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原稿が完成する頃には時刻は十二時を回っていた。
こういうことは珍しい。大体日付が変わりそう、どころか陽が落ちそうな時刻になると
曰く、『間違いがあってはいけない』からなんだそうだが、行彦さんの言う『間違い』がもし仮に万が一、私が想像しているものと合致するのであれば、それこそ万に一つもありえない。だからそう言うのだけれど、行彦さんはそれもそうだと適当にかわすばかりだ。
ごつ、と頭に衝撃があったのが十二時を回った頃だった。目を開けたところで、目を閉じていたことに気付く。
「起きろ」
衝撃は脳天につま先が当たった時のもの。見上げると、私の頭を
「もうちょっとマシな起こし方ないんすか」
「ねえよ。とっとと起きろ、できたぞ」
できたって、何が。
「ひでえ顔してんな。顔洗うか?」
「いえ、大丈夫、っす」
あの時の私はどんな顔をしていたのだろうか。あのけたたましい笑い声は、本当に私が発したものだったのだろうか。不愉快さを覚えて首筋に手をやると、そこはじっとりと湿っていた。寝汗、と気付く。長い間眠っていたのだろうか。今目の前にいる行彦さんとの、最後に交わした言葉が思い出せない。
そもそも、私は何をしていた?
「おい」
ぱし、と音がする。視界がちか、と光った。今度は目の前で手を鳴らされたらしい。何回かまぶたを瞬かせると、ぼやけた掌の向こうに、眉根を寄せた行彦さんの顔が見える。怪訝そうなのか心配しているのか、私にはそれを判断する術がない。
私はいま、どんな顔をしている?
「
「すんません、大丈夫っす」
半身を起こすと体が痛い。硬い床の上で結構な時間眠っていたのだとしたら、それは当たり前だろう。背伸びをして、身体を整える。幸いにして私は若いから、こんな不調すぐに治ってしまうはずだ。
床に接していた腹の辺りに、ほんのりと湿ったシャツが張り付いている。気持ちが悪い。
「泊まって帰れよ」
床に落ちたメモリを拾い上げた行彦さんがぼそりと言った。その低い声と不明瞭な発音で、聞き間違いだと思ったのだけれど、目が合った行彦さんは妙に意志の強い丸い目でこちらを見つめている。
「間違い起こしていいんすか」
「起こすわけねえよ、馬鹿」
「いえ、でも、身体痛いし」
「敷くもんくらい貸してやる」
「なんなんすか、天変地異でも起こるんすか」
軽口にするしかなかった。私の持っている語彙の中で一番近しく当てはまる行彦さんの状態は、
拭った手の甲に、血の塊でも張り付いているのなら、いっそこの不快感は現実味を帯びて楽になるだろうに。
「起こるかもな」
顔を洗ってこい、と何時間前かに言われたようなセリフをタオルと一緒に投げつけられる。
そういえば、行彦さんにはあの日の話をしていない。前回の『七階』からの帰りに例の事故に遭遇して、それから初めての訪問なのだから当たり前か。タオルを掴んで指し示された方向にふらふらと歩くと、えらくレトロな洗面台がある。いつもなら大喜びして映像データに残させろと言って叱られるところだけれど、今日はそんな気持ちにはなれなかった。
鏡を見る。目の下の隈がひどい。センサーが付いていない洗面台は、いちいちハンドルみたいなものをひねって水を出さなければいけない。そんなこと、誰に教わったんだっけ。パイプの先から流れ出した水が、ぴちゃぴちゃとシンクを打つ。
それは、あの音を思い出させた。
靴の下で鳴る、びちゃびちゃという不快な音。私が、カコが踏みしめて踏み崩して踏みしだいた、無数の
私もいつか死んだら、あんな風に崩れて醜い何かになり果てるのだろうか。
「おい」
「あ、すんません。水、出しっぱで」
「それはいいけど、変なとこ漁るなよ」
「変なモン隠してるんすか。いいこと聞いた」
「飯。食わせてやるからさっさと戻ってこい」
唇はカサカサに乾いていた。めし、と口に出すと喉が鳴る。あんな思いをした後だというのに、人間と言うのは不便で強欲なものだ。
顔を拭いたタオルを持て余しながら戻ると、床の上には缶詰やペットボトルが並べられている。座れ、と顎で示されて私はタオルを掴んだまま床に腰を下ろした。
「どうしよう」
「なんだよ、食欲ねえのか」
肝心なことを忘れいていた。やべえ、と思ったら今度は背中に冷や汗がにじむ。反射的に立ち上がったせいで、私のそばに置かれたペットボトルがごとんと音を立てて倒れた。
私たちは基本的にケイタイのGPSで居場所を管理されている。グローバルなんとかシステム、と言ったか、その詳細はひとつも知らないけれど、なんにせよケイタイの電源が入っているとどこにいるかの情報は送信され、それは保存されていく。
平時であれば特に問題はない。けれど、十二時間を超える期間その所在が確認できない場合、機構からの警告と追跡調査が施行される決まりになっている。
ここには何時に来たっけ。考えながら、自分の顔から血の気が引いていくのが分かる。行彦さんみたいな世捨て人には分からないだろうけれど、この世界で生きている私たちにとってこれは死活問題に匹敵するのだ。
「座れ」
それでも行彦さんは、私の焦りなど関することもなく平然と言ってのけた。
「でも、だって」
「心配すんな」
そりゃあ行彦さんはいいだろう。こんなところに隔離されて生きているんだ、ケイタイすら持っていない。機構に追われることだってないんだろう。だけど、私はどうなるというのだ。目を付けられてしまったら、ドーム外への放逐だって有り得る。いくら生きることに執着してないからって、どうせ死ぬなら楽に死にたい。
「連絡しといたから」
「誰にですか」
「偉い人」
「なんすか、それ」
「今日はここに泊めるからって言ってある。明日は九時までに出ろよ。そういう決まりだ」
「何が何だかさっぱり分かんないんすけど」
「簡単だろ」
開封されていたのは鶏肉やなんかの貝とクラッカー、それからなんだか分からないぐちゃぐちゃの肉。一瞬口元を押さえたけれど、なんだかすごくいいにおいがするものだから食欲の方が勝ってしまった。
「俺が偉いってことだ」
その理屈はおかしいんじゃないだろうか。それでも、丁寧に手を合わせ頂きます、とつぶやいてから缶詰に手を伸ばす行彦さんを見ていると、それが正しいような気がしてきてしまった。
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