森を背負う巨大亀 8

「お兄ちゃん……?」


 刀香とうかが巨大猪と相対する最中、希稲きいなは言いようのない不安に襲われていた。

「お兄ちゃん……」


 千土せんどが応えない。

 薄暗い夜の森で、何が起こっているのかはよく分からない。フゴフゴと荒い鼻息が聞こえるから、さっき千土を吹き飛ばしたのはおそらく猪だろう。だけど吹き飛ばされた千土から、何の返事もないのだ。

 『はいよ、なんだい希稲ちゃん』だなんて今にも聞こえてきそうなのに。


「お兄ちゃん……っ」

「キーナ、そこは危ないよ。奥に入りなよ」


 振り向けば、『雪風一號ゆきかぜいちごう』に乗った誕弾たんだんがいた。『雪風』が背負ったリュックサックの上部にパラグライダーが設置してある。巨大亀の背中から安全に着地するための脱出装置だが、四人揃っていないと意味をなさない。

 千土が欠けたままでは飛べない。


「千土お兄ちゃんは……どうなったの?」

「わかんない。ボクには何にも見えなかったから。でもセンドのことだし、きっと大丈夫だよ」


 アイツが死んだとこなんて見たことないもん。と誕弾は言うが、そりゃそうだろう、と希稲は思う。生きてる人間の死んだとこなんて誰も見たことがないだろう。

 だけど何となく、千土が死にそうにないのも分かる気がした。どんな致命傷を負っても、次の日には飄々ひょうひょう嘲笑わらっていそうだ。だからとりあえず、希稲も信じることにした。

 今はただ、刀香が猪に勝つのを祈る。


「っっっっっぶねえ!!」


 そんな少女の祈りを受け、だが刀香は劣勢だった。

 攻撃が当たらない。あんな図体なのに軽やかに動いて、こちらの攻撃をことごとく紙一重でかわしてくる。神業だとしか言いようのない華麗な回避行動だ。

 そのくせこちらに隙ができれば途端に反撃してくる。デカい牙で瓦礫を掘り起こして投げてきたり、足踏みで細かな破片を飛ばしたりと遠距離から狙い撃ちだ。徹底して自分からは近づいてこない。


(やりづれえ……ッ!!)


 少しずつ暗闇にも目が慣れてきて、大きい瓦礫がれきなら何とか『我が道を征くゴーイングマイウェイ』で破壊できる。しかし細かい破片はどうしても対処できず、小さな傷が無数に増え続けている。ジリ貧だ。

 息もずいぶんと荒い。『我が道を征くゴーイングマイウェイ』の莫大な力の代償は〝体力〟だ。硬度によらず全てを破壊するくせに疲れるだけ、というのも中々理不尽な話ではあるが……そのピーキーな性能ゆえ、普段の戦闘は短時間で終わり、ここまで長引くことはそうそうない。

 あるいは、それさえあの猪の手のひらの上なのか。だとすればもはやそれは『野生の勘』ではなく、心を読むとかその辺りの異能が関わってくる。


(獣も異能を使えるのか……? いや、今はそんなことぐちゃぐちゃ考えてる場合じゃねえ!)

「ふッ!」


 放り投げられた瓦礫を避ける。避けられない攻撃だけ能力で対処した方が体力の節約だ。これからやろうとしていることには体力がいる。だからギリギリまで温存しろ!

 猪の攻撃をやり過ごすために、距離を取り過ぎた。ヤツは案の定牙で瓦礫を掘り起こし、巨大な塊を持ち上げる。今から走っても間に合わない。だけど刀香はまっすぐ駆けた。

 ブン、と。重い風切り音と共に、瓦礫が飛んでくる。視界の全部がそれで覆われる。当たれば車にかれる以上の惨劇だろう。


「死んでたまるかァ!!」


 刀香は刀を突くように構える。激突寸前、真正面から瓦礫を吹き飛ばす。爆散した破片が辺りに散らばり、刀香の体も例外なく打ち据える。それでも想定通りだ。止まらない。無理矢理にでも前進する。そのために温存した体力だ。


「くたばれクソ猪――ッ!!」


 自らが巻き起こした土煙を裂いて、刀香は猪の目の前に躍り出る。さぞ猪は虚を突かれたことだろう。いくら歴戦の主とは言え、まさかあの瓦礫を突破する人間など想像も――。


「あ?」


 

 あの猪がどこにもいない。

 能力で体力を消耗し、破片を全身に浴び、走り抜けた先には――何もいなかった。


「――――ッ!」


 ぞっとするような予感が背筋を這う。これも『野生の勘』と言えば『野生の勘』。これまでに培ってきた刀香の戦闘経験が、敵の次の動きを予測した。

 後ろにいる。

 ヤツは刀香の体を牙で貫かんと、突進してくる!!


「あ」


 猶予はない。全力で振り向いてやっと視界の端にその姿を捉える。回避はできない。考える暇もない。

 一瞬の後、刀香の体は千土と同じように砕かれる。上半身と下半身が分かたれ、冗談抜きに死ぬ。明らかに死ぬ。間違いなく死ぬ。


「うあああああああああああああ!!」


 刀香はせめてもの反撃として叫び、それが無駄だと知りつつ止められなかった。

 抵抗むなしく、猪の牙が刀香の腹を無残に突き破る――そのはず、だった。


「――――ガァ!?」


 その直前。猪は突如として苦しみの声を上げ、刀香を貫くはずだった牙は見当違いの空を切る。そのままバランスを崩した猪は突進の勢いのまま盛大に転げ、地面を横滑りした。


「っ!」


 突進の余波でよろめいた刀香は、すぐさま体勢を立て直して追撃を警戒する。何が起こったのか分からない以上、過ぎ去った危機は別の危機の呼び水かもしれない。そう考えた。

 だが後方に落ちてきたそれは、刀香が予想だにしていないものだった。


「あいててて。よお戦部いくさべ君。危ないところだったね」

「千土!」


 猪の目玉を頭に乗せ、空から落ちてきたそれは千土だった。


「お前っ、まさかずっと牙にしがみついてたのか!?」

「君が苦戦してそうだったからね。さすがに彼の目玉えぐったら振り落とされたけど」


 確かに千土は死んでいたはずだ。太い牙に内蔵まで串刺しにされて、残った肉片が貼り付いていただけだったはずだ。

 それがなぜか今、ピンピンしている。いつもの嘲笑顔えがおで刀香と会話している。頭に抉った目玉を乗せながら。


「死ななくてよかったね戦部君。君は死んじゃったら死んじゃうもの」

「お前以外は全員そうだよ、千土。それより危ねえから下がってろ。アイツたぶんめちゃくちゃ怒ってるぞ」


 会話を打ち切る。数十メートル先で巨大猪が起き上がる気配がする。その鼻息はこの距離からでも聞こえるほど荒く、その怒気は空気を揺らすほど強かった。

 来る。刀香は数瞬後に訪れるであろう激突を予期して刀を構え――


「今更真面目に戦うのもナンセンスだろう、さて行くよ戦部君」

「あん? 行くってどこに――ぐえっ!?」

『しっかり捕まっててねーっ!!』


 ガキン! と刀香の影を猪の顎が噛み千切った。しかし刀香はすでにそこにはいない。彼のマフラーを掴んだ『雪風一號』が、脚部をキャタピラに変えて森を疾走する。


「ちょ……苦し……誕弾……ッ!」

「小倉君、戦部君が死にそうだぜ。離してあげなよ」

『え!? 何々ごめん!? コックピット越しじゃ聞こえづらくて! もっかい言って!!』

「大したことじゃないからいいぜ。運転に集中しててくれ」

「大したッ……ことだろォ……ッ! おりゃァ!」


 宙ぶらりんのまま、無理矢理体を捻って刀香は『雪風』の腕にしがみつく。そこからぜーはーと肩で息をしつつ、コックピット付近までよじ登る。疲労がピークに達したのか能力を解除すると、装備が黒いもやとなって空気に溶けた。


「お疲れ様、戦部君。逃げる準備が整うまでの時間稼ぎ、助かったぜ」

「そりゃ、どーも……ああクソ、キンッキンに冷えたコーラが飲みてぇ……」

「お兄ちゃん!」


 呼ばれた声に振り向くと、希稲がリュックの隙間から顔を出していた。バッグに詰められて散歩する猫みたいだが、その中なら振り落とされる心配もない。バッテリーに近くて蒸し暑いだろうが、誕弾なりの気遣いだろうか。


「大丈夫!? 猪に突進されて、怪我とかない!?」

「心配かけたようですまないね。ほらこの通り、なんともないよ」


 千土が両腕を広げて無事アピールをしている横で、刀香は「いっぺん死んだってことは言わねえ方がいいんだろうなあ」と彼も彼で気遣いをしていた。

 にしても、真っ先に心配するのが直接猪と戦っていた刀香ではなく千土とは。いつの間にこんなに懐いているのだろうか、と刀香はちょっと不思議に思う。


『このまま森の端まで行くよ! 枝とかに当たって落とされないように踏ん張って!』


 キャタピラ装着の『雪風』は、足取りの悪い森の中をよく走った。木々の狭い間隔をうまくすり抜け、森の果てまで向かう。

 だが、驚異はまだ終わりではない。メキメキと木をへし折る音と地響きのような足音はまだ、少年少女を追いかけてくる。


「あー、やっぱ怒ってるかよ……!」

「ガアァァァァアアアアァァァァァアァァアアアアアアアァァアアアアアァァァァァァア!!!!!!」


 再び、森中もりじゅうに響く絶叫。巨大亀が背負う森の主、片目を失った巨大猪は執念深く少年少女を追う。その肉を食らおうと大口を開く。


「絶対追いつかれんじゃねえぞ誕弾! 死ぬ気で走れェ!!」

『わかってる! だから落ちないでね!!』


 『雪風一號』のスピードがさらに増す。だが猪との距離は一向に広がらない。怒りで我を忘れているのか、止まることを考えずに全力疾走している。


「森はあとどのくらいで抜けるんだ! 急がねえと追いつかれんぞ!」


 刀香が焦って誕弾を急かす。あの猪と正面切って戦った彼には、ヤツの力がよく分かる。


「そう焦るもんじゃないぜ戦部君。ほら、もう抜ける」


 果たして千土の宣言通り、突然森は消えた。根の張った土の代わりに、地面は岩のような質感に変わる。亀の甲羅、その端だ。

 だから後はそこから飛び降りるだけだったのだが……。


『うわあああッ!? う、海ぃ!?』


 眼下の景色は、青かった。砂の色ではない。このまま飛んでも沈むだけで、死ぬ場所が変わるだけだ。誕弾は急ハンドルを切り、キャタピラが半分浮いたところで方向転換する。千土が慣性に耐えられず落ちかけたが、刀香が何とかその手を取る。


『なっ、なんで海にっ……!?』

「知らねえよ! 知らねえけど、たぶんこいつ海亀なんじゃねえの!!」

「何にも考えずものを言うのはよくないぜ戦部君。落ち着きなよ」


 とにかく、ここでは降りられない。亀の尻の方まで行けばまだ間に合うかもしれないが、それを追撃者が許すかどうかと言われれば……。


「まあ許してくんねえよな! クソ、反応できず落ちてくれりゃ楽だったんだけどよ!!」


 腐っても主、というところか。怒りに支配されても動きは軽やかなもので、急な方向転換にもしっかり対応してきた。むしろ『雪風』より華麗にカーブを決めたもんだから、距離はさらに縮まったまである。


『ある! まだ間に合う! お尻の方まで行けば、パラグライダーで砂漠まで飛べる!』


 誕弾が前を指さして叫ぶ。海の向こうに広い砂漠が見える。この速度のまま飛べばギリギリ間に合うくらいの距離だ。


「よーし、あとちょっとの辛抱だ! ここを切り抜けたら、こんな場所からはようやくオサラバできるぞ!!」


 刀香は障害物のなくなった走路で、コックピットの上に立つ。その体に黒い靄(もや)が集まる。

「『我が道を征くゴーイングマイウェイ』ッ!!」


 マフラー、鎧、ブーツ、刀。ついでに髪まで長く伸び、その姿を大きく変える。真っ黒の装甲を身にまとう。宵闇に溶けるその姿は、まるで忍者のようだ。

 日はまだ昇っていない。だが東の空はすでに白みつつある。おそらく決着は夜明けまでには着く。

 これがラストチャンス。

 甲羅の端でのチェイスバトルが始まった。

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