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「災難だったわね」
銀色のカップの中にはたくさんの氷と、濃い茶色の液体が入っている。いつものようにへんてこな色合いの飲物が出てくるかと期待したけれど、今日手渡されたのはただの冷たいコーヒーだった。
「脳内麻薬がでるのよ」
どばどばって、と
あの女には情緒が欠落している、と行彦さんは言った。それがいつのことだったかは覚えていない。
私は確かに縁さんに今日あった出来事と事情を話した。それなのに、こんな鉄臭い味をした飲み物を渡してくるあたり、言われてみれば情緒という部分は足りていないのかもしれない。それでも顔を真っ青にして小刻みに震えながら店先に立った私に、驚いて甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる程度に、縁さんはいい人だ。
足りてないことは、別に問題じゃない。
あの時、ひどく鈍い音と共に私の背後に現れたのは、ぐちゃぐちゃに潰れた肉の塊――元は人だったもの──だった。初めて人の死体を直視したにも関わらず、嘔吐もせず気も失わずに堪えた私の精神力は称賛に値する、と思う。ただ、せっかく行彦さんにもらった、ピンク色の液体の入ったペットボトルを落としてきてしまったのが悔やまれた。
落としたことにも気付かなかった。虚を映した眼球と目が合い、後ずさり、あのにおいから逃げるように走り去って、一息ついてから喉が渇いたことを自覚した。
ち。
ちが。
ちがう。
首を振る。そうじゃない、と言い聞かせる。動転しただけだ。何か飲んで落ち着こう。そうださっきもらったものがあるじゃないか、と考えて左手を見たところで、私はあのペットボトルを失くしたことに気付いたのだ。
ふと見上げると例のビルの前に立っていた。『七階』の前だ。
足が震えているのは走ったせいだけではない。こんな状態であの非常階段を無事に上れるとは思えなかった。私こそ、あの肉の塊と同じになり兼ねない。
だから踵を返して、当初の予定通り縁さんの店へ向かったのだ。
たとえば路上で死体を見つけた場合。
今の時代、決して珍しいことじゃない。私だって何度も見たことがある。その場合、現在居る区画を告げ、死体の発見を報告する義務がある。正しく、落ち着いて行政にそれを報告したことだって、私も何度もある。
けれど、今回は訳が違う。
さすがに動揺したのだ。現場を立ち去り、縁さんの店に着いて、奥の部屋に通されふかふかのソファに腰掛けさせられたところでそれを思い出した。回らない舌で何度も繰り返し死体の状態と発見場所を告げた私の代わりに連絡を入れてくれたのは、縁さんだった。
そして今に至る。
こんなにも疲れてしまったのは、取り調べのせいでもある。確かに事実関係の確認は大事なのだろうけれど、それにしたって長い。昼前に『七階』を出たのに、気づけばもう時刻は夕方になっていた。こんな薄曇りでは、空を見上げても時間なんて分かりっこないけれど。
「それにしても拝みたかったわ、生の遺体」
「珍しくもないでしょ、今時」
「そうじゃないわよ」
情緒の欠落。
多分、そういうことではないんだろうと思う。もしこんな話を私が縁さんから聞いたら、口を尖らせて同じことを言う。見たかったなあ、なんて。それは正しいことではないのだろうけれど、きっと思う。それは純粋な好奇心でしかない。モニタの向こうに映る、今はもういない動物たちの姿を見るのと同じことだ。
「すみません」
「いやだ、なんで謝るの」
「結局報告だって、縁さんに任せっぱなしでしたし」
「いいよ、そのくらい。それにさ、それも戻ってきてよかったじゃない」
左手に握りしめられたペットボトルは、縁さんが現場から拾ってきてくれて、今手元にある。現場に落としたせいで血まみれになってしまったけれど、縁さんがきれいに拭き取ってくれた。でも蓋を開けてそれを飲む気には、どうしてもなれない。
遺体は十七歳の少女のものだった。
データベースが存在している以上、そしてそれがネットワークに繋がっている以上、そこからデータを引き出すなんて造作もないことだ、と縁さんは言う。妙に正しい姿勢でいかついモニタに向かい合っていた縁さんが見て見て、と嬉しそうに声を上げたのは、諸々のごたごたを終えて数時間後のことだった。
モニタには気の強そうな女の子が映っている。顎の下まで伸びた明るいラベンダー色の髪、目は薄茶に見える。きっと、はきはきと物をしゃべるような子だったのだろう。明るそうで、他人の気持ちになんて頓着しなさそうな、どこにでもいるタイプの。
「
モニタの中の少女と目が合う。それは現実に見た彼女の眼球よりも、くっきりと生気を宿していた。まだこちらの方が真実味があると思う。もう二度と、彼女に会うことはできないと考えると、さっきの遺体への嫌悪感はいくぶん和らいだ。結局、彼女もモニタの中の今は絶滅した動物と同じになっている。
「でも、なんであんなところから落ちたんだろ」
「調べよっか?」
「高くつきそうだから、いい」
「
「労働対価は取られてますけども」
「それもそっか」
晩ごはん食べてくでしょ、と縁さんが立ち上がる。縁さんの言うごはん、は外から仕入れてきたらしいインスタントの麺類だったり片手で食べられるシリアルっぽいバーだったりする。普段なら丁重にお断りを申し上げて、自宅に帰って宅配される夕飯を取るのだけれど、今日はその申し出がありがたかった。栄養のバランスや見た目にこだわったあの食事を一人で食べる気にはなれない。確か今日の献立はハンバーグだった気がする。
血の味。
そういえば、そんなこと考えたこともなかった。さっきからずっと片手で握りしめたままのペットボトルに唇を寄せてみる。舌を這わせると、何とも言えない化学物質の味がした。
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