幕間

「珍しいな、お前がこういうことに首突っ込むの」



 仕方ないじゃない、と言いかけて口をつぐんだ。言うだけ無駄なことなんて、その辺に山ほど転がっている。

 相変わらずここは雰囲気が暗い。陰鬱として煩わしいことこの上ない。お前んちもおんなじだろうが、と行彦ゆきひこは言うけれど、陰鬱さの質が違うのだ。私の店のは作られたものであり、いつでも壊せるタイプのもの。行彦が住むここには陰気臭い空気がそこかしこに漂って染み付いて、そこに居るだけで私まで根暗になってしまいそうだ。



「乗り掛かった舟ってやつよ」

胡散臭うさんくさいな」

「胡散臭くて結構」



 アルミカップに入れられたもう何年ものかも分からないウィスキーは、何年前のものかも分からないし、香りも風味も、アルコールさえも飛びかけてただのまずい液体だ。それでも行彦は、合成材料から作られたチョコレート風の何かをつまみ、これが一番合うと独り言ちている。


 不思議なえんで、行彦とはもう十年ほどの付き合いになる。その時から何を考えるか分からない、というか自分の考えを秘匿ひとくすることが格好いいと勘違いしているような生意気なガキだった。行彦曰く、私は『斜に構えることがいい女だと勘違いしている痛い女』だったと言うから、私たちは似た者同士なのかもしれない。



吏理りりちゃんが入れ込んでるから、ね」

「そうなのか」

「ショックだったんでしょ、やっぱり」

「あいつ、その話俺にまだしてないんだけど」



 君嶋きみしま茉莉まつり投身事件。

 さすがに自分の後ろに人間が落ちてきたらショックも受けるだろう。私や行彦はおかしいのだ。多分、ああいうことに慣れきってしまっているだけ。



「まだ、ってことはする、って思ってるの」

「あいつ、なんでも話すだろ」

「そうとも限らないわよ」



 あの時、吏理ちゃんが行彦の所へ行かなかったのがその証拠だ。あの距離からなら七階へ引き返した方がよっぽど早い。それが本能なのか何なのか、吏理ちゃんではない私が知る由はないけれど、選ばなかったのは事実だ。

 それが不満だと言うなら、もう少し手の内を見せてやればいいのに。私はそうしている。



「詳しく聞く?」

「高くつきそうだからいい」

「別にいいわよ。これはただの情報共有」



 ちらりと奥の扉に目をやる。



「大人しくしてるの?」

「ずっと本読んでるだけだ」

「それならいいじゃない」



 誰かの時とは大違い、と言うと違いないと行彦が笑った。相変わらず、あの頃から中身も容姿も変わらない、化け物みたいな男だ。



「あの子にも関わる話なの」

「ああ、それなら問題ない」



 暗に彼女には聞かれない方がいい、と含ませたニュアンスはきっちり伝わる。行彦のそういうところは嫌いではない。今の時間はこちらへ顔を出すことはないのだろう。というか、この様子では一日にどれだけの時間行彦と顔を合わせているものか。

 合わせてないんだろうな、と結論付けた。どうあれ、こいつは積極的に人間と関わるようなタイプではない。


 吏理ちゃんに後ろめたいという気持ちはあった。彼女は彼女なりの考えがあって、あの日の出来事を話さずにいたのだろう。或いは、ただ話したくないだけだったのかもしれない。だからこれは、私が彼女の傷を掘り起こす行為でもある。

 それでも私と行彦は、こうして昔から情報の共有を行ってきた。吏理ちゃんが不憫だと思う気持ちはあるけれど、私にとってこれは当たり前の行動なのだ。吏理ちゃんから聞いた君嶋茉莉投身事件の、公開されていない部分を私は行彦に語る。それから、彼女が苗村なえむら陽和ひよりに引きずられ巻き込まれた事件についても。



「それだけ、か」

「それだけよ」



 酒精なんて一体どれほど残っているのか、ただのとろりとした茶色い液体だけで頬を上気させた行彦は、さもどうでもいいと言いたげな顔をする。

 行彦にとっては瑣末事さまつごとだろう。吏理ちゃんとは、生きてる年数と生きた経験が違う。生まれて数年後に、生きることを放棄する期限を決めつけられ、諦めに諦めを重ねて生きてきた吏理ちゃんとは何もかもが違う。そういうことが分からないのが、この男が欠陥たる所以ゆえんだ。



「で、は」



 傾けた親指が扉を指す。恐らく、あの分厚い防火扉の向こうで活字を追っているだろう少女を示す。



「いじめっこの生き残りだって」

「潔く覚悟決めりゃいいのにな」

「よく言うわよ」



 私が知る限り、この男は今このドームの中にいるどの人間よりも生き汚いだろう。何もかもを捨てることで生きることだけを選んだ人間だ。



「で、お前どうすんだ」

「私? どうもしないわ」

「あの女。いつまで置いとく気だ」

「大丈夫よ」



 階下から奇妙な悲鳴が聞こえる。南西区ではありがちなことだ。アルミカップの中身をすすっても、結局は水の味しかしない。



「そのうち耐えられなくなるでしょ」

「……まあ、そうか」



 悲鳴は途絶えることなく続いている。行彦は私の肩越しに、非常階段の踊り場を見詰めていた。

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