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「運動不足もはなはだしいな」



 石筍せきじゅんのように床から生える本の柱の間に、老爺ろうやのように背中を丸めて座る主はちらりともこちらを見ようとしない。それが分かっているなら、せめて茶の一杯くらいも出せばいいのに。

 けれどそれも期待するだけ無駄なことだ。私は上がった呼吸をなんとか整えて、最後に大きな深呼吸をひとつ。



「いい加減エレベーターにも電気通してくださいよ。余ってるでしょ」

「俺、使わねえもん」

「そりゃそうですけど、せめて私が来る日くらい」

「いい運動になるだろ」



 見渡す限り本の山、けれど本棚は一架ひとつもない。

 いつだったかここにある本をすべて読んだのかと聞いたら、そんな訳ないだろうと馬鹿にしたように鼻で笑われた。単純にコレクター気質なんだと思う。これらの本の柱すべてが間取りで、家具で、壁なのだ。決してそれらは理路整然と並べられているということはない。だから時として、この膨大な書籍の中から彼の望むそれを探してこい、などという理解不能なミッションが発生したりもする。その時にいい加減にひっくり返したり組み換えしたりするものだから、余計に訳が分からなくなる。



 二貝ふたがい行彦ゆきひこ。『七階』の主。私より十近くは年上だと聞いているけれど、見る限り年下だと言われても違和感はない。その尊大な態度でさえ、子供の虚勢に見えてしまうのだから笑ってしまう。いつから、そしてどういう経緯でここに住んでいるかも分からないし、誰も知らない。



「で、なに」

「原稿の受け取りです。いつも通りです。メモリも持ってきました」

「こないだもお前、来たばっかりじゃん」

「そうっすね。でもまた再来週も来ます」

「うんざりするな」

「奇遇ですね、私もです」



 四辻よつつじ千景ちひろ先生の書かれるお話は、それはそれは素敵なのだ。

 甘い花の香りがするようなお姫様の出てくるファンタジーだったり、カイシャと呼ばれる組織のなかで繰り広げられる人間関係を描いた時代小説だったり、ジャンルは実に多岐に渡るのだけれど、そのどれもがわくわくするし面白い。節操なし、と批判する人もいたそうだけれど。

 だからこそ、四辻先生にお会いできる機会があるならぜひ手に入れたいと思ったし、籍に空き枠があると言われて喜んで飛びついたのだ。あまり長続きする人はいないよと先輩に苦笑いされても、構うもんかと逆に勢いづいたりもした。私たちの世代にありがちな、何事にも興味が持てない若者にありがちな人間としては、ずいぶんな決断だったし行動だったのに。



 行彦さんが四辻先生でなければ、私だってこんな寄与、長く続けたりしなかった。日々の糧を得る義務なら、別にわざわざ大変な思いをする必要なんてなくて、今まで通りヤバそうな発言をするヤツのメールをチェックしたり、上層部への要望書の可否を振り分けることだけを続けていればよかった。それなのに、私ときたら。



「メモリ、貸して」

「助かります。あ、あとこれ、ゆかりさんからの例のブツです」

「もっと他に言い方ないのかよ」

「怪しい取引みたいでいいでしょう」



 渡したのは四角い紙。一辺に弱い糊が付いていて貼ったり剥がしたりして使えるらしい。ふせん、というらしい。データのコピーを始めたマシンを放っておいて、行彦さんは嬉しそうにブロック状になった紙片を眺めたり、ぺらぺらめくって遊んだりしている。そういうところは、まるで子供のようだ。



「お前またいつだかみたいに、帰る途中で勝手に原稿読むなよ」

「いいじゃないですか。少しくらい役得があっても」

「それでこの間怒られたんだろ。次やったら追放じゃないのか」

「まさか、心配してくれてるんですか」

「お前くらい素直なパシリもなかなかいないし、いないとそれはそれで困るんだよ」



 心配をしているんだろう、と受け取っておく。

 確かにデータを取りに来るついでに南西区のスラムにおつかいに行ってこい、なんて今時素直に受けてくれる人間なんていないだろう。行彦さんにとって私が担当から外れるということは、それはそれで結構なダメージになるんだ、と思ったら気分が良かった。



「ほら、できたぞ。お疲れ」

「マジで茶の一杯も出ないんですね」

「知るか。帰れ帰れ」



 手をひらひら振って私を追い払いながら、投げ渡してきたのはメモリと、どこから手に入れたのか懐かしのペットボトル。やる、と端的に言うから顔を上げて行彦さんを見ると、すでに背中を丸めてまたマシンと向かい合っている。文章を書いていないとき、行彦さんは大体彼のマシンに――彼の言葉を借りるなら――『溜め込んだ』ゲームをしている。下手をすると何か月も画面に映る映像が変わっていなかったりするから、よくも飽きないものだと感心してしまう。

 しかし、あれに供給される電力をほとんど持っていかれて、肝心のエレベーターが使えないというのもまた事実。見てないところで蹴飛ばしてやりたいくらい憎たらしいけど、行彦さんがあいつの前から離れることはまず、ない。

 さようなら、と声を掛けたところで『七階』の主は顔を上げるどころか返事をすることもない。ポップでレトロな音楽が流れるフロアを離れ、私はまたあの途方もない高さの階段に向かった。

 次に会うのは半月後。呼び出しがなければ、のただし付き。

 埃とカビのにおいから解き放たれ、非常階段の踊り場で大きく深呼吸をする。さっき受け取ったペットボトルは、私の髪の毛みたいな鮮やかなピンク色の液体で満たされていた。


 でも、だからって、私はここに来ることが嫌だとは思わない。

 かんかんかん、と鈍くも軽快な音を立てて階段を駆け下りていく。時折ぐらりと視界がゆがむような錯覚に、何度も体勢を整えながら。


 私が嫌いなのは、この階段だけなのだ。

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