そして、いつかは

入浴

第1話 そして、いつかは。

彼女の手が私の前髪を横にずらした。

下に隠されていた私の両の瞳が、露わになる。覆われていた視界が開けた。

座って下から見上げる私と、立って私を見下ろす彼女の視線が重なった。聖母のような柔らかな笑顔を浮かべたその人は、一目で私を虜にした。

「なんで前髪そんなに伸ばしてるの?

隠さない方が可愛いのに」

笑って、彼女は私の髪の毛に赤色のヘアピンを留めた。

「それあげる。これからは両目とも出してた方がいいんじゃないかな」

お礼を言おうとしたが、上手く声が出なかった。心臓は五月蝿く鳴り続け、頬は夕焼けのように赤くなっていた。

そんな私に、再び彼女は微笑んで立ち去っていってしまった。

私は椅子から立ち上がることも出来ずに、しばらく呆然としていた。

それは4月の始めのこと。高校二年生に進級した私が、新しいクラスの放課後の教室で、燃え盛るような恋に落ちた日だった。



****





春の陽気に包まれる中、私は自分の机に座って読書をしていた。

教室のあちこちでは、みんな一定人数のグループを作っておしゃべりを楽しんでいた。

私がそこに混ざらないのは、いわゆるスクールカーストという序列において、自分はほぼ底辺のそれに近い所にいたからだ。

小学生から特に目立った取り柄がなかった。恋愛経験はほぼ皆無。世間の流行に疎く、服装にもあまり気を使わず、人付き合いも悪い。声も小さくて、インドア派。そして根暗で地味。

それが私だった。必然、友達付き合いは同じようなスクールカースト低めの人達とのものになる。

いじめられはしないが、派手な人達とは、明確に一線を引いた位置にいる。

故に、クラスの人気者の人と、関わることなどあるわけもないのだが、例外が一人だけいた。

「おはよ、朱里ちゃん」

背後から可愛いらしい声がした。ほぼ同時に頭を軽く撫でられた。

思わずその場から飛び跳ねそうになった。こんな挨拶も、何度もあったはずなのになかなか慣れない。

振り返ると予想通り、彼女がいた。

私はこの人を、クラスの女子の中で間違いなく一番可愛いと断言出来る。

いや、クラスどころか私の人生で会ってきた人の中で一番というぐらいだ。

「お、はよ.......風香.......ちゃん」

極度の緊張から、私の口は大分聞き取りづらい声を発していた。

目も合わせられずにいると、彼女の指先が私の前髪に触れた。

「それ毎日つけてくれて、嬉しい」

そこには、彼女がくれた赤いヘアピンが光っていた。

「う、うん.......!」

返事して、何とか顔を上げた私は、彼女の柔和な笑顔を見た。

それだけのやり取りの後、彼女はおしゃべりの中に混ざりに行く。

私とは違うスクールカースト上位の人間。

同じ教室なのに異世界の住人のように遠い存在のはずだった。

名前は春永風香。

男女共に絶大な人気を誇る人物で、誰にでも分け隔てなく優しい人だ。

私は彼女に恋をしていた。初めてクラス替えで出会ったその日から、端的に言って、夢中だった。

学校にいる間はずっと彼女を目で追っている。いつも話しかけてくれないかと待ち構えているが、いざ話しかけられると何も出来ない。

家に帰ってからも、彼女のことばかり考えている。

私の人生最大の恋だった。

だが、そこには大きな2つ問題があった。

1つは、私と彼女は二人共、女であること。

高校生にして、女性同士の恋愛というのは正直どうなんだろう。彼女はそういう変わったものを受けいれるのが可能な人なのか、それは私にはわからない。

もう1つは、住む世界の違いだった。

彼女は、どちらかと言えば派手な人達との交流が多い。だいたいはクラス内最上位のグループの人達と話している。

そんな人物が、なぜ私に話しかけてくれたかと言うと、彼女は八方美人だったからだ。

どんな人でも分け隔てなく話す彼女は、恐らく既に、このクラスのほぼ全員と会話をしているんじゃないだろうか。私はそう思っている。

私は彼女の逆だ。

髪を伸ばしっぱなしで、目を隠している。いつも俯き気味で、目立たない場所で読書している。まるで幽霊のごとき不気味な存在だった。

誰もが避けて通りそうな私に、彼女は最初から、至近距離で接してきた。

それは、彼女はどんな相手でもそうするから。私は特別な訳じゃない。接する人全てを下の名前で呼ぶし、呼ばせる。そんな人なのだ。

それが私の心を複雑にさせる。

彼女の特別になりたい。唯一無二の存在になりたい。でも、そもそも八方美人だから私は話しかけられたのだ。

その前提がなければ話すどころか、惹かれもしなかった。

だから私には八方美人を簡単に否定できなかった。でも、彼女はあのままなのだろうか。ずっとずっと誰にでも優しい笑顔を向けるのだろうか。

それはすごく嫌だった。

あの笑顔を独占したい。それが今の私の心からの願いだった。





****




放課後。私は部活に無所属のいわゆる帰宅部なので、自由の身だ。

私の足は自然にある場所に向かっていた。

体育館の2階。最近の私は、そこで放課後を過ごしている。

理由は、彼女が属する女子バレー部がここで練習するから。初めは一目惚れした女の子が部活をしていると知り、好奇心で来た。

ひっそりと陰から見たかったので、2階に隠れ潜み、練習が始まったらこっそり見下ろしていた。

そして、心臓を撃ち抜かれた。私は心底彼女のバレーに見惚れていた。

教室では可愛かったが、ここでの彼女は何というか、美しかった。

そうして衝撃にやられて以来、ここを訪れることが放課後の楽しみの一つになっている。

シューズのキュッキュという音と、ボールが弾む音が断続的に鳴っている。

10数人のバレー部員や顧問が活発に動き回っているが、私はたった一人に視線を向けていた。

ストーカーみたいで自己嫌悪を感じるが、それ以上に彼女を見ていたかった。

「かっこいい.......」

私の中を満たすのはその一言だった。

部活の時は髪を後ろに結っているのも新鮮だった。

彼女はいつも教室で、人に合わせて笑っているような気がしていたが、ここでは自然体で笑っているようだ。

彼女が自然に笑える事を歓迎したい一方、それを私以外の誰かに見られているのが嫌だという思いも少なからずあった。

どうも自分は彼女絡みになると独占欲が強くなる傾向にあるみたいだ。

身長が高い彼女は、空間の中で一際目立つ。どうやら部内のエースのような存在であるようだ。彼女のスパイクは鮮やかに突き刺さる。見る度にそれは私の心を掴んだ。何度見ても良い。

練習終了の少し手前まで、私はずっと彼女を見つめていた。

傍から見ると気持ち悪かったかもしれないけど、どうしても私は隠れ潜みながら彼女を見る事をやめれなかった。




****




翌朝の学校、ホームルーム前の私はいつも通りに自分の席に座っていた。

読書しつつも、意識の7割近くは、彼女が早く来ないかなという事に向けられている。

いつも彼女は背後から軽くちょっかいをかけてくる。大した応対は出来てないが、私はそれが物凄く好きな時間だった。

だからあえて背後は見ない。今日はどんなちょっかいをかけてくれるんだろうと、ワクワクしながら、彼女のくれたヘアピンを触ったりする。

私の妄想には限度がなく、口角が自然に緩む。

緩む頬を押さえていると、唐突に、背後から誰かがうなじに息を吹きかけてきた。

「.......ひゃっ!?」

背筋を走った奇妙な感覚に、声が裏返った。振り返ると、やはりそこには彼女がいた。

「いいリアクションだね、おはよ」

パチリと見事なウインクをしてみせる彼女に、私は心を完全に奪われていたが、務めて表情には出さなかった。

「.......おはよ、.......風香ちゃん」

モジモジしながら返した私を見て、満足げに彼女に去っていった。

基本的に他人とほぼ距離をとらない人だ。

しかしそれにしても、そこそこ話すクラスメイト程度の人間にあんな事をするのだろうか普通。

これはもしかして彼女の中で、私はそれなりにいい位置にいるのでは。

そう思った矢先。

「.......!.......ちょっとやめてよ風香〜」

全く同じちょっかいをかけられたクラスの女子が、ニヤニヤ笑っていた。仕掛けた彼女も、嬉しそうに相手の髪の毛を触ったりしている。

そうか。これは同性なら誰にでもする程度の事だったんだ。

何を舞い上がってたんだろう私。

急に世界が崩落するような感覚がした。

景色から色が失われ、あらゆる音が遠くなっていく。

自分は彼女にとってクラスメイトの一人以上の何者でもない。

認めたくない真実が、形となって目の前に突きつけられた。

.......八方美人は、誰に対してでも同じようなことをする。



****



空っぽの心のまま、足はいつも通り私をバレー部を見下ろす場所を訪れていた。

見下ろしながら、彼女が今まで多くの人に振りまいたであろう笑顔に思いを馳せ、そしてとても嫌な気持ちになった。私の知らない彼女を誰かが知っているのが嫌だ。

自分だけしか知らない彼女の秘密が欲しい。そうなるには、答えはもう決まっている。

私は今日一日悩み続けた末、あまりに早すぎるだろう行動に出た。

バレー部の練習が終わり、暗くなり始めた空の下、彼女が正門まで来た時、先回りしていた私は彼女に声をかけた。

「風香ちゃん..............ちょっ、といいかな?」

数人で談笑していた彼女は、私の姿を見た後、声を聞いて、すぐにそれを受け入れてくれた。

周りの人達に先に帰っていいと伝え、私と二人きりの空間にしてくれた。



****



しばらく高校から歩いた先にある公園に二人で来た。

暗くなっていく空の下。二人きりで歩いた事に密かな優越感を感じた。

今にも消えかかりそうに明滅する電灯の下で、私は破裂しそうな鼓動を抱えながら、ベンチに座る彼女の目の前に立っていた。

彼女は、不思議そうな目で私を見つめている。

両頬が林檎になってしまっている。

「..............ち、中間テストもう少しだねー、勉強してる.......?」

やらかした。緊張しすぎて全然関係ない話題を出してしまった。

「.......その話のためにここに?」

当然の疑問を返され、言葉に詰まった。

以前は恋人間で交わされる『好き』という言葉を軽薄に感じていた私だが、今となってはそれはマンモス級に重たいのである。

でも、朝からずっと決めていた。もう八方美人の優しさじゃ満足できない。私だけの人になって欲しい。

「違う。違う違う。.......ごめん、えっと.......」

みんなと同じ接し方じゃ私は満足できない。

「..............風香ちゃん..............私、あなたのこと」

見上げる視線を正面から受け止めて、枯れそうな声を、絞り出した。

「好きです.......付き合ってください.......」

ありきたりな言葉かもしれないけど、私の今出せる全力を込めた告白は、想像よりずっと上手くいった。

心臓はもはや爆発しないのが不思議な有様で、呼吸もマラソン後のようだった。

1時間にも感じられるような痛い沈黙が訪れた。

彼女が口を開くのがスローモーションに見えた。私は祈るような気持ちで答えを待ち——

「..............えっと、その、ごめん。私、女の子と付き合うとか、わからないし.......」

呆気なく玉砕した。髪の毛を触りながら、明らかに困った様子で、答えられた。

それで、一気に全てがクールダウンした。

私の耳は律儀に一言一句間違えずに、言葉の全てを捉えていた。

荒ぶっていた鼓動も呼吸も正常どころか、停止しそうだ。

まるで太陽から北極に突き落とされた気分だ。

「う、うん.......ごめんね。わかってた。疲れてたのにごめんね.......」

再び私の中は空っぽになった。



****



そこから数日、私は失意の底にあった。

彼女がくれたヘアピンを外し、前より更に増して幽霊状態になり、学校と家を往復するだけの存在になっていた。

空いた時間は読書。授業中は普通に授業を受け、放課後は寄り道せず帰る。

もう朝に背後からの挨拶を待ったりしない。もう目で誰かを追ったりしない。もうバレー部なんて二度と見に行かない。

心臓は律儀に一定のリズムを刻み、呼吸も正常で、何一つ心躍ることはない。

彼女もまた、露骨に私を避けているようだった。盗み見られているのはわかっていたが、私が顔を上げると、視線を逸らされるのだ。

友達に話したりしたのだろうか。気持ち悪い、とか言われてたらちょっと、いやかなり傷つく。他人はどうでもいいけど、彼女のあの口から私の罵倒が発せられるのは絶対聞きたくない。

どうやら周りから見ても私の落ち込みっぷりはとんでもないらしく、担任や友達から相談に乗るとか色々言われた。

でも、全部断った。

今までの恋心は、全部忘れよう。そう決めていた。きっと何かの間違いだった。そう思うことにした。

同じ空間、同じ場所にいたけど、きっと異世界に住んでいた。

彼女と私の世界は隔たっている。

ちょっと優しく接されたぐらいで、同じ所にいるなんて思っちゃいけなかったんだ。

彼女は八方美人だから。私も大勢の内の1人に過ぎないんだ。



****



その日は、ぽつぽつと雨が降っていた。

まるで連日の私の心模様を反映してるみたいで、さらに気分が落ちた。

朝は晴れていたので、うっかり傘は持ってきておらず、私は靴を履いたあと、校舎出口に立って、ぼんやりしていた。

濡れながら帰ろうかと考えるが、バックの中の諸々、特に私の本が気がかりだった。

ため息をついて、雨音に耳を澄ましながら壁に寄りかかっていると。

「傘、持ってないの?」

彼女が赤い傘を1本だけ持って私の隣に立っていた。

ギョッとして、その場から飛び退きそうになる。彼女は私の惹かれた笑顔を浮かべた。

「おいでよ、ちょうど話したかったし」

誘われる。雨の下に傘を広げながら歩いていき、私を手招きする。

私は俯きながら、首を軽く振った。

「いいから」

私の所まで戻ってきた彼女は、私の腕を無理やり引っ張り始めた。

抵抗しようとしたが、周りの目が気になったので、しょうがなく付き合うことにした。

一つの傘の下、2人で並んで歩く。

雨音をかき消すほどに、鼓動が加速した。冷えていた体に熱が灯る感覚。

もうフラれたはずなのに、どうしても緊張してしまう。

久しぶりに彼女の顔や声や雰囲気、その柔らかさに触れ、やはりいいなと思ってしまう。

自分に手に入らない物だとしても、どうしようもなく惹かれてしまう。

彼女はなぜかしばらく一言も発さなかった。私も何も言い出せずに、しばらく雨音を聞きながら、歩いた。

前の自分なら、喉から手が出るほど欲しい時間だっただろうが、今となってはひたすら気まずい物になってしまっている。

しばらく歩いて学校から出た時、ふと気になったので聞く。

「.......バレー部は?」

「.......あれ、知ってたの?私がバレー部だってこと」

まずい。そういえばそういう話をしたことはなかった。

ストーカー紛いの行動がバレては困る。

「.......えっと.......人づてに.......」

「ふ〜ん.......今日は病欠しちゃった。本当は何も無いけどね.......いわゆる仮病ってやつ? 」

てっきりバレーに関しては優等生だと勝手に思い込んでいた私は、その言葉に面食らった。

バレーをしている時の彼女は、私が見た中で1番幸せそうだった。だから、それを仮病で休むなんて到底信じられなかった。

「な、なんで?」

「なんでって.......朱里ちゃんと話したかったらだよ」

「わ、私と.......? 」

「うん。なんかあの日以来、朱里ちゃん見てるとさ、今にも自殺か何かしそうだと思っちゃって。ヘアピンも外しちゃったのショックだったし」

彼女に見られていた。自分のプレゼントの有無までしっかり確認されていたのが、たまらなく嬉しかった。

「...........私、あれから色々考えてみたんだけど」

傘の下、至近距離で見つめられて、反射的に顔を背けた。

一体何を言おうとしているのか全くわからず、すごくドキドキした。

フラれたはずなのに、どうしようもなく気になってしょうがない。

期待してしまう。あの日出した勇気全てが無駄だったなんて思いたくない。

「朱里ちゃんのこともまだクラスメイトだと思ってるし。女の子と恋愛するのもわからない.....................けどね」

私は、完全に望みが潰えたことを悟りかけ、一刻も早く帰りたくなった。

その先を聞くまでは。

「あの日の告白ね。すっごくドキドキした。今まで受けた告白で1番っていうぐらい。

.......勢いで断っちゃったけど、答えは保留に変えます」

俯いていた顔をバッと上げる。

雨が私の心を反映するように、一気に晴れた。

雲が押しのけられ、太陽が眩しく照りつけた。

天からの光さえ上回るような素晴らしい笑顔で、彼女は私を見つめていた。

「あなたを好きになってみたいって思った。だから、頑張って私を惚れさせて? 」

聞いた直後、思わず私は彼女に抱きついていた。周りの目も気にせず、心の赴くままに行動していた。

「うわっとっと.......も〜OKした訳じゃないよ〜? 」

私の勢いに傘を落とした彼女は、晴れた空を見上げ、苦笑しながら私の頭を撫でた。

「..............絶対.......絶対.......その口から『好き』って言わせるよ!」

決意と共に、私は宣言した。

彼女は、私の大好きな笑顔を浮かべている。

「期待してる」

今日この日を私の活力として、私は頑張っていけるだろう。


——明日からまた毎日ヘアピンをつけよう。

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