死因3「folly」
私の名前は、イズミ。山内イズミ。
私には、後悔していることがあるの。それは、見てはいけないものを見たことと、二度と許されない、大変な過ちを犯したこと。当時まだ若かった私は、小さな憎しみが、こんなにも大きな惨事を招くとは、微塵も思っていなかった。
私もカズキと同じように、田舎で育った。地方の、山の中の小さな村。老人がたくさんいるくせに、子供は少なくて、過疎化と少子高齢化に悩まされた場所だった。
そんな場所でも、私は幸せに暮らしていた。閉鎖的だから、悪い影響を及ぼす場所も無ければ、都会の闇に染まることも無かった。私は、活発な女の子で、よく近くの大きな公園で走り回っていた。
でも、幸福に満ちた私の人生に、巨大な嵐がやって来た。
それは小学校四年の時のこと。
両親が、離婚した。
あなたはどう思うか知らないけれど、私は、充分すぎるほどの打撃を受けた。何の前触れもなく、目の前に現れた巨大な嵐は、純真だった私の心に暗い影を差して、知らんぷりで去っていった。私の心をずたずたに切り裂いて、搔き乱して、修復する間もなく殺した。
その日から狂い始めた母に比例して、私はどんどん、悪い色に染まっていった。
最初の愚行は、東京に行ったこと。そんなの普通だろ、と思うかもしれないけれど、あの村の中の小学生で東京に進出したのは、私が初めてだった。初めての渋谷、新宿、原宿……。特に地名も知らぬまま、お小遣いの許す限り、私は電車に乗っては降りて、を繰り返した。
田舎の女の子が誰でも羨むのは、きらきら輝いた都会の町、東京。そこには、村で手に入らないよう雑貨やら、化粧品やら、何でも揃っている。その街に行くだけで、私まで輝いているような気がした。デズニー何とかっていうテーマパークなんかよりも、東京の方が夢で溢れていた。
結局、その日は警察に補導されて、強制的に村に帰されてしまった。短い時間でも、東京は、私にかつての純真な心を思い出させてくれた。例えそれが一時的であったとしても、久しぶりに満たされた心は、幸福でいっぱいだった。
しかし、現実はそうはいかない。あの家には、あの狂った女が待ち構えている。勝手にお金を盗って、東京へ行って夜遅くまで遊んでいた親不孝者を、あの女が許すはずがない。
「……ただいま」
もう寝ていますように、と祈りながら、抜き足差し足で自室へと向かった。私の家は、入ってすぐ左側にリビングがあり、その一つ向こうの部屋に、母の寝室がある。私の部屋は二階にあるので階段(普通の階段の方)を使わなければならないのだが、その階段は、母の寝室の目の前に在るのだ。
少しでも何か音を立てれば、母は目を覚ますかもしれない。離婚してから働き詰めで、眠りが浅くなりがちな母は、以前、ネズミの足音だけで飛び起きたことがあった。
今夜だけは、母に見つかったらいけないと思った。私の愚行を知ったら、また癇癪を起すかもしれない。裸足では足音が鳴ってしまうと考えた私は、ズボンの裾を最大まで伸ばして爪先に掛け、階段を昇り始めた。手も活用して、四つん這いで昇った。もしこの時、あなたが私を見ていたら、変な娘だと思うだろうけど、あの時の私は必死だった。頑張れ、頑張れ、と自分を奮い立たせ、ついに、二階まであと二、三段の所まで来た。最後の最後で失敗しないように、より慎重に手足を動かした。とうとうあと一段になり、心から安堵が漏れ出てきた。
その時だった。
油断した私の足が、階段の先から滑り落ちそうになった。咄嗟に体制を整え、寸でのところで堪えることができた。ドクドクドクと鼓動が速く強くなっていた。落ち着かせようと深呼吸して、そしてもう一度、足を踏み出した。
と、その時。
ギィッという忌々しい音が鳴った。
恐る恐る、階段の下の母の寝室を振り返る。
そこには、鬼が立っていた。
私は、あの夜のことを、正直言ってよく覚えていない。階段を慎重に昇っていた記憶は鮮明なのに、それを母に見られた後の記憶が曖昧なのだ。いつの間にか、私は自分のベッドで朝を迎えていて、まるで東京に出たこと自体が夢だったかのような心地さえした。
でも、頭の横の痛みと、手足の痛みが、あの夜に何が起こったのかを物語っていた。それでも、救いようのないほど狂った母のことを、私はまだ、完全に嫌いになれなかった。
子供というのは、自由で気楽そうに見えて、実はそうで無いことの方が多い。知らぬ間に己の体に巻き付いた、見えない“親”という鎖を千切れずに、ただがむしゃらに悶えることしかできないのだ。例えきつくて苦しい鎖でも、私たちは自然と、千切れてしまわぬように、我慢をする。千切れてしまったら、これまで“自分”だったものが、“自分”では無い何かに変わってしまうからだ。
私たちは、一人だけで生きてはいけない。誰かを、特に親を頼りにしなければ、生きることを許されない。時に鎖は、私たちの命綱になる。そのことを知っているからこそ、私は、母を嫌えず、離れられないのだと思う。
二度目の愚行は、高校生の時、彼氏の家に泊ったこと。ちょうど、母が東京へ出張すると話していた時で、私はチャンスだと思った。でも母は泊まることなくその日のうちに帰ってきてしまい、私の計画はあっけなく崩れ去り、代わりに得たものと言えば、彼氏の愛でなく、鬼の拳だった。
この一件があってから、母は、私に外出をさせなくなった。最近できたコンビニにも、駅の近くのスーパーにも、幼いころ遊んだ公園にも、どこにも行かせてくれない。
一度、強く反抗したこともあったが、鬼は、「馬鹿なお前が悪い」と言って、全く聞き入れてくれなかった。
唯一の楽しみと言えば、彼氏とのメールだった。電話は声が聞こえてしまうのであまりやらず、文面だけのやり取りが続いた。彼氏は優しくて、私の愚痴も聞いてくれて、本当に頼りになる人だった。この人となら、駆け落ちしてもいいとさえ思えた人だった。
でも、私の細やかな幸せは、やはり長くは続かなかった。親が離婚した時と同じような、不穏な風を纏った嵐が、やって来たのである。
今度の嵐で、奪われたものは、私の彼氏だった。
母が職場から帰る時、建物と建物の僅かな間で、私の彼氏と他の女の情事を見たらしい。最初は受け入れず、母の策略か何かだと思っていたが、その日のメールで、真実は明らかになった。
「もう疲れた。別れよう、イズミ」
たったそれだけの簡素な文が、私の心を串刺しにした。
私の心に、大きな穴が開いた。父親との別れで深い傷を負い、ひたすら回復せんと踏ん張ってきて、やっと幸せを掴んだのに、またしても傷を付けられた。
一体、誰が私を幸せにしてくれるの。いつ、私は幸せになれるの。
そうだ、母に縋ればいいんだ。母なら、私を幸せにしてくれる。それまで柵としか考えていなかった鎖が、その時だけ、優しく包む柔らかな腕のように感じた。
「ねえ、お母さんいる?」
久しぶりに自室から出て、母の寝室を覗く。
「いないの?」
寝室には、クイーンベッドと机と椅子があった。あとは、散らかった服と、何かの書類。
思わず手を伸ばして書類を読んだことに、私は最初の後悔をした。でも、おかげで、私は母を嫌いになることができた。
その書類は、私と母に血のつながりが無いことを、簡素に述べたものだった。
そして私は、最後の愚行を決意した。
胸の内に巣食った憎しみを抱えながら、私はある会社を目指した。
「……本当ですか!宜しいのですね、作っても」
「はい、村の総意ですから。工事はいつからできます?」
「もういつでもできますよ。いや、実はね、困っていたのですよ。国からの圧力と、住民の反発で板挟みになっていて……。あなたは、村長の秘書だということで、住民の皆さんの説得に感謝します。本当に、ありがとうございます」
「いいえ、気になさらず。では、明日から、よろしくお願いします」
私の作戦は、成功しつつあった。もちろん、私が村長の秘書であることは、嘘に決まっている。
あとは、母に手紙を書くだけ。
「お母さんへ
このまま養ってもらうのも申し訳ないので、私は独り立ちします。また戻ってきますから、探さないでください。
それと、村の皆に置き土産を残しておきました。村が発展するために必要な、会社を立ててくれるそうです。
お礼はいりません。
イズミより」
我ながら、完璧な作戦だった。作戦の全貌は、この通り。
当初、私の村には、ダムを建設するという噂があった。もちろん住民たちは反対していたが、私は賛成していた。なぜかというと、あの村も、村に住む人たちも、母も彼氏も、皆嫌いだったから。皆、死んでしまえばいいと思ったから。
皆には、ダムは作られないと嘘をついて、建設会社には、作っていいと嘘をつく。そうすれば、お互い何の懸念も無いまま、私の計画は全うされる。
私は、狼少年になった。いや、正確に言えば、狼少女か。
私はすぐに村を離れ、以前から決めていた東京の一人暮らしを始めた。この時、私は二十歳だった。
それから数か月が経ち、とうとう、村に水を流し込む日になった。私の心は、わくわくしていた。久しぶりの解放感だった。
ピリリリリリリ。
突如、カバンの中から携帯が鳴り響いた。電話の相手は、母だった。一瞬嫌な汗が出たが、私はすぐに、電話を切った。それと同時に、今度は元恋人から着信が来たが、私は躊躇することなく電話を切った。こんな奴ら、もうどうだっていい。どうせ他人なのだから、私が一緒にいる義理はないのだ。
私が、言いようのない解放感を感じた日から数日後、テレビを見て和んでいた私に、ニュース速報が飛び込んできた。
「○○県△△市××村で、住民が取り残されたまま、ダムの水が流れ込むという事件が起きました」
それまで和んでいた私の体から、サッと血の気が引いた。
え?ニュースになっちゃうの?私の名前は出てこないよね。大丈夫だよね。
「警察によりますと、事件の数か月前、ダムを作るように、と建設会社に命じた女性がいたとのことです。女性の名前は、山内イズミさん。二十歳です。警察は、計画的な殺人の容疑で、山内イズミさんを」
ぶつり、とテレビの電源を切った。私は、家を飛び出した。名前も顔も流れてしまい、捕まるのは時間の問題だと思った。
だから私は、整形しようと思った。大きな病院では危険だと思い、知り合いに紹介してもらった、小さな整形外科に行った。
結果、手術は失敗に終わった。不衛生なところで、後処理も適当だったため、菌が入り込み、顔がぱんぱんに腫れ、元の顔とかけ離れた顔になってしまった。身元がバレないのだから、それでいいじゃないか、とその時こそ自分に言い聞かせたけど、毎日鏡を見るたびに、私は死にたい思いでいっぱいだった。
それまでとは打って変わった顔に、職場ではいじめられ、近所の人にも蔑まれ、東京にいられなくなってしまった私は、故郷とは別の、地方に逃げた。そこの小さなスーパーでどうにか働かせてもらえることになり、名前も「山内イズミ」から「浦野イズミ」に変えて、新しい自分に生まれ変わった。
ある日の夕方、朝から降っていた雨が勢力増し、住み始めた山間の土地を水攻めにしていた。同日の夜中、町に警報が鳴り響いた。そんなことは露知らず、私は熟睡し、夢を見ていた。
夢は、私の「幸せ」が詰まっていた。
両親と行った、大きな公園。母と行った、旅行の数々。元恋人との細やかなデート。
全て、私の心を、「幸せ」にしてくれたもの。
場面は早々と移り変わり、いつの間にか私は、あの村の皆と手を繋ぎ、笑っていた。それこそ、心からの「幸せ」な笑顔。
ふと、体の周りに何かがあるような気がした。冷たくて、痛くて、何か懐かしいもの。何だろう。首をゆっくり動かして、横を見てみると、骸骨の、ぽっかりと開いた穴と目が合った。底無しの、どこまでも続く闇の中を、目を離すことも叫ぶことも出来ぬまま、私はただ見つめていた。
誰かに似ているような気がしたのだ。母か?元恋人か?それとも、あの村の誰かなのか?いや、私かもしれない。
急に、背中に悪寒が走った。
私は、狭い部屋に敷いた布団の上で目を覚ました。しかし、布団の中に温もりはなく、体は刺すような冷たい水に包まれていた。無性になつかしく感じた。これは、私があの村の皆にプレゼントした、ダムの水ではないか?
皆、喜んでいるよね。皆を騙して村ごとダムの下に沈めた私が、こんなド田舎の山奥で水死するんだから。
立とうとしても、体は動かない。まるで、誰かに押さえつけられているようだ。早く立たないと、家の中にどんどん流れ込む泥水が、もうすぐ顔にたどり着く。
「お願い、もう止まってください。謝りますから。本当に、皆には申し訳ないと思っていますから!」
必死の叫び声も、轟々と鳴る水温にかき消され、聞き届けた人は一人もいなかった。
泥水はついに顔の上に達し、体もすっぽりと水に包まれた。それだというのに、体は未だ動かない。
人間の体って、水に浮くはずだよね?どうして、浮かばないの。つらい。くるしい。空気が欲しい!
誰か、助けて。誰でもいい、血のつながっていない母でもいい!私を裏切った元恋人でもいいから!お願い!!!
ドドドドドドドドドドドドド……。
今まで聞いたことのない、何かが終わる音がした。泥水に続き、今度は、家の後ろにある山の土砂が、私の家をも攫おうとしていた。
崩れ落ちる木材が、私の頬にぶつかった。抉れる肉の感覚と共に、あの頃の、鬼の拳の感覚がした。
そして気が付いたら、私は階段の上に立っていた。
頬の肉は削げたまま、ぶらぶらと空を舞っている。
流れ続ける濁流を見つめながら、私は、大きな後悔に苛まれていた。
階段の下の方を見てみると、大規模な土砂災害が起きていた。私を死に追いやったのが、故郷の人たちなのか、偶然なのか、それは今でも分からない。
*
「これが、私の死因。そして、これが、その時削れた頬の肉」
彼女の壮絶な人生の話とピンクの肉が、俺を蹴り飛ばす。聞かなければよかった、とまでは言わないけれど、やはり軽々しく聞くものでは無かった。
「どうして、ずっと顔を隠していたのか、不思議だったでしょ?」
彼女は、強い人だ。
「はい」
「正直ね。あれはね、生前の整形の失敗と、水でふやけてぶくぶくになった顔を見てほしくなかったからなの。
……ごめんね、こんな気持ち悪い話」
彼女の体が、消え始めた。
「いいや、イズミの顔、綺麗だと思います」
彼女の青膨れした口元が、にっと上がる。
「お世辞なんて、いらないよ」
いつの間にか、彼女の体は完全になくなり、後は首から上のみだった。もう時間がない。何か、励ますような言葉を言ってあげたい。なのに、良い言葉が見つからない。
「最後に、お願いしてもいい?」
また、気を使わせてしまった。
「はい!何でも」
「『頑張ったね、イズミ』って言っ……」
そこで、イズミは完全に消えた。
俺は、最期の彼女の望みにさえ、応えることができなかった。
誰もいなくなった広い空間の上で、俺は、ここで聞いた三人の死因について考えていた。何もわからず、自分が死んだことさえも忘れていた時、出会った三人。
人間という生物を恐れるあまり、己をも恐れ、自ら実験台になったオカダ。さらに、いじめられっ子を助けようと奮起していた間に出会った哀れな老人を助けるために、自ら犠牲になったカズキ。そして、憎しみに駆られて犯してしまった過ちに、後悔を感じつつ、水害によって死んだイズミ。
それぞれが、それぞれの人生を歩んでいた。
幸せとは言えなくても、彼らなりに、誠心誠意生きようとしていた。探求心を極め、他人を尊重し、罪を忘れなかった。
かつての俺は、彼らのように生きていただろうか。いや、生きてはいなかった。沸き起こる探求心を抑え、他人よりも自分を最優先し、罪を忘れ去ろうとしていた。
こんな俺が審判の間へ行っても、地獄行に間違いは無いだろう。連れていくなら、さっさと連れていけばいい。地獄で、何もかも忘れて、ただただ惰性で生きてやる。
体が、消え始めていた。
体が消え始めてから数分、俺の体は、審判の間へ連れてこられた。転送されている間、特に何も感じなかった。ああ、消えたなあ、と思っていたら、あっという間に周囲の景色が変わっていた。遥か遠くに見えた空は、今はほとんど見えなくなり、代わりに見えるものは、恐らく死人の“これから”を判断する、巨体の神様。ギリシャ神話の神のような服装に、黒色の髪と瞳、そして立派な髭。いや、髭似合いすぎだろ。
「お前は、生きている間に何をした」
腹の奥から響くような、おどろおどろしい声。
正直になれ、俺。
「俺は、人を傷つけました」
「ほう、素直でよろしい。では、何をして人を傷つけたのだ」
言うのか、俺。言えるのか。
「それは……」
神の片眉が、くいっと上がった。
「何だ。言えぬのか」
「……正直に言いますと、俺は、いつ、人を傷つけてしまったのか、分からないんです。傷つけたことは確かなんですけど、いつ、どのポイントで傷つけたのかまでは、分からないんです。ですから、何をして人を傷つけたのか、という問いに答えることはできません」
こんなの、屁理屈だと笑われてしまう。でも、今の俺には、こんなことしか言えない。
「そうか。ならば、お前の生前を教えてくれぬか」
神は、笑うことなどしなかった。むしろ、初めて会った時よりも、少し優しい雰囲気がするような気がする。
「わかりました。あなた様に、教えます。僕が傷つけた人たちのことと、“あの日”、僕が死んだ日を」
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