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 その日は朝から一日曇りの予定だった。

 ケイタイの画面にはそう、表示されていた。傘またはレインガード等は不要です、と。


 子供の頃から、天気に曇りというものが果たして必要なのかどうか、それが疑問でいた。晴れや雨はシンプルで分かりやすい。雪や雷も、教えてもらったことはもうすっかり忘れてしまったけれど、それぞれに何らかの意味があるらしい。

 けれど、曇りだけは理解ができない。雨が降りそうな重たい色が空一面を覆いつくす、それだけだ。恵みも何もない。そしてこの疑問については、今でも納得のいく解答を得ていない。

 大体私はこのストロベリーピンクの髪色を気に入っているのだ。湿度が高くなると、水分を吸って微妙に色のニュアンスが、本来のそれとは異なってしまう。それでも雨の日なら、派手な色合いの傘を使って多少気分を上げることはできるんだけれど。

 だから、雨はまだいい。空気の中に重く含まれた水滴が地面に叩きつけられる光景は、いっそ清々しい。でも曇りの日は、空気中の湿気がまとわりついて私の身体まで重くなってしまったような気がする。それが気に入らない。


『――れでは、今日はここまで。お相手は、深草 ふかくさひみかでした。来週も――』


 ふつり、と電波が途切れる。ケイタイの画面いっぱいに紫色のネコが跳ね回り、中央には『ローディング』の文字。呼吸を整えるために大きく息を吐いて見上げると、くすんだグレーの巨大な建物が、目の前に威圧的な態度で立ちはだかっていた。

 どうにもここは電波が悪い。それでも特に問題はないと行彦ゆきひこさんは言うが、ムービーはおろか音楽すらまともに再生してくれないんだから、私にとっては不自由だらけだ。

 とはいえ、ここまで来たらそろそろ電源は落とさなければいけない。このビルに入るには、電波を受信する機器は全部電源を切るのがルールだ。どうせバレないだろうとは思うけれど、あとで見つかって説教されるのも面倒臭いし、怒られるくらいなら素直に従った方がいい。音を無くし、しんと冷たくなったケイタイをジャージのポケットに突っ込んで、ガラスが割れて既に枠だけになってしまったドアを押し開くと、ぎぎい、と重苦しい音がする。散らばったガラスやコンクリートの破片を踏みながら進むと、薄暗がりの中にひとつ、ぽっかりと開いた灯りが見えてくる。



 そこは通称、『七階』と呼ばれている。

 いつからそうだったかは知らない。二貝ふたがい行彦という作家を知り、押し掛けるようになった時からずっとそう呼ばれている。

 行彦さんのことは、寄与きよの報酬として毎月送られてくるネットワークマガジンに掲載されていた短い小説で知った。

 四辻よつつじ千景ちひろという筆名を持つその人に会うため、所属していた寄与先をネットワークマガジンの運営元に変更した。幸いこんな世の中、月イチで送られてくる娯楽情報になんて興味を持つ人はそう多くはない。所属したいなら在籍枠なら余っていると言われて、喜んで飛びついた。

 ネットワークから遮断された場所に住んでいる。連絡は月に二回、先方からのみ。それでは困ると言えば、なら原稿は取りに来ればいいと言われて担当者もほとほと困り果てていたのだそうだ。

 だから条件は、月最低二回は先生のもとへ赴くことと、音を上げないこと。私にとっては願ってもない内容で、ふたつ返事で了解したのだ。



 その時からそこは、『七階』と呼ばれている。

 剥がれた壁、剥き出しになった、今はもうほとんど見ることもない鉄骨の枠組み。ビルの一部にしか通電していないため、ドアの真正面に据えられたエレベーターは当然稼働していない。

 そもそもこれだけの大きさのビルなのだから、他の階に不法に居座る人間がいたって不思議ではないのに、地上八階のフロアのどこにも、ただ一人の住人を除いていきものの気配はない。

 そのいきものが棲むのが『七階』――四辻千景こと、二貝行彦の居城となるエリアである。

 そこへ至る手段はただ一つ。エレベーターの隣、既に形を保っていない鉄の扉の先にある古びた非常階段のみ。電気の通っていないこのフロアの暗がりの中で、階段へ至るその入り口は妙に明るく、逆に飲み込まれそうにさえ見える。

 さてここからはひと運動だ。私は覚悟を決めて、大きく深呼吸をした。

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