第73話 そういう景色がいい
「おいしかったね」
食べ終わった器を所定の場所に返却しつつ頷く。
食べる量は多くない。ちんたら食べる方な自覚もある。のだが、ぺろりといただいてしまった。お値段もお手頃なので、油断したら大食いしてしまいそうだ。フィリーあたりは喜々として5杯くらい注文するかもしれない。
新鮮で風味豊かなうどん。それから浜名湖産の香り高い生の海苔。どちらも印象深いものだった。今までの生活に無い概念だ。きっと今日という暑い日に、未天と一緒に出掛けなければ出会うことはなかっただろう。
「また食べたい」
ごちそうさまでした。厨房に一声かけて離れる。はーい、ありがとねー、なんて返事が返ってくるけど、お礼を言いたいのはこちらの方だ。こんなお手頃価格で素晴らしい一杯を提供してくれる方々には頭が下がった。
「あ。そういえば麺ならそこで売ってるよ」
なんだって。
見れば、出入口の近くにスーパーにあるような冷蔵のショーケースが置いてあった。さきほどまで食べていたうどんを始め、他の麺類も陳列されている。蕎麦、きしめん、焼きそば、パスタなどだ。隣の工場で作っているものらしい。ビニールでパッケージングされている。麺つゆも一緒に並んでいた。
こんなの買うしかない。弟に今日の晩ごはんはうどんだとメッセージを送ろう。私は日に2食もうどんを食べることになるが、たまにはいい。
「未天、浜名湖産の生海苔売ってるところ知ってる?」
「え!? いや、知らないけど」
「そっか。仕方ない。麺だけで我慢しよう……」
「メグちゃん、うどん抱えてるけど、暑さとか大丈夫? 持って帰るうちに悪くならない?」
「……あー」
「あと、このパッケージの状態ならスーパーでも買えると思うよ」
「そうなの?」
考えてみればここは直売店。工場で作られた商品は、基本的にどこかに卸されているはずだ。ということは、むしろスーパーとかの方に多く出回っているのだろう。であるなら、素人バイク便が運んだものを食べるよりも。
「プロに輸送されたうどんを買うことにする」
「できたてはまた食べに来よう……その、い、一緒に」
付け加えられた言葉。思わず彼女の顔を見る。頬が赤くなっているのはきっと暑さのせいじゃない。けれど、人をそんな風にさせる感情もいくつかある。彼女のそれがどれなのか、自分には判別できなかった。だからつい。
「……茹だってる?」
「そうそう麺だけに……って、もう! メグちゃん!」
「ご、ごめん」
いま未天の顔が赤いのは怒っているからだと思う。たぶん、あ、いや、間違いなく。
その日の夜。
お風呂に入ってベッドに倒れ込む。例によって程よい疲労感が体に溜まっていた。このまましばらくすれば眠りに落ちていけそうだ。
「……」
明滅する視界に青い影が映り込む。ヘルメットの隣に置いた帽子だ。未天が選んでくれたキャスケット帽。今日、彼女と共に過ごしたことの証拠だった。
(うどん、美味しかったな)
目を閉じれば思い出せる。あの味、あの風味、あの輝き。晩ごはんを食べたあとでお腹はいっぱいだが、思い出すとひと口くらい食べたくなる。
(きっと今日のことを思い出す……)
美味しいうどんを食べる度に。生の海苔が香る度に。モールに行くたびに。あるいは、帽子を見るたびに。
(……未天のことも一緒に)
思い出すことになるだろう。
(笑っていてくれてよかった。最後はちょっと怒らせちゃったけど)
どうせ思い出すなら、そういう景色がいい。
「……」
リモコンで照明を落とす。薄ぼんやりした暗闇の中で、ゆるゆると呼吸を繰り返す。その中でまどろむうちに。
(……ああ、夏休みだから、未天にはしばらく会えないんだな)
なんて、いまさらなことに思い当たった瞬間、私の意識は眠りの中に沈んでいった。
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