3.

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 この部屋に赤の他人を入れるのは初めてだ。強烈な違和感が拭えない。

 実際のところ、無機質すぎる部屋にそぐわないのは無駄にカラフルな自分の方だ。それでも私の毛布に包まり、私のマグカップを両手で握り締めて小刻みに震えるこの女は間違いなく闖入者ちんにゅうしゃでしかない。



「ごめんね、吏理りり



 謝るなら最初から押し掛けてくるな、とは言えなかった。こいつは私が言う「別にいいけど」を言葉通りに受け止めるのだろう。本当は今すぐにでも出ていって欲しいのに。


 誰だっけ、とは言えなかった。それなのに部屋に上げてしまったのは軽率だったと思う。でもドアの前で、私の名前を呼びながらぴいぴい泣かれると、間違いなく私は悪者になってしまう。だから人目をはばかる意味でも、とりあえず部屋に入れた。

 新手の犯罪者だったらどうしよう。

 杞憂きゆうだとは分かっていて、部屋に入ってすぐにチカちゃんとゆかりさんにメッセージを送った。チカちゃんからはサスペンスじゃん、後で話聞かせて、という返事だけが送られてきたけれど、縁さんは今すぐそっちに向かうからという切迫した連絡が入った。そのことが、この女と対峙たいじしていることへの恐怖に拍車を掛けている。わざわざ縁さんが出向いてくるだなんて、と。



「……正直、困るけど」

「そうだよね、ごめん、でも、あたしすごく困っちゃって」



 知ったことか。

 これも口には出せない。さっきから、言葉を飲み込んでばかりだ。


 見覚えがない訳じゃない。多分何度か会ったことがあるし、会話だってしたことがある。けれどそれに確信が持てないのは、多分彼女の容姿が変わっているせいなんだろう。つまり、その程度のコミュニケーションしか取れてなかったということだ。



「てか、ごめん、あなた誰かな。覚えてないんだけど」

「あ……えっと」



 黒くて長い艶々の髪。小さめの目は黒いアイラインで大きめに縁取られている。唇には濃いピンクのリップが塗られていた。

 何もかもがアンバランスなのだ。初対面に等しい人間にこんな感情を抱くのは失礼だと分かっていても、彼女を見ていると何故か不安になってしまう。



「よく分からないのに、部屋まで上げてくれたんだね」



 そうでもしないと収まらなかったのはあんただろうが。それにしてもあれだけ泣いたのにまったく崩れないアイライン。それだけは羨ましいけれど、今それを話題に出すほど私は頭は悪くない。当の彼女は、聞けば答えてくれそうな雰囲気ではあるが。



「同じ研修を受けたのよ。ほら、ネトマガの添削の寄与の前に。隣にいたの、覚えてないかな」

「……ああ」



 そういえば妙に馴れ馴れしい女の子がいたっけ。研修が始まる前にずっとしゃべりかけてきたので適当に聞き流していたような気がする。


 そもそも寄与に就くにあたって受けるべき研修は、わざわざセンターまで出向かなくてもいいのだ。でも、出向いたらその分、証明コードの発行は早くなる。その辺がいまだに無駄だらけのお役所仕事だよね、と縁さんは言っていたけれど、こういうことでもない限り部屋から出ない私としては、いい気分転換にはなる。

 だからといって人と交流をしたかったんじゃない。それに、そもそもの話だ。



「そんなんだっけ、アナタ」

「髪は染めたのよ。最後に会ったの、何年か前だし」



 最後にも何も、一度会っただけなのになんだかずいぶん親しそうに話すから、旧知の仲なのかと勘違いしてしまいそうになる。たかだか数時間、それも一方的に話し掛けられただけで。

 そもそもこいつは何をしに来たんだ。



「それで、用事は何?」

「助けてほしいの」



 最初からそんなことを言っていたっけ。話がちっとも進まない。さっきからイライラしてしまっているのはそれも原因なんだと思う。泣きわめいてすがった割に危機感がないのだ。



「助けるって何を」

「聞いてくれる?」



 白々しい。

 恐らく違和感の正体はこれだろう。危機感がない、白々しい、すべてが芝居がかっている。泣いても落ちないアイメイクもそのひとつ。何らかの危ない目に遭って、ろくすっぽ知りもしない相手を頼るようななりふり構わなさが、彼女には少しも見えてこない。


 こいつ、本当に犯罪者じゃないだろうな。



「そもそも私、アナタの名前も知らないし。覚えてないし」

苗村なえむら陽和ひよりよ。改めて、よろしくね」

「……話の内容によるけど」



 差し出された手は見ないふりをした。丸く整えらえた爪に塗られたピンクベージュのネイルが剥げかけている。



「でも私、本当に吏理しか頼る人がいなくて」

「勝手に頼りにされても困るよ。名前も今知ったのに」

「本当に困るのよ」



 噛み合わない会話に、今すぐこいつを叩き出してやろうかと言う気持ちを抑えつけたのは、縁さんからのメッセージのせいだ。あの人が店を閉めた後にわざわざ南西スラムから駆けつけてくるなんて。

 電車で来るとしたらあとどのくらい時間がかかるだろう。悲劇のヒロインぶる女にうんざりしながら聞き出せた話は、要した時間の割に実に短い。



 苗村陽和は命を狙われているらしい。



 その字面だけでさらにうんざりする。イレギュラーにはもう遭遇すまいとさっき心に誓ったばかりだというのに。

 それに、陽和の話はとにかく回りくどくて鬱陶しい。それなのに、誰に、どうして殺されそうになっているのかはさっぱり分からない。



「私にどうしろって?」

「助けてほしいのよ、だから」

「だから、何を」

「助けてくれるの?」



 十八年後に世界が滅ばなくたって、私がこいつと相容れることはなさそうだ。



「嫌ですけど」

「どうして。だって、私」

「肝心なこと、なんにも分かんないもん。何も知らないで社会奉仕するほど心、広くない」

「そんな」



 陽和の目から、またぼたぼたと涙がこぼれだす。本当にそんな手法で誰かに助けられたことがあるんだろうか。立ち振る舞いから感情の表出まで何もかもちぐはぐなこの女には、薄っすら恐怖すら感じてしまう。



「悪いけど私、本当になんにもできないよ。暴力振るわれたって自分守れるかすら分かんないし。巡回員パトロール呼ぶから、機構に保護してもらいないよ」

「それができないから困ってるのに?」



 この自信は一体何なんだろうか。誰かに何かを拒絶されたことはないのだろうか。だとしたら、それはかなり羨ましいことだ。

 だからと言って、こんな女になりたい訳じゃないけど。



「事情も話せないのに命を守れとか、頼む相手間違ってるとしか思えないし」

「だって私、本当に頼れる人がいないのよ」

「だから巡回員呼ぶって言ってるじゃん」



 イライラする。むしゃくしゃする。

 仮に機構に連絡されるとマズい人間だって言うなら犯罪者の可能性がある。そうなるとそいつを匿った私にだって、罰則が科されるというのに、この女はそれすら理解していないのだろうか。そして、この女のそんな言い分を許せるほど私はこいつに好感を持っていないし、それどころかこいつのことなんて何も知らない。

 いっそのこと叩き出してやろうか。いざとなったら不法侵入で訴えてやる。

 そう思って立ち上がった時、来訪を知らせるビープ音が鳴った。



「あなたまさか、本当に呼んだの?」

「どこにそんな隙があったんだよ」



 スイッチを押して来客用モニタを確認すると、見慣れたベリーショートの髪が映る。それだけでなんかホッとしてしまった。



「開けるから、入って」

『ありがとう、お邪魔するわね』

「やめてよ、本当に困るの」

「うるさいよ」



 本来なら訪ねてきた人間は出迎えるのが礼儀、と散々行彦さんに叩き込まれていたけれど、今はそうもいっていられない。そもそもあの人だって、私が出向いた時にこちらを見たことなんて一度足りとてあっただろうかと思うし。


 ぴったりとした細身のジーンズにだぼだぼのパーカーを被った縁さんが、不自然なくらい静かな足音で部屋へ入ってくる。この人、空き巣にむいてるんじゃないだろうか。一般的なセキュリティとか簡単に突破しそうだし、モニタカメラだってぶっ壊しそうだ。



「よかった、吏理ちゃん。無事だったのね」

「誰ですか、あなた」



 私が答える前に、苗村陽和が悲鳴みたいな声を上げる。うるさいったらない。縁さんはそれを無視して私と苗村陽和の手を掴み、行きましょう、と穏やかな声で言った。



「行くって、どこに」

「ここじゃ話にならないし。吏理ちゃんだって他人に居座られちゃ迷惑でしょ」

「やっぱり私のことを売ったのね? ひどいわ」



 こんなに話の噛み合わない現場に居合わせたことがあっただろうか。

 喚き散らす苗村陽和を引きずりながら無視して私たちは部屋を出る。電車で来たにしては連絡を入れてからずいぶん早いな、と思っていたら縁さんは自分の車でここまで来たらしい。縁さんの車も、こんなに四角い車も初めて見た。

 あんまり騒ぐと本当に巡回員が来るぞと脅すとようやく大人しくなった苗村陽和を後部座席に押し込むと、騒々しい音を立てながらも滑らかに車は滑り出す。



「どこ行くの」

「とりあえずうちの店でいいでしょ。あんまり人来ないし」

「こんなの誘拐じゃない! 一体どうする気なの?」



 相変わらずきゃんきゃんとやかましい。野生動物ってこんな感じなのかな、と思ったら古い映像で見ていたそれらが一気に可愛くなくなるような気がした。そんなことで、私の評価を弄りまわさないでほしいというのに。



「よかったじゃない」



 ハンドルを握る縁さんは事も無げに言う。さすがに大人だ。後部座席を振り返ると苗村陽和は、悔しそうな顔で唇を噛んでこちらを睨んでいる。服や髪の色と相俟あいまってそこだけ色が消えてしまった世界みたいだ。

 元気じゃん、とは言わなかった。



「誘拐なら、殺されるよりマシでさ」



 今時車なんて走らない路上で、縁さんが盛大にハンドルを切る。後部座席から転がり落ちた苗村陽和を見て、少しだけ胸のすく思いがした。

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