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路地を歩いている。
ここは『七階』からの帰り道、見慣れた道だ。見慣れているはずだ。
それなのに辺りはなぜか異様な暗さで、手探り足探りでなければ歩けない。消失点はくらがりの奥に消えている。ここまで遅い時間に、ここを歩くことが今まであっただろうか。
そこで気付く。
これは夢だ、と自覚しながら見ている夢のことだそうだ。誰に聞いたんだっけ、と思う。もし誰かに聞いたのであれば、それは一人しかいないということは分っているけれど、でもその人の顔や姿、声は一切思い出せない。
これが夢ならあの人に高く売れるんじゃないか、と夢の中の私は思う。
あの人は面白い夢の話を買ってくれる。バクみたいですねと言った気がする。バクは夢を買うんじゃなくて食うんだよ、そんなことも知らないのかと憎まれ口を叩かれた。その口調も鮮明に思い出せるというのに。
さてこれは果たして本当に夢かどうか。くらがりに手を伸ばすと、淀んだ水に手を突っ込んだような感触がした。
きっとこれは錯覚で、実際はただ空気に触れただけなんだろう。気持ち悪い、得体が知れない、そんなことばかり考えているから。
別に怖いことなんてない。あるとしたら、見えないところから人か何かが飛び出してくる恐怖くらいだ。
怖いというならさっさとここを離れよう。何なら引き返して別の道を歩いてもいい。夢の私はそんなことを考える。別のルートを選ぶなら、ここを通るより倍以上の時間はかかるけれど、こんな時間――この暗さから考えると夜なんだろう、多分――にこんな暗闇を歩くより、多少時間が掛かってもランプのある道を通った方がいい。
けれど夢の私は振り返らない。ひたすらまっすぐ、黒い
何かが怖いなんて、一体いつぶりの感情だろうか。
生まれてこの方、あまり何かを怖いと思ったことがない。いつだったかチカちゃんと観たパニックホラーのレトロムービーは、効果音と悲鳴がただただうるさいだけで別に怖くもなかった。何が怖いんだろう、なんて言いながら続けて観たのはじっとりと薄暗い画面がだらだらと続くだけの映画で、時々底意地の悪い大きな音でこちらを驚かせてこようとする魂胆が見え見え過ぎて、結局二人とも朝までぐっすり眠ってしまった記憶がある。
欠落の世代、私たちはそんな風に言われているらしい。それについては胸を張って反論できる。欠落させたのは誰だ、と。生まれた瞬間から死ぬ日を決めつけられた私たちに多くを求めないでほしい。
それはさておき、今まで一度も考えたことも感じたこともない恐怖を抱えたまま、夢の私はくらがりの奥へと進んでいく。鼓膜の内側に聞こえる心臓の音は速くなるばかりだ。やめればいいのに、と思うけれど止めることはできない。そういえば明晰夢は夢の中でも自分を思い通りに操れるはずじゃなかったっけ、と思ってはみても、どうにも歩く足が言うことを聞かない。いっそ叫んでみれば変わるかと思うけれど、そもそも喉が焼け付くように痛くて声すら出せない。
くらがりの奥から音がしていた。
ぐしゃり。ごつん。
ぐしゃり。ごつん。
繰り返す音が何を示しているかは分かっていた。だからこそ足も
本当は。
この路地はこんなに長かっただろうか。ほんの数分も歩けば別の通りへ抜けられたはずだ。それがおかしい。いくら遅い時刻だからといって、先が見通せないほどの暗さであるわけがない。街路、それが路地であっても照明は設置されているはず。そういう風に決められていたはずで。だから。これは。
夢だ。何も不思議はない。
それなら何が出てきたところで怖くはないし、怯えることだってない。目を覚ませばいいだけだ。そう、何かが起きる前に。
ぐしゃり。ごつん。
ぐしゃり。ごつん。
ぐしゃり。ごつん。
音は続いている。近づいては駄目だ。見ては駄目だ。気付いては駄目だ。駄目だ。絶対に、駄目だ。
「引き返せ」
夢の中の私の言葉は、くらがりから響く音に消されてしまう。そうして進んだ先に見えたものは。
積み重なった
ここを通り抜けるためには君嶋茉莉の山を越えなければならない。迂回する隙間すらないほど、それは高く広く積み上げられている。こんなところを通ったら靴が汚れてしまうじゃないか。うんざりして足元を見ると、ピンクとかミントとかイエローとか、複雑にパーツが絡み合ったエナメルのハイヒールを履いている。顔の両脇に垂れた長い髪の色はパロットグリーン。
道理で言うことを聞いてくれないわけだ。
カコは私よりも大胆で、煩わしいことを嫌う。そして、いろいろなことに頓着しない、私と違って。
汚れた靴なんてアイテムをチェンジすればいいと考えたのだろう。小さな舌打ちをひとつ、それから君嶋茉莉の山をずんずんと登っていく。靴の裏でぐじゃり、ぐじゃりと不快な音がした。私なんかはそれが気持ち悪くてたまらないのに、カコは降り続く君嶋茉莉の間を器用にすり抜けながらずんずんと進む。
君嶋茉莉の山を越えても、くらがりは終わらない。そこで確信する。これは間違いなく悪夢だ。
もう進みたくもない。でも、戻れば潰れた抜け殻の集合体だ。早く覚めろ、それが無理ならさっさとここを通り抜けて行け、と祈る私をあざ笑うように、カコはゆっくりと背後を振り返った。
「目を開けなよ、見えないだろ」
カコの声。自分のものより、ちょっとだけピッチを下げた落ち着いた声。やめてくれと耳を塞いだ手もあっさりと剥がされた。そんなに簡単に私の動きを覆せるなら、目くらい自分で開けられるだろうに。
「興味あるんでしょ? 本当は」
そんな訳があるか。絶対に違う。私はそんなこと。
抵抗に最早意味はない。どうせ主導権はこいつが握っているのだ。強めに閉じたはずの目も、あっさりと開かれていく。サディストかこいつ、と思ったらそうだよと愉快そうに笑う。
やめろ。見るな。目を凝らすな。
「だって私は、あんただから」
願いは虚しい。夢の中だというのに妙にクリアな視界に、それははっきりと映ってしまう。
「こういうのが好きなんでしょ」
目を逸らすために見上げた上空からは、無数の塊が降り始めた。君嶋茉莉の群れに混じり、
やめろやめろ、と声にしたはずだった。口元を押さえて、首を振りながら、必死に抵抗した。したはずだった。
足元でごつりと鈍い音がする。ぐしゃぐしゃに潰れたはずの縁さんやチカちゃん、それからたくさんの君嶋茉莉はなぜか眼球だけは綺麗な色をしていて、はっきりと目が合う。
吐きそうだ、と思った私の口からこぼれていたのは、ひどく耳障りで甲高い、実に愉快そうな笑い声だった。
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