其の四

 それがどうかしたのと畳にだらしなく寝そべり、長い爪で不器用そうに栗の皮を剥きながら、彼は事も無げに言った。

 祭が無くなれば僕たちの存在だって消えてしまうかもしれない。昔、そう言ったのは彼だ。だからそう反論すれば、そうなってしまう前にさっさとここを離れればいい、と言う。それも確かに、前々からずっと聞かされ続けていることではあるけれど、それでもそう易々と慣れ親しんだ、神とまであがめられた土地を捨てて行くことができるものなのだろうか。


「だって俺、元々神様じゃないですしね」

「そういえば、そうですけれど」


 必要なのは命を繋ぐ供物だけではないから、生活必需品やら何やらをまかなうために時々里へ下りて行く所為で、僕はこの辺りの人から何となく、この社に住む神職の子だか何かだと思われているらしい。元々、かどわかしに遭っても一晩気付かれずにいたぐらい存在感の薄い地味な子供だったから、そうやって認識されてもいつの間にかことさえ忘れられていくだろう。そういえばあの神社の子、どうなったのかしらね、なんて。


「でもだからって、一体何処に行くつもりなんですか?」

「さあね。どうとでもなるよ」


 伸びた獣の爪では焼き栗の皮は剥き辛いらしい。代わりましょうかと声を掛けても、僕よりずっと不器用なくせに大丈夫と答えてこちらに渡そうとはしない。

 集会所からはまだ賑やかな声が聞こえてくる。彼が拗ねたように見えるのはその所為もあるんだろう。賑やかなのは嫌いではないけれど、その分彼の機嫌が損なわれるのは面倒臭いとも思う。手を伸ばしてぱたぱたと揺らめく彼の尻尾を撫でると、ふぅん、と甘えたように鼻を鳴らした。



 多分その時が来たら、彼はきっと容易くここを離れて新しい安住の地を探すのだろう。そうすれば僕も、彼に従ってここを発たなければいけなくなる。彼に従い人をやめた身の僕は、彼の居ないこの土地で一人で生きていくことは難しいだろう。振り回されている、と感じるがそれを不便だとも理不尽だとも思わない。僕は彼に生かされている身なのだ。

 一体どれだけの歳月を二人で過ごしてきたのかも、もう分からない。多分これから先も、どれだけ生きたのか分からないくらいの時間を二人で永らえていくのだろう。今更過ごす場所が変わったところで、それが一体なんだと言うのだ。自分に言い聞かせてみても塞ぐ気持ちが顔に出たのか、上半身を起こした彼が、ぴこりと耳を動かしながら僕の顔色を伺うように覗き込む。


「やっぱり、嫌ですか?」

「そういう訳ではありませんよ」

「君がどうしても嫌だって言うなら、他の方法を考えないでもないですよ」


 柔らかい掌で頬を撫でられて苦笑した。

 長く二人でいるくせに、僕らはお互いの名前すら知らない。聞きもしないし聞かれもしなかった。僕らの世界には彼と僕しか存在せず、それであれば名前などなくてもただそれだけで足りた、というだけの話だ。


「ほら。ごろごろしているから髪がぼさぼさじゃないですか。梳いてあげましょう」


 立ち上がって小抽斗こひきだしから椿が彫られた柘植つげくしを取り出す。いつだったか境内に落ちていた誰かの忘れ物で、何本か歯が欠けてしまってはいるが彼のお気に入りだ。僕の動作を待つ彼の所作は、狐というより犬のそれに見えてしまう。最近は犬の首に輪をつけて紐で繋いだ人たちが散歩のついでなのか境内に訪れることがあり、一体何の意味があるのかと思っていたのだけれど、愛玩用に飼い慣らして連れ歩いているのだと彼に聞いてから、真っ先にこの彼の姿が浮かんだ。言われてみれば紐を引く人間たちの足元に寄り添って歩く犬たちは、一様に満足げな顔をしている。



 畳に座り膝を叩けば、それが合図というように僕の腿に頭を預けて横になる彼の髪をきながら、何となくまだ賑やかしい集会所の方に気を向けた。

 ずっと彼と一緒に居た所為で、何故だか僕も土地神のように敬われることがある。それなのい、僕に出来ることと言えば精々神である彼を甘やかす程度のことしか出来ない。知らぬ間に近隣を行き買う人たちの髪型や服装、言葉遣いもすっかり変わり、生き方やこだわり方も変わってきているのだろう。もはや土地の神など必要としないということだと彼は言ってのけるけれど、僕にはそれが分からない。

 騒ぎの音は徐々に小さくなっていった。僕の膝の上で焼き栗を弄ぶ彼の髪を撫でると、彼は目を細めてまどろみ始める。



 秋の夜長を照らしていた月は、もう傾いているだろうか。

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