その生命を捧げよ 導入

 なんの変哲もない、いつもの日常、いつもの光景のはずだった。

 そしていつもと同じようにマンションのエレベーターに乗り込んだ彼らを待ち受けていたのは――。


      *


 俺、こと秋月玲児は友人、輝安晶の紹介で引っ越しをする事になった。

 手伝いには彼と、同じ大学のサークルに所属している背負益代、それと妹の友人である深爪うどんこが来ていた。


 引越し作業も一段落した頃、晶が大きく伸びをする。

「ったぁー!」

「だいぶ掛かったわね」

「いやぁ、助かる助かる。ありがとね」

 晶と益代をねぎらいながら、玲児は新居を見渡す。

 家具を運び入れ、必要なものはダンボールから出した。

 やはり持つべきものは友人だ。

「玲児、あと運ぶものは無いよね」

「うん、とりあえずこれで終わりかな」

 人数が居るからと勢いで荷物を運び入れてしまったが、少し休憩するべきだったか、と少し気怠さを感じながら息をつく。

「お腹減ったな」

「そろそろご飯食べにいく?」

「うん、いいね」

「そういえば益代さん。美味しい中華料理屋が有るって言ってませんでしたか」

「そう! この前見つけだのだけれど、近くにあったのに今まで全然気がついてなくって。みんなで行ってみる?」


 晶が部屋の入口に佇んでいる少女にも声を掛ける。

「……そこでドラミングしてるうどんこちゃんも、中華食べに行くかい?」

「わたし、中華、すき!」

「そうか、よかった。じゃあ一緒に行こうか」

 益代さんがうどんこちゃんをなだめながら、俺たちは少し遅めの昼食に向かう。

 だが俺たちはこの日とても酷い目にあってしまう。

 余り思い出したく無い事だけれど忘れてはいけない、そんな出来事だ。


      *


 皆が家を出てから鍵をかける。

「エレベーター来たわよ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 ドアノブを捻り鍵が閉まったかを確認してから皆の待つエレベーターへ向かい乗り込む。

「おまたせ」

「うん。玲児は中華、何を頼むつもりだ」

「うーん……やっぱりメニューを見てから考えようかな。うどんこちゃんは何か目当てはあるかい?」

「麻婆豆腐」

「あぁ、麻婆豆腐って店の特色が出るから、その店の事がわかるって言うわよね」

 エレベーターの徐々に減っていくメーターを見ながら、まだ見ぬ中華料理店に思いを馳せていた。

 もうすぐ一階にたどり着く、そんな時だ。

 ガタン、という音と共に急にエレベーターが止まる。

 大きく揺れた機体に、俺達はよろめく。


「きゃっ」

「おおっと」

「んっ……!」

「あら」


「あれ……? 止まっちゃいましたね」

「緊急ボタン押してみるか」


 カチ、カチ。と押すたびに無機質な音だけが響く。

「反応はないか。益代さん、どうしますか?」

「携帯電話はどうかしら」

 その言葉に皆携帯を見るが自分を含め、どれも圏外になっていた。

「マンション内で圏外ってはずは無いんだけどなぁ」

「どうなっているのかしら?」

「……狭い……狭い」

「あぁ、うどんこちゃん、大丈夫だから。落ち着いて」

「益代さんの胸が大きいから」

「私のせいなの!?」

「喧嘩すんなって」


 閉所のストレスに、体の大きなうどんこちゃんは自分の体を触ったり、叩いたりする。

「玲児くん、晶くん、今までこういったことってあったのかしら」

「あぁ……いや、今まで止まったことはなかったかなぁ」


 少し待っていたが、緊急ボタンや電波が繋がる事は無く、皆が不安を抱えだした時、再びエレベータは動き出した。

 しかし、それは目的の一階ではなく真逆。

 乗りはじめの五階を通り過ぎ、六階……七階……。ついには最上階の八階にたどり着く。


 ゆっくり扉が開く。

 眼前に広がる景色はマンションから見えるいつもそれ――であるはずだった。

 いや、確かにいつものそれに違いはないのだ。だが俺達はすぐに違和感に気づく。


 まず暗い。

 廊下には明かりが一つも付いてないのだ。

 場違いのように、エレベーターの明かりだけが煌々と灯っている。

 そして何より、空が、赤い。

 昼過ぎだったはずなのに、まるで夕焼けのような空だ。

 それだけではない。

 太陽も雲も、騒がしいほど通っていた車も、待ちゆく人の気配も、なにもかもがここには存在し無いことに。

 まるで自分たちだけが世界に取り残されてしまったような――明らかにここは『現実と似て非なる形容しがたい何処か』であると。

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