怪物との対峙
そう答えて益代さんが扉の前へ行き、慎重に開く。
僅かに開いた隙間からも、室内に居るという怪物の視線は俺たちを貫き、神経に恐怖が駆け巡る。
体が動かない。
俺の異常に気づき、益代さんが扉を一旦閉める。
隙間なく閉まった扉なのに、未だ室内の怪物の視線に囚われている様に感じる。
益代さんが何かを言うが、それを認識できない。
晶も近寄ってきて、肩に手を乗せ、言う。
「玲児、こっちを見ろ。大丈夫だ」
口の動きでどうにか理解する。
だが、未だ恐怖はこの身体を離してくれない。
「駄目だ。もう、駄目なんだ」
「…ッ。大丈夫だ、一旦あっちに行くぞ」
そう言ってエレベーターの方へ向かう。
寒い。
鼓動がうるさい。
酸素が足りない。
それでも晶がずっと、側にいて、手を取り声を掛けてくれるのがわかる。
*
暫くして、益代さんとうどんこちゃん、神奈さんが戻ってくる。
「晶くん、これ」
「これは……?」
「ケルベロスってやつの後ろにあったの。でも何に使うかは分からないわ」
「ありがとうございます。思い当たりはあります」
「玲児くんは、どう?」
「まだちょっと……」
「大丈夫よ、玲児くん。もう怪物は襲ってこないわ」
「大丈夫なわけないだろう。あんなの、どうにか出来るわけがない」
「こっち、向く。玲児くん」
眼の前で何かが弾ける。
「……えっ?」
眼前にはうどんこちゃんの手があった。
身体が、動く。
震えも無く、音も聞こえる。
恐怖は去り、自分で身体が動かせる。
「ごめん、取り乱していたよ」
「正気に戻ってよかった」
「ありがとう。うどんこちゃんも、益代さんも」
「いい。一緒に、帰る」
「えぇ、そうね。大丈夫よ」
「玲児も復活したし、次行こうか」
「あぁ、もう足を引っ張らない」
晶は先程受け取った鍵を手に八〇三号室へ向かう。
そうして気づく。
先程までは何の変哲もない扉だった。
だったはず、だ。
扉には血の様なもので、おびただしい数で目が描かれていて、その全てが上からバツ印で潰されていた。
先程よりも、危険であると本能が告げてくる。
怯む俺たちに晶が活を入れる。
「皆! ついて来てくれ!」
竦む脚に力を入れつつ、晶が鍵を開け、扉を開く。
するとすすり泣きのような――それとも唸り声なのか、女の声が部屋に響いてくる。
リビング以外の部屋の扉は全て板で打ち付けられおり、壁は一面掻きむしったような血の跡がついている。
恐怖に抗いながら俺達が部屋に入ると、隠れるように赤く汚れた白い布をその身に
異形としか言いようが無いそれは、もぞもぞと動き出す。
動き出したことで、かろうじで人間だったと解ってしまう。
こみ上げてくる嫌悪と恐怖が堰を切る。
異形はゆらりと俺達を見据える。
続いていた声が途切れ、声にならない声が部屋に響き渡る。
「みるなぁあぁぁぁあ!!」
懐に抱いていたであろう、鈍く光る狂気を振り上げながらそれは襲いかかってきた。
「
「ばっ……ナナッ」
「うどんこちゃん!?何事だよ!」
「益代さん、うどんこちゃんのこと頼みます」
晶が前に出ようとした。
益代さんは離脱しようと後ろに下がる。
うどんこちゃんは恐怖に染まった目で腕を振り回し、声を上げている。
「うどんこちゃん、大丈夫よ。……きゃっ」
益代さんはそれを避けきれず、手に当たってしまう。
「晶! 俺が前に出る。二人で見てやってくれ」
「……ッ。分かった!」
異形の動きが一瞬止まり、澄んだ声が紡がれる。
「お願い、慶一。私を……死なせて……」
それだけを伝えると、再び金切り声を響かせ襲いかかってきた。
「玲児、避けろ!」
晶の声に身体が動かされ、横に飛び退く。
深く踏み込み、飛び込んできた晶は異形にその勢いで蹴りを繰り出す。
しかし異形はそれに合わせて包丁を振り下ろしてくる。
「シッ……!」
晶は胴を狙っていた脚の軌道を腕に合わせ、その軌跡を逸らす。
「浅かったか。日和っちまったな」
うどんこちゃん、益代さんも異形を囲むように前に出てくるが、更に暴れだしたそれに近付ききれずにいた。
「よし、これならどうだ」
そう言ってポケットから出した香水を異形にふりかける。
再び澄んだ声で嘆願され、神奈さんがそれをただただ呆然と見ていた。
「愛莉……僕は、僕は……ッ」
「そうか! 玲児、さっきのメモのやつだ。やってくれ!」
「わかった、時間稼ぎ頼む」
八〇二号室で見つけたおぞましい呪文を“逆さから唱える”
「そのまま、止まってて!」
香水によって数瞬動きが止まっていた隙にうどんこちゃんがそれに組み付く。
「ナイス! そのまま頼む」
晶の足が異形の身体を真芯で捉える。
多少動きが鈍るも、身体をよじり拘束から逃れようとしている。
「ってい!」
動きが鈍っている間にうどんこちゃんが益代さんと協力して、包丁を取り上げていた。
呪文を唱え終わろうとした時、人間が理解してはいけない冒涜的なことが頭の中に流れ込んできた。
思っても居なかった事が起き、頭がまわらない。
あとすこし、あと何節か読むだけで呪文は完成する。
眼の前が真っ赤になる。
「あああああぁぁぁぁ」
頭が焼けるほど痛い。
呼びかけが聞こえる。
男の声だ。
「玲児、確りしろ。どうした。大丈夫か」
「玲児くん!?」
女の声が聞こえ、柔らかいものが顔に当てられる。
……美味しそうだ。
そう思った。
そう思ったから、口を開け、それを食べた。
*
「おい! 玲児、何してるんだ!」
冷水を掛けられた様に目が覚める。
「おっぱいはマシュマロじゃない!」
「何……言ってんだよ」
「よし、正気だな。益代さんの怪我、診ててくれ。さっきの紙、借りるぞ」
眼前には益代さんが仰向けに倒れていた。
豊かな胸部には噛まれた跡があり、出血していた。
真っ赤に染まった服をはだけさせ、清潔な布で押さえる。
「止まってくれ……!」
晶が呪文を唱え出すと、異形が更に激しく抵抗をし始める。
うどんこちゃんはたまらず拘束をしたまま態勢を崩してしまう。
その結果、勢いよく異形は壁に叩きつけられる。
うどんこちゃんは勇猛果敢にふらつく異形を、どうにか再び羽交い締めにする。
そのタイミングで晶が呪文を唱え終える。
異形は脱力し、幾度か聞いた澄んだ声が紡がれる。
「皆さんありがとう。慶一、何があっても振り返らないで、前を向いて生きて……」
視線は神奈さんに向けられていて、微笑んでいたように見えた。
それだけを告げ、その体は足元から崩れ青い粒子になる。
晶は読んでいたメモを投げ捨て、神奈さんに詰め寄る。
「神奈さん。あんたさっき言われてたな」
「彼女が、愛莉が、前を向いて生きてって……」
「全部、思い出したんだろ?」
晶の視線を避けるように
「私は妻を、愛莉を事故で失った。そんな時ヤツが、悪魔が死人を生き返す方法があると言い寄ってきたんだ……」
「そうかい。こっからは精々前を向いて生きるんだな」
それだけを言い晶は出口へと足を向ける。
「さぁ、帰るぞ皆」
「おう」
「えぇ」
後ろではうどんこちゃんが神奈さんに声を掛けていた。
「大事な人、なくした気持ち、分かる。でも、
「そう、ですね」
思うところがあったのであろう彼女の言葉は優しくて、厳しくて、当たり前のことだった。
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