死因1「emotion」
まずは、僕の自己紹介から始めましょうか。僕の名前は、オカダです。生前は、とある大学で教授をしていました。歳は、四十二です。前もって、言っておきますが、聞きたくない部分があったら、耳をふさいでくださいね。
僕は昔から、人間が嫌いでした。僕にとって人間とは、何にも代えがたい恐ろしい生物なのです。動物は、本能で人間を傷つけることはあっても、「あいつを懲らしめてやろう」などと画策はしません。それに比べて、人間というのは、表面に完璧な理性を湛えて、「私は安全ですよ」と語っていますが、実際は、ドロドロの黒い感情を胸の奥に秘めているだけなのです。
つまりは、僕はただ、その人間の奥に眠る本当の感情、というものが怖いのです。どんなに頭を振り絞ってみても、到底理解し得ない生物なのです。何を考えているのか分からないし、あなた達の頭の中に、今どのように刺激が来て、どのように感情が芽生えたのかも、一切わからない。不思議だ。不思議でならない。
……まあ、論点を戻しますと、その性格のせいで、僕は死んだのです。あ、直接的な死因はまた後で話しますので。
順を追って説明しますと、まず、僕は、何でも知りたがる性格でした。どうして空は青いのか、どうして犬は吠えるのか、どうして生物は何かを食べなくてはならないのか、など。気になりだしたら、それ以外のことに集中できなくなる質でした。今思えば、そんな僕だからこそ、研究職に就けたのだと思います。
ある日のことです。学校からの帰り道、車道で横たわる猫を見つけました。僕は当然、興味をもち、車が来ない時を見計らって、その猫に近づきました。近づいてみたら、その猫は死んでいたのです。どうして死んでいるのだろう、と思った僕は、猫を近くの茂みに持っていき、細かく観察し始めました。
虚ろな目、半開きの口、引き攣った顔、冷たい体。
もっとだ。もっと、知りたい。
その欲求を抑えることができなかった僕は、家に持ち帰って、猫の解剖を始めました。腹を開き、心臓や、瞑れた臓器を取り出しました。首を切り、目を刳り貫き、頭蓋骨を割り、脳を取り出し……。あの頃の僕は、夢中になって解剖をしました。それこそ何かに憑りつかれたように。
僕は、その解剖で、あることを思いつきました。
生物は、脳に支配されている。それはつまり、人間の意味不明な行動を、全て統治しているものは、脳である。それならば、脳を観察し、良く知ることができたのなら、自分の人間への恐怖は、無くなるのではないだろうか。
それからの僕は、脳の解剖をし始めました。自殺の名所になっている崖に赴き、瞑れた人間の脳を失敬したりして、僕は人間の解明を急ぎました。
そうやって過ごしているうちに、僕は法医学の道に進みました。ほぼ毎日たくさんの人間を捌きますし、脳も研究材料として使う口実になりますから。大学時代は、死体漁りで腕を磨いていたおかげで、実習はたいへん優秀な成績でした。
大学を卒業して、脳に関する論文を書き終えても、僕は人間の感情の原理が分からず、相変わらず恐怖していました。そもそも、死んでいる人に感情など無いのですから、どんなに脳を解剖しても、その感情まではわからないはずです。
当時教授だった恩師に相談したところ、僕の人間恐怖は理解してもらえなくても、感情の究明には興味を示してくれました。僕は、教授の用意してくれた研究室で、大学院生として研究に励みました。今度は、生きている人間を対象とした実験です。
痛みを与えた場合、喜びを与えた場合、屈辱を与えた場合……など、様々な条件の下、それに対してどのような刺激を受け、どのように判断し、信号を出し、その結果どのような感情になるのか、検討しました。他にも、拷問器具を使った時の恐怖の感情の芽生え方は面白くて、僕はどんどん、この研究にのめり込んでいきました。もちろん、あまりのショックで死んでしまった実験台もいましたが、そういう人たちに対して、僕は何の感情も持てませんでした。
その研究を始めてから、ちょうど十数年経った頃、僕は、大学の教授になっていました。その頃には、僕が「非人間的な実験をしている怖い人」だと、学生の間で噂が広がっていました。それでも僕は、何の感情も抱けませんでした。
その時ふと、僕の脳裏にある考えが過ぎりました。
人間は、実験材料としてみれば、一つも怖くない。よく見れば、ただ弱小なために、虚勢を張っているだけだということ。
そして、一番恐怖するべき相手は、「自分」であるということ。
猫を見つけ、解剖をし、そこから嵌り始めた脳の解剖。大学で、自分の知的欲求を満たすために、多くの人間を狂わせ、殺した。ただ感情が知りたいがために、人間への恐怖を消すために。
今までの出来事からわかることは、一番理解しがたい生物は、「自分」だったのだ。猫の解剖をしても、脳を解剖しても、人間を狂わせても、僕は何も感じなかった。感情が、湧いてこなかった。
少しも、可哀想などという感情を感じなかった。
なぜなのだろう。
なぜ、僕には感情が無いのだろう。
「そんなの、決まっているじゃないですか」
いつの間にか、研究室の入り口のところに、学生が一人、立っていた。
「誰ですか、君は」
学生は薄ら笑いを浮かべた。
「覚えていないんですか」
「僕の研究室の学生でもないのに、覚えているも何も、知っているわけが無いでしょう」
学生の笑みは、徐々に深くなっていった。
「オカダ教授。ぼくは、数年前にここの研究室にいたんですよ」
胸に、何か違和感がした。
「そんなことは無いはずです。僕は、君の顔に見覚えが無いのですから」
「……ったのに」
学生の笑顔が、いつの間にか消えていた。
「今、何と?」
胸の奥で、何かが疼いた気がした。
「教授がすぐに謝ってくれたら、見逃してあげたのに」
「僕が君に謝る?何故そんなことをしなくてはいけないのですか」
学生はもう、笑うことはしなかった。
「ぼくが研究室にいたとき、ある日教授は、ぼくに頼みごとをしたんです。隣の部屋に置いてある、硫酸を持ってきてくれって」
胸が、もぞもぞする。
「ぼくは素直に隣の部屋に行って、取ってきた硫酸を、教授に渡しました。でも、教授は、硫酸を受け取るや否や、ぼくの頭にそれをかけたんです」
胸の違和感の正体が、わかった気がした。
「ぼくの皮膚はみるみる溶け、髪もなくなり、骨が顔を出しました。教授は慣れた手つきで頭蓋骨に切れ込みを入れ、取り外し、そしてぼくの脳を露にしたんです。
……ここまで言えば、わかっていただけますよね」
学生の顔は、笑顔からも真顔からも程遠い、修羅のような顔になっていました。
「……僕が、君を実験台にして、死なせてしまったんですね」
「ご名答」
胸の違和感。
それは、僕に初めて生まれた、「罪の意識」という名の感情でした。
「そうか。やはり、最も恐れ、最も知るべきだったのは、『自分』という存在だったのですね」
学生の顔は、また薄ら笑いに戻っていた。
「教授、今から実験してみたらどうですか?」
「そうしましょう」
「ぼくがやりましょうか?」
「いいや、自分でやります」
「じゃあ、これ、メスです」
「はい」
「これ、穿頭器(せんとうき)です」
「はい」
「これ、ハサミです」
「はい」
じょきじょきじょきじょき。
ぷつんっ。
そして、気が付いたら、僕は空に伸びた階段の前に立っていました。
*
静寂が続いた。
「全く、人間ってものは、本当に怖い生物ですね。」
最初に口を開いたのは、オカダだった。
その後、曖昧な笑みを浮かべた俺たちが、適当に感想を言い始めた。
「最後の学生って、幽霊か何かですか?」
「……あの時はそう思っていましたが、今思うと、あれは恐らく僕の幻覚でしょう」
俺の問いに答えたオカダの体は、じわじわと消え始めていた。
「あ、審判の間へ行くのね」
「審判の間?」
「死んだ人の生前を聞いて、天国行か地獄行かを決める所よ。準備が整ったら、私たちは転送されるようになっているの」
オカダの体は、首以外すっかり消えていた。
「皆、ありがとう、僕の話を聞いてくれて。短い間だったけど、仲良くなれて嬉しかったです。また、どちらかで会いましょう。さようなら!」
そして、オカダは完全に消えた。
また、静寂が戻ってきた。
「じゃあ、次は……」
「おれが話す」
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