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 カプセルに入った俺は、スカイダイビングのような形で現世へ戻された。というか、落とされた。

 そうだ、例えるならば、「チャーリーとチョコレート工場」の空飛ぶエレベーターのような感覚に似ている。寝かされたままの俺は、透明なカプセルの急な動きのせいで体を何度もぶつけた。カプセルは、まるで俺の行く場所が分かっているかのように、迷わず最初の女の居場所に向かった。

 最初に訪れたのは、俺が小学生の頃に傷つけた人、マイの家だ。正直、あまり好きではないのだが、一応謝っておこう。

 俺は、カプセル以外の物体には触れられないらしく、ドアを開けることなく、家の中へ入ることができた。マイの部屋に行くと、酒の臭いでいっぱいだった。マイは俺と同級生だから、未成年のはずなのだが……。

 マイは、ベッドの上で何かもぞもぞと動いていた。

「マイ」

 俺の呼びかけに驚いたマイは、叫ぶことよりも何かを隠すことを優先した。部屋に電気は灯っていないのだから、見えるはずがないのに。

「だ、誰」

「リヒトだけど」

 ああ、また罵倒するのだろうか。

「え、誰?」

「だから、リヒトだって。永田リヒト。小学校一緒だっただろ」

 マイは、本気で分かっていなかった。罵倒する以前に、俺の存在自体を、忘れていた。好かれるのは嫌だったけど、忘れ去られるのも嫌だな。

「え、まじ知らないんだけど。え、きもい。出てってください」

「待って、その前に言いたいことが」

 その瞬間、部屋に電気が灯り、誰かがマイの部屋に入ってきた。

「マイ!誰かいるの?それとも、また薬でもやってるの!?」

 マイの母親だった。少し見ない間に、ずいぶん老けたような気がする。いや、それ以前に、こいつ薬やってんのか?

「え、いや、まだやってないけど……」

「まだってことは、やろうとしてたのね!出しなさい!早く!」

 二人の攻防は終わりそうにないので、俺は立ち去ろうとした。

「お前は忘れているだろうけど、小学生の時、お前を傷つけてごめん」

 俺の謝罪が彼女の脳に行き届いたかは、全く分からない。


 俺がまたカプセルに乗って連れてこられたのは、アイリの家だった。

「傷つけて、ごめん」

 部屋に入ってすぐ頭を下げたが、アイリはきょとんとした顔でこちらを見ていた。

「え、何急に。リヒト死んだんじゃなかったの?」

「まあ、そうなんだけど、謝りに来た」

 アイリは、大きくなったお腹を手で支えながら、大爆笑した。

「わざわざ謝りに来たの?リヒトに謝られることなんかあった?」

 存在を覚えられていても、二人の思い出は覚えていないようだ。言いようのない空しさが、体に沁みる。

「いや、忘れているなら、良いんだけど」

 アイリはやはり、奔放な女だ。

「じゃ、またね。これから病院行くから」

 俺の決死の謝罪は、彼女の大きなお腹に跳ね返されたようだ。


 次に向かったのは、俺の高校の友達の家だった。まさか、ここに、いるのか。二階へ上がったおれは、俺の友達とお戯れになっているヒナタの姿を見た。

 俺の死を乗り越えたのは良かったが、何か拍子抜けしてしまった。俺にあんなに嫉妬して、愛してくれたヒナタが、今は、他の男と一緒になっている。ヒナタにとって俺は、何だったんだ?死んだら簡単に忘れられる、そんな存在だったのか?

「酷いことをして、ごめん、ヒナタ」

 友達のドア越しに謝ったが、その声が彼女の頭を満たすことは二度と無いだろう。


 カプセルの中で遊覧飛行している間、ある疑惑が頭を過ぎった。

 死後の幸せを投げうってまで彼女たちに謝罪することに、価値などあるのだろうか。いや、無いだろう。こんなことになるのなら、やり直すことなんかしなければよかった。

 そんな俺の心を読んだかのように、カプセルの進行スピードは当初と比べて随分と遅くなっていた。残り時間は、一時間。余裕であの世に戻れる。

 最後にたどり着いたのは、拘置所の死刑房だった。サヤは、俺を殺した罪で、死刑となったらしい。

「サヤ……」

 個室で眠る、彼女の姿が見えた。彼女まで俺のことを忘れていたら、どうしよう。そうしたら、俺は死にたくなってしまう(もう死んでいるのだが)。

「ん、誰?」

 相変わらず天然パーマの髪をぼさぼさにしたまま、体を起こした彼女の瞳に俺の姿が映る。茫洋とした瞳が、徐々に光を取り戻していく。

「リヒト、なんで、ここに」

 心底驚いている彼女の反応を見て、俺は喜びが湧き上がるのを感じた。他人から見た俺たちは、殺人者と被害者という何とも気まずい関係だが、本当は、幼馴染という微笑ましい関係なのだ。

「サヤに、謝りに来た」

 彼女の目に、光るものが浮かぶ。初めて見る、涙だった。個室の淡い光に照らされて、滑らかな蒼白い頬を伝っていくそれは、他のどんなものよりも美しく、儚く、そして何よりも破壊的だった。

「それは嬉しいけど、でも、何で今更……?」

「サヤに殺された後、俺は、恐らくあの世へ行ったんだ。そこには、審判待ちの人が大勢いて、俺はその中の数人と生前の話をした」

 彼女が相槌を打った後、その目から雫が零れた。

「俺が聞いた人は皆、何とも形容しがたい生前を持っていて、それを聞く度に、俺は自分の過ちに気づいていった」

「その、他の人の生前っていうのは、どんな話なの?」

 彼女の顔に、久しく見ていなかった笑顔が現れた。

 俺は、彼女に全てを話した。探求心が強すぎたオカダ、他人を思いやりすぎたカズキ、憎しみを振り切れなかったイズミの話。彼女は、真剣に俺の話を聞いていた。

「へえ、確かに、何とも形容しがたいね。でも、どの話もちょっと可笑しいけど、人生を懸命に生きたんだなあって感じる」

 彼女は、天然パーマの髪をいじり始めた。

「だよな」

 いつの間にか、残り時間があと三十分に迫っていた。

「……私は、もうすぐ死ぬの。リヒトを殺したから。こんな人生、懸命に生きたって言えるのかな」

 彼女の顔が、深い海の底のように沈んだ。

「俺は、サヤに殺されるのは本望だったよ。あの状況で死ぬなら、サヤに殺されたいって思ってた」

「冗談でしょ」

「いや、冗談じゃない。それに、サヤは、充分懸命に生きたよ。幼馴染の俺が言っているんだから、信じろよ」

 「信じる」その言葉を聞いた瞬間、彼女の体が固まった。

「私、信じないって言ったでしょ」

 そうだ、俺が彼女を利用したから。

「ごめん。本当に、ごめん。信じなくていい、でも、この謝罪は本物だから」

 個室のひんやりとした空気が、俺の肌に纏わりつく。もう死んでいるのに。

「……」

「俺、無理言ってこっちに来たんだ。今まで傷つけてきた人たちに謝るために」

「ヒナタさんの所には行ってきたの?」

 小さな声だった。

「ああ。でも、他の男とお楽しみ中だったよ」

「何それ。散々リヒトのことで怒っていたのに」

「だろう!拍子抜けした」

 二人の間に、笑みが零れた。

 残り時間は、あと二十分。もっと、時間が欲しいと思った。

「そういえば、無理してこっちに来たって言ったけど、戻らなくていいの?」

 戻らなくて良い訳がない。

「このままでいいんだ。どうせ、もうない命何だから」

「嘘つかないでよ。戻らなくちゃダメなんでしょ」

 やはり、サヤは何でもお見通しだった。

「でも、俺は戻りたくない。サヤと一緒に、こうして話していたい」

 彼女の顔は、喜んでいるような困っているような、複雑な表情になった。

「ここがどこか、分かってるの?あまり長くはいられないんだよ」

「それでもいい」

「リヒトは、戻るべきだよ」

「やだ」

「戻るの!」

 個室中に響き渡る、大きな声だった。部屋は防音らしいから、恐らく他の死刑囚は起きないだろう。

「やだよ。例え短くても、俺は、サヤといたいんだ。それで消えるなら、最低男の俺らしいじゃないか」

 俺の頬に、熱いものが伝う。

「よく聞いて。リヒトは、やり直す機会を与えてもらったの。リヒトは、信頼されて、機械を与えてもらったの。自分を信頼してくれた人を、そんな簡単に裏切っていいの?自分を愛してくれた人を、そんな簡単に傷つけていいの?」

 涙声でそう言う彼女の言葉が、俺たちを指しているのだとわかった。

「いいえ、そんなの絶対にやってはいけない。リヒトは、あの世で他の人の死因を聞いて、自らの間違いに気づいたから、私たちに謝りに来たんでしょう?二度と過ちを繰り返さないように、危険を冒してまで、私たちの元に来てくれたんでしょう?」

 俺の目から、止めどなく涙が溢れてくる。

「そうだけど……」

 彼女が、俺の肩を掴んだ。小さいくせに、力の強い手だった。誰も俺に触れられないはずなのに。

「だからこそ、リヒトは戻るべきだよ。私なら、大丈夫。もうすぐ死ぬし、いつかきっと、あの世で会える」

 残り時間は、あと十分。

「でも、俺は、天国にも地獄にも行けない」

「それは、リヒトが選んだ道でしょ。今更、変えてもらうこともできない。選択した道に後悔しても、簡単に諦めてはだめ。例えきつい道だとしても、自分を信じて突き進まなければならないの」

 一瞬の静寂。

「……私は、それができなかった。できなかったから、リヒトを殺してしまった。殺した私が言うのも変だけど、リヒトだけには、死んでからも失敗して欲しくない」

 残り時間は、あと五分。

「サヤ……」

「いいんだよ、リヒトは、許された。今度は、自分を許してあげて。自分を、解放してあげて」

 涙が零れて、上手く声が出せない。

「こん、な俺でも、いい、の?」

 彼女の顔が、水面に移る光に変わる。

「当り前よ、そんなリヒトを含めて、私はずっと好きだったんだから。それに、一番に信頼しているんだから」

 「信頼している」進行形になったその言葉が、何よりも、嬉しかった。ああ、俺は、漸く贖罪できた。ここまで来て、本当に良かった。

 残り時間は、あと二分。

「サヤは、本当に、俺のことをよく知ってるんだな」

「何年幼馴染やってると思ってんの」

「寂しいよ、サヤ」

「私も。でも、リヒトは帰るの」

「うん、帰るよ。帰って、もう死んでるけど、懸命にもがくよ」

 彼女の顔に、笑みが浮かぶ。

 俺の顔にも、笑みが浮かぶ。

「よし、私の大好きなリヒトの笑顔だ!」

「今まで、傷つけてごめん。それに、ありがとう」

 残り時間は、あと一分。

「許すよ。こちらこそ、謝りに来てくれてありがとう」

 あと五十秒。

「……じゃあ、俺、もう行くわ」

「そう。ばいばい、リヒト。また、あっちで会おうね」

 あと四十秒。

「俺さ、一つだけ、言い忘れてたことがあるんだけど」

「何?」

 あと三十秒。

「俺の初恋、サヤだから」

 その一言に、彼女の顔が真っ赤に染まった。

「それ、今言う?」

 照れ隠しに俺の肩を突き飛ばそうとした彼女の腕が、俺の体を通り抜けた。

 あと十秒。

「本当に、死んじゃったんだね」

「うん」

 あと九秒。

「ねえ、最期に、キスしてくれないかな」

 八秒。

「いいよ」

 七秒。



           *



 俺の体は、急速に上昇していた。

 透明なカプセルから見える外の景色は、みるみるうちに通り過ぎてゆき、もう拘置所なんてどこにあるか分からない。もちろん、俺の生きた証などどこにも無い。

 俺は、現世で過ごした、本当の最期のことを考えていた。

 サヤとの一時間は、とても濃密なものだった。俺を忘れていたマイや、無かったものにしたアイリ、そして対して想ってくれていなかったヒナタとは比べ物にもならないくらいに。

 そして、別れる間際にサヤと交わした口付けは、触れたかどうかも分からないものだったが、今まで生きてきた中で、最高の時間だったことは確かだ。

 恐らく、残り時間は、あと二秒か三秒だろう。あの世の入り口は見えている。ここで間に合わなければ、背中を押してくれた神やサヤに申し訳ない。

 どうか、間に合いますように。

 次の瞬間、俺とカプセルの姿は一瞬で消えた。

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