第10話 四季
人間は何がきっかけで人生の転機が訪れるかなんて、神や仏でもなきゃ誰にもわかりゃしないもんさ。学生時代、たいした勉強もせずにこの叔父の店でだらけてた俺が、こうやって跡を継いでこの店をちゃんと黒字で切り盛りできてるんだから、人生わからないもんだ。
でも、漫画家のアシスタントで生計を立てている、この店の常連の千春ちゃんが結婚もせずに漫画の道をあんなに頑張っているにもかかわらずなかなか芽が出ないのも、神様のサイコロの転がり具合がおかしくないかって話だな。俺からすりゃあ、神様も俺なんかより千春ちゃんの努力に報いてやる方が先じゃないのかい、なんて思うんだよね。
そんなある日の出来事だ。
「こんにちは」
爽やかな声で見慣れない風体の女性が店に入ってきたのは、夏も終わったよく晴れた初秋の午後のことだったな。喧嘩別れした学生時代の親友が突然俺を訪ねてきた翌日のことだから、よく覚えている。
その女性は店へ入ってくるなり、すぐに奥のテーブル席の方へ向かったんだ。ノースリーブの水玉のワンピースと、サラサラの髪が揺れる後ろ姿に思わず目をやったね。彼女は大きなバッグを右の肩に掛けていて、どうもどこかで見かけたようなバッグだとは思ったんだけどね。
俺が注文を取りに水を持っていくと、
「ねえ、マスター。この間はああ言ったけど、一度ぐらいマスターの淹れたウインナコーヒー、飲んでみようかな」
なんて、常連みたいなことを言うから顔を見たんだな。
「ええっ? 千春ちゃんかい。どした、その髪」
驚いたのなんの、そこにいたのは、いつもジーンズとチリチリ髪の千春ちゃんだったのさ。さらさらストレートの千春ちゃんなんて、十数年前の彼女が高校生のとき以来じゃないかな。
「あっ、これ?」
少し照れながら千春ちゃんは左手で髪をかき上げてさ。
「漫画がなかなか採用されないからさ、気分転換にストレートパーマをかけてみたの。似合わない、かなあ」
「いや、よーく似合ってるよ。すごく可愛かった高校生の時に戻ったんじゃないの」
「ほら、またあ。上手なんだから。やっぱり口説いてんのお?」
「だから、ダチの惚れた女に横入りはしないって」
千春ちゃん、ちょっと顔を赤らめてな。
「あっ、そういえば昨日あそこのカウンターに座ってた人ってさ、昔マスターたちといつもこの店に来てたあの人だよね」
「そうだよ」
「また、あの、お店に来たり、するの、かなあなんて」
日頃きっぷのいい千春ちゃんが乙女チックに言い淀んじゃってさ。
「ああ、あいつ、こっちへ転勤してきたんだってさ。だから飯でも食いに夕方にはまた来るんじゃないの」
「へえ、そうなんだ。ご飯食べにって、け、結婚とかしてないの?
さほど関心のなさそうなふりをしながら、なんだかんだ探りを入れてくる。
「安心しなよ。あいつもまだ独身だってさ」
「安心なんて、べ、別に関係ないし」
千春ちゃんは顔を真っ赤にして「ネームしなきゃ」とか言いながら、ノートをバッグから出してネームとやらを描き始めた。たぶん今日は夕方まではあの席で絵を描いてんじゃないかな。
そういえば、もし千春ちゃんがあいつとうまいこといったら、「千秋千春」か。そうなると子供が女の子だったら「千夏」で決定だな。男の子もできたら「冬司」とかか。
——家族で四季が完成だな。
先代に作り方を教わってから初めて客に出すウインナコーヒーを淹れながらそんなくだらないことを考えて、俺はひとりで笑ったんだ。
千春ちゃん、これが君に訪れる素敵な人生の始まりだといいね。
純喫茶「集い」 西川笑里 @en-twin
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