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「眠たいなら顔洗ってこい」

「どこで、っすか」

「ん」


 顎で示された先には確かに洗面所らしきものがある。だからと言って、そこにたどり着くまでに一体どれだけ、この本の柱を崩さなければならないのだろう。大丈夫ですと答えればそう、と素っ気なく答えて行彦ゆきひこさんはまたモニタとキーボードに向き直した。

 音声入力にすればいいのに、と何度も言ったのに、あんな恥ずかしいことできるか、と行彦さんは言う。だから、行彦さんの原稿はいつも手打ちされる。それが余計に時間が掛かる。


 飲み物、携帯食料、コンパクトに折りたためるデカめのクッション。

 今日は時間かかるぞ、と事前に連絡を(ゆかりさん経由で)寄越してくれたから、今日の私は大荷物だ。ここで待つ、となるとそれ相応の準備が必要になる。幸い、時間を潰すためのオモチャならいくらでもここにあるけれど。


 一時間ほど前、あとどのくらいですかと聞いたら三時間だと言われた。出直しましょうかと言えば何日も人が訪ねてくるのは面倒だから嫌だという。面倒なのはどっちだ、と言いたくもなる。私のこと、ぱっと見て寝不足だと思うなら仮眠くらい取らせてくれたっていいのに、自分が原稿をしているのに他人が寝ているのはしゃくに障るとか言い出すほうがよっぽど面倒くさい。


 仕方なしに床に転がり、ペットボトルを手に取る。中は赤くて透明な液体。ラベルにはスイカ味、と書いてある。スイカとやらは食べたことがないのだけれど、キュウリを飲んでいるみたいな味は気に入っている。それを言うと行彦さんは気持ち悪、と一言吐き捨てたけれど。どうやら行彦さんは、スイカもキュウリも嫌いらしい。そういえばそもそも食べ物の好き嫌いが多いんだと、縁さんが言っていたような気もする。



「寝るなよ」

「寝ませんてば。さみしんぼか」

「おう、そうだ。さみしんぼだ、だから絶対寝るなよ」



 開き直りやがった。


 ごろりと横になって傍にあった本を手に取る。それは一体どこで手に入れたのか――いや、間違いなく縁さんのところからなんだけど――紙の端が焼けて折れ曲がった物語の本だった。時代小説、というらしい。

 私にとって時代小説といえば、四辻よつつじ先生が時々書かれるような二〇〇〇年代のガクエンものだったりカイシャの話だったりするのだけれど、当時の人からするとこちらが正しい時代小説になるのだろう。江戸時代、というのは多分五年くらい前にプログラム教育で習った。

 ギムキョーイク、なんてものがあったらしい。いくつまでだったか、確か成人の手前くらいだったような気がする。学校というところに通って、一般的な教養やら知識を学んだんだそうだ。つまらなさそう、と言ったらその通りだと行彦さんは満足げに頷いていた。その後に縁さんから、お揃いの服を着てみんなできちんと並んで勉強をしたり休憩におしゃべりをするのは結構楽しかったよ、なんて話を聞いてからは、意外と悪くないところなのかも、と思っているけれど。


 私たちは学ぶも遊ぶも自由だ。

 人材なんて育てたって意味ないからな、と行彦さんは言う。やりたいことがやれていいよね、と縁さんは言う。そうは言ったって、結局成人して働くことになり、危険な寄与とか苦手な寄与とか、そういうものを避けたいならそれなりの程度の知識と知恵がないといけない。それを全部こっちの自主性にひっかぶせてくる無責任さを考えたら、やっぱりギムキョーイクがあった方が楽だったんじゃないだろうか。



 ページをぺらぺらとめくる。考えるのはとりとめのないことばかりで、お話の内容なんてひとつも入ってこない。


 チカちゃんと話したあの日から、死んだ人のことばかり考えてしまう。

 越原こしはら亜悠あゆ熊川くまがわ奈留なる、そして、君嶋きみしま茉莉まつり。道理から外れた手段で命を落とした少女たち。

 確かにいじめなんてろくでもないって思う。あんなのはメンタルのヤバい人間がやることだ。嫌なことなんて寄与の帰りに運動施設かエンタメスクエアにでも寄って発散すればいいだけの話だから。それなのに、わざわざ他人と関わってリスクを冒すなんて、馬鹿げているし子供じみている。


 友竹ともたけ梨恵りえがターゲットになったのは、彼女の姉のことが原因だったらしい。友竹梨恵の姉は彼女がイコルを使う数年前、失恋のショックで衝動的な自死をしたという。そしてその姉は規定に従い、ドームの外へ棄てられたという話だ。


 命を投げ打つほどの恋。命どころか、己の処遇まで。

 そんな壮絶があるだなんて。



「寝るなよ」

「起きてますってば」

「ページ、止まってんぞ」

「行彦さんこそ、指止まってません?」

「俺は休憩中」


 ああいえばこういう。

 紙ください、と言うとこの間私が縁さんの所から持ってきた四角いブロック型のメモを投げ渡された。受け損なって額に角がぶつかる。痛い、と不満を漏らせばおとなしくしてろ、と理不尽な説教だ。

 床に投げ出したカバンからペンケースを取り出す。缶バッジががちゃがちゃと音を立てうるさい、と行彦さんがこぼした。休憩中のくせに。


 ペンケースなんてものを持ち歩いているなんて、ずいぶん変わっているねと言われた。それについては否定はできない。これだけのカラフルなペンをそろえるのに一体どれだけの報酬をつぎ込んだことか。しかも、書けば書くほどインクはなくなっていく。今時ケイタイとツールペンさえあればメモでもなんでも無限に書けるのに、だ。



「恋で、死のうと思ったこと、あります?」

「は?」



 本の柱の間から行彦さんが顔を覗かせた。その拍子に柱のひとつがばさばさと音を立てて崩れる。それでも、あまりそれを気にしないところや、すべての本の所在や書名を記憶しているわけではないあたり、この人は読書が好きと言うよりは本を集めるのが好きなのだろう。



「何言ってんだお前、眠いのか」

「眠いですけど、そうじゃないです。で、ありますか?」

「ねえよ」



 にべもない。


 腹が減った、というからカバンをあさって、携帯用のシリアルバーを投げ渡した。縁さんのお店で何本かセットで買った中で、一番おいしくなかったやつ。そうとは知らず行彦さんは素直にありがと、と言ってぺりぺりと包装を剥いている。


 行彦さんは何かと端々に育ちの良さが見えるのだ。何かをしてもらったらきちんとお礼を言うところ、シリアルバーをかじる時、そっと顎の下に手を添えるところとか。



「なんだお前、そういうのあるのか。取材させろ取材」

「ありませんって。私じゃないです」

「なんだよ、違うのか」



 まずい、と言い放つけれど口から吐き出したり捨てたりはしない行彦さんは、悪ぶっているのにどこかちぐはぐな子供のようにも見える。



 人が死ぬことなんて当たり前。『七階』から私の居住区までの帰り道には、指定されたイコル服用エリアがある。今日の帰り道にだって、私は眠るように息を引き取った人の抜け殻を見つけるかもしれない。この世界には文字通り、人の死なんてそこいらじゅうに転がっている。

 そりゃあこの間みたいな例外だってゼロじゃないけど、過程や状態はどうあれ事象自体に珍しさなんて少しもないのに。



 落下して死ぬ。

 恋に溺れ死ぬ。



「死ぬって、怖いんすね」



 ぽつりと言葉が転がり落ちた。落としてからしまった、と思う。きっとまた、馬鹿にされてしまう。慌てて取り繕うと思うにも、失言を覆い隠すほどの語彙を、私は持たない。

 笑われるだろうな、と思ったのに、本の柱の向こうで一瞬目を丸くした行彦さんは、



「やっと気付いたかよ」



と、なんだか妙に柔らかく笑ったのだった。

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