1ー7 ジェニーズ・ダイナー

 シュカの自宅アパートメントから三区画離れた通り。

 小さな飲食店がいくつか軒を連ねる中に、その店はある。

 旧時代的なプレハブ風の、カラフルな建物。均一化された閑静な住宅街には不似合いの派手なネオンの看板には、こう書かれていた。


『Jenny's Diner』


 ビビットな赤色の扉をくぐると、正面には白黒格子状にタイルの貼られたカウンターがある。

 その天板は目の覚めるような黄色。脚の長いスツールのつやつやした座面は、深い赤紫色だ。


 カウンターの向こうはキッチンスペースになっており、大柄な体躯の人物が一人、こちらに背を向けて立っていた。

 来客に気付いたその人が、ゆっくりと振り返る。


 鮮やかなエメラルドグリーンの髪をきっちりと七三に分け、両サイドを刈り上げた特徴的なヘアスタイル。

 太い眉、濃いまつ毛、立派な鼻柱に分厚い唇。両耳には大量のピアスがびっしりと並ぶ。

 筋骨隆々の上半身に纏うは、純白のタンクトップ一枚のみ。


 そんな彼は、イチの手を引いたシュカを見るなり、くしゃりと破顔した。


「あらぁ、シュカにイチ坊! いらっしゃぁい! 久しぶりねぇ!」


 厳つい風貌に似合わぬ、鼻にかかった猫撫で声。

 彼こそがこの店の店主、ジェニーである。


「久しぶりー。やっと来られたよ」

「ジェニーちゃん、こんばんはー!」

「こんばんはぁ。イチ坊、ちょっと見ないうちに大きくなったんじゃない? さ、好きな席に座ってちょうだい」


 カウンター席の他に、広めのテーブル席が四つ。ビンテージのパイプフレームソファは明るいオレンジだ。そのうちの一つに三人組の若者たちがいるだけである。


 シュカとイチは、いつも通りジェニーの目の前のカウンター席に腰を下ろした。すぐにお冷やが出される。


「今日は何にする? イチ坊はお子さまプレートで良かったかしら?」

「うん! おこさまプレート!」

「シュカは?」

「じゃあ私は……いつもので」

「はーい……ってアンタ毎回違うもの食べてるじゃないの! どれのことよ!」

「んー、今日はジェニーちゃんのおすすめで」

「もう、めんどくさい子ねッ! 今日はレタスが余ってるからBLTバーガーにするわよッ」


 ぷりぷりと背を向けて調理に取り掛かるジェニーに、シュカは声を上げて笑った。


 ジェニーはシュカにとって、数少ない気の置けぬ友人だ。

 高校時代に出会ったので、もう十八年もの付き合いになる。当時は別の名前で呼んでいたわけだが、今となっては同性の友人よりも気楽で心安い。


 明るくてご機嫌なこの店の雰囲気も好きだった。

 棚やレジ周りなど、店内の至るところに古めかしい形のスポーツカーやら飛行機やらのミニチュアが飾られている。

 壁や天井を埋め尽くすのは、手書きっぽいレタリング文字のポスターだ。

 カウンターの横にはジュークボックスと呼ばれる機械が設置されているが、壊れているため動かない。

 全体的に、ガラクタを詰め込んだおもちゃ箱のような、ごちゃごちゃした印象の店である。


「やっぱりこの店は落ち着くなぁ」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。最近どうも閑古鳥が鳴きがちだからね。物価もどんどん上がってるじゃない? みんな外食にお金かける余裕がなくなってきてるのよ。材料の仕入れもなかなかね」

「そっか、厳しいね」

「レアメタルの輸入もいよいよなくなるでしょ。代わりになる触媒の開発の話も昔はちょっとあったけど、最近あんまり聞かないわよね。動物の骨を利用するとかっていう」

「その辺の研究、停滞してるみたいだね。戦争の準備の話題ばっかりだよ」

「この上、戦争まで始まったら、とてもお店なんか開けていられなくなっちゃうかも」


 ジェニーは大きな溜め息をつくと、フライヤーに冷凍ポテトをどばどば放り込みながら、シュカに問うた。


「ところでアンタ、また最近忙しいの? お肌荒れてるわよ」

「まぁね。ここのところワームの数が増えててさ」

「あらヤダ。そっちはそっちで物騒ねぇ」


 出現区域がこの街に近づいているということは口にしない。


「だから保育園の送り迎えもカツカツで。ずっと忙しなくあちこち移動し続けてる感じ」

「ワーキングママの宿命ね」

「そうなんだよ……」


 今日の帰りがけにあった出来事を思い出す。胸の中に溜まったものを吐き出してしまいたくなる。それを、すんでのところでぐっと飲み込んだ。

 イチに目を向けると、彼はいつの間にか席を離れ、レジ台代わりのショーケースに鼻をくっ付けてそこに並んだミニカーを熱心に眺めている。彼は常に自由だ。


 軽やかで感傷的なメロディのバラードが、話の切れ目に流れ込んでくる。

 これは何というタイトルだったか。確か、四人の少年が一夏の冒険をする、古典映画の主題歌だ。


「飲み物は何にする?」


 肩越しに首だけで振り返ったジェニーに訊かれ、はっとする。


「生……と言いたいとこだけど、明日も仕事だし、ジンジャーエールで」

「はーい。イチ坊は? オレンジジュースかしら」


 イチはミニカーを見つめたまま、微動だにしない。


「おーい」


 肩を揺すると、やっと自分が話し掛けられていることに気付いたようだ。とは言え、意識はミニカーに向いたままである。


「……ジュースのむ」

「相変わらずねぇ。車、そんなに好きなら一個あげるわよ」

「……うん!」

「いやいや、駄目だって。おもちゃどんだけあると思ってんの。イチ、いつも片付けしないじゃん」

「んもぅ、ケチなママねぇ」

「うん、ケチ。ケチバカママ」

「何とでも言いな」


 イチが眉根を寄せている。こういう表情をすると特に父親似だなと思う一方で、ただ単純に憎たらしい。一旦機嫌を損ねると後を引いて面倒なのだ。


 ジェニーが冷蔵庫からジンジャーエールとオレンジジュースの瓶を取り出し、両手に一本ずつ持った。


「ほらイチ坊、見ててごらん。すっごいもの見せてあげるわ」

「なに?」


 太い親指が、王冠の端にかかる。


「むンンッ!」


 野太い掛け声と共に、逞しい腕の筋肉が膨れ上がる。ポォン!と小気味よい音がして、二本の瓶の蓋が開いた。


「あはははは! おもしろーい!」

「でしょ?」


 ジェニーがドヤ顔を決めながら、ドリンクをグラスに注いで出してくれた。イチはもうすっかりミニカーのことを忘れたようだ。何だかんだで、ジェニーはイチの相手が上手い。


 オーブンとフライヤーのタイマーが、ほぼ同じタイミングで鳴った。

 ジェニーが見事な手際でハンバーガーをこしらえ、皿へと盛り付けていく。


「はい、お待ちどおさま。BLTバーガーとお子さまプレートよ」


 目の前に置かれた料理に、母子おやこ共々歓声を上げる。


 直径十五センチのふわふわバンズ。中身は上から、レタス、分厚くスライスされたトマト、こんがりと焦げ目の付いたベーコン、パティと続く。つい先ほどまでオーブンで焼かれていた人工培養牛肉百パーセントのパティからは、肉汁が滴っている。

 BLTバーガーの高さは十センチほど。崩れないよう、ピンクのハートが付いたピックで留めてある。その横には大量のフライドポテト。食欲をそそる匂いが鼻腔をくすぐる。


 イチの方はチーズバーガーで、シュカのものより一回り小さい。ピックは青の星型だ。やはりこちらもポテト山盛りである。更には、手製のゼリーも付いている。


 二人揃って手を合わせ、「いただきます」と唱和する。

 シュカはテーブルに備え付けの包み紙にピックを抜いたバーガーを入れ、ぐっと潰して齧り付いた。

 軽くトーストされたバンズの香ばしさ、レタスとトマトの瑞々しさ、そしてベーコンとパティから溢れ出す肉の旨味が渾然一体となり、口内を満たしていく。咀嚼するたび、多重奏のような味わいが身体の隅々にまで染み渡る。この上なく幸せな瞬間だ。

 揚げたてのポテトは熱々で、危うく舌を火傷しそうになりながら奥歯で噛み潰す。軽い塩味が絶妙に効いている。

 ジンジャーエールを一口。きりりとした角のある甘みと弾ける炭酸の刺激で、口の中がすっきり洗い流される。


「あー最高! でもヤバい、こんなに食べたら太っちゃうかも」

「何言ってんの。アンタは全部その乳と筋肉に行くでしょ」


 口の周りをケチャップだらけにしながらチーズバーガーを頬張っていたイチが、シュカの口調を真似て言う。


「さいこう! ぼくもふとっちゃうかも!」

「ありがと、イチ坊。アンタはたっくさん食べて大きくなるのよ」


 もりもり食べるイチを眺めながら自分のハンバーガーを齧っていると、ジェニーが何気ない口調で訊いてきた。


「それでアンタ、何かあったの?」

「え?」

「ずいぶん浮かない顔してるじゃないの」

「んー……そんな大したことでもないんだけどさ……」


 シュカが夕方のことを話すと、ジェニーは盛大に顔をしかめた。


「小っちゃい男ねぇ。そういう奴って何でもかんでも文句言って周りのせいにするのよ。無責任なのはむしろそいつの方じゃないの」

「まぁねー……」

「そんな男がアンタの抱える事情についてとやかく言うなんて、筋が違うにもほどがあるわよ。気にしちゃダメよ」

「うん……」


 一組だけいた先客が席を立ったので、ジェニーは会計の手続きを済ませ、彼らのテーブルの片付けに掛かった。

 その作業が終わると、キッチンの奥で何やら機械を動かし、背の高いグラスを持って戻ってきた。

 それが、シュカの前に置かれる。バニラシェイクだ。ストローが二本刺さっている。


「これはサービスよ。疲れてる時は甘いものって、大昔から決まってんの」


 そう言ってウィンクするジェニーは、見た目は屈強な大男なのに、とびきりキュートだった。思わず胸がぐっと詰まる。


「ジェニーちゃん……」


 うっかり何かが込み上げかけて、シュカは慌ててシェイクを一口啜った。冷たくて甘い。


「美味しいぃ……」

「ぼくもー! ぼくものむー!」

「はいはい、気を付けて持ってね」


 グラスを支えながらイチの方へ傾ける。一生懸命にストローを吸った丸い頬が、柔らかい笑みの形になる。

 強張っていた心が、いつの間にか解れていた。


「……今日、来て良かったな」

「あら、いつでも来てくれていいわよぉ。いつもサービスできる訳じゃないけどね。今日は特別よ、特別」

「あしたも! あしたもくる!」

「いや、さすがに連日は……そんなにお金ないし、本当に太るって」


 苦笑しながら、明日のことを考える。

 わだかまりは完全には消えていないが、ここへ来る前よりずっと軽くなっている。

 居心地の良い店内に流れる、優しい時間。


 また明日。

 オペレーションが始まったら、狩るべきターゲットに集中するだけだ。それはシュカにとって何よりも確かで、揺るぎないことに思える。


 慌ただしく、賑やかな日常。

 何だかんだでこんな日がずっと続いていくのだろうと、この時のシュカはまだ漠然と信じていた。

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