-2
「眠たいなら顔洗ってこい」
「どこで、っすか」
「ん」
顎で示された先には確かに洗面所らしきものがある。だからと言って、そこにたどり着くまでに一体どれだけ、この本の柱を崩さなければならないのだろう。大丈夫ですと答えればそう、と素っ気なく答えて
音声入力にすればいいのに、と何度も言ったのに、あんな恥ずかしいことできるか、と行彦さんは言う。だから、行彦さんの原稿はいつも手打ちされる。それが余計に時間が掛かる。
飲み物、携帯食料、コンパクトに折りたためるデカめのクッション。
今日は時間かかるぞ、と事前に連絡を(
一時間ほど前、あとどのくらいですかと聞いたら三時間だと言われた。出直しましょうかと言えば何日も人が訪ねてくるのは面倒だから嫌だという。面倒なのはどっちだ、と言いたくもなる。私のこと、ぱっと見て寝不足だと思うなら仮眠くらい取らせてくれたっていいのに、自分が原稿をしているのに他人が寝ているのは
仕方なしに床に転がり、ペットボトルを手に取る。中は赤くて透明な液体。ラベルにはスイカ味、と書いてある。スイカとやらは食べたことがないのだけれど、キュウリを飲んでいるみたいな味は気に入っている。それを言うと行彦さんは気持ち悪、と一言吐き捨てたけれど。どうやら行彦さんは、スイカもキュウリも嫌いらしい。そういえばそもそも食べ物の好き嫌いが多いんだと、縁さんが言っていたような気もする。
「寝るなよ」
「寝ませんてば。さみしんぼか」
「おう、そうだ。さみしんぼだ、だから絶対寝るなよ」
開き直りやがった。
ごろりと横になって傍にあった本を手に取る。それは一体どこで手に入れたのか――いや、間違いなく縁さんのところからなんだけど――紙の端が焼けて折れ曲がった物語の本だった。時代小説、というらしい。
私にとって時代小説といえば、
ギムキョーイク、なんてものがあったらしい。いくつまでだったか、確か成人の手前くらいだったような気がする。学校というところに通って、一般的な教養やら知識を学んだんだそうだ。つまらなさそう、と言ったらその通りだと行彦さんは満足げに頷いていた。その後に縁さんから、お揃いの服を着てみんなできちんと並んで勉強をしたり休憩におしゃべりをするのは結構楽しかったよ、なんて話を聞いてからは、意外と悪くないところなのかも、と思っているけれど。
私たちは学ぶも遊ぶも自由だ。
人材なんて育てたって意味ないからな、と行彦さんは言う。やりたいことがやれていいよね、と縁さんは言う。そうは言ったって、結局成人して働くことになり、危険な寄与とか苦手な寄与とか、そういうものを避けたいならそれなりの程度の知識と知恵がないといけない。それを全部こっちの自主性にひっかぶせてくる無責任さを考えたら、やっぱりギムキョーイクがあった方が楽だったんじゃないだろうか。
ページをぺらぺらとめくる。考えるのはとりとめのないことばかりで、お話の内容なんてひとつも入ってこない。
チカちゃんと話したあの日から、死んだ人のことばかり考えてしまう。
確かにいじめなんてろくでもないって思う。あんなのはメンタルのヤバい人間がやることだ。嫌なことなんて寄与の帰りに運動施設かエンタメスクエアにでも寄って発散すればいいだけの話だから。それなのに、わざわざ他人と関わってリスクを冒すなんて、馬鹿げているし子供じみている。
命を投げ打つほどの恋。命どころか、己の処遇まで。
そんな壮絶があるだなんて。
「寝るなよ」
「起きてますってば」
「ページ、止まってんぞ」
「行彦さんこそ、指止まってません?」
「俺は休憩中」
ああいえばこういう。
紙ください、と言うとこの間私が縁さんの所から持ってきた四角いブロック型のメモを投げ渡された。受け損なって額に角がぶつかる。痛い、と不満を漏らせばおとなしくしてろ、と理不尽な説教だ。
床に投げ出したカバンからペンケースを取り出す。缶バッジががちゃがちゃと音を立てうるさい、と行彦さんがこぼした。休憩中のくせに。
ペンケースなんてものを持ち歩いているなんて、ずいぶん変わっているねと言われた。それについては否定はできない。これだけのカラフルなペンをそろえるのに一体どれだけの報酬をつぎ込んだことか。しかも、書けば書くほどインクはなくなっていく。今時ケイタイとツールペンさえあればメモでもなんでも無限に書けるのに、だ。
「恋で、死のうと思ったこと、あります?」
「は?」
本の柱の間から行彦さんが顔を覗かせた。その拍子に柱のひとつがばさばさと音を立てて崩れる。それでも、あまりそれを気にしないところや、すべての本の所在や書名を記憶しているわけではないあたり、この人は読書が好きと言うよりは本を集めるのが好きなのだろう。
「何言ってんだお前、眠いのか」
「眠いですけど、そうじゃないです。で、ありますか?」
「ねえよ」
にべもない。
腹が減った、というからカバンをあさって、携帯用のシリアルバーを投げ渡した。縁さんのお店で何本かセットで買った中で、一番おいしくなかったやつ。そうとは知らず行彦さんは素直にありがと、と言ってぺりぺりと包装を剥いている。
行彦さんは何かと端々に育ちの良さが見えるのだ。何かをしてもらったらきちんとお礼を言うところ、シリアルバーをかじる時、そっと顎の下に手を添えるところとか。
「なんだお前、そういうのあるのか。取材させろ取材」
「ありませんって。私じゃないです」
「なんだよ、違うのか」
まずい、と言い放つけれど口から吐き出したり捨てたりはしない行彦さんは、悪ぶっているのにどこかちぐはぐな子供のようにも見える。
人が死ぬことなんて当たり前。『七階』から私の居住区までの帰り道には、指定されたイコル服用エリアがある。今日の帰り道にだって、私は眠るように息を引き取った人の抜け殻を見つけるかもしれない。この世界には文字通り、人の死なんてそこいらじゅうに転がっている。
そりゃあこの間みたいな例外だってゼロじゃないけど、過程や状態はどうあれ事象自体に珍しさなんて少しもないのに。
落下して死ぬ。
恋に溺れ死ぬ。
「死ぬって、怖いんすね」
ぽつりと言葉が転がり落ちた。落としてからしまった、と思う。きっとまた、馬鹿にされてしまう。慌てて取り繕うと思うにも、失言を覆い隠すほどの語彙を、私は持たない。
笑われるだろうな、と思ったのに、本の柱の向こうで一瞬目を丸くした行彦さんは、
「やっと気付いたかよ」
と、なんだか妙に柔らかく笑ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます