第9話 桜咲く
それは先代の髭のマスターが引退間近の、もうすぐ二十世紀も終わる頃の話だ。
その少年がこの喫茶店に来たのは、もうすぐ桜が咲こうかという時期だった。
高校を卒業するころだろうか、とても背が高い少年だった。店に入ったその少年はひと通り店内を見渡し、そしてテーブル席を選んで座った。
店を継ぐ予定でマスター見習中の健二が少年のテーブルへ水を出しに行くと、少年はメニューも見ずに、
「クリームソーダと、ええっとナポリタンはありますよね」
と低い声で健二に尋ねた。
「はい、大丈夫ですよ。それと、パスタだったらミートソースもありますが」
そう健二が答えると、
「いえ、ナポリタンでいいです」
と少年は言いながら、テーブルの上のメニューを手に取り、
「それと、この卵サンドっていうのは、挟んでるのは卵だけですか」
と聞く。
「そうですね。うちの卵サンド、食べた方からは、美味しいと言ってもらってます」
「サンドウィッチはこれだけですか」
「ええ。うちはこれひとつでやってます」
「そうですか。じゃあ、いいです」
そう言って少年はメニューをテーブルに戻した。
健二がカウンターの中に戻り、髭のマスターに注文を伝えると、
「健二、もう自分で作れるだろう。ひとりでやってみなさい」
と健二に厨房をまかせ、「ちょっと休憩してくる」と言って奥に入って行ったのだった。
ナポリタンができる頃、休憩に行ったマスターが奥から出てきた。左手には布巾を上からかけたトレイを持っていた。
先に健二がナポリタンとクリームソーダをテーブルに運ぶと、その後ろからついてきていたマスターが、
「そろそろ卒業かい」
と少年に話しかけながら、手にしたトレイの上の布巾を取り、そこに載せていたサンドウィッチをテーブルに置いた。そして、
「君が食べたかったのは、このサンドウィッチでしょう」
と少年に言う。
少年は、そのサンドウィッチをジッと見つめて、そのひとつを手に取ると一口頬張った。
「はい。これです。これでした」
少年はそう言いながら、今度はテーブルに置かれたナポリタンとクリームソーダを交互に口にした。
「早いもんだね。もしかしてもう卒業かい」
訝しげな健二を脇目に、マスターは少年に話しかけた。
「あの、あの人は今日は」
と少年がマスターに言うと、
「彼も歳を取って足が悪くなったからね。最近はたまにしか来れないんだよ」
と優しく言う。
「俺、お礼に行きたかったけど、小さい頃一度しか家に行かなかったから、あのおじさんの家の場所を覚えてないんです。この店は商店街の真ん中にあったからすぐにわかったけど」
「それなら、地図を描いてあげるよ」
マスターはそう言うと、さらさらと簡単な地図を描き出した。
「マスター、知ってる子?」
健二がそっと聞くと、
「なんだ、健二は覚えてないのかい。店を継ぐなら一度いらっしゃったお客様の顔を忘れちゃだめだよ」
そう言って健二に先に地図を見せた。そこに描かれていた場所にはたと気がついた。
——辰さんの家だ。
健二は振り向いて少年の顔をもう一度見た。
——そうか、お人好しの辰さんがあの梅雨の日に連れてきた、あの男の子だ。
健二の遠い記憶が蘇った。
「マスター、じゃああのサンドウィッチは」
「そう。あのときあの子に出した、賄いの特製サンドだよ」
残りのサンドウィッチを美味しそうに食べる少年を見ながら、マスターは自慢の髭を撫でながら微笑んでいた。
その後、辰さんの家を訪ねてお礼が言えた少年は、辰さんの経営する土建屋に就職することになったらしい。
人間、真面目に生きていれば、いいこともあるものだ。
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