異界の扉、その先

 皆がエレベーターを降りるべきか迷ったり、眼前の光景に唖然としていると顔の整った男性が角から現れた。


 晶が皆を守るように一歩前へ出る。

「どなたですか」

 声を掛けられて、ようやく俺たちに気づいた様子の彼は、虚ろだった目の焦点をどうにかこちらに合わせながら問いかけてきた。

「すみません……此処はどこですか?」

戦旗おののきハイツの八階ですけど」

「戦旗ハイツ……」


 何かを確かめるように思案し、頭を振る彼は言葉を詰まらせ言い淀んだ。

「私は神奈かんな慶一けいいち。信じて貰えるかわからないが、それ以外の事は覚えていない。思い出せないんだ……」


「神奈さん、貴方はこの状況が分かりますか?」

「ごめんなさい。何も、何もわからないんです……」


「うどんこちゃん」

 晶が一歩下がりながら視線を向ける。

「うん、あやしい、よね」

 うどんこちゃんは神奈さんの様子を観察するように目を細めるが、何も解らなかった様で、また自分の体を触ったり、叩いたりしだす。

 そんなやり取りをしていると、エレベーターの壁に血のように赤い文字が目の前で浮かび上がる。


 『ここから出るには、対価として誰か一人、その命を差し出さなければならない』


 俺達がそれを理解したのを見計らったようにエレベーターの明かりが消え、辺りは陰に包まれた。

「一人を殺せば、助かるってことなのか……?」

 晶が消えそうな声で呟いたのが、暗闇に響く。


「とにかくここは暗いから、一旦外に出よう」

「そうした方がいいわね」

 不可解な事が連続して起こり不安になりながらも、行動を起こすべく俺たちはエレベーターを降りた。


 晶は神奈さんの横を通り抜け、その先へ行こうとする。

 そこで益代さんがぶつぶつと何かを呟く神奈さんに駆け寄り、手を取り目を合わせ声を掛けた。

「何か、思い出せませんか? なんでもいいんです。空や、この場所の事じゃなく、貴方自身のことでもいいんです」

 慣れた様子でコミュニケーションを取ろうとする益代さんに神奈さんは申し訳なさそうに目を伏せる。

「ごめんなさい、何も。本当に何もわからないんです」

「ここに居ても仕方ないですし、神奈さんも私達と一緒に行きませんか?」

「そうしましょう。私も賛成よ」

 神奈さんはその申し訳無さそうな面持ちで頷く。

 晶は俺とうどんこちゃんに目配せをし、俺とうどんこちゃんはそれに頷く。


      *


「まずは階段を調べてみよう」

 おもむろにポケットから手帳を取り出した晶は何枚か千切り、丸めたものを階段の暗がりの先へ投げた。

 聞こえるはずの音が響かず、一瞬怯む。

「携帯で照らせばいけるだろ」

 しかし、暗がりは晴れる事は無く吸い込まれるようなただの暗がりが恐怖を呼び起こす。

 それを見ていたうどんこちゃんが嘆くようにつぶやく。

「む、無理かなぁ……」

 それを聞き益代さんがじゃあ、と手を叩く。

「階段が降りれそうにないなら、部屋の方見てみない?」

 僕たちはその提案通りに、行けそうな所から調べる事にした。

 彼女は八〇一号室の方へ行き聞き耳を立てる。

「晶くん、人が居るかもしれないわ」

「……物音は聞こえますけど」

 晶はそう言ってドアノブを捻り、少し扉を開ける。

「中に何が居るか分かったものじゃないですね」

 そう言ってそのまま閉める。

「じゃあさ、ピンポンとか押せばいいんじゃないかな。人だったら反応するかもしんねぇじゃん」

「うん、良いと、思う」


 チャイムを鳴らす。

 しかし反応は無く、再び静けさが辺りを包む。

「やっぱ人じゃ無いんじゃない?」

「よし、ちょっと皆エレベーターの所まで下がっててくれないか」

 晶は意を決した様に言い、俺は目を見て頷いた。

「こっちは請け負う。頼んだぞ」

「おう」

 俺たちが距離を取ったのを見てから、晶が扉を開け部屋を覗き込む。


 少しして乱雑に扉を閉じ、体で押さえつける様にして息を荒げる。

「おい、どうした。何が居た」

 心配になり駆け寄る俺に、晶は切れ切れに言葉を紡ぐ。

「玲児、み、見ないほうがいい」

「説明は出来るか」

「あ、有り体に言えば、化物だ。すごく、眼光が鋭くて……見ないほうがいいッ」


 怯える晶に肩を貸し、皆の居るエレベーター前まで戻る。

 うどんこちゃんはその間、扉から何か出てこないか警戒してくれていた。


「益代さん、僕たちはとんてもない所に来てしまったのかも知れません」

「そうね、状況から見てそうかもね。でも、一旦落ち着きましょう?」

 益代さんが手を取るが、晶は未だ落ち着きを取り戻さない。

「ここは、エレベーターから繋がる異界の様なところだと、僕は思うんだけど」

「そんなオカルトみたいなことがあるかな」

「うどんこちゃん、君は不思議な出来事に詳しかった覚えがあるけれど、三首の犬に何か覚えが無いかい?」

「……それは、多分、ケルベロス。冥界の王、ハデスの、忠犬」


 眉唾ものな話を語るうどんこちゃん。

 そういう話があるというのは確かに聞き覚えがあるが、現実に起こって良いことなのだろうか。


「じゃあうどんこちゃん。こういう異界の様なものから脱出する方法とか分からないかな」

「…………」

 思い当たらない様で、首を傾げて止まってしまったうどんこちゃんに、皆の気が落ち込んでしまう。

「とにかく、そういったモノが居るなら仕方ないわ。別の部屋も調べてみましょう」

 晶が落ち着きを取り戻すまで、皆で代わる代わる各部屋の観察をしていた。


「バラバラに行動するのは良くないと思う。なるべく皆で行動しないか?」

 暫くし、落ち着いた晶がそう提案し神奈さんの方を向く。

「神奈さん。正直言って僕は貴方を怪しいと思っている。なので僕から見える範囲で行動して貰っても良いですか?」

「わかりました。それに従います」


      *


「八〇二号室は特に何も無かったわ」

「それ以外はまだ何もわかってないか……ひとまず八〇二号室を調べてみよう」

 晶が扉を開けそのまま部屋に入ろうとするが、益代さんがそれを静止する。

「ちょっと待って。ここから部屋の中に危ないものが無いか確認出来ないかしら」

「そうだね。……うーん、見える限り机と、その上に……何か白い物。紙かな? それぐらいだろうか」

「さっきみたいな化物は居ないみたいだな。とりあえずその机を見てみようか」


 晶はすたすたと部屋に入って行き、机の上のものを調べ書いてある文字を読み上げる。

「”我が罪と禁忌は我が身に隠し、獄炎の上で許しを乞う“」

「何だろう。焼身自殺かな」

 晶は迷わずその紙を持ってキッチンへ向かいおもむろにコンロを点ける。

「玲児、益代さん。ちょっと来てくれ」


 呼ばれた俺たちは顔を見合わせ、晶に近づき手に持っていた紙を覗き見る。

 先程まで空白が多かったその紙には文字が浮かんでいて、思わずそれを読んでしまう。

「なんだよ……これ」

「えっ……えっ?」


 そこにはおぞましい事が書いてあった。

 反魂はんごんの呪文、とでも言えばいいのだろうか。

 そんな冒涜的な事があってたまるか、と思いたい。

 思いたかった。だが、直感がそれを否定する。

 間違いなくこれは作用する。

 この通りにすれば形はどうあれ人は生き返る。


「これは、うどんこちゃんに見せないほうがいいな」

「そうね……神奈さんはどうかしら」

「いや、止めておこう。玲児、これ任せていいか」

「ああ。わかった」

 折りたたみ、ポケットにねじ込む。

「ここはこれだけだが他の部屋にも何かあるかも知れない。なるべく見落としが無いように調べてみよう」


 ぞろぞろと部屋を出てそのまま隣の部屋へ行こうとする。

「次は八〇三号室に入ってみようか」

「待て、何か聞こえる。……誰か泣いてるのか?」

「何か聞こえる、ということは八〇一号室みたいに怪物が居るかも知れないって事よね? 先に八〇四号室を見てみましょうよ」

「そのほうが、懸命だと、思う」

「……こっちは何も聞こえないわ」

「よし、入ってみよう」

「危ないかも知れないからまた入る前に外から見ておこうか」


 数秒、皆で目を凝らす。

「大丈夫、何もない」

 そうして、皆で頷き合い部屋に入っていく。

「本があるわね。晶くん、何か分からないかしら?」

「読んでみます。その間部屋を調べて貰ってもいいですか」

「分かった」

「あぁ、うどんこちゃんと神奈さんはこっちの方見てもらっていいかい?」


 益代さんと入り口側の部屋を幾つか調べる。

「これは……オルゴールね」

「殺風景な割にオシャレなもの置いてるんだな」

「他は本当に物が無いのね」

「一応これは晶にも見せてみよう。本に何か関係があるかも知れないし」

 そのまま、浴槽、トイレと見回ってリビングに戻る。


「晶、うどんこちゃん、何か分かったか?」

「こっちはオルゴールを見つけたわ」

「こっちの部屋は、何も、なかった」

「オルゴールか。二人共、これを見てくれ」

 と言って本の一文を指差す。

 そこには件の怪"ケルベロス"の登場する逸話が書かれていた。

「つまり、このオルゴールを物語の『竪琴』の様に使うのね?」

「上手くいくのかどうか怪しいな」

「やってみるしかないさ。それに他にもまだ調べる部屋があるんだ。前向きに行こう」


 晶の言う通り、出来ることをするしかない、と気を新たに805号室へ向かう。


「また外から中を探ってみようか」

「……何も聞こえないな。よし」

 再び晶が先陣を切り、扉を開ける。

「見える範囲も大丈夫そうだな」

 リビングにはまた机があり、その上には櫛、小瓶、ブローチとメモがあった。

「『愛しい者にもう一度会いたいならそれに相応しいおめかしを。ただし身に纏えるのは一つだけ』か」

「これだけだと何のことだか分からないな」

「ひとまず、また手分けして調べてみましょう」

「益代さんは寝室を、玲児はトイレを頼む」

「分かった」


 言われた通り、軽くトイレを調べてみるも、ここには何も無さそうだった。

 報告に戻ろうとすると、晶が呼ぶ声が聞こえた。

「玲児、ちょっと来てくれ」

 浴室に居た晶とうどんこちゃんと合流する。

「どうした。トイレには何もなかったぞ。……ん? そこ、棚の上に何か見えないか」

「私、取る」

「ありがとう、うどんこちゃん」


 ひょい、と手を伸ばし暗がりから取り出されたのは本だった。

「また本か。ちょっと待っててくれ。読んでみる」

 晶が本を読んでいる間にリビングに集まり小休止する。

 暫くして、目元を揉みながら晶が現れる。

「神奈さん。ちょっといいですか」

「はい、何でしょうか」

 そう言って晶は桃色の液体が入った小瓶を手に取り、神奈さんに中身をふりかける。


 桃の香りが部屋に広がる。

「これでどうだろうか」

 特に神奈さんに変化は見られなかったが、晶は満足げだった。

「よし、次に行ってみようか」

「次って言うと、八〇一号室に行ってみるって事よね」


      *


 再び廊下に出て、エレベーターの方向へ向かう途中おもむろに立ち止まり八〇三号室のドアノブをひねる。

 扉は開くことは無く、短く音が響いただけだった。

 しかしそれに納得したように先を行く晶は八〇一号室の前で止まる

 そしてたっぷりと深呼吸をしてこう言った。


「益代さん。お願いできますか?」

「……はい」

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