれたことは嬉しかった。あの日に終わっていたはずの人生を、彼がここまで永らえさせてくれたのだ。それなら、消える時も終わる時も彼の一存に委ねられても何の不満があるだろうか。
ひゅう、と音を立てた秋の終わりの風がうなじを撫でていく。僕はそれをやはり冷たいと思う。歩き始めた足はふらふらと拝殿を背に、石段の方へと向かう。彼があの小さな子を拠りどころとするなら、僕といういきものは不要になるだろう。彼がそう決めたなら、彼によって生かされた僕に批判する権利も逆らう理由もないのだ。幸いあの子供も、さらわれて来たのにあれだけ眠りこけていられるほどの豪胆さがあるのだから、きっと彼にも気に入られるだろう。親御さんたちには不憫なことではあるが、それは所詮人の理、僕たちの知ったことではない。
あの優しい声で、穏やかな笑顔で。
それはひどく、妬ましいことではあったけれど。
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